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ハレとケとケガレ


人は誰であれ、生きていれば何回かは親族の死に立会い、あるいはまた、他の誰かの葬儀に参列することになりますね。自分の親族の葬儀なら、喪主は葬儀の後に飲食会を開きます。いわゆる『お清め』です。
親族以外の葬儀では、参列者は受付で『会葬御礼』というものを手渡されますが、その中には喪主の挨拶文と一緒に、塩の入った小袋が入っています。小袋には『お清め塩』と書いてあり、帰った時に家の門とか玄関前でそれを自分にふりかけます。
これは私の近隣地域のことを書いてます。地域が違えばやり方も違ってくるでしょうが、お清めの飲食とか、お清め塩というものは日本中、どの地域にもあるんじゃないでしょうか?

お清め(お清め塩)がいつごろから行われるようになったのかはわかりませんが、これをお清めということは、逆に葬儀はお清めの正反対にあると言えるでしょう。と言うことは、葬儀は清らかなことではない、ということになります。
なぜかと言えば、葬儀を執り行なう、あるいは葬儀に参列することによって、目に見えないが極めて抽象的なものが身についてしまうので、その『身についたもの』を取り除く行為をしなければならない、ということです。それがお清めです。

では一体何が身についてしまうのか。
それは『ケガレ』と言われます。

お清めとは清らかにすることであり、ケガレとはその対極にあって不浄とされるものです。
抽象的であり精神的な感覚上のものですから、どんな科学技術の最先端を行く精密な分析装置であってもこれを検出測定することはできません。洗濯なら衣服についた汚れを、入浴なら汗や埃を洗い流すという具合に、洗い流す対象ははっきりしていますし、その効果も実感できるのですが、ケガレとはあくまでイメージなのです。

我々の祖先は葬儀、いや、人の死をケガレとしてとらえていたし、それに接するとケガレが身に付くと考えました。
ではケガレの反対語、つまり清浄な状態を一言で表す言葉があるのか、と言えばあるのです。
それを『ハレ』といいます。
晴れ姿、晴れ着、晴れ舞台、晴れの日(入学式、卒業式、結婚式などの日)・・・ハレとはこのようなことをいいます。

ハレもケガレも特別なことであって、日常のことではありません。
日常のことは『ケ』といいますが、結論から先にいいますと、ケとは食事に関係するものなのです。普通の国語辞典には載っていないかもしれませんが、大辞泉(小学館)にはこのように載っています。

『ケ』と発音するもの

作物。特に稲の穂の実り
食物、食事
食物を盛る器
正式でないこと。また日常的なこと

熟語になりますが、こういうのもあります。

褻着(ケギ) 平生着る着物、普段着
褻稲(ケシネ) 農家の自家食用の穀物。・・・・『け・いね』が変化したんでしょう。
毛付け(ケヅケ) 田畑に稲・麦などの作付けをすること。年貢を決めるため作物の出来具合を認定すること。
間水(ケンズイ) 一日二食だった時代に、朝食と夕食の間にとる間食のこと

一毛作、二毛作、朝餉(あさげ)・夕餉(ゆうげ)と言うのはおなじみかと思いますし、ケ時(ケどき・・・食事時のこと)、ケツケまいり(田植えが済んだことを神に報告し、豊作を祈願すこと)という言葉もあるようです。

こうなると褻着は別として、ケとは食物、中でも米や稲に関係する言葉のようです。ということは、ケという言葉(概念)は稲作文化とともに日本に伝わったか、あるいは伝わった後で日本独自に変化したものといえそうです。

ではケガレとはどういう状態を指すのか。
一説によればケガレはケ・枯れということのようです。ケが枯れるとは、食物が枯れることであり、転じて日常性が破られることを意味します。

破られたのなら、それを何とかして元に戻さなくてはなりません。
それがハレなのです。

もう少し具体的に書きましょう。

稲は夏に田植えをして秋には刈り取ります。
刈り取るということは、田は枯れた状態と同じです。これがケガレです。稲を刈り取った後に行われるのは豊穣祭です。五穀豊穣を神様に感謝するお祭りです。このお祭りがハレなのです。結婚も入学・卒業も日常のことではありません。それを日常に軌道修正(?)するのが結婚式であり、入学式、卒業式ということになります。その日に着る服は、もちろん晴れ着です。

このようにケガレは四季の移り変わりで自然に発生するものですが、人為的に発生するものもあります。それが罪(つみ)で、古代(神話時代)考えられた罪は天津罪(あまつつみ)と国津罪(くにつつみ)です。

