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信長、神への道 7


 ■信長に晩年はなかった

さて長々書いたが、5.信長の選択肢で Cは天皇家の簒奪であり、Dは神として天皇以上の権威を手に入れることである。私は、信長はこの二つを並行して進めていったと思う。

しかし、物事には順序というものがある。
いかに信長が天才でも、一気に神になって天皇の上位になることはできない。

信長が逆立ちしても天皇家に及ばないのは、たった一つ。長い歴史に裏づけされた天皇家の伝統である。
さすがの信長も、これだけはどうすることもできない。

あるいは信長は、一代で自分の神性を天下に認めさせるのは無理と考えていたかもしれない。
伝統は10年や20年でつくれるものではないからだ。

順序としてはまず正親町天皇に譲位させ、自分の意のままに操れる正親町の第五皇子の誠仁(さねひと)親王を天皇にする。次に「誠仁天皇」から子の邦慶親王に譲位させる。邦慶親王は信長の猶子(*)だから、信長は形式上上皇になる。

これで信長は全国の武士の頂点に立つのと同時に、朝廷内でも頂点にも立てるのだ。
最後の総仕上げとして、自分の神性を確立し、天下に知らしめればいい。朝廷を滅ぼすとすれば、この後であろう。

(*)猶子(ゆうし)とは一種の親子関係だが、養子と違って子の姓は変わらない。親は後見人に近い。


この構想は天正元年(1573年)ころにはできあがっていたようで、信長は正親町天皇に譲位を勧めるようになる。対する正親町は、貴族にしては相当のしたたか者だった。なんのかんのといい逃れして、なかなか了承しないし、拒絶の返事さえした。安土城は、このような状況下で建設されていったのである。

信長も、正親町天皇が簡単に言うことを聞くとは思っていない。
1581年(天正9年)2月28日、信長が正親町を招待して行った軍事パレード(馬揃え)は明らかに天皇への脅しであった。ちなみに山内一豊が、妻の内助で買った馬を披露したのはこの時のことである。

その直後3月9日。正親町天皇から退位の意向が信長に伝えられた。しかし同月下旬には、一転して退位は取り止めになったことが公家の吉田兼見の日記に書かれている。このことを信長は正親町天皇に敗れたとして、今谷氏は次のように書いている。

譲位すら強要できない信長に、天皇の流刑や殺害などが可能であったとはとうてい考えられない。信長の晩年の構想は、あくまで幕府の開設であり、天皇は不可欠の装置である。(天皇家はなぜ続いたか / 今谷明)


さて、どうだろう?
私のような素人が、歴史の専門家である今谷氏を批判するのは大変失礼なことだが、今谷氏は何か勘違いをしておられるのではないか。信長には、晩年はないのである。

あげ足を取るようで恐縮だが、信長の晩年というのは、21世紀の現在から過去を眺めるからわかるのであって、当時の信長自身はもちろんのこと、天下の誰もが1581年の信長が、彼にとって晩年だったと認識していたはずがない。

この点、自分の死後のことを気に病んで醜態をさらした豊臣秀吉の晩年とはまったく違うのだ。信長は本能寺の変の朝まで、まさか自分がこんなに早く死ぬとは、夢にも思わなかったはずである。

本能寺の時点で信長はまだ48歳。彼自身、この先20年やそこらは生きていられると思っていただろう。そもそも信長とは、自分が死ぬことや、残りの寿命を数えるような男だったろうか。

信長には普通言われるように、短気さや性急さもある。
しかし、必要ならじっと辛抱強く、時が来るのを待つこともできる。

長篠で武田軍を破った後、信長は逃げる武田勝頼を追わず本国に引きかえし、7年の間、武田家が内部崩壊するのをじっと待ったことを考えるべきだ。譲位も神性の確立も、じっくりやればいい。天下統一は、もはや時間の問題ではないか。

天正元年に譲位の話を持ちかけてから8年。
馬揃えは、天皇をちょっと脅かしてやるか、という程度のことだったろう。

本能寺の変はその翌年のことである。
しかし、信長にはそんなことはわからない。
この時点を信長の晩年と定義し、それまでの彼の行為から結論付けるのは早計ではなかろうか。
先は長い。じっくり、機が熟すまで待つつもりだったのではないか。

その証拠はある。


  ◆三職推任、その後

ここ1582年(天正10年)4月25日の晴豊日記を紹介したが、これには続きがある。

四日(中略)
のふなかより御らんと申候こしやうもちて、いかやうの御使のよし申候。
関東打はたされ珎重間、将軍ニなさるへきよしと申候へハ、又御らんもつて御書あかる也。


同年5月3日。
朝廷は勧修寺晴豊と女官を安土に派遣した。
彼等は翌4日安土に到着。
信長に面会を求めたが信長は会わず、代わりに小姓の森蘭丸に用件を尋ねさせた。

晴豊は、信長が関東を打ち果たしたので朝廷は将軍に任命する意向があると答えた。
関東を打ち果たすとは、信長が武田家を滅ぼしたことを指している。また将軍とは征夷大将軍のことと思うが、この時点では足利義昭は毛利家に庇護されているとはいえ、将軍職は罷免されてはいない。

6日になってようやく信長は晴豊に会うが、将軍のことも三職推任のことも明快な返答をしない。
やむなく翌日、
晴豊等は京都に戻ったのである。
信長は、将軍任命についてなぜ明快な返答をしなかったのか。

物事を交渉する時、当方の意向を明確に相手に伝えないのも、一つのやり方であろう。
力関係に相当の差があって、弱者が強者に交渉する時。弱者は、強者の意向がわからなければいろいろ憶測し、下出に出るものである。年々権力(軍事力)を増し、さらに譲位まで迫ってくる信長に対して、朝廷は序列としては信長の上位にあるが底知れぬ恐怖を感じていただろう。

武田家は滅び、毛利家も風前のともし火である。このまま天下が統一された時、朝廷はどうなることか。信長が牙をむいてからでは遅い。その前に信長を手なずけなくては・・・。

将軍任命は、朝廷にとって一つの譲歩であった。
それがわからない信長ではない。

信長は信長で、上皇になる手はじめとして、信長は征夷大将軍になるのも悪くないと思ったかもしれない。
そう思ったとしても、当然朝廷側に自分の胸の内は明かさない。これは駆け引きだった。

将軍がだめなら、朝廷は次はどんな譲歩をするか。信長は楽しみだったかもしれない。
そのためには自分の胸の内を明かす必要はない。黙っていれば、朝廷は不安に感じ、また譲歩