信長、神への道 6
■安土城
安土城は本能寺の変の後、ほどなくして兵火にあって焼失したためその外観は内藤昌氏、宮上茂隆氏等、多くの学者達の研究による復元図で想像するしかない。
安土城天主(内藤昌氏)断面(ヘタな絵ですんません 汗)
上の復元図は内藤昌氏によるものだが、NHK大河ドラマで採用されたため、これが一番有名だろう。
私もはじめて見た安土城がこれである。名古屋城、松本城、大阪城・・・全国各地に城跡は多いが、戦国時代以前のものを含めれば、その数は膨大なものになろう。
多くの場合、○○城と言えば安土桃山から江戸時代にかけてのもので、その本丸にそびえる天守閣がよく知られているし、観光地化しているものが多い。あやふやな記憶で申し訳ないが、日本で最初に作られた天守閣は安土城のそれだったと思う。これに対して戦国時代以前の城跡のほとんどは、堀や土塁跡が残っている程度で、案内板に復元図でもない限り、往時をイメージするのは難しい。
天守閣は言うまでもなくその城のシンボルで、城主の居住空間であり、平時は政庁、有事には司令塔になる。
しかし実際には、城主が天守閣に住んだのは、この安土城とか秀吉の大阪城ぐらいで、江戸時代になると別の館で住みつつ政治をしたため、天守閣は応接室程度にしか使われていなかった。このためほとんど無用の長物と化し、物置のようなものになっていたらしい。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
安土城は信長の政治上、宗教上の理想を具現化したものとよく言われている。
私もそう思う。
では安土城のどこがそうなのか。まずここの名称である。
信長は、この安土城の中心部。地下一階、地上六階の建造物を天主と命名した。
天守ではない。天主である。では天主とはなにか。
天主(てんしゅ)は、当時のキリスト教の神を意味するデウス(ラテン語)がなまったものとされているが、信長が自分の城をデウスの宮殿と考えるはずがない。多くの宗教では、神は天にいると考える。
キリスト教では、天にまします我らの父よ、と言う。
天照大御神は、天にある高天が原にいる。
極楽浄土は西方十万億土の彼方にあると言う。
もっとも、この「土」という単位がキロメートルに換算すると、どれほどなのかは、私は知らない(笑)天命、天子(皇帝、天皇の別の呼び方)、天運、天下、天恵、天啓、天職、天与の才、天罰、天誅、天神様・・・。
天を使う言葉も多い。天主の天とは、キリスト教だけではなく、あらゆる宗教における、あらゆる神を意味するのではないか。
天主、つまり天の主(あるじ)とは、あらゆる神々の上に立つ者を意味するのではないか。安土城の主は、もちろん信長である。
つまり信長は、ここ(安土城の天主)に住む者こそ、あらゆる宗教のあらゆる神を随える者であると主張しているのだろう。後世、城を造った大名は、城のシンボルとなる建物を天守と呼んだ。天主と言ったのは信長だけである。
信長以降の大名達は、ある種のおそれから天主と呼ぶのをためらったのかもしれない。城のシンボルとなる建物を天主と呼んだのは信長だけである。
信長以降、城を造った大名達は天守と呼んだ。彼等は宗教上のある種のおそれから、天主と呼ぶのをためらったのかもしれない。
各階の紹介
地下
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地階の周辺は土蔵で中央には宝塔が置かれ、その上から四階まで断面が約8m×12mの吹き抜けがあったと言う。
この宝塔と吹き抜けについては、五階のところでもう少し詳しく書く。
一階![]()
一階は不等辺八角形の台地に合わせたような形になっている。 吹き抜けの周囲は座敷で、東に家臣控え室、北には倉がある。
信長は、ここの南側座敷に盆石という石を置いて自分の代わりとしたと言う。
二階![]()
二階は、東西21m×南北25mの長方形である。
図の赤い枠は舞台らしい。
信長は西洋人のオペラを見たようだが、ここがそのステージだったか?