●天津罪

畔放(あなはち) 田の畔を壊すこと
溝埋(みぞうめ) 田に水を引く溝を埋めること
樋放(ひはなち) 田に水を引く樋を壊すこと
頻播(しきまき) 他の田畑で作物の生長を妨げること
串刺(くしさし) 他人の田畑に杭を立てて、収穫物を自分の物だと主張すること
生剥(いきはぎ) 生きている馬の皮を剥ぐこと
逆剥(さかはぎ)  馬の皮を尻の方から剥ぐこと
屎戸(くそへ) 祭場を糞尿などの汚物で汚すこと

●国津罪

生膚断(いきはだたち) 人に傷をつけること
死膚断(しにはだたち) 人を殺すこと
白人(しろひと) 肌の色が白くなる病気
胡久美(こくみ) 瘤ができること
おのが母犯せる罪 近親相姦
おのが子犯す罪 近親相姦
母と子と犯せる罪 他人の女とその娘を犯すこと
子と母と犯せる罪 他人の女とその母を犯すこと
畜犯せる罪 獣姦
昆虫の災 昆虫やムカデ、蛇などによる災難
高津神の災 雷など天災地変による災難
高津鳥の災 空を飛ぶ鳥による災難
畜仆し(けものたおし) 家畜を呪い殺すこと
蠱物(まじもの) 他人を呪い殺すこと

これを書きながら、つみ(罪)の語源は何なのだろう、と思っています。『つみ』という言葉はケを摘む、摘み取ることから発生しているのかもしれない、と。はてさて、どんなもんでしょう・・・??

天津罪は、高天原で乱暴狼藉をはたらき追放されたスサノオノミコトの罪で、これは農業、あるいは祭祀への妨害行為になります。農業の妨害ということから天津罪(あまつつみ)は、元々は雨堤(あめつつみ)だと唱える学者もいます。

これに対し国津罪は近親相姦のタブーや、自然現象としか思えないようなものもあります。近親相姦がタブーなのは、それを続けると一族の滅亡につながるからで、これは古今東西を問わずどこの世界でも共通のものです。また昆虫や鳥の害を罪というのは、古代にあっては災害は自然現象という考えがなかったことによります。

天津罪に生剥というのがあります。動物の皮(毛皮)を剥ぐとは、そこに生えている毛が枯れることです。つまりこれもケガレの一つなのです。ここから転じてケガレとは、人や動物の死を意味するのです。ですから死、葬儀はケガレなのです。

こうしたケガレを浄化するハレは定期的に行われるものがあります。たとえば大祓です。
大祓(おおはらえ)は、6月と12月の晦日に行われるもので、犯した罪や穢れを除き去るため行事です。6月の大祓を夏越の祓(なごしのはらえ)、12月のそれを年越の祓(としこしのはらえ)といいます。

また定期的ではなく臨時に、罪が発生した時に行うものもあります。
それが禊(みそぎ)です。

古代人は、罪を物質的なものと考えていた。そして、罪を犯した本人が刑罰を受けたのちもなお、罪に宿る災気は去らず、天地に浮遊し、人びとの生を脅かすと考えていた。だから罪を犯したものに刑法上の制裁を課したあとでも、なお「祓い」という呪術宗教的儀式を必要としたのである。(日本の歴史1 神話から歴史へ / 井上光貞)

禊をするのは、罪に宿る災気を洗い流すためです。もちろん災気はケガレなのです。

 
非日常
(ケガレを浄化させる)
ハレ(清浄)
 
   
(浄化し日常に戻す作用)
   
日常

非日常
(自然に、あるいは『罪』で発生)
ケガレ(不浄)

ハレとケとケガレの関係を書けば上のようになりましょうか。
この中でケとケガレはある程度密接(?)な関係がありますが、ハレはこの二つから離れて上位に属するように思えますがどんなものでしょう。

さてケガレとされるものは前記のように人や動物の死をはじめとして、出産、女性の生理、火災、などがあります。中でも死のケガレ(死穢)は最大のものです。出産や生理に伴う出血は死を連想させるため、ケガレと考えられるようになったのでしょう。

死をケガレとする理由は大体見当がつきます。死体は腐乱し、腐臭を放ち蛆がわきます。
放っておいては周囲の人は耐えられませんし、疫病の原因にもなります。古代の人は疫病は悪霊・怨霊の仕業と考えましたが、それは死のケガレと関係すると経験的に考え、死者を隔離するようにしたのでしょう。隔離する場所はもちろん墓です。
死というケガレに対すハレは葬式であることはいうまでもありません。こうなると葬式の元々の目的は故人を偲ぶことより、ケガレの浄化だったことになります。

古今を問わず死は人間にとって最も忌み嫌うものですから、それに携わる穢多・非人等、動物の皮を剥ぐことを生業とする人々が古代より差別されてきた理由の一つがこれなのです。死を忌み嫌うのは人類共通としても、それをケガレと考える民族は日本人くらいなものでしょう。(穢多も非人も現代では差別用語ですが、歴史上そのような言葉が存在したのは事実ですからあえて使っています。)


