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信長、神への道 5


 ■信長の挑戦

  信長の選択肢

将軍を追放した後、信長の次のターゲットは天皇だった(だろう、と想像してます)。
ではどのようにしようとしていたのか。
権力の座に上りつめた者にとって、朝廷対策を列記すればこうなるだろう。

A.軍事力で天皇と朝廷を叩き潰し、自分が皇帝になる

B.朝廷側の体制に入り、天皇から政治や軍事を委任される

C.天皇家の一員となって自ら天皇(上皇)に就任する

D.何らかの方法で天皇を超える権威を身につける

では順に、私の考えを述べていくが、結論から先に言うと私の考えは「D.何らかの方法で天皇を超える権威を身につける」になる。
すなわち、信長は「天皇という神を越える、新たな神になろうとした」ということである。


A.軍事力で天皇と朝廷を叩き潰し、自分が皇帝になる

これは革命である。荒っぽいが確実な方法だ。
しかし日本においては有史以来、革命が起きたことがない。
不思議なことだがそれでも壬申の乱(672年)は、場合によっては革命と呼べるかもしれない。

天智天皇の死後、天智の弟だった大海皇子は天智の子、大友皇子と戦ってこれを敗死させ天皇に即位した。天武天皇である。一説によれば、大友は天智の死後天皇に即位したという。しかし日本書紀には即位したことは書かれていない。

書かれていないのは当然で、日本書紀の編集者は天武の事跡を書くにあたり、「大友天皇」と戦ったことを抹消したらしい。なぜなら、いかなる理由があろうとも、天皇と戦うことは不忠なことだからだ。

大友が天皇に即位したのが事実だとしても、そのことを書いてしまうと日本書紀の編者は、自分が仕える天武の不義・不忠を公表することになるから意識的にその部分を削除したと思われる。

そもそも日本書紀編成プロジェクトは天武の命令で発足し、チームリーダーの舎人親王は天武の子なのだ。天武に不利になることが書かれているはずがない。

大友は長いこと歴代天皇として数えられて来なかったが、明治政府が弘文天皇の称号を贈ったことからも、即位したと推定できる。
不穏な動きをみせる大海皇子に対抗し、強力な権限で兵を指揮するには天皇という地位が必要だったと思うからだ。

さらに天武は、実際には天智の実弟ではなかったと言う説もある。
では天武
の正体は誰なんだ、と言うことになるが諸説あるし、本題とはかけ離れすぎるのでここでは書かない。

もし天武が天智の実弟ではなく、大友が天皇に即位していたのなら、壬申の乱は革命と言えるだろう。
しかし古代史(日本書紀)ではそうなっていない。天皇家はあくまで万世一系だし、天武は天智の実弟なのだ。

自ら軍団を指揮し、勝利を収めて即位した天皇は天武をもって最後とする。
それ以降明治時代に至るまで、そのような天皇は出現していない。
後醍醐天皇は自ら軍団を率いてはいない。

なぜなのか。
なぜ日本では革命は起こらなかったのか。


≪革命の論理をもてない日本≫

1989年3月、作家の松本清張氏が寄稿した「神格天皇の孤独」と題する論文が文藝春秋誌に掲載された。以下はその抜粋である。

その間、天皇家を超える実力者は多くあらわれている。とくに武力を持つ武家集団、平清盛でも源頼朝でも、北条氏でも足利氏でも、また徳川氏でも、なろうと欲すればいつでも天皇になれた。なのにそれをしなかった。

(中略)

どうして実力者は天皇にならなかったのか。だれもが知りたいことだが、歴史家はこれを十分に説明してくれない。学問的に証明できないのだという。


これに対して、歴史学者で津留文化大学長の今谷明氏は、著書の「室町の王権」でこう述べている。

このような素朴な疑問、また余りにも正当な疑問に対し、歴史学界は真摯に応える必要があるだろう。本書は、松本氏の設問に対し、一中世史学徒として一つの回答を試みたものである。もとよりその叙述が成功しているか否かは読者の判断にお任せするしかない。



「なぜ天皇家は今日まで続いてこられたのか」という疑問は、「なぜ天皇家は万世一系でなければならないのか」、という疑問に通じる。さらにそれは、「なぜ日本では革命が起こらなかったのか」ということでもある。