三階
三階は、いわば信長用の居間だったらしい。東西16m×南北23m。
東北には金の茶室があった。この黄金の茶室に描かれた絵は、次のようなものである。
東 桐と鳳凰 許由耳を洗う図 西 岩と木の絵図 龍虎争闘図 南 松、竹
許由(きょゆう)は、古代中国の伝説上の人で、帝王だった堯(ぎょう)が自分を後継者と考えていると聞いて逃げ出した男である。簡単ではあるがここを参考にしていただきたい。さて堯を天皇、許由を信長に置き換えたらどうなるか。
天皇が自分から信長を後継者に指名するなどまず考えられないが、仮にそうなった場合でも、信長(つまり許由)はそんな話、つまり天皇家の体制に組み込まれることなどお断りする、と暗に仄めかしているのではないか?
四階![]()
五階外から見て特徴的なのが八角形の5階である。ここには釈迦をはじめとする、仏教の世界が描かれている。
柱 双龍(上り龍、下り龍)争珠図 外陣 阿鼻地獄図 内陣 釈迦説法図 降魔成道図
●八角形
私がはじめて安土城天主を見たとき、安土城以降に建てられた各地の城郭の天守閣に比べて、非常に奇異な印象を受けたのを覚えている。何が奇異なのか、おそらく多くの人がそう思っていると想像するが、5階の八角形の外観なのだ。この外観に、法隆寺夢殿を連想するのは私だけではあるまい。信長は、安土築城にあたって八という数字にこだわっている。
しかも建物の外観だけではない。
そもそも天主が建てられた土地の形が不等辺ながら八角形であり、そのすぐ上の一階もそうなのだ。
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法隆寺夢殿
これは一階の平面図である。
石垣に囲まれた一階の土地は、二辺(青と赤の辺)がほぼ平行で、一階の建物は、この変則的な八角形の土地をほぼ完全に利用した間取りになっている。五階のテーマは仏教であり、ここは仏堂なのだ。
仏堂は、本来なら円形に造るべきものである。たとえば釈迦は死後荼毘に付され、遺骨(仏舎利)は半球状の塔に納められた。この塔をサンクスリット語でストーパといい、日本語にもなっている。卒塔婆のことである。(卒塔婆は板だが)
できることなら信長は、この階を、5階以下の建物も円形にしたかったのではないか。
しかし木造建築では円形の建物を立てるのは困難なことから、なるべく円に近くなるように八角形で造ることが多い。法隆寺の夢殿がそれである。
●吹き抜け五階は仏教の世界を描いている。ここで釈迦の絵を描いたのは、信長は一応法華宗に属しているからだろう。
一応と書いたのは、もちろん信長は法華宗など信じてはいなかったからである。ここに阿弥陀如来を描くはずがない。
なぜなら信長にとって長年の敵だった本願寺の本尊が阿弥陀如来なのだから(法華宗の本尊はお釈迦様)。さて、ここに飾られた絵に「釈迦説法図」というのがあった。
釈迦が法華経を説法していたとき、地中から多宝塔が出現し、中にいた多宝如来が釈迦を褒め称え、座を譲ったとされている。
釈迦の説法を聞いていた人達は不思議がり、なにゆえに宝塔が出現したのか釈迦に質問した。釈迦の説明では、多宝如来ははるか昔の人で、もし真実の法華経を説く人が現れたなら、その正しさを証明し、称えるために現れると誓願した。今、私(釈迦のこと)が真実の説法をしたから多宝如来が現れたのだ、と答えたと言う。
ここで地下一階には何が置かれているか、前に戻って読み直していただきたい。
そこには宝塔が置かれているのだ。
釈迦が真実の法華経を説いたとき、宝塔が地下から出現するのである。
地下に置かれた宝塔
(信長の館より)
それならば、地上(一階より上)はその出現を妨げてはならない。
だから吹き抜けがあったのだ。
吹き抜けの存在を疑問視している史家も多いが、私は以上の理由で吹き抜けはあったと思う。
六階![]()
六階は、6m四方の平面である。
一転して古代中国の帝王や聖人が描かれている。
