8.平成20年12月10日(水)讃岐霊場巡拝 第72番(曼荼羅寺)から第75番(善通寺)
   平成20年12月11日(木)讃岐霊場巡拝 第65番(三角寺)から第71番(弥谷寺)
満濃池 浜辺に「寛永通宝」の銭型(東西122M、南北90M、周囲345M)が描かれています。
 平成14年から始めた四国八十八ケ所札所遍路も今回(7年目)で満行となりました。
 徳島(発心)・高知(修行)・愛媛(菩提)の札所はずっとお大師さまと同行二人の巡礼でしたが、香川(涅槃)に入った昨年は妻と二人で、今回は金毘羅参りをしたいという母との巡礼となりました。
 午前11時に高松空港に到着すると綾野タクシーさんが待っていてくれました。昨年預けておいた金剛杖を受け取りお遍路が始まりました。今日は、75番善通寺から72番曼荼羅寺を打ち抜いたあと、金毘羅参りをします。明日は、65番三角寺から71番弥谷寺までを打ち抜き満行となります。
 うまい・安いセルフの讃岐うどんの昼食のあと、空海の満濃池を見に行きました。弘法大師が3か月で修築したという満濃池は、金毘羅宮で有名な琴平町から5キロほど山に向かったところにある大きな湖でした。

 75番善通寺は、弘法大師誕生の地であり、高野山・東寺と並ぶ大師三大霊場のひとつです。善通寺では大師堂を「誕生院」「御影堂」といいます。この御影堂の地下には、真っ暗な壁を伝いがながら進む「戒壇巡り」という名所がありますが、今回は金毘羅宮の参拝があるため体験できませんでした。
 第74番甲山寺は、山門が新設工事中でした。寺の由来は毘沙門天像が甲冑を着けた武者姿であるため、また、山容が甲に似ているためといわれます。
 第73番出釈迦寺は、みかん畑に囲まれています。境内では建立された虚空蔵菩薩の開眼供養が行われていました。境内の山すそにある捨場ケ嶽遥拝所からは、捨身がケ嶽禅定の建物が山の頂に見えます。
 第72番曼荼羅寺は、仁王門を入り境内の橋を渡ります。弘法大師お手植えの「不老松」は松くい虫のために枯死していました。 
 午後4時、ホテルに荷物を預けて金毘羅宮を参拝しました。77歳の母は、「一生に一度はこんぴら参り」という話を聞いていたことと、以前金毘羅宮を参拝したときに、長く続く石段を登れなかったのでぜひ挑戦したいとなりました。五人百性の露店で飴をもらい力をつけて、本宮まで785段あまりの石段を一度も休まず1時間で登りました。さらに、30分かけて奥社までの1368段を登りに登りました。奥の院では、小休止をしましたが往復2時間半、休まず歩きとおした母を、ホテルの方や綾野ドライバーさんはびっくりしていました。
 宿泊先の金毘羅温泉は、「加ト吉」の社長が温泉を掘り出したものを分湯して使っているそうです。フロントの方が、うるう年は四国遍路を逆に回ると話してくれました。「どうしてですか。」と聞くと、「昔から。」との事でした。
本宮まで785段あまりの石段です。 奥社までは1368段を登ります。海抜421m。
奥社 奥社からの展望。
 第65番三角寺の山門をかねた鐘楼で、お参りの人は鐘を撞き清浄な身になります。帰りは出がねといって撞かないそうです。境内の三角の池は、弘法大師が築かれた壇の遺跡で「三角寺」の寺号もこれに由来します。
 第66番雲辺寺に向かう峠道から「エリエール(大王製紙)」の工場群がみえます。雲辺寺は、讃岐の第1番札所でロープウエイも歩道も完備されていて、「雲辺寺4.2KM。徒歩約2時間」とあります。私たちは、紅葉がまだ綺麗な山下からロープウエイで標高1000メートルまで上りました。山頂には先月の寒波の雪が残っていました。四国霊場中もっとも高所の標高911mの雲辺寺山頂にある寺の売店には、「第1位・雲辺寺。900M、第2位・焼山寺。800M、第3位・横峰寺。700M、第4位・太龍寺。610M、第5位・鶴林寺。550M、以上最高峰順位。」とありました。
 第67番大興寺山門を抜けると、カヤの大木が見えます。本堂には赤く大きなローソクが献灯されていて、本堂の中に納経所もあります。本堂に置かれたお接待の「みかん」と三鈷の松葉をもらってきました。
 第68番神恵院69番観音寺山頂に建つ琴弾八幡宮の別当寺でひとつの境内に二札所、というめずらしい札所です。このお寺の裏の琴弾山頂から見下ろすと、浜辺に「寛永通宝」の銭型(東西122M、南北90M、周囲345M)が見えます。
 第70番本山寺は、四国霊場唯一の馬頭観音を本尊とする寺です。国宝の本堂のそばには五重塔がそびえています。戦国時代、長宗我部軍に攻められたが奇跡的に戦火を免れ、このときに、阿弥陀如来が住職の身代わりとなって刃をうけたという逸話がのこります。
 第71番弥谷寺は、古くから死者の霊が帰るとされる寺で、駐車場は仁王門の上にあります。駐車場から百八煩悩段を上っていくと大師堂があります。岩肌に阿弥陀三尊ほか幾多の磨崖仏が刻まれ、大師が修行した「獅子の岩屋」もあり、まさに深山幽谷の霊場です。本堂前の展望所からは山並みを眺めることができて、すごい山寺だということがわかります。大師堂には靴を脱いで上がります。入った横に納経所があり、この奥には洞窟のようなのがあって、そこに阿弥陀・弥勒・大師の石仏が置かれています。これが「獅子の岩屋」で大師が修行しました。

        県指定史跡  磨崖佛  弥谷寺(案内板より)

 三尊像は南面する約12Mの岩盤に陽刻されており、中央の阿弥陀如来は約1M、左右の観音・勢至両菩薩とも約90CM、全体によく整った温和な表情をたたえている。この像の左右の岩肌には南無阿弥陀仏と陰刻された、六字の名号九行あり、これに関連して上方本堂付近の岩壁には無数の納骨穴が彫られている。この納骨穴に対する回向のため、下方の阿弥陀三尊及び六字の名号が刻まれたものと思われる。従ってこれらは平安から鎌倉にかけてのものではないかと言われて居り、或いは大師の作かともいわれている。


 
四国霊場は八十八ケ所の分院からなる四国病院である。どんな病気の人も、心に悩みや傷みをもつ人も、分院を巡っているうちに、自らに冶され癒される。遍路してそうした功徳のいただけるのは、邪念を去り、信仰ひとすじの澄んだ気持ちで、弘法大師の加持力、おかげを信じてゆく精神作用ばかりでなく、科学的(医者のほうからいう)にいっても、歩くことが最もよい健康法であるからいやされる。身体の病気を治す病院はほかにもあるが、心身とも治す病院は四国病院のみである。
「四国八十八札所順路記」西端さかえ 薯

 
多くの功徳と強い信仰心をいただいた四国遍路の満行記念に、「仏足石」を建立しました。
 お疲れ様でした。
 仏足石は釈尊の足跡を石に刻んだもので、インドでは仏像が誕生する前に、釈尊のシンボルとして礼拝の対象となっていました。
 インド ボーダガヤ(佛陀伽耶)のマーハーボディー寺(大菩提寺)にある、一頭三匹の魚紋仏足石は世界唯一の大変貴重なものでお釈迦様の功徳があるものとして参拝の信仰のとなっています。
 私が四国へんろをしたときも、第二番日照山極楽寺やいくつかの札所で仏足石を見てきました。そんな話を知人に話したところ、その知人の紹介で仏足石の拓本を譲ってもらいました。  
  この仏足石の拓本は、一頭三匹の魚紋のもので、十数年前までは観光客相手に販売していましたが、今はケースに収められていて写真撮影はおろか拓本も大変貴重なものになっているそうです。
 中之条町の(有)小池石材・小池重吉氏にこの拓本を見てもらい、石に彫りこむことができないか相談をしたところ、石が見つかってからということになりました。しばらくして川原の自然石が見つかりましたが、紋様が細かく大変な作業になりました。
 12月2日に本堂前に設置した仏足石は、とてもすばらしいものです。
 靴を脱いで足の裏でペタペタ触れば、足腰健康に大変ご利益があるといわれていますので、ぜひお試しください。
   