古今東西、無数の王朝が興亡した中で、天皇家が存在し続けたのはきわめて特殊な事例ではないか。これほど長期間にわたって一国の政治、文化、歴史など多くの要素に直接的、あるいは間接的に関与してきた家系は他にないのではないか。

松本清張氏の疑問は、私自身が長年抱きつづけてきた疑問そのものである。
私が天皇家の不思議さ、世界史における異常性(と言えるだろう)に気がついたのは学生時代だったが、それ以来、それについて調べようと思っても明確に理由が書かれた書物に出会ったことがない。

今谷氏には失礼ながら、氏の著書を読んでもさっぱりわからない。どうして実力者は天皇にならなかったのか・・・・・これは私にとって永遠のテーマである。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


すべての理由ではないにしろ、天皇家が今日まで滅びずに存続して来られたのは、天皇には権威があっても権力がなかったからではないか。

天武天皇はもちろんのこと、古代の天皇はいずれも軍団を率いるリーダーだったが、天皇自身が戦い、かつ政治を行った期間はわずかで現実の政治は古代は蘇我氏とか藤原氏に、中世以降は後醍醐天皇を除き、武家に委任している。

だから世が乱れ、政治に不満があっても、天皇自身は不平分子の攻撃(軍事的な攻撃だけでなく、非難も含めて)を受けることはない、と言うことになる。

古代中国には、帝王は人類の監督者として天から任命されている(天命)、という考えがある。
天とはキリスト教で言う神の概念に近い。

もし帝王が暴悪で、人民を苦しめるのなら天命は去る。したがってそんな時には新たな監督者を選び、帝王に任命すればいい。
この新たな監督者を選び帝王に任命することを、天める(あらためる)として革命と呼んだ。革命が成功し、帝王以外の別の姓を持つ氏族が新たな帝王になるのを易姓革命(えきせいかくめい)と言う。

この「天命を革める」と言うのを最初に唱えたのは、殷の紂王(ちゅうおう)を攻め滅ぼして新たな国家、周を興した武王である。この紂王が、夏の桀王(けつおう)と共に中国史上最大の悪王とされているのだ。その暴悪ぶりは司馬遷の史記が伝えている。

元々武王は、紂王に仕える臣下であった。
だから悪王とは言え、理由もなく主君を攻め滅ぼしたままでは武王はただの反乱者、逆賊になってしまう。そこで武王は、紂王の悪逆ぶりを宣伝し、これを討つのは正義であり、天の意思である。我は天に選ばれた者として天命を革めるのだと主張した。

実に素晴らしいコジツケである。
皮肉ではなく、私はこの考えは大した発想だと思う。

しかし、これは事実だろうか。
紂王が悪王とされていることを言っている。司馬遷は史記を書くとき、いささかも疑わなかったのだろうか。

「悪王とされている」と書いたが、この「されている」というのは実にあいまいで、本当にそうだったのか実際にはわからない。むしろ武王の方が暴悪で、紂王は名君だったのかもしれず、懲らしめようとした紂王が逆に殺されてしまったのかもしれない。

しかし歴史は悪王はあくまで紂王であり、武王はやむなく臣下の身でありながら、これを討ったことになっている。今さら証明のしようもないが、武王の主張こそ古代中国における革命の正当化だった。

この革命の正当化を、理論的に支えたのが孟子(紀元前372年ごろ〜紀元前289年)である。
孟子自身は、生涯革命という言葉を使ったことはなかったが、易姓革命は容認していた。いくら帝王の地位にあったとしても、悪逆の者にはその資格が失われている。したがってこれを討つのは反逆ではないと言うのだ。

孟子は彼の性善説から、帝王の天命の有無を判断するのは民衆であるとした。革命を起こすのは常に民衆だからだ。この場合民衆というのは広い意味でのことで、帝王とその一族以外という意味に使われた。

一方、孟子とは反対の立場に立つ荀子(紀元前313年〜紀元前238年)は、性悪説の立場から帝王がまず政治のシステムを作り、愚かな民衆をそこに当てはめなくてはならないとした。孟子の思想は儒教を発展させ、荀子の思想は法治国家の基本となった。

日本にも書物としての孟子は伝わったが、足利義満が孟子を天皇家簒奪の理論にしたかどうかはわからない。また、易姓革命を容認する彼の思想は天皇家の万世一系と矛盾するため、その部分だけは受け入れられることはなかった。

つまり日本には易姓革命を容認する思想がないのだ。

これはどう言うことなのか。
言い換えれば日本には革命を正当化する理論がない、と
言うことになる。

別のいい方をすれば日本に革命が起こらなかったのは、天皇家を滅ぼすのは容易でも、自己の正当性を主張できなかったからではないか?