では日本人は、いつごろから死をケガレと考えるようになったのでしょう。
ケガレが前記したように稲作文化とともに伝わったとすれば、伝わる以前はそのような考えはなかったことになります。ここで思いつくのが、日本神話にあるイザナギとイザナミ夫婦の話です。この話の詳細を書く必要はないでしょうから、要点だけ書くことにします。

妻のイザナミに死なれたイザナギは嘆き悲しんで、その遺体を出雲と伯耆の国境にある比婆山に埋めた。しかし妻を忘れられないイザナギは、黄泉比良坂を抜けて黄泉国に行き、イザナミに会う。

ところがイザナギは、腐乱した妻の変わり果てた姿に驚き逃げ出してしまう。怒ったイザナミは黄泉国の女と一緒にイザナギを追いかけるが、黄泉比良坂の坂本まで逃げてきたイザナギは、そこに大きな石を置いてそこからイザナミが出られないようにした。

黄泉国(よみのくに) :死者の国のこと。これに対し現世は葦原中津国(あしはらのなかつくに・・日本のこと)
黄泉比良坂(よもつひらさか) 現世と黄泉国を結ぶ坂道
坂本(さかもと) :坂を降りきったところ。つまり黄泉国を下ったところに現世はあることになる

余談ですが、イザナギが置いた石は、いわば結界の証です。
イザナギの場合は、そこよりこちら側は現世だから入ってくるな、という意味ですが、神社などでは神域(清浄域)を指します。
神社では注連縄(しめなわ)が結界の意味になりますし、地方へ行くと道端に道祖神と刻まれた石をしばしば見かけます。道祖神は村のはずれに置かれましたが、これは村に外部からケガレが侵入してくることを防ぐ意味があるのです。

さてこの神話で私が注目するのは、妻に会いたいというイザナギの願いが叶うというところです。死んだイザナミは黄泉国に隔離されますが、黄泉比良坂を登ってそこに行きさえすれば、会えることに変わりはありません。

これは何を意味するのでしょう?
結論からいって、死は生の延長線上にある。生と死は連続性を持つということではないでしょうか?

石柱の左側が黄泉比良坂とされています
(島根県八束郡東出雲町)

私達は、死は生が断絶したものと捉えています。
もう二度と会えないから家族や親しい人の死を悲しむのです。しかし神話の時代には生と死は断絶ではなく、住む世界が違うだけで、連続したものと考えられていたのではないでしょうか?

死が、いつから生の断絶と考えられるようになったのかといえば、それは稲作文化と共に大陸から伝わったのではないでしょうか。
そして仏教の輪廻転生の理論によれば、人は死ねば別のものに生まれ変わるので、その意味では生まれ変わる核(阿頼耶識)になるものには連続性があるかもしれませんが、体は朽ち果てるので死は連続ではなく断絶になる、と考えられるようになったのではないでしょうか?

死が生の延長線上にあるなら、神話時代の人にとって死は恐怖ではなく、ましてケガレでもなんでもなかったのではないでしょうか。
イザナギは大岩を結界として坂本に置くことで、イザナミが追って来られないようにしました。この岩がなければ、彼女は黄泉国(死の国)から葦原中津国(現世)に戻ることができたのです。かつて日本人にとっては生と死の境界線は不明瞭だった、というほかありません。

しかし、だったらなぜ、黄泉国から逃げ帰ったイザナギは川で禊(みそぎ)したのか、といわれるかもしれませんが、屁理屈を承知で言えば、イザナギは妻の腐乱した姿をケガレと考えたのであって、彼女の死んだ姿をケガレとは考えていないと思うのです。
黄泉国から逃げ帰ったイザナギは、ケガレを流すため日向国の阿波岐原というところで禊(みそぎ)をしました。水の中に入るのですが、この最中に次々に神々が生まれます。最後に左目を洗った時に天照大神、右目を洗った時に月読命、そして鼻を洗った時に素戔嗚尊が生まれています。

川の水でケガレを洗い流すという考えは古代中国にもあります。(というか、こういう話が日本にも伝わったのかも)
古代中国で最古の王朝とされるのは殷ですが、伝説によれば殷の前には夏(か)という王朝があり、さらに夏の前には堯(ぎょう)、舜(しゅん)という帝がいたとされます。
この堯ですが、清廉の名の高い隠者の許由(きょゆう)という人に帝位を譲ろうと考え、許由に申し出たら、許由はとんでもない、とばかりに山に隠れてしまいます。堯は帝位がだめなら、高い地位を与えようとしましたが、その話を伝え聞いた許由は「汚らわしい話を聞いた」と、川の水で耳を洗ったといいます。さらにこの話を聞いた川下に住む牛飼いは、その川の水を牛に飲ませなくなったといいます。
やはりケガレというのは目には見えないけれど、体についてしまうんですかね?