東南 伏義・神農図 三皇五帝のうちの二人 孔子図 南西 黄帝図 三皇五帝の一人 老子図 北西 文王図 周王朝の創始者武王の父 太公望図 文王と武王に仕えた名臣 東北 周公旦髪を洗う図 武王の弟で、武王亡き後の周を支えた 孔子十哲図 孔子の高弟 天井 天人影向図
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最上階である。
古代中国の伝説上の帝王である三皇五帝のなかから伏義、神農、黄帝をはじめ、古聖賢が並んでいる。
これらの画題は、いくつもの候補の中から最終的には信長が決定したことだろう。おそらく信長には古聖賢の知識などなかっただろうから、彼の左右のブレーンの説明を聞いたことだろう。では選択の基準は何なのか。
三皇五帝の8人のうち、描かれているのは3人である。孔子が理想として、我間然とせず(欠点がない)、とまで絶賛した禹(う)は描かれていないし、その代わり十哲(孔子の高弟)になっている。
文王と太公望が描かれているのはなぜか。
文王は武王の父で、かねてより賢人の名の高かった太公望を召抱えようとしていた。太公望は本名を呂尚(ろしょう)と言い、川辺で釣りをしている時文王とめぐり合い、仕えることになったのである。呂尚を迎えた文王は、私の父親も貴方のような賢人を求めていたが果たせなかった。私の代になって願いがかなった。こんな嬉しいことはない、と呂尚に語ったと言う。
中国では父親のことを大公と言う。
文王の父親(大公)が待ち望んだと言うことで、その後、呂尚は太公望というニックネームで呼ばれるようになる。呂尚は釣りが好きだったので、釣り好きの人を太公望と言うのはこの故事からきている。武王は、周王朝が成立するとまもなく死んだので、その後の周を支えたのは武王の弟の旦(周公旦)だった。
旦は賢人を求めるあまり、来訪者があると食事中なら食べかけのものを吐き出し、洗髪中なら濡れた髪を手で握って水を落しながら客に会ったという。吐哺握髪(とほあくはつ)の故事で知られる。絵の基準は何なのか、よくわからない。
しかしこの階で一番重要なのは、天人影向図ではないか?
影向(ようごう)とは、神仏が仮の姿で現れることを言う。
春日大明神が降臨したと伝えられる影向の松
(春日大社ホームページより)
仮の姿で現れた天人とはだれか?
織田信長、その人ではないか?
古聖賢達は、神として降臨した信長を祝福していると言う。
もし信長が釈迦をも超越しているのなら、宝塔も地下から出現して信長をたたえているのではないか。信長は、あらゆる宗教を超越すべく、その思いを安土城に託したのではないか。
安土城とは、信長の思想を演出するテーマ・パークだった。
信長はここで自らの神格を宣言をしたのだ。◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
この天主を見たルイス・フロイスは、彼の「日本史」でこう書いている。かくて彼(信長のこと)はもはや、自らを日本の絶対君主と称し、諸国でそのように処遇されるだけに満足せず、全身に燃え上がったこの悪魔的傲慢さから、突如としてナブコドノゾール(*)の無謀さと不遜に出ることを決め、自らが単に地上の死すべき人間としてでなく、あたかも神的生命を有し、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望した。
(*)ナブコドノゾールは紀元前12世紀のバビロニア王。旧約聖書によれば暴政をしき、ユダヤ人たちを迫害したため神の怒りにふれたという。
さらに信長は安土城の一郭に總見寺という寺を建立し、盆山(ぼんさん)という石を御神体として置き、信長の誕生日には人々参詣させ拝むよう命令したという。信長は、自分を神として信心することによって得られるご利益(りやく)を次のように具体的に言っている。そしてこの冒涜的な欲望を実現すべく、自邸に近く城(安土城のこと)から離れた円い山の上に一寺を建立することを命じ、そこに毒々しい野望的意志を書いて掲げたが、それを日本語から我らの言語に翻訳すれば次のとおりである。