この部分。
あまり自信はない。
しかし、今の段階(2009年4月)では、私にはそうとしか思えない。

革命の理論がないことが日本の歴史を作ってきた。
それが良かったのかどうかはわからない。
ただ、それが日本という国なのだ、と言うことはできる。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


日本人にできることは、天皇から政治を委任されている権力者(関白とか征夷大将軍)の「悪政」を正すだけであり、この「正す人」が源頼朝だったり足利尊氏だったわけで、これは革命ではなく政権交代にすぎない。

ところで中国でもヨーロッパでも革命を起こす者には、帝王を討つことに良心の呵責はない。
帝王を倒す者も、倒される帝王も、立場が違うというだけで同じ人間なのだから。

しかし日本では違う。
承久の乱(1221年)が起こり、鎌倉を出陣する北条泰時は父の義時に、天皇自ら出陣して来たらどうすべきか質問したが、義時の答えは「天皇に弓は引けぬ。黙って降伏せよ」だった。

天皇にはなぜ弓が引けないのか。

それは、天皇は神 (天照大御神) の子孫とされていたからではないか。
それを信じる人間がどれほどいたかはわからないが、「神の子孫とされている」からこそ、人間の身で弓は引けなかったのではないか。

では、なぜ天皇は神の子孫とされたのか。
それは日本書紀に明記されている。

日本にはヤオロズの神々がいるが、その中での最高神は言うまでもなく天照大御神で、天皇はその子孫とされているからだ。さらに日本書紀には天皇の日本における支配権の根拠が書かれている。

天照大御神が、皇孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を天空にある高天原(タカマガハラ)から地上に降臨させた時、瓊瓊杵尊を激励して言った言葉がそれである。

葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ

(意味)
葦原の千五百秋の瑞穂の国(日本のこと)は、わが子孫が王たるべき国である。皇孫のあなたがいって治めなさい。さあ行きなさい。宝祚の栄えることは、天地と供に窮まりないです。


天地と供に窮まりなく栄えるということから、この一文は「天壌無窮の神勅」と呼ばれ、日本の君主は天照大御神の子孫であることがここに謳われたのだ。瓊瓊杵尊のひ孫が磐余彦(イワレヒコ)。初代天皇とされている神武である。

この神勅はいわゆる日本の建国における理念のようなもので、不文憲法(成文法とは逆で、文章化されていない)でもあった。この理念がはじめて成文化したのが明治時代の大日本帝国憲法であり、その後の皇国史観や国体論の根拠になっている。

余談ながら皇国史観や国体論は、昭和の時代になってから急速に声高らかに叫ばれるようになったが、それは共和制主義者や共産主義者の勢力が増し、また天皇機関説が憲法学説において主流となりつつあったからだった。つまり明治、大正時代にはそれほど強く主張されることはなかったのである。

さてここで不思議なのは、ただの日本書紀という古文書にすぎないこの一文を、なぜ平安時代から江戸時代にかけて権力者達は後生大事に守ってきたのか、と言うことだが、これ以上のことは今の私にはわからない。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


信長ほどの軍事力があれば、天皇や公家を滅ぼすのはなんの造作もないことだった。
しかし朝廷(天皇)は、現実の政治や軍事にタッチしていない。だから足利義昭への弾劾状のように「・・かかる悪天皇である」という弾劾ができないのだ。

これが日本ではなく中国だったら、権力を増大させた臣下は必ず皇帝を滅ぼすか、追放するかしている。また皇帝を自称するのも自由である。だから三国志という状況が現れるのだ。日本では三国志はありえない。