四国遍路報告
7.平成19年10月23日(火)讃岐霊場巡拝 第84番(屋島寺)から第88番(大窪寺)
   平成19年10月24日(水)讃岐霊場巡拝 第76番(金倉寺)から第83番(一宮寺)
瀬戸大橋、与島PA 第88番、大窪寺の結願証を撮影したもの。
 弘法大師と同行二人の四国遍路も香川県(涅槃の道場)となりました。香川県は、これまでの徳島・高知・愛媛県に比べて難所はありませんが、新客の妻のために第88番大窪寺から第76番金倉寺までを逆に打っていきます。今回、香川県四国遍路一の納経所があると本で読み、妻にぜひ体験してもらおうと同行してもらったのです。
 お遍路さんはお寺に着いたら納経(読経)した後に、「納経所」で、納経帳に寺の名前と朱印を受けますが、それを「納経さん」といいます。そのお寺の「納経さん」は納経帳のとりあつかいが四国遍路一なのです。最初のころは感謝や感激をしていた大切な納経帳も慣れてくると無造作にとりあつかってしまいますが、ここの「納経さん」は無造作に差し出した納経帳を恭しく押しいただいて、ていねいに済ませ、また額の上まで深々と押しいただいて返してくれます。納経を受けることもお遍路さんにとって大切な修行であり、「納経さん」がお大師さまとの縁を取り持つありがたい案内人だと初めて気づきました。それで、スタンプラリーのように霊場を駆け回っている余裕のない自分に代わり、このありがたい「納経さん」に直接納経を受けさせたかったのです。
 高松空港に正午着。高松空港上空からは、いたるところに大小のため池が確認できました。今年の夏も渇水で大変だったそうです。(ガイド談)
 綾野タクシーさんは、20周以上四国遍路をしたベテランですが、逆コースの運転は戸惑うといいます。いきなり最後の第88番大窪寺からお遍路が始まりました。第88番大窪寺は、周囲を山峰に囲まれた標高780mにあります。奈良時代、元正天皇の頃、行基菩薩が開いたものです。弘法大師が唐の国から帰られて後、現在の大窪寺の奥の院の岩穴で修行され、大きな窪の傍らにお堂を建て、自ら刻まれた薬師如来を奉納されたところから大窪寺の名が生まれたものです。
 四国88ケ所最後の札所、大窪寺でお参りを終えると「結願」です。弘法大師は四国を廻られる時、ずっと持っておられた杖を大窪寺に納め、ここを四国88番の霊場の結願所と定められました。第1番霊山寺から打ち始めたお遍路さんは、この第88番大窪寺で打ち納めとなるわけで、続けてお詣りする人は杖を持ち帰りますが、打ち納めの人は金剛杖を大窪寺に納めるのがならわしです。
 山門から本堂へは長い石段を上りあげます。本堂・大師堂で読経している間に、妻に納経をしてもらいましたが、
「うれしい、やった。」という感じがありません。香川県最初の札所が結願寺でも、これから始まるという落ち着かない複雑な思いがありました。(ここでの、本堂・大師堂の写真は失敗してしまいました。残念。)
 第87番長尾寺の珍らしい行事に『力餅』があります。毎年正月7日の大法会に、48貫(170Kg)もある大鏡餅を運ぶ、力自慢の行事です。境内にある、茶屋のぜんざいが有名です。
 第86番志度寺は、志度湾に面して広大な寺域をもち、「海女の玉取り」の悲話の残る古刹で五重塔が立ちます。
 第85番八栗寺は、参道にある土産店の左奥にケーブルカー乗場があります。五剣山を仰ぎ見ながら歩いて行くと、大師堂、その先に本堂があります。標高375mの五剣山がとても高く感じます。
 第84番屋島寺のある屋島は源平合戦にまつわる壇ノ浦を望む観光の島です。屋島ドライブウエイから望む、庵治の港は、片山恭一のベストセラー小説が原作の映画「世界の中心で愛をさけぶ」のロケ地で知られています。
 17時過ぎに高松市内のホテルに着きました。高松市は人口43万人。穴吹工務店の分譲マンションが何棟も建設中でした。三越を中心とした商店街は日本一ともいわれる連続したアーケード街でとても賑わっていました。(自転車が多かった。)
 第83番一宮寺の参道にある薬師如来を祀る石の祠の下には、地獄へ通じる穴があり、地獄の釜音が聞こえるといいます。
 第82番根香寺は瀬戸大橋を望む五色台、青峰にある札所です。山門をくぐると、すぐにくだりの石段があり、また上りの石段があります。智證大師が彫った秘仏の千手観音がご本尊です。その香りがあまりにも高いところから根香寺と名づけたものです。また、その木の香が川に流れて香るところから、香りのよい川、すなわち香川の名が生れたそうです。
 
第81番白峰寺も瀬戸大橋を望む五色台の観光の中心地にあります。崇徳天皇ゆかりのお寺で、境内には天皇の御陵(お墓)があります。
 第80番国分寺は、奈良時代、聖武天皇が全国に国分寺を建てられましたが、このお寺は、讃岐の国分寺で国宝に指定されています。大師堂に入ると、手前はお土産さん。その奥に弘法大師が祀られていて、とても込み合っています。
 第79番天皇寺は、赤鳥居をくぐった正面に白峰神社の神殿があります。白峰神社の別当寺となったのが高照院で、このあたりでは天皇寺、あるいは天皇さんの名で呼ばれている、崇徳天皇ゆかりのお寺で天皇寺とよばれました。保元の乱で、崇徳天皇は讃岐の国に島流しとなり、讃岐で亡くなられた悲劇の天皇です。
 第78番郷照寺へは丸亀城を望む、海辺の道を行きます。
四国88ヶ所の中では珍しい時宗のお寺です。一遍上人は、伊予の武士の家に生まれながらすべてを捨て出家した人で、捨て聖と呼ばれた名僧です。
 
第77番道隆寺は、
智証大師円珍の家系で和気道隆の開いた寺です。 その後、弘法
大師の弟、真雅が3世、4世は智証大師円珍、5世は理源大師聖宝をはじめ歴代高僧が住持しました。理源大師聖宝は、霊山を巡歴して、大峰山上を開いて道場を再興し、後世の修験道当山派の祖とあおがれています。
 第76番金倉寺は、天台寺門宗別格本山です。宝亀5年(774)、和気道麿通善の開いた寺で、その孫には天台5世座主で天台寺門宗の開祖証大師円珍がいます。円珍の母は、佐伯氏で空海の姪だったということから、善通寺とも縁があります。

 瀬戸大橋を渡り与島PAで休憩をとりました。観光遍路も無事終わり金剛杖は次回のために綾野さんに預けて高松空港18時30分発の飛行機で帰りました。お疲れ様でした。 
  6. 平成18年6月17日(土)
 伊予霊場巡拝  第54番(延命寺)から第64番(前神寺)  
 
第61番香園寺、「ちびっこおへんろさん カレンダー」と「ちびっこお遍路よっくんが行く」の本のお接待を受けました。おばあちゃんは、岡山県在住の藤田祐子 (ふじた・ゆうこ) さん、「ちびっこおへんろさんのよっくん先生」の本名は藤田佳宏くん。 第64番前神寺は、石鎚信仰修験の聖地です。
 6月16日(金)品川BTを19時30分発の今治桟橋行き高速バスは、17日(土)7時25分に今治国際ホテルに到着しました。瀬戸大橋を渡った5時頃から雨がおちはじめて、バスを降りる頃には本降りとなりました。ホテルの玄関先で「第一タクシー」を見つけて挨拶をすると、ドライバーの越智さんは、私がこのホテルに宿泊していると思いしばらく前から待っていてくれたそうです。
 第54番延命寺から第64番前神寺までを打つ今日の行程は、時間的には余裕がありますが雨の日になりそうです。納経所は一年中朝7時から夕方5時まで開いているとの事なので、移動の車中で遍路姿に着替えることにして出発しました。およそ10分で第54番延命寺に到着、時間は7時50分です。バスを降りてからまだ30分も経っていません。頭の整理がつかないままドライバーさんに、山門での写真撮影と納経をお願いし、本堂に向いますが気持ちが乗りません。あたふたと読経を終えて、本堂、大師堂で写真を撮ってもらいました。
 第55番南光坊へむかう車中でガイドブックを見ると、第54番延命寺は、天平年間、行基によって本尊不動明王が近見山山頂に安置された。のちに嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が再興したという。戦乱によりたびたびの移転を迫られ、1727年(享保12)に現在地に移築した。馬酔木などが咲き、四季折々の風情ある境内には、江戸時代、農民救済に尽くした庄屋越智孫兵衛の墓がある。また寺宝の「宝永元年」(1704)銘の梵鐘には、長宗我部氏の掠奪に遭った際、鐘がひとりで海に逃れたという逸話がある。(「週刊 古寺をゆく」)とあります。
 第55番南光坊は、大山祇神社の別当寺として瀬戸内海大三島にあったものが8世紀初めにこの地に移されのちに弘法大師が霊場と定めたそうです。隣には大山祇神社があります。
 第56番泰山寺は、水田地帯の参道から石段を上ると天井に彫り物が見事な鐘楼があります。「不忘松」を左手に見て、近代的な建物の宿坊(納経所)の奥に本堂・大師堂があります。
 第57番栄福寺の本堂の右手に押し車や杖がおいてあります。足の悪い15歳の少年がこの寺で不注意で転んだところ、その時のショックで足が治った由来の物だそうです。大師堂はその手前、一段下がったところです
 第58番仙遊寺の山門脇に「弘法大師御加持水」の看板があります。
 「
弘法大師御加持水由来 これより50メートル程先に弘法大師巡錫の砌、錫杖にて掘られし泉あり。当時疾病に苦しむ村人あまたおり、泉の水にて加持したれば悉く全治す。以来、千百数十年を経て、現在に至るまで近在はもとより、遠路他府県よりも御加持水の霊験にて本復すること枚挙にいとまなし。どんな旱天にも枯れぬ霊泉なり ※仙遊寺本堂まで300メートル程」山門から登りの歩き道の途中に弘法大師のお加持水があります。この井戸は、いくらくんでも減らないといわれ霊水として大勢の人が汲みに来るそうです。車での遍路は駐車場まで上っていくためご霊水を飲むことはできませんから、納経を終えて本堂から山門に降りてくる時に霊水を汲むそうです。(ガイド談)今日も、山門で団体遍路バスが待機していました。時計は10時、仙遊寺の境内からながめる瀬戸内海は白いガスの中です。
 第59番国分寺は、今治市近辺にある5ケ寺の最後の札所で、天平13年(741)に聖武天皇の勅願によって、全国に建立されたものです。
「ここまで良いペースですよ。高速道路が出来てお遍路さんも宿泊しなくなりました。その分距離を走るようになり、家に帰り布団に入っても目玉がずっと動いています。」と越智さんは笑いました。「そうですね。今までずっとドライバーさんに無理をお願いしてきました。徳島県の焼山寺や太龍寺、高知県の室戸岬の最御崎寺、足摺岬の金剛福寺、ここ愛媛県の岩屋寺、これからむかう横峰寺などの難所が沢山あります。観光旅行気分で回っているお遍路にお付き合いさせて申し訳ありません。本当にありがたいと思います。」私は答えました。「今までのドライバーさんは皆ベテランだったでしょう。私も今年60歳になります。」と越智さんは言いました。今までのドライバーさんは皆ベテランでした。その経験による運転は全く無駄がなく、初めての土地でも何の心配もありませんでした。皆さん食事を取る間も惜しで写真撮影や納経等一日中世話をしてくれました。インターネットでタクシー会社を選んだ事を得意げに話した事、お遍路さんの特権で無理をさせていた自分がとても恥ずかしくなりました。
お大師さまが助けてくれる、お大師さまといつも一緒だ。これが私のお遍路のスタイルでした。六波羅蜜という6つの実践行為(「布施・・・ほどこし」「持戒・・・戒めを守る」「忍辱・・・忍耐」「精進・・・修行」「禅定・・・修行につとめる」「智恵・・・物の道理を見極める」)がお大師さまの教えだとやっと気づきました。お遍路をする度に、どうして皆がこんなにも親切なんだろうと思っていた事は、皆さんがお遍路をしている人にくださる思いやりの心お接待でした。今までいただいたお接待を次の人に渡しますと越智さんと約束をしたら気持が楽になりました。「お遍路は急いではダメ。一度ではお遍路はわからない。だから2度目は逆打ちをしています。」という人がいます。スタンプラリーのような私のお遍路にも出会いと感謝がたくさんあります。
 難所で知られる第60番横峰寺への行きかたとして、先に第61番香園寺から第64番前神寺を打ち、最後に横峰寺をお参りすることにしました。
 第61番香園寺は、本堂や宿坊が鉄筋コンクリート造りの四角いお寺です。本堂でお勤めをはじめたら、遍路姿の小学校高学年の男の子とおばあちゃんが来ました。その小学生にはベテランの風格があります。赤い納札をした男の子がお勤めを始めました。「納め奉る。第61番香園寺御本尊大日如来、高祖弘法大師をはじめ、栴檀山鎮守、総じては、日本国中大小の神祇に祈願し奉る。至心発願、天長地久、即身成仏、密厳国土、風雨順時、五穀豊饒、世界平和、万民豊楽、乃至、法界平等利益」大きく自信に満ちた読経が響きます。私は、読経に集中できず声がだんだん小さくなり、最後は男の子の読経を聞いていました。本尊真言、回向文が終りました。恐る恐る声をかけて一緒に写真を撮ってもらい、お接待をさせてもらいました。「ありがとうございます。」男の子が頭をさげました。「ちびっこおへんろさんのよっくん」です。おばあちゃんが紹介してくれました。遍路の記事で読んだ記憶があります。「あのお遍路さんですか。」そう答えました。ちびっこお遍路さんの後について本堂の中に入りお勤めをしました。私は黙ってちびっこお遍路さんの読経を聞いていました。すごい少年がいたものだ!!。別れ際におばあちゃんから、「ちびっこおへんろさん カレンダー」と「ちびっこお遍路よっくんが行く」の本のお接待を受けました。おばあちゃんは、岡山県在住の藤田祐子 (ふじた・ゆうこ) さん、「ちびっこおへんろさんのよっくん先生」の本名は藤田佳宏くん。各お寺の御本尊にあわせてお経を唱え、先達までつとめる天才少年で、四国八十八カ所(お四国参り)の納め札も赤色という有名な方です。ちびっこお遍路さんとは第63番吉祥寺までお参りが一緒になりました。他にも、若い夫婦や小さな3人の子供連れの家族とは本堂や大師堂お参りが一緒になりました。
 
第62番宝寿寺の山門を入るとすぐに、真念さんのしるべ石があります。
 第63番吉祥寺の境内鐘楼の前に、成就石があります。この石の中央に、直径30センチくらいの穴が空いていて、目隠しをして杖が通れば願いがかなうという言い伝えがあります。
 第64番前神寺は、石鎚信仰修験の聖地です。毎年7月1日の石鎚山の山開きには、前神寺から大勢の信者や行者が登って行くそうです。霊峰石鎚山は雨の中で確認が出来ませんでした。
 第60番横峰寺は、四国一の高い山、石鎚山中にあり、若いときの空海の修行した山で、お遍路が転がり落ちたという、遍路ころがしの名のある難所です。ここは、近年まで、歩いて登るしか道がなかったため、ここだけで丸一日かかったそうですが、今は有料林道が開通しています。大型バスでの参拝者は途中でマイクロバスに乗り換えますが、有料林道を過ぎると勾配がさらにきつくなります。この登りの間に歩き遍路さんを追い抜きましたが、私たちが納経をおえた頃に本堂にたどり着いた歩き遍路さんに再会しました。境内はうっそうと茂る樹木に覆われています。千年以上も昔にこんな高い山の中にどうして建立できたのだろう。濃いガスの中に建つ権現づくりの立派な本堂、大師堂や仁王門はとても幻想的でした。
 西条駅まで送ってもらい16時30分発の大阪行き高速バスに乗り、21時25分梅田ハービス着。京都で宿泊して18日に本山の会議出席後、夕方の新幹線で戻りました。お疲れ様でした。
 次は、愛媛(伊予)菩提の道場最後のお寺、三角寺から始まり香川(讃岐)涅槃の道場に入ります。 
 5.平成17年3月6日(日)
 伊予霊場巡拝 第41番(龍光寺)から第53番(円明寺)
        
46番浄瑠璃寺、本堂で居合わせた若いお遍路さん達の中に群馬県の方がいました。 第50番繁多寺、「お遍路お疲れさま 道中お気をつけて」というメッセージの入いったクッキーを貰いました。
 3月4日(金)高山村では10cmの積雪がありました。高崎駅東口バスターミナルを23時30分発高速バスは、5日(土)7時に京都八条口に到着しました。大津駅へ移動中の列車の窓から見える比叡の峯は雪で白くなっています。(明日の天気は、九州、四国、大阪地方では雪との予報です。)本山での会議を終えて、JR大津駅からJR大阪駅隣りのハービス梅田へ行き、22時20分発城辺行きの高速バスに乗り6日(日)6時40分に曇天の宇和島バスターミナルへ到着。ターミナルで洗面、着替えを済ませ、テレビを見ていると、大雪で飛行機が欠航した福岡空港やJRの混乱の映像が流れてきました。「どうしよう・・・。」とても不安になりました。今朝の宇和島は曇天ですが、雪が降り出すほど寒くはありません。7時40分に四国タクシーの門田さんと合流し、天気の話しになりました。門田さんに、「予報では今日は雪ということでした。雪が積もれば第44番大宝寺、第45番岩屋寺への山越が心配です。山越えをしないで迂回路を使えば時間的にも、今日の予定の第53番円明寺までの打ち抜けは無理だと思います。心配ですが、天気もこの分では大丈夫でしょう。第53番円明寺まで行けますよ。」と言われ一安心。今日の天気は、お大師様にお願いして出発しました。
 今日の予定は、第41番龍光寺から第53番円明寺まで打ち抜く250Km以上の行程です。宇和島
市は城下町で、伊達政宗の長男・秀宗が入城して以来、9代にわたり伊達氏の居城として栄えた宇和島城があります。また闘牛もさかんで、バスターミナル近くの歩道橋にはR58、「松山93km」「市営闘牛場2.4km」の案内標識が見えました。
 「三間のお稲荷さん」として有名な第41番龍光寺は、宇和島市内から、根無川沿いの県道を20分ほどさかのぼったところにあります。このお寺は山門ではなくて鳥居があるお寺です。弘法大師は、この地で稲束を背負つた老翁にであい、老翁は「我この地に住み、仏法を守護し諸民に利益せん」と告げて姿を消したので、大師は、この老翁こそ稲荷大明神と悟り、これを本尊として四国の総鎮守としたのがこの寺のはじまりといわれ、本堂には、十一面観音と稲荷明神が祀られています。
 第42番仏木寺は、道沿いにある牛や馬を守護する寺で、境内には家畜慰霊塔が立つています。第42番仏木寺から第43番明石寺へは歯長峠のトンネルを抜けていきます。沿道の木々や道端には、わずかに雪が積もっています。きれいな女神さんが大石を運んでいたら、いつのまにか夜が明けて、びっくりして消えたという伝説が残る第43番明石寺は、同門天台寺門宗の寺で、四国縦断自動車道が伊予大洲まで開通し便利になりました。ここから第44番大宝寺まではお大師さまが橋の下で休まれたという、十夜ケ橋(番外札所)を通り抜ける80kmあまりの山越えのルートです。
 第44番大宝寺は、
八十八ケ所の真ん中にあたり、中札所ともよばれる寺です。狭い峠の道沿いには積雪がありました。この寒い、雪が積もった峠道で、山また山を越して歩いてきた遍路さんを何人も見かけました。山門を過ぎ、巨木、老杉が茂る坂道を上がっていくと、あたりは雪景色に変わりました。標高490mの幽邃な山寺のキンとする冷気のなかで眠気が飛びました。
 
第45番岩屋寺は、参道入口にある土産店から登坂が続きます。途中にある山門から見上げると急勾配で難所に見えます。本堂までは、まだ時間がかかります。お遍路姿に金剛杖を持った、団参が降りてきました。この団参達は、私の駐車場からさらに遠い、橋を渡った道路脇に止まっていたバスから歩いてきたそうです。20分位歩き、膝がガクガクしてきたころ、ゴツゴツした岩が連なる大岩に食いこむ納経所につきました。本堂、大師堂は石段を登り上げたところにあります。
息を整えながら、岸壁に食い込んだ建物を眺めました。当寺は、かつて第44番大寶寺の奥の院で、大師の行場であつた穴禅定やせり割禅定が今も残ります。第46番に向う三坂峠からは道後平野を一望でき、松山市内や遠くの山々までも望めるほどの快晴になりました。
 46番浄瑠璃寺からは、回りに民家がある松山市内にある霊場を巡ります。天然記念物の息吹柏槙に挟まれた本堂前には、仏足石が置かれています。大師堂には、弘法大師と繋がれている紐が張られています。ここの本堂で居合わせた若いお遍路さん達の中に群馬県高崎市の方がいました。写真を撮ってもらい、お礼にお接待をさせてもらいました。
 第47番八坂寺は、山門へ続く長い直線道路があります。山門をくぐり石段を登る途中に鐘楼、正面に本堂と大師堂が並んでいます。当寺は、四国遍路の元祖、衛門三郎の菩提寺で、屋敷跡に建てられました。
 第48番西林寺の南西には、大師が大旱魃に悩む村民を救済するため、杖を所々突いて清水の湧く水脈を発見し、村民を潤した「杖の淵」が残っています。
 第49番浄土寺は、踊念仏の祖、空也上人ゆかりの寺で、山門をくぐると正面に本堂が見えます。本堂の向かって右に大師堂、左に阿弥陀堂があります。南無阿弥陀仏を唱える声が小さな仏となって現れる空也上人立像が残されています。
 第50番繁多寺は、松山市外が見渡せる丘陵にあり、時宗の開祖一遍上人が修行した寺として知られています。山門を入ると右手には、県浄水場の池があります。本堂、大師堂で読経をしてから、松山市外を眺めていると、2人づれのご婦人からお接待を受けました。「お遍路お疲れさま 道中お気をつけて」というメッセージの入いったクッキーを貰いました。納札を渡し、記念写真を撮りました。お遍路を通して初めての事で、一人前のお遍路さんになった気がしました。感謝、感謝です。
 第51番石手寺は、道後温泉近くにあります。土産物屋の並ぶ参廊をぬけると国宝の山門、境内にはいると団体バスの観光客やお遍路さんで一杯です。護摩堂では護摩修行中で、スピーカーから太鼓の「タカ・タン・タン。タカ・タン・タン」の響きと霊験あらたかな読経が聞こえてきました。石手寺は、領主河野家の長男が誕生したとき、左手を握ったまま生まれてきたので、住職に頼んで祈祷してもらったところ、その手が開き、衛門三郎再来と彫られた石が出てきました。この石を当寺に納めたことによるそうです。
 お遍路をしていて霊験を頂いたひとびとや不思議に出会ったひとびとの話しを本で読んだり、ドライバーさんから聞きました。お遍路をしていると一度は不思議なことがあるそうです。私は、今日の天気が不思議だと思いました。昼過ぎからは汗ばむような天気になりました。第51番石手寺から第52番太山寺への道のりは、道後温泉街から中心市街地を抜けていく12Kmほどの距離ですが、日曜日の16時を過ぎて道路が混んできました。第53番円明寺まで打ち抜けるか心配になってきました。時間ばかりが気になり沈黙が続きます。「どうしよう・・・。」第53番を残せば、次回も松山市内からはじめる為、時間のロスが出来ます。ドライバーさんにお願いして、第52番太山寺と第53番円明寺は17時の納経所が閉まる前に納経を済ませることにしました。
 第52番太山寺は山の中腹にあり、納経所から本堂までは400mくらい急坂を登って行き、石段を登ると楼門があります。境内の正面に大きな本堂、左手の石段を上がると大師堂があります。本堂は国宝、ご本尊(十一面観世音菩薩)は国の重文という由緒あるお寺です。時間に追われ、ここでの読経が一番粗相なものでした。境内に居合わせた家族づれの巡礼の方に写真を取ってもらい、参道を戻る途中でドライバーさんに会いました。17時少し前でした。
 第53番円明寺は、ここから2Kmほど離れている町中にある寺です。山門をくぐると正面に本堂、左に大師堂、右に観音堂、鐘楼が建ち並んでいます。ご本尊は阿弥陀如来です。午後5時を過ぎた境内には誰もいません。本堂、大師堂で読経して今日の行程が終了しました。お疲れ様でした。
 松山空港まで送ってもらい、19時20分発の飛行機に乗り、羽田着20時40分。モノレール、JR東京駅からは上越新幹線でJR高崎駅。そこからは車で、23時30分に自宅に戻りました。0泊3日のお遍路は一ケ寺参拝時間20分足らずのあわただしいものでした。次は、愛媛(伊予)菩提の道場今治市からはじまります。

 後日、門田ドライバーさんからお土産を送っていただきました。ありがとうございました。
  
 4.平成16年6月5日(日)
 土佐・伊予霊場巡拝 第35番(清瀧寺)から第40番(観自在寺)
高知城 足摺岬
 6月4日(金)新宿西口バスターミナルを20時発、高知行き高速バスは、2ケ所のSAで休憩をとり5日(土)7時20分に高知駅に到着しました。四国・九州地方は梅雨入をしていて天気が心配でしたが、朝から汗ばむほどの快晴の日となりました。駅内の手洗いで洗面、身支度をおえたころ堀尾タクシーさんが迎えにきてくれました。挨拶を済ませ、今日の行程は、高知自動車道で土佐ICまで行き、第35番清瀧寺から横浪半島を横断する横浪黒潮ライン(横浪3里)を通り、R56で土佐湾の海岸線を中村市まで行き、市内を流れる四万十川を渡り、R321(足摺サニーロード)を南に向かい、足摺スカイラインを通り四国最南端足摺岬に建つ金剛福寺を打ち、また中村市内のR56まで戻り、県境を超えて愛媛県御荘町にある第40番観自在寺までを打ち抜く予定ですが、第40番の巡礼を終えてから隣町の城辺町の高速バスセンターまで戻るため、所要時間は8時間・走行距離300キロ以上との説明を受けました。(掘尾さんは、即日高知まで戻る、超・長距離1日遍路が始まります。)その後私は、城辺町のビジネスホテルで仮眠をとり20時45分の大阪梅田行きの高速バスに乗り、6日(日)朝6時20分に大阪着の予定となっています。今回は、車酔いもなく絶好調ですが、心配は、午後から天気が崩れる足摺地方の雨と、札所の閉まる午後5時までに40番札所に到着できるかということです。
 第35番清瀧寺へは、高知自動車道(高知ICから土佐IC)を利用しました。この寺はみかん畑の中のつづら折れの急坂を登りあげていきますが、対向車が来るとすれ違えないところばかりです。連休などは登り・下りの一方通行にすることもあるそうです。清瀧寺の境内には台座からの高さ15メートルの薬師如来像が建立されています。
 第36番青龍寺は、横浪半島の東部にあります。境内は、杉木立の中の長い石段を登ったところにあります。本尊は、弘法大師が自ら刻んだ不動明王、「波切不動明王」の別名で、海上安全や豊漁などの守り神として崇拝されています。大相撲の横綱、「朝青龍」のシコ名は、このお寺から取りました。(ガイド談)
 第37番岩本寺へは、土佐市宇佐と須崎市浦の内を結ぶ横浪黒潮ライン(横浪3里といわれ、海岸沿いを走る爽快なドライブコースです)を走ります。四万十川上流に建つ岩本寺の本堂天上絵は、本堂が新築された時に全国から公募されたものです。四万十川は、高岡郡不入山を源とし、山間を蛇行しながら南へ向って流れていきますが、ここ窪川町で北に大きく流れを変え、西土佐村でまた南に向って大きく流れを変えて中村市で土佐湾に流れ込む清流です。この岩本寺から中村市を通り抜け次の足摺岬の第38番金剛福寺までの距離は97キロもあり、札所の間の距離としては最長です。(字のとおり、足を摺り減らすほど大変です。)中村市は一条教房が応仁の乱をのがれてここに中村御所を造り京文化を伝えたので、四国の小京都と呼ばれています。足摺に向うR321(足摺サニーロード)の車中からは大文字山が見えます。
 第38番金剛福寺は、四国最南端、足摺の付け根にあります。山門を出て、道路を挟んで岬の突端まで続く遊歩道の途中には、ジョン万次郎像があります。雨風が吹きつける展望台から見下ろす足摺岬は、その昔、観音さまのおられる補陀落浄土がこの海の彼方にあると信じ、「あの世」をめざす捨身行(入水往生)がおこなわれた聖地です。打ち寄せる波が岩にあったって打ち砕ける様は雄大絶景です。
 
足摺から第39番延光寺へは、風向明媚な海岸線を行く竜串大月回りと、いったん中村市まで戻る方法との2通りありますが、今回は時間の関係で中村市に戻る道を行きました。第39番延光寺は「修行の道場」といわれる土佐最後の札所です。この寺の山号は「赤亀山」といいます。西暦911年、このお寺の赤亀が竜宮から梵鐘を背負ってきたという伝来に由来します。(ガイド談)
 第40番観自在寺は愛媛県御荘町にあります。この寺の大師堂の周りには四国88ケ所のお砂踏みになっています。お堂をぐっとひと回りすると1番霊山寺から88番大窪寺まで巡拝したことになりご利益を受けられます。本尊は薬師如来。弘法大師御自作宝判のお守は、多くの信者が不思議な霊験を得ておられるそうです。どうか「おかげ」を受けられますようにと私も祈りました。露店で「みかん」を買い、16時40分に城辺町のビジネスホテルに着きました。
 バスセンター前の「城辺ビジネスホテル」は、1,000円という信じられない休憩料金です。風呂に入り、浴衣に着替えて仮眠をとることが出来ました。早速に「おかげ」を受けることが出来ました。(合掌)
信仰半分・観光半分で、どこまでやれるかなという気持ではじめましたが、四国巡礼ができることを幸せだと思いました。翌日は、本山で会議を終えてから新幹線で帰りました。
 3・平成16年3月7日(日)
 土佐霊場巡拝 第24番(最御崎寺)から第34番(種間寺)
桂浜坂本竜馬像 大阪南港から高知港にフェーリーで早朝着
 3月5日(金)高崎駅東口バスターミナルを23時30分発高速バスは、6日(土)7時に雨上がりの京都八条口に到着しました。10時から18時までの会議を終えて、JR大津市からJR・地下鉄・ニユートラムと乗り継いで大阪南港に行き、21時20出航のフェリーに乗り替え、高知港には、7日(日)6時30分に入港しました。二等寝台は、2段ベットの4人部屋です。浴場・洗面所は広く、売店や自販機もありとても便利です。また、貴重品はフロントに預けることができるので安全です。入浴をすませて缶ビールを飲むとすぐに眠くなりました。
 23時過ぎに寝ましたが、身体が揺れる(ローリング)感覚で何度か目がさめました。明け方近くになると揺れが大きくなり、眠れませんでした。船から下りると、掘尾タクシーさんがネームプレートを持って待っていてくれました。挨拶している時も、80キロ離れた室戸の第24番最御崎寺から第34番か第35番を打ち抜く今日の行程を聞いている時にも、身体が揺れる感覚が残り気合が入りません。室戸に向う車中でも、頭が重く胃がむかむかしてまるで二日酔いの状態で会話になりません。室戸まで半分位の所まで進むと、ほとんど会話が出来ないくらい身体がだるく、頭痛がひどくなりました。掘尾さんに、「夕べの酒が過ぎたのではないですか。」と冗談を言われましたが、「そんなことはありません。」と答えるのがやっとでした。痛みに耐えうとうとしていると室戸に着きました。「頭が痛い。それより胃がむかつく。」室戸の展望台から360度の大パノラマを見て少し元気になりましたが、我慢できず、薬局で乗り物酔いの薬を買いました。大阪からフェリーで来た事を言うと、低気圧の通過で船が揺れたのでしょう。2日前は欠航でしたと教えてくれました。薬をのむと少し楽になりましたが、一日何も食べられませんでした。船酔い恐るべし。掘尾さんも漁船に乗っていたことがあり、最初の3日は船酔いで胃から血を流して苦しんだそうです。それに慣れると船の揺れでおなかが空くようになったそうですが、船酔いも大型船と小さな船では違うそうです。
 徳島は、発心の道場。そして土佐は修行の道場です。四国遍路も3度目になると最初の感動も忘れてしまいます。お大師様が遍路修行の厳しさを与えてくれたのでしょう。呑まず食わずの巡礼が始まりました。
 第24番最御崎寺(通称東寺)は、室戸岬の先端の山の上にあります。駐車場から坂を登り詰めて山門を入れば本堂です。山門からわずか50メートル先には室戸岬灯台があり、室戸岬の全景を一望できます。最御崎寺からR55を室戸岬へ進み、幕末の志士中岡慎太郎の銅像、たこの足のように根を国道までひろげ、枝をのばしている亜熱帯植物「アコウ(たこの木といわれている)」を見ればすぐに「御蔵洞」と「御厨人窟」があります。19才の弘法大師は、この「御蔵洞」で修行され苦行の果てに悟りを開かれました。近くには、像高16メートルの青年大師像が奉安されています。
 第25番津照寺は、室津港の街中にあり本堂は、急な石段を登りあげた山上にあります。参道右手に大師堂があり、仁王門は108段の石段の途中にあります。この石段はとにかく長く、高く、急で、やっとの思いで登りあげました。境内から室戸漁港や室津港を見下ろす津照寺は古くから船乗りの信仰を集めた寺です。ここ室戸には「室戸の海洋深層水」というヒット商品があります。
 第26番金剛頂寺は、田圃道をぬけてから急な山路を登っていきます。金剛頂寺は室戸岬の最御崎寺と相対しているため、最御崎寺を東寺、金剛頂寺を西寺ともいいます。山門を入ると右手に接待所、本堂と太師堂は離れていますが、椎の原生林の境内は3ヘクタールと広大です。室戸の海岸線には平地は少ししか見えません。室戸の参道は、どこも遍路泣かせの長い急坂が続きます。
 第27番神峰寺は、土佐の関所といわれ、麓から3.3キロの登りで、そのうち1.3キロは真つ縦と呼ばれる勾配約45度の急坂を登らなければなりません。今は、小型のみ通行できる自動車道が開通しています。目が回るような急坂をしばらく登ったころ、「もう半分くらいですか」ときくと堀尾さんは「まだ、まだです。私は何年か前の夏の頃、この道が工事中で、麓から歩いて登りましたが、それはしんどかったです。いまでも忘れられません。」と話してくれました。神峰寺への道はそれからさらに急坂を登って行きます。このお寺のお手洗いには、不浄除けの仏さまである「うすさま明王」がまつられています。トイレの守護神です。船酔と車酔いでふらふらになりこのトイレで嘔吐してしまいました。「うすさま明王」に礼拝し、口を漱ぎ石段を登り急な斜面に建てられている本堂、大師堂へむかいました。三菱を築いた岩崎弥太郎の母は、幕末のころこの急坂を登り21日の間日参し弥太郎の開運を祈願したそうです。歩き遍路は、お大師さまの修行の足跡を慕う巡拝です。汗を流して、足を棒にして、お大師さまの歩いた道を辿っていってこそ本当のありがたさがあると本で読みました。お遍路姿の旅行気分で巡拝している自分がとても恥ずかしくなりました。
 第28番大日寺へ向う途中に日本三大鍾乳洞の一つ龍河洞の案内板がありました。大日寺は小高い山の中にあり、ご本尊は行基菩薩の御作で大日如来(国重文)が安置されています。

 第29番国分寺は、高知平野の南国市にあります。仁王門は、藩主山内忠義が建立したといわれ、門を入ると正面に金堂(重要文化財)があります。ここは紀貫之の「土佐日記」や水稲二期作が盛んなところで知られています。(3月下旬には田植えが始まるそうです。)
 第30番善楽寺は、土佐一宮神社の別当寺として建立され、本堂は近年新築されました。
 第31番竹林寺のご本尊は文殊菩薩です。中国の五台山は文殊菩薩の聖地ですが、このお寺も高知市の五台山にあります。この山は五台山公園として高知でも観光名所で、展望台からは高知市街や浦戸湾が一望できます。仁王門の前には植物学者の牧野植物園があります。境内には3人姉弟のお遍路さんがいました。姉弟の信仰心に気をひかれて声をかけ、写真を取らせてもらいました。
 第32番禅師峰寺の境内は岩が多く、高木に囲まれています。境内から眺ると、眼下には野菜栽培のビニルシートが一面にひろがり遠くに桂浜が見えます。
 第33番雪蹊寺には浦戸大橋を渡っていきます。高知城は、南北朝時代、大高坂松王丸の居城で、その後、長宗我部元親が湾に近い浦戸に城を移したが、関ヶ原の戦以後山内一豊が新たに築城し、城下町をつくりました。河中(こうち)→高智(こうち)→高知(こうち)となったと聞きました。
 第34番種間寺は、田園の中に建つ寺です。寺号は、弘法大師が、唐から持ち帰った五穀の種を、当地に蒔いたことに由来するといわれています。この寺では、団参の頭に合わせて読経ができたことが思い出となりました。今日の全行程は250KM位でしょうか。本堂・大師堂での早口言葉の読経、ご朱印はドライバーさんにお願いし、昼食も食べずに1日走り廻りました。高知空港まで送ってもらい、18時35分発の飛行機に乗り、羽田着19時45分。モノレール、JR東京駅からは上越新幹線でJR高崎駅。そこからは車で、23時過ぎに自宅に戻りました。お疲れ様でした。次は四国のさいはて足摺岬です。 
 ・ 平成15年2月28日(金)
 阿波霊場巡拝 第13番札所(大日寺)から第23番札所(薬王寺)
第21番太龍寺 第23番薬王寺
 品川バスターミナルを2月27日の21時30分発夜行バスは、翌朝6時40分に徳島駅に到着しました。バスは3列スーパーシートで毛布、スリッパ、トイレ、湯茶の用意があります。夜行バスは人気があり週末には予約をしないと乗車できないそうです。(このバスも満席でした。)
 徳島駅では、インターネツトで予約してあった勝本タクシーさんが待つていてくれました。タクシーの中で巡礼の装束に着替え出発します。今日の17時15分発の京都行きの高速バスの時間までに第13番札所から第23番札所までを打ちぬくのが目標です。打合わせでは、第21番太龍寺は、ロープウエーでお参りすること。第23番薬王寺は徳島駅から国道55号線で1時間30分かかることから時間の余裕をみて、第23番薬王寺から第18番恩山寺にもどり、第13番大日寺から第17番井戸寺を打つことになつています。
 徳島駅から室戸にむかう国道55号線沿の日和佐の港近くに第23番札所の薬王寺があります。
 第23番薬王寺の瑜祇(ゆぎ)塔から眺めると町並みと日和佐川が真直ぐに湾に向つてのびていきます。四国88の札所の88という数は、88の煩悩。米という字をわけて、八十八。厄年の42歳、33歳、13歳を足した数だとこの巡礼で知りました。ここ日和佐の大浜海岸は海亀の産卵地として有名です。
 第18番恩山寺の「びらん樹」は別名「バクチの木」と呼ばれています。1年を通じて幹はいつも樹皮が、はがれ落ち真っ赤でつるつるです。身ぐるみはがされという感じです。この木の葉を1枚財布に入れておくと不思議と賭け事に運が上向きになり最後に成就するそうです。
 第13番大日寺は、阿波一の宮神社の道向いにあり、宿坊が隣にあります。
 第14番常楽園は、流水岩の庭、社会福祉施設、本堂前のあららぎ(イチイ)大師、そして本尊弥勒菩薩が有名です。境内への石段は自然石を削つてできたものです。
 第15番国分寺は、寺域全体が阿波国分寺跡として県の史跡に指定され、発掘された塔の巨大な礎石が往時を物語っています。
 第16番観音寺は、町並みの中にあるこじんまりしたお寺ですが、重層な山門はとてもりっぱです。この寺に伝わる光明真言の印判は、弘法大師の手跡をもとにしたものといわれます。(ガイド談)
 第17番井戸寺には、日を限って祈願すると願いがかなう「日限大師」と、のぞいて水面に顔が移れば長寿がかなう井戸があり今も信仰を集めています。
 第19番立江寺の境内は広く諸堂が建ち並び、高野山の別格本山となつています。四国遍路には4つの関所と1つの裏関所が設けられています。1県1カ所で徳島はこの立江寺。邪心のあるものは通過できません。この寺を打ち終わるのを「お関所もすんだ」といいます。(ガイド談)
 第20番鶴林寺への登り口から標高570Mの山頂までの表参道は、4.3キロあり急傾斜のつづく遍路道の難所として知られていますが、近年山頂までの5キロのドライブウエイが開通し、山門まで10分ほどで行けるようになりました。運慶作と伝えられる仁王像のある山門に丸木彫りの「お鶴」「お鶴さん」がいます。
 第21番太龍寺は、徳島県鷲敷町(わじきまち)の東北にそびえる海抜600mの太龍寺山の山頂近くに在り、古来より「西の高野」と呼ばれています。以前は徒歩で登つたこのお寺も、今は定員101人のロープウエイで10分で山頂駅まで行けます。この太龍山ロープウエイは、寺・町・企業(四国ケーブル株式会社)で運営しています。太龍寺は山号を「舎心山」といい、東の舎心、西の舎心、南の舎心、北の舎心という行場があります。中でも南北の行場はかなり危険なところとして知られています。19才の弘法大師が虚空蔵求聞持法という、記憶力を増進させ、判断力を身につける真言密教の秘法を実修された聖跡の南の舎心はロープウエイから眺めるここができます。空海(くうかい)の名は、この山で「空(そら)」を室戸で「海(うみ)」をつけたといわれます。。(
 第22番平等寺の本堂は小高い山の中腹にあります。弘法大師はこの地で修行中に薬師如来を感得し、自尊像を彫刻して本尊とし、人々を平等に救うために寺号を平等寺としました。境内には、万病に効くという白水の井戸があります。
 徳島県下の札所を総称して発心の道場というが、それもこの薬王寺で終る。瀬戸内海に臨む鳴門から始まつた旅も太平洋に出て高知県へと入る。薬王寺は観光地としても有名だ。海亀の来る日和佐の町を見渡せる山にどつしりと腰をおろしている。境内には厄除け坂や本堂、平和と幸福を願う塔が建つている。火事の折にみずから飛び去つて難を逃れた後向き薬師の話が残つている。(別冊太陽)
 
 お昼の「うどん」もとてもおいしくて充実した1日でした。残念なことは、お勤めのお経を前回同様に早口言葉のように唱えてしまい、もっとゆっくりすればいいのに気ばかりがあせってしまったことです。隣で頭の大先達にあわせて読経している団参をとてもうらやましく思いました。今回も歩き遍路や自転車での遍路、そして夫婦や家族での遍路に多く出会いました。特に小学生くらいの遍路さんが、巡礼の装束に杖という正装で読経をしているのに出会ったときには感激してしまいました。
 私の願いは、四国八十八ケの札所巡礼を満行することです。次回は高知(修行の道場・16札所)になります。
  
 1・ 平成14年3月3日(日) 
 阿波霊場巡拝 第1番札所(霊山寺)から第12番札所(焼山寺)
第1番 霊山寺 杖杉庵
 3月1日、23時群馬藤岡IC発京都駅行き夜行バスに乗り3月2日、6時40分京都駅着。本山での会議を終え3月2日夕刻京都駅発、徳島駅行きの高速バスで明石海峡大橋、大鳴門橋を渡り21時高速鳴門着。そそまま近くのビジネスホテルに宿泊。3月3日、遍路を終え17時15分発の高速バスで京都駅へ行き、22時の京都駅発夜行バスで群馬へ帰りました。夜行バスを利用することで時間とお金の節約ができました。 
 第1番霊山寺のご本尊は、釈迦如来です。高速鳴門近くのビジネスホテルを午前7時30分に出発し、西に向います。8時5分に駐車場につきました。駐車場では、大型バスから遍路装束の巡礼へんろの団体さんが降りてきます。緊張してしまいどうしたらいいかわかりません。「写真を撮りましょうか。」ドライバーさんに声をかけると、「先にお参りをしましょう。」と言われ本堂に向いました。
 境内は団体さんで溢れていました。本堂内の右手には売店があり遍路用具は全部揃います。ここでお遍路用品を揃え長い旅路に出るのでしょうか?。買物客で混んでいました。ここですげ笠と書籍を買いました。本堂の階段を登ったところにローソク立てと香炉があります。ローソク・線香・写経を「ずた袋」から取り出すのですが、団体さんでごったがえす中で、もたついてしまいました。やっと勤行の準備が整い本堂右手の段上で「般若心経」を読誦していると、段下から「懺悔文」が聞こえてきます。慌てて振り向くと段下に先ほどの団体さんが整列し、先達の頭(とう)にあわせて読経が始まったのです。慌てて段を降りて、団体さんの隅に並び読経しました。団体さんと一緒に読経したことで気持がとても落ち着きました。巡礼の方法も確認することが出来ました。
 第2番極楽寺のご本尊は、阿弥陀如来です。門をくぐって右手に折れて境内を進むと、巨大な杉の木があります。そのまま左に行くと石段があり、登り上げると本堂・大師堂があります。
 第3番金泉寺のご本尊は、釈迦如来です。この寺の由緒ある井戸は、大師堂近くの黄金井地蔵の前にあり、ここをのぞいて顔がうつれば長寿のおかげをうけるとつたえられています。
 第4番大日寺のご本尊は、大日如来です。この寺は、山門の前に川が流れています。この川(黒谷川)を渡り、山門を通らなければ境内には入れません。山門を入ると正面の本堂までは3カ所の石段を登ります。本堂と右手にある大師堂をつなぐ回廊には33体の観音像が安置されています。
 第5番地蔵寺のご本尊は延命地蔵菩薩です。
 山門をくぐると左手に本堂があります。右手に銀杏の大木がありその奥が大師堂です。正面に納経所。本堂裏手をまわり石段を登っていけば五百羅漢を」安置した奥の院があります。
 第6番安楽寺のご本尊は、薬師如来です。山門を入ると、左手に池と多宝塔が目に入ります。塔の前には逆松があります。正面には本堂があり、大師堂は本堂右手になります。温泉のある宿坊はお遍路さんにとても評判がよいそうです。
 第7番十楽寺のご本尊は、阿弥陀如来です。山門は中華街にありそうな白漆喰に朱塗りの鐘楼門です。本堂、大師堂には階段を登りむかいます。途中には波切不動尊が建立されています
 第8番熊谷寺のご本尊は、千手観音菩薩です。このお寺の山門は本堂から離れたところにあります。二層の仁王門を入ると、左手に納経所、右手に弁天池があります。納経所から本堂までは長い参道がありますが、駐車場で車をおりると、ご詠歌が流れていてとても気持が良いところです。ご詠歌は多宝塔に設置されたスピーカーから流れてきます。
 第9番法輪寺のご本尊は涅槃釈迦如来です。このお寺は、田んぼの中に見える、こんもりと繁る木々があるところにあります。どこからでも行けそうですが、大道が道路工事中の為、迂回しながら細い道をすすみます。山門の前には茶店がありましたが、スタンプラリーの如く急いで廻る私にはお茶の一杯を飲む余裕もなく本堂に向かいました。
 第10番切幡寺のご本尊は、千手観世音菩薩です。参道は坂道で道幅がとても狭く車両のすれ違いも出来ません。(門前町の店の駐車場を利用します)参道の門前町から本堂までは800Mほどあり、山門から本堂までは333の石段になり、登り切ったところが本堂です。タクシーはこの石段を迂回した本当に狭いヘアピンカーブを本堂まで登っていきます。この急坂は、雨で路面が滑って車が登らなくなるそうです。
 第11番藤井寺のご本尊は、薬師如来です。第10番の切幡寺から藤井寺までは南方に30分程かかります。途中、四国第一の川吉野川を渡り、JR徳島本線を左手に見ながら市街地を抜けて山手に向います。ドライバーさんは、お昼も食べずに12番の焼山寺まで走ってくれるました。大師は三方を山に囲まれた幽すいな霊地に心ひかれ、堂宇を建立し、自刻の尊像を奉安し、17日間護摩修行され、堂塔の前に五色の藤を植えられ、藤井寺と名づけられました。その後、天正の兵火で焼失し、寛永年間に再建されるが、天保2年に再び焼失し、現在の本堂はその後の建立という。その間、真言宗から臨済宗に改宗しています。
 第12番焼山寺のご本尊は虚空蔵菩薩です。第12番焼山寺への道は四国札所の難所(6カ所)の一つです。第11番藤井寺からここ焼山寺までは尾根伝いに徒歩で12.8キロ登りが続きます。車でも県道・林道・焼山寺で新設した山道を走り1時間かかりました。標高800mの山中にはまだ、雪が残っていました。ここ徳島でも雪は降るそうです。途中の山郷では梅が満開で、梅祭りをしていました。
 焼山寺の伝説によれば、この山には魔の毒蛇がいて、作物や人畜に火を吐いて危害を加え、大師が登山しようとしたときも全山火の海であった。大師が垢取川で身を浄め、法輪の印を結び真言を誦して登ると、火は順次消え、九合目に達したとき、岩窟から毒蛇が飛びかかった。このとき虚空蔵菩薩があらわれ、大師とともに毒蛇を岩窟の中へ封じこめてしまった。それ以来異変はおこらず人々は安住することができた。やがて大師は虚空蔵菩薩を刻んで本尊とし、寺号を火の山にちなみ「焼ケ山ノ寺」、山号を火の恐れがあるので「摩廬(水輪の意)山」とした 満願寺教化部 「四国へんろ」
 今回の遍路は1日間ということで、先へ先へと急いで巡ろうと、時には境内を駈け抜けてしまうほど気持に余裕のないものでした。お遍路さんとしてこのうえない無作法は、本堂や大師堂のお堂の上や階段の中央に仁王立ちなってお勤めをしてしまったことで、あとから来たお遍路さんに大変迷惑をかけてしまいました。お勤めのお経は、まるで早口言葉のように唱えてしまい、もっとゆっくりすればいいのに気ばかりがあせってしまいました。初の巡拝では、感激はするもののなにもわからずに済んでしまいましたが、偶然居合わせた遍路団体の先達の頭(とう)に合せての読経は精神を集中することができ、心に力を貯えることができました。また、歩き遍路や若い男性・女性の遍路さんが以外と多いのが印象に残りました。
 ずっとあこがれていた四国遍路は、信仰とはほど遠いタクシーでの巡礼でしたが、「遍路をしたい」という強い気持から自分なりに準備をしてきました。余裕を持って巡礼をするために無理のない日程を計画したのですが、いざ遍路をはじめるとおかしなもので、なぜか次々と、先へ先へ急いで巡ろうとして納経朱印は、麻植(おおえ)タクシーのドライバーさんにお願いしてしまいました。ドライバーさんに先達をお願いして無我無夢中の遍路となりました。


杖杉庵縁起
伊豫の国 浮穴群荏原の荘の長者衛門三郎は財宝にみち勢近国に稀な豪族であった。それでいて強欲非道な鬼畜のようなこの長者は貧しい者を虐げ召使共を牛馬の如くこき使って栄華の夢に酔いしれていた。雪模様の寒いある日その門前に一人の旅僧が訪れた。乞食のようなみすぼらしい旅僧は一椀の食物を乞うた 下僕の知らせに衛門三郎はうるさげに「乞食にやるものはない追い払え」と言い捨てた。そのあくる日も次の日も訪れた。衛門三郎は怒気満面いきなり旅僧の捧げる鉄鉢を引っ掴むや大地に叩きつけたと見るや鉄鉢は八つの花弁の如く四辺にとび散った。唖然と息を呑み棒立ちとなった衛門三郎がふと我に返った時には旅僧は煙の如く消え失せていた。
長者には八人の子供があった 其翌日長男が風に散る木の葉の如くこときれた。其の翌日には次子が亡くなり八日の間に八人の子供が亡くなった。 鬼神も恐れぬ衛門三郎も恩愛の情に悲嘆にくれ初めてこれはおのが悪業の報いかと身に迫る思いを感じた。空海上人とか申されるお方が四国八十八ケ所をお開きになる為此の島を遍歴なされているとか 我が無礼を働いたあの御坊こそその上人と思われる。過ぎし日の御無礼をお詫び申さねば相すまぬと発心しざんげの長者は財宝を金にかえ妻と別れ住みなれた館を後に野に山に寝 四国八十八ケ所の霊場を尋ねて遍路の旅をつづけた。春風秋雨行けども廻れど大師の御すがたに会うことが出来なかった。遂に霊場を廻ること二十度会えぬ大師を慕いつづけた。二十一度逆の途を取って此の所までたどりついた。疲れた足をよろぼいつつ木陰に立寄り背に負うた黄金の袋を下して見ると何とした事ぞ一塊の石となっていた。いよいよ驚き今一歩も立上がる気力もまくうち倒れている折しも大師の御姿が現れ給い やさしく「やよ 旅の巡礼 そなたは過ぎし日わが鉄鉢を打ち砕いた長者にあらずや」との御声 「われは空海いつぞやの旅僧なり」 「ああ上人さまお許しなされませ、お許しなされまし」と伏し拝みざんげの涙はらはらと手を合わせ大慈にすがる長者は今こそ悪業深き無明の闇から光明世界へ還らんとする姿であった。「そなたの悪心すでに消え善心に立ち還った。 この世の果報はすでに尽きたり来世の果報は望みに叶うであろう」と仰せられ 衛門三郎は大慈大悲の掌に救われ来世は一国の国司に生まれたいと願った。 大師は其心を憐れみ小石を其左手に握らせ必ず一国の主に生まれよと願い給い衛門三郎はにっこと微笑をのこし敢え無くなった。 其の日は天長八年十月ニ十日と伝えられる。大師は衛門三郎のなきがらを埋め彼の形見の遍路の杉の杖を建て墓標とされた。其の杖より葉を生し大杉となった。 故に此の庵を杖杉庵と呼ばれ今尚大師の遺跡として残っている。
此杉は享保年間焼失した。その頃京都御室から「光明院四行八蓮大居士」戒名が贈られ四国遍路の元祖として今も此の地にまつられている。 焼山寺 保勝会 複刻 平成八年一月吉日     (衛門三郎霊跡案内板より)

 ちょうどそのとき(天長八年十月ニ十日)伊予の大名河野左衛門助息利(やすとし)の妻が男児を生んだが、どういうわけか左の手を固く握って開かない。そこで河野氏が帰依(きえ)する安養寺の住職に加持(かじ)してもらうとやっと手を開いた。するとなかから小石が現われ、それに衛門三郎と書いてあったという。
(世界出版社 「ふるさとの旅路」)
 
 それでは、 いざ、巡礼へ!!(これが私の理想の巡拝です。)

巡礼の装束・持ち物



納経帖


納経朱印


写   経


納 札
 「巡礼に出たい」と思うことを「発願」といいます。四国八十八カ所霊場は空海ゆかりの霊地です。コースは、徳島県鳴門市の一番寺霊山寺から始まります。霊場は徳島(発心の道場・23札所)→高知(修行の道場・16札所)→愛媛(菩提の道場・26札所)→香川(涅槃の道場・23札所)を時計回りに進みます。八十八カ所を巡ったら空海入定の地、高野山へ参り、もう一度最初に訪れた寺へ行きお礼参りをするそうです。そして、お遍路さんは同行ニ人(どうぎょうににん)、お大師さんとともに霊場を歩きます。
1.山門の前で一礼してから門をくぐります。
2・次に手水鉢で手を洗い、口をすすぎます。

※ まず柄杓を右手に持ち、左手を洗い、次に柄杓を左手に持ち替え右手を洗い、最後に口をすすぎます。
3.次に鐘を撞きます。
本堂で燈明(ローソク)・線香を立てます。

※ ローソクは上段から立てていきます。
5.次に納札・写経を納めます。

※ 中央の香炉に線香を真中から立てます。
※ 階段上の青箱に納札・写経を納めます。
6.本堂でお賽銭をあげて段をおり、中央をあけて左右に立ちお勤めをします。
7.次に大師堂で4〜6をくり返します。
8.納経朱印をいただきます。
9.次に諸堂巡拝をします。

10.山門の前で一礼してから次の札所にむかいます
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