「偉大なる当日本の諸国のはるか彼方から眺めただけで、見る者に喜悦と満足を与えるこの安土の城に、全日本の君主たる信長はハ見寺(そうけんじ)と称する当寺院を建立した。
当寺を拝し、これに大いなる信心と尊敬を寄せる者に授けられる功徳と利益は以下のようである。
第一に、富者にして当所に礼拝に来るならば、いよいよその富を増し、貧しき者、身分低きもの、賤しき者が当所に礼拝に来るならば、当持院に詣でた功徳によって、同じく富裕の身となるであろう。しこうして子孫を増すための子女なり相続者を有せぬ者は、ただちに子孫と長寿に恵まれ、大いなる平和と繁栄を得るであろう。
第二に、八十歳まで長生きし、疾病はたちまち癒え、その希望はかなえられ、健康と平安を得るであろう。
第三に、予が誕生日を聖日とし、当寺へ参詣することを命ずる。
第四に、以上のすべてを信ずる者には、確実に疑いなく、約束したことがかならず実現するであろう。しこうしてこれらのことを信ぜぬ邪悪の徒は、現世においても来世においても滅亡するに至るであろう。ゆえに万人は、大いなる崇拝と尊敬をつねづねこれに捧げることが必要である。(ルイス・フロイス 日本史)
信長がご利益を具体的に言うのは当然で、彼は第六天魔王として仏教の敵を自称した。
一向宗の宗徒が「進めば極楽、引けば地獄」と念じて戦ったように、仏教とは簡単に言えば、死んでから浄土に往(い)って生まれ変わるのを願うのである。浄土に往って生まれ変わるから往生と言う。もし信長が死後の世界を利益としたら、仏教と同じことになる。
そんなことをするはずがない。第六天魔王が与えるものは色欲だから現世利益である。
信長は、仏教ではあの世だの、来世だの言うが、目に見えないではないか、と思ったことだろう。
そんな信長が与える利益は、現世利益以外にはない。ところで歴史の専門家は、フロイスのこの記述をあまり信頼していない。彼の書簡に書かれた第六天魔王のことも信憑性を疑っている。なぜかといえば、信長の公式記録「信長公記」をはじめとする、日本側の史料に書かれていないという理由からだ。
確かにフロイスには、キリスト教の宣教師らしい異教徒への誤解や偏見、差別がある。彼は日本の仏教・神道を悪魔の宗教とし、僧侶や神主をその手先、巫女は女妖術師と断じているし、けっこう感情的なところもある。
そんなフロイスにとって、こうした信長の一連の行為はまさに悪魔の所業と映ったことだろう。しかし信長が信玄宛の書状に第六天魔王と書いたと言うのは偏見や感情からではなく、事実だったからではないか。
手紙を書くにあたって、雨が降っているとか、暑い寒いと書くのは事実であって偏見や感情ではない。それと同じことでフロイスは手紙に嘘を書く必要はないし、第六天魔王という特殊な言葉を間違って書くとも思えない。
こうした信長の「神格宣言」が日本側史料に記載されていない理由について、小和田哲男氏は次のように説明している。
私は、信長の神格化の動きはあったのではないかとみている。あまりにも常軌を逸したことが多く、日本側記録者たちは、信長の「名誉」を守るために、あえて、信長が神になろうとしたあたりについて、筆を折ってしまったのではなかろうか。この点は、太田牛一の「信長公記」に顕著だからである。
「信長公記」は、信長の伝記としてすぐれたものであり、史料としての信憑性も高く、史料価値は他の信長関係史料にくらべはるかに高い。しかし信長の汚点になるようなことが記述から削除されていることも事実である。(集中講義 織田信長 / 小和田哲男)
小和田氏は、続けて信長公記には上杉謙信に大敗した手取川の戦(1577年)や、安土城普請で大石を運搬するとき、石が横すべりして150人が圧死した事件などは記載されていないと書いている。確かに当時の人にとって、人間の身でありながら神(第六天魔王も)を主張するなど、それこそ天をもおそれぬ所業だったろうし、主君(信長)の汚点になると考えたのかもしれない。