ここで冒頭の文を引用する。

私は、「ああ、そうかもしれませんね」とあいまいに返答したが、実際にはそんな単純なことではないと思ったことがこのコンテンツを書くきっかけになった。


そう。
そんな単純なことではないのである。

天皇家を滅ぼすとしたら、信長はどのように自分を正当化させようとしたのか。
信長はもっと別のことをやろうと思ったのではないか。


B.朝廷側の体制に入り、天皇から政治や軍事を委任される

「朝廷の体制に入る」とは、朝廷から関白とか征夷大将軍の称号をもらい、日本の政治や軍事を委任されることを言う。
一番標準的(?)な方法であり、歴代の権力者達(平氏、源氏、足利氏など)はいずれも朝廷内の組織に組み込まれるのを選び、平清盛は太政大臣に、源氏と足利氏は征夷大将軍となって政治を行った。また信長の死後、豊臣秀吉は関白となり、徳川家康は征夷大将軍となった。

ちなみに秀吉には朝廷を簒奪しようとか、滅ぼそうとする意思はまったくなかった。
それは豊臣という姓からわかる。

この姓は天皇から下賜されたが、これには一種強烈な皮肉が込められている。
その意味するところは、「おまえ(秀吉のこと)は、確かに経済的・軍事的には豊かだ。でも所詮は家臣なんだ」ということではないか。この姓を受け入れた時点で、この姓を名乗った時点で、秀吉は完全に天皇の臣下になったのだ。

朝廷側の体制に入ってできる精一杯のことは、家康がやったことだろう。
家康は死後、「東照大権現」として日光に祀られたことがそれである。

これはある意味では、朝廷への対抗策と言っていい。
なぜなら東照大権現とは、東。つまり関東を照らすと言うことで、関東とは、かつて武士の本場と言われた板東のことに他ならない。
つまり家康は、あらゆる武士。日本中の武士の守護神になろうとしたのだ。

朝廷(天皇)が祀る神は天照大御神だから、家康は天皇に対抗するために、あるいは朝廷と武士を切り離すべく東照と称したのだろう。しかしこれは家康の発想の限界、といえば言い過ぎだろうか。


C.天皇家の一員となって自ら天皇(上皇)に就任する

早い話が足利義満と同じで、天皇家の乗っ取り・簒奪である。
状況証拠を積み上げた結果、信長も天皇家の簒奪をはかったとする人もいる。

逆に否定意見もある。
信長の天皇家簒奪の可能性について、今谷明氏の考えはこうである。
アンダーラインは私が引いた。

天正8年(1580)の段階で、信長が一向一揆平定に天皇の権威を借りたことは旧著に指摘した通りであるが、まずこの段階で信長の簒奪構想は消去される。簒奪を考えている者が、天皇の力を借りて政敵を押さえるなど、義満の例を照らしても有る筈がないのである。(天皇家はなぜ続いたか / 今谷明)


ここで言う一向一揆平定とは本願寺との和議のことだが、信長が天皇や将軍に調停を頼んだのはこればかりではない。
それ以前では、比叡山が中立を捨て、浅井・朝倉連合軍に山を軍事基地として提供したため、信長は近江にくぎ付けになり、身動きの取れない状態になったことがある。この窮地を打開するため、信長は足利義昭に調停を依頼している。

信長は自分が窮地に陥ったのは、義昭の策謀であることを知っていたが、どうやって義昭を説得したのか、ナゾである。義昭にすれば、千載一遇のチャンスを自ら棒にふったことになる。比叡山焼き討ちの前年のことだ。

調停とは、自分にできないことを他人に頼むことで、自分の非力を認めることでもある。
確かにある意味それは、信長の天皇への敗北かもしれない。天皇の権威は、それだけ高まったのだから。

足利義満によって極小にまで抑え込まれた天皇の国政上の権威と権限は、治罰綸旨の復活・実利的官位の出現をへて、不死鳥のようによみがえってきたといえる。

信長のような、一見もっとも凶暴で中世的権威を否定し続けたタイプの軍事政権ですら、そういう天皇の調停権に依存せざるをえないのである(戦国大名と天皇 / 今谷明)


この意見は説得力があるが、しかし、とも思う。
信長は、その後敗北感に打ちひしがれたか?
信長は利用できるものは何でも利用する男だった。世間体だの、男の意地だの、枝葉末節なことにとらわれず、自由に発想していくのが信長の本質の一つだったのではないか?