私は死が生の断絶として捉えられるようになって、はじめて人は死を恐れるようになったし、ケガレ意識も生まれるようになったと思います。その意味で、稲作文化の伝来から仏教伝来にかけての時代は、日本人の死生観の転換期にあたるのでしょう。

日本では3世紀〜7世紀ごろまでは古墳作りが流行(?)し、天皇や大豪族の陵墓として巨大な墓を作っていました。中でも仁徳天皇陵は、面積でいえば世界最大のお墓です。ピラミッドにしても、始皇帝陵にしても古代は巨大な墓が多かったのは承知のとおりです。
なぜこれほどまでに、現代から見れば無意味なほどの土木工事を行う必要があったのか。エジプトや中国に比べれば、当時の日本の国力は雲泥の差があったのです。その目的は、支配者の権力の誇示だけでしょうか?なぜこんなに無理な工事を行ったのでしょう?

古墳などの陵墓には、死穢を封じ込め、外部に出さないための結界としての機能があったと思われます。死穢の大きさは被埋葬者の身分、権力に比例すると考えられ、身分が高ければ高いほど、また権力が大きければ大きいほど死穢も強力になるので、それを封じ込める陵墓は必然的に巨大化せざるを得なかった・・・単なる想像ですが、私はそんなことを思っています。

天皇が死ぬと喪屋(もや)という特別な建物が建てられ一定の期間、哭泣、供膳、歌舞などの儀式が行われたといいます。そして死後ある程度の期間(数ヶ月以上も)埋葬せずに、そのままにしておきます。これを殯(もがり)といいいます。
殯は遺体を白骨化させることであり、その後埋葬するのですが、この期間は死者の霊がケガレたものから浄化される過程と考えられていたようです。
しかし仏教が広まると、時間をかけて自然に浄化させるより、火の力で浄化させる方法がとられるようになりました。いうまでもなくこれが火葬です。火は清浄なものなのです。

巨大な古墳や、長期間の殯は周囲の人にかなりの経済的、精神的負担を与えます。それを法で禁止したのが大化の薄葬令(646年)で、これは簡単にいえば葬儀の簡素化を指示・通達するものです。経済的負担を減らすと共に殉死、殉葬、副葬などが禁止されています。

これを自ら実践した天皇として53代淳和天皇(786〜840)が知られています。
淳和天皇の遺詔には、『人没して精魂天に還る・・・今宜しく骨を砕き、粉と為し、之を山中に散らせ』とあり、そのとおりに遺骨は散骨されたと伝えられています。もっともこれは淳和が経済的負担を考えたからではなく、淳和霊魂が離れて抜け殻となった自分の遺体や陵墓に鬼がとり憑く、と恐れたからともいわれています。


怨霊とは生が断絶したにもかかわらず、生の断絶を破って生の延長線上に現れるものです。死んだはずの人が現れれば誰でも驚き、恐れるのは当然でしょう。(驚くこと自体、死は生の断絶である何よりの証拠です)
わかりやすくいえば怨霊とは、日本人の死生観における掟破り(?)なのです。だから怨霊は恐れられたのでしょう。

怨霊と死穢には密接な関係があると思います。
怨霊は恨む相手がどこにいようと、追いかけて来てとりつきます。それは歩き回り、走り回り、空中を飛来する攻撃的な死穢なのです。

平安時代には怨霊への恐怖はピークに達しました。天皇をはじめとする宮廷の貴族達が、怨霊を恐れる様子は尋常ではありません。天照大神の子孫を称することを王権の根拠とする天皇は、自らを最も清浄なものと位置づけ(何しろ神の子孫ですから)たため、その対極に位置する死穢に犯されることを極端に恐れるようになったのではないかと想像します。この場合死穢は怨霊と置き換えてもいいでしょう。

古代の天皇は例外なく軍団の総司令官でした。
神話ですが神武天皇はそうでした。壬申の乱を指揮した天武天皇もそうでした。天皇ではないにしろ聖徳太子は朝鮮出兵を計画し、実弟を将軍に任命しています。

日本以外の国では、王を含めて貴族は危険に対しては率先して戦うのですが(だから特権階級として認められている)、日本では天皇が死穢(怨霊)を恐れるようになった時、天皇は軍団の総司令官としての益荒男(ますらお)から、戦えない手弱女(たおやめ)に変わって行ったのです。天皇の臣下である貴族達がそれに影響されたのは当然でした。


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