遠野は柳田國男の「遠野物語」で知られる民話の里です。遠野には、私の少年時代、昭和30年代の景色がありました。 私が4才ころには家の前の川端には水車小屋があつて、米や麦をひいていた事、父と何度か水車小屋へ行ったことを思い出しました。私の昔の家は、藁葺屋根で家の中で牛を飼っていました。毎晩バケツで牛に水をやったことや時々聞こえる牛の鳴き声を思い出しました。牛の糞尿は、家の庭の隅に積んでおき肥料として使いました。 私の家では養蚕をしていました。藁葺の家の二階でカイコをかっていました。二階は板張りで倉庫兼作業場になっていました。梁が剥き出しで、荒縄と竹でマス目に組まれた屋根裏はススで真っ黒、昼でも暗かったことを思い出しました。子供の頃はとても雪が降って寒かった思い出があります。夜はコタツの回りに布団を敷いてラジオを聴きながら寝ました。昭和30年代半ばに、初めて見た白黒TVが一番印象に残っています。 その家はもう建替えてありません。そんな生活を妻や子供は知りません。そんな昔のことを懐かしく思い出しました。 今日、9月15日は「遠野まつり」ということで、遠野八幡宮は人で埋まっていました。お昼の「ひっつみ」「けいらん」「ひっこそば」の定食がとてもおいしく楽しい一日を過ごしました。 |
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五百羅漢 |
今から200年余り前に東北地方を襲った大飢饉は、遠野にも相当の犠牲者を出しました。これに心を痛めた大慈寺の義山和尚は、多くの犠牲者を追悼するために自然の花崗岩に五百体もの羅漢像を彫りつづけたといいます。 (遠野市発行 「遠野旅めぐり」より抜粋) | |
続石・泣石 |
巨大な石を、武蔵坊弁慶が持ち運び、台石の上に置いたという話しが、「遠野物語拾遺」の中にあります。(遠野市「旅遠野路」より) | |
千葉家の曲り家 | 南部曲り家を代表する千葉家。約200年前に建てられ、163坪もある豪快なもので昔は、作男15人を含め25人の家族と馬20頭が同じ屋根の下で生活していました。建物の一部を展示室として公開しています。(遠野市「旅遠野路」より) | |
カッパ淵・常堅寺 |
澄んだ水が、和らかに流れる小川のカッパ淵。カッパが馬を川の中に、ひっぱり込もうとして失敗してしまったという話しがあります。川辺の小さなほこらは、お乳の神様です。近くの常堅寺カッパ狛犬があります。(遠野市「旅遠野路」より) | |
伝承園 | 昔の農家の姿を、カヤぶき屋根で再現している伝承園。国の重要文化財に指定されている南部曲り家「菊地家」や、千体オシラサマ堂。「遠野物語」の話者、佐々木喜善の資料館などがあり、予約すれば、昔話を聴いたり体験したりできます。(遠野市「旅遠野路」より) | |
早池峰山古参遺跡 |
遠野三山の一つ、霊峰、早池峰山の古参道跡。長い歳月風雪に耐えてきた鳥居が、朽ちながらも、往時の姿を残し昔をしのばせてくれます。(遠野市「旅遠野路」より) | |
山口の水車 |
ふるさとの情緒をかもしだす山口の水車。水しぶきをあげて回る姿は、田園風景の主役でもあります。(遠野市「旅遠野路」より) | |
デンデラ野 |
デンデラ野は、姥捨山であったという事実のみが伝えられている。また、デンデラ野は、死に先立つて魂が通る場所とも言われている。(講談社カルチヤーブツクス「遠野物語を歩く」) | |
横田城跡 |
遠野郷を400年にわたり統治していた阿曽沼家が、鍋倉城に移転するまでの300年の間拠点とした城跡です。 | |
光明寺の綾織 |
永禄3年(1560年)開基の曹洞宗の寺である光明寺には、青笹にある池に舞い降りてきた天女が、レンゲからとつた糸で織り上げた曼荼羅といわれる綾織が伝わったとされている。(「遠野物語拾遺」3より) | |
遠野八幡宮・ 遠野まつり |
9月14・15日。八幡宮の祭りと併せて催す、秋のビックイベント。遠野郷しし踊りや南部ばやし、神楽などの郷土芸能のパレードや競演会で遠野郷は祭り一色。15日には八幡宮で、南部やぶさめなどが催されます。(遠野市「旅遠野路」より) |
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