あるいはこうとも考えられる。
1580年の段階では、本願寺は天皇の調停がなくても信長に敗れるのは時間の問題だった。陸上はもとより、海上も完全に封鎖されていた。本願寺の唯一の頼みの綱ともいえる毛利水軍の援助は、信長の奇想天外な発想で生まれた鉄の軍艦によって阻まれた。
ではなぜ信長は天皇に調停を依頼して、わざわざ自分の権威を下げるようなことをしたのか。

おそらく、信長は、ここで法主の顕如を殺しても、各地の一向一揆は解体しないと読んだものと思われる。仮に顕如を殺せば、逆に沈静化していた一向一揆に火をつける形になり、また、その鎮圧に精力を使わなければならなくなると判断したものと思われる。

むしろ、法主の顕如を生かし、顕如の口から門徒農民に対し、「信長には従順に」といわせるのが得策と考えたのであろう。
このとき、信長が天皇を使ったのは、天皇にすがったのではなく、むしろ天皇を動かすことで、「王法」が「仏法」に優越することを、多くの門徒農民の心に植えつけることがねらいだったのだ
(集中講座 織田信長 / 小和田哲男)


あなたは今谷氏、小和田氏。どちらの意見に賛成しますか?
信長は天皇に敗北したか、あるいは先を読んで天皇を利用しただけなのか。
私の考えは、いうまでもないでしょう。後者です。

さて今谷氏は、信長の天皇家簒奪はありえないとして、続けてこう言う。

現実にも、信長の支配領域は東海と畿内近国に限られ、中国以西と北陸東国は支配圏外であった。従って信長の政治的課題はまず征夷大将軍への就任が当面目標であって、簒奪の構想などその先の話なのである。

武田勝頼を滅ぼして安土に凱旋した信長が、朝廷に対し「将軍又は太政大臣」の推挙を行うようにと提案した事実(「晴豊記」断簡)が、その間の事情を物語っている。(戦国大名と天皇 / 今谷明)


今谷氏は信長は天皇家簒奪ではなく、将軍か太政大臣になりたかったので、推薦してほしいと朝廷に伝えたのだと言う。ここでアンダーラインは、公家の勧修寺晴豊(1544〜1603)の日記、晴豊公記の1582年4月25日と、同年5月4日に書かれている。

日記のこの部分の解釈は数通りあって、別名三職推任問題」と言われ今日でも解決していない。その内容は次のとおりで、実際には将軍又は太政大臣だけではなく、関白も候補になっている。なお村井とは、当時の京都所司代だった村井貞勝(信長の家臣)のことである。


廿五日(中略) 
村井所へ参候。 安土へ女はうしゆ御くたし候て、太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然候よし被申候。 その由申入候。


日記と言うものは第三者に読ませるために書くわけではないから、わかりにくいのは当然だろう。
で、この部分は大きく分けると次の二通りに解釈されている。

その 信長は、太政大臣・関白・将軍のいずれかになることを希望していたので、安土へ女官を(朝廷の使者として)派遣してほしい。村井貞勝の屋敷に行ったら、私(勧修寺晴豊)は、そう言われた。
その2 朝廷は、信長に三職のいずれかの職を与えようとしていたので、安土へ女官(朝廷の使者として)を派遣する予定だ。村井貞勝の屋敷に行って、私(勧修寺晴豊)は、そう申し入れた。

この日記の解釈はいかようにもできるが、少なくとも今谷氏は「その1」の立場に立っておられるのだろう。
私は、これは年々軍事力を強め、朝廷をないがしろにして来ている信長に不安を感じた朝廷が提案した「妥協案」ではないかと思っている。だから私は「その2」の立場です。5月4日の日記についてはここに書く。


D.何らかの方法で天皇を超える権威を身につける

天皇には、権力はなくとも権威はある。
その権威の根拠はたった一つ、天照大御神の子孫ということだけである。

もちろん徹底した現実主義者であった信長は、神の子孫といわれても腹の中ではせせら笑っていただろうが、古代からそうなっているものを無視することはできない。

信長は朝廷を滅ぼすことまでは考えていなかったかもしれない。
それより信長は天皇以上の存在になって、天皇家を逆に自分の支配下に置こうとしたのではないか

では、どうすれば天皇以上の存在になれるのか。
「人間」であっては天皇以上にはなれない。なぜなら天皇は「神の子孫」なのだから。

だったら自分が「神」になればいい。
それもタダの神ではいけない。
神にも序列があるから天照大神以上だと主張できなければならないし、世間の同意も得られない。
天照大神以上の神になれれば、「神の子孫」を超えることができるのだ。

繰り返すが信長は、日本史上最大ともいうべき非妥協的な人間であり、独裁者として日本国内における自己の権力の絶対化を目指した男だった。そんな信長が朝廷という既成の権威に組み込まれることを納得するかどうか。朝廷から太政大臣とか関白とか征夷大将軍の称号をもらって嬉しがるような男かどうか。

これは信長という男の精神分析などという大げさな問題ではない。信長の若いころからの行動を調べれば容易に判断できることではないか。

信長が足利義昭から副将軍就任を求められた時、これを断わったことを考えるべきだろう。
たとえ関白に就任しても征夷大将軍に任命されても、それは深謀遠慮というもので、信長は朝廷という既存組織の体制に組み込まれることを望むような男ではない。

簒奪とは乗っ取りである。
ある投資家が、ターゲットにした企業の株の過半数を買い占め、その企業を自分のものにするようなものだ。その企業の大株主となって、自らその企業の代表者に就任したとしても、それも広い意味での「組織に組みこまれる」ことではないか?

信長はそんなことを考えるような男だったか。 
信長が考えたのは、その企業以上の企業を別に設立し、「その企業」を圧倒することではなかったか?

信長は、神になって天皇を圧倒しようと考えたのではないか?
生身の人間が神になるのは決して不可能なことではない。

現に本願寺の顕如は、信徒から生き仏のように崇められているではないか。
現代でも新興宗教の教祖は信者から生き神様、生き仏様として尊崇されているではないか。
カトリックなどでは預言者のイエスを神とみなしているではないか。
そして、神になる手はじめとして、信長は「第六天魔王」を称したのではないか。


≪第六天魔王≫

イエズス会の宣教師で「日本史」の著者ルイス・フロイス(1532〜1597)は、同僚のフランシスコ・カブラル(1530〜1609)に宛てた手紙の中で、信長は第六天魔王信長を称したと書いている。

信長が比叡山を焼き討ちした後、武田信玄は抗議の書状を信長に送った。この書状の中で信玄は、自分のことを「天台座主信玄」と言い、一方信長は自分のことを「第六天魔王信長」と書いて返書とした。

天台座主(てんだいざす)とは、天台宗総本山である比叡山延暦寺の最高位の住職を指す。
むろん、信玄は天台座主になったことはないが、仏教の保護者という意味で書いたのだろう。

これに対して第六天魔王とは、仏教の敵。仏教にとっての大魔王なのである。
それを知ってる信長が信玄をからかったのかもしれない。
信玄よ、おまえが仏教の保護者なら、おれは第六天魔王だ。わっはっは・・・という具合である。
では第六天魔王とは何か、なぜ仏教の敵なのか、ちょっと説明を要する。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


仏教の世界観では、世界は次のようになっている。
風輪、水輪や須弥山など、それぞれ気が遠くなるほどの長さや高さだが、この画像は略図だから比率は適当である。


横からみた世界

上から見た金輪

(注意)
1.天には多聞天、大黒天のように特定の神の名前もあるが、神々が住む世界も天という
2.帝釈天のように、複数の神々を率いる神を天王という


仏教の世界観では、虚空に風輪というものがあって、その上に水輪、さらにその上に金輪(こんりん)というものがある。
金輪は周囲を鉄囲山(てっちせん)という山に囲まれた盆地のようなもので、中は一面の海である。四方に島があり人間が住むのは南にある贍部洲(せんぶしゅう)と言う。

金輪の中央には、九つの山と八つの海に囲まれた須弥山(しゅみせん)という山がそびえている。お寺の本堂で、仏像を安置する一段高い壇を須弥壇というのはここからきている。

須弥山は、また妙高山とも言う。
新潟県にある妙高山は、ここから名づけられている。

仏教でいう六道(天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界)は、下は金輪から、上は須弥山のはるか上空にある。人間界から餓鬼界までは金輪の表面にあり、八つの階層に分かれた地獄界は金輪の地下にある。

地獄の最下層を無間地獄(むけんじごく)と言い、金輪はこれが一番下でその下は水輪になる。
金輪と水輪の境界線を金輪際こんりんざい)と言い、金輪際こんなことをするものか・・・という強い意志を持って否定する意味に使われている。

天界は須弥山の頂のあたりからはじまるが、何段階もの階層に分かれている。
最初は四大王衆天(しだいおうしゅてん)で、ここの四方を守る神が四天王である。
四天王とは東は持国天(じこくてん)、西は広目天(こうもくてん)、南は増長天(ぞうちょうてん)、北は多聞天(たもんてん)と言う。
ちなみに多聞天の別名が毘沙門天(びしもんてん)である。

四大王衆天は天界の最下部で、下天(げてん)とも言う。
ここでは1日が人間界の50年に相当する。信長が好んだ敦盛の一節・・・人生五十年下天のうちにくらぶれば・・・の下天である。
四大王衆天のすぐ上は忉利天(とうりてん)と言い、三十三の神々がいる。その中の最高位は帝釈天(たいしゃくてん)である。

ここまでは須弥山という地面にあるので、地居天(じごてん・・・地面にある天)と言う。
それから上は須弥山の上空になるので、空居天(くうごてん)と言う。

空居天の最初は夜摩天(やまてん)。閻魔(えんま)がいる。
その上は兜率天(とそつてん)。弥勒菩薩(みろくほざつ)がいる。
その上は楽変化天(
らくへんげてん)。

楽変化天の上。
つまり下天から第六番目の天が他化自在天(たけじざいてん)で、
波旬(はじゅん)が住むと言う。この波旬が第六天魔王なのだ。

ついでだからもう少し説明すると、天界は非想非非想処(ひそうひひそうしょ)で終わる。
ここが天界の最上部で、ここを
有頂天と言う。それより上はない。それから先は別の世界、浄土である。

風輪から有頂天までを小世界と言い、1000個の小世界で小千世界。1000個の小千世界で中千世界。1000個の中千世界で大千世界、別名三千世界と言う。高杉晋作が好んだ謡・・♪三千世界の烏を殺し ぬしと朝寝がしてみたい・・・の三千世界である。

さて、他化自在天のことである。
この天では望むことは何でも叶うし、波旬は他人が楽しむこと、他人を楽しませることを自分自身の楽しみにしているのだ。他人とは他化自在天のすぐ下にある楽変化天から地獄界に至るあらゆる神と人間のことである。

人の楽しみを自分の楽しみとする。
まるで人助けをしているような、そんな波旬がなぜ魔王なのか。

仏教の目的は、苦しみから逃れるため解脱することにある。
解脱すれば住む所は浄土だから、この世界とはまったく別の世界と言うことになる。(上の図で描き表した世界(小世界)は、天界であっても、まだ解脱できていない人が住む世界である)

解脱するには長い期間、厳しい修行を積まなければならない。
ちなみに弥勒は、56億7千万年の修行を経てようやく解脱し、菩薩から如来になると言う。

いかに修行を積んだとしても、たとえば人間界から一気に浄土に行けるわけではない。物事にはステップというものがあるのだ。他化自在天から地獄界までを欲界というが、修行の成果に応じて、欲界を抜け出た後は、有頂天に至るまで、階段を上がるように一つづつ昇っていくのである。

欲界の上は色界、その上は無色界と言い、合わせて三界と言う。
三界に家なし、と昔の女性の不安定な立場を意味した、あの三界のことである。

繰り返して書くが、波旬の楽しみは他人が楽しむこと、他人を楽しませることである。
欲界にいる人が、誰もが修行をして少しづつ悟りを開いて欲界を出てしまえば、ここは無人になってしまい、波旬の楽しみがなくなってしまう。

そのため波旬は、人の修行の邪魔をするために現れる。
ゴータマ・シッタルダ(お釈迦様)は、様々な妨害や誘惑に打ち勝ち悟りを開いたが、妨害や誘惑したのが波旬だった。

だから波旬は、仏教にとって魔王なのだ。

波旬が人に与える喜びとはなんなのか。
波旬は梵語(サンスクリット語)でマーラといい、漢字で魔羅と書く。

早い話が男性性器のことで、色欲は修行の邪魔、煩悩のモトということで修行僧が使った隠語である。
つまり波旬が人に与える喜びとは色欲、愛欲なのだ。

波旬には愛染明王(あいぜんみょうおう)という別名がある。
日本では、
愛染明王の功徳は色欲・愛欲を仏教修行のための向上心に転換させるとしている。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


第六天魔王は、日本の支配をめぐって天照大御神と一種の契約をしたと言う。
Wikipediaではこう書かれている。

 第六天魔王と天照大神

「沙石集」(鎌倉時代に作られた仏教説話集)には、伊勢神宮の神職に聞いた話として、次のような記述がある。

天照大神が日本国土を創生した際、海中に大日如来の印文があるのを見て鉾で海底を探り、その鉾から滴が滴り落ちた。その様を見た第六天魔王は「この滴が国となって、仏法流布し、人倫生死を出づべき相がある」として、この国を滅ぼそうとした。

天照大神は、これに対し「我は三宝の名を言わないし、自らにも近づけないから帰り給え」と言い追い返した。この約束を守るため、伊勢神宮では僧を近づけず、仏教用語は隠語にしているが、実は内心では深く三宝を守っている。

また、同種の神話は「平家物語」、「太平記」などにもあり、この約束の証拠に第六天魔王から貰ったのが神璽であるとする。(中世においては八尺瓊勾玉は印であるとされていた)なお、「通海参詣記」では約束をしたのは諾冉二尊という。

このため一時期の関東では、天照大神は「虚言ヲ仰ラルゝ神」であるとして、起請文などの誓いの対象から外されるといった現象が起こったという指摘がある


三宝とは仏法僧のことで、仏教で最も重要なものになる。
日本に仏教が広まりそうだから第六天魔王が滅ぼそうとしたら、天照大御神が現れて 「私も仏教は信じないし、この国に近づけないから、あなたは帰ってほしい」 と止めたと言う。

第六天魔王はそれを信じて天界に帰ったが、いつしか日本には仏教が広まり、天照大御神の子孫(天皇)も深く信じるというありさまで、腹を立てた第六天魔王は、再び日本を支配すべくやって来たらしい。

これを拡大解釈すると、元々日本は第六天魔王の支配下にあったが、天照大御神(とその子孫)に支配権を譲ったとも考えられる。
とすれば、第六天魔王は日本の支配権を取り戻すべく、織田信長としてやって来た・・・と言うことか。

信長は少年時代、「うつけ(バカ)殿」と呼ばれていたが、要するに不良少年だった。
世間の習慣どおり行動することや、礼儀作法を身につけることなど大嫌いで、何でも自分の思い通りにしてきた男である。憶測にすぎないが、そんな信長だからこそ、けっこう第六天魔王という呼び方が気に入っていたのではないか?

信長は類まれな強運、幸運の持ち主だった。
古くは今川義元を桶狭間に倒し、浅井・朝倉連合軍を破り、比叡山・本願寺を下した。武田信玄は上洛寸前で病死し、上杉謙信には負けたものの、肝心の謙信は翌年死んだ。

至近距離から狙撃されたにも関わらず、間一髪で助かったこともあった。細かいことを上げれば数え切れぬほど、死の瀬戸際に追い詰められてきた信長だったが、その都度死力をふりしぼって死の淵から這い上がってきたのである。

おれは運がいい・・一度でもそう思わなかったらウソであろう。
信長の、この思いは、次第に飛躍していったのではないか。
おれは神に選ばれた人間だ。

ならば第六天魔王か、いや、おれはそれ以上の神なのだ、と。

やがて信長は、その思いを天下に発表した。
言葉ではなく、誰もが目で見えるカタチで。

それは安土城と呼ばれる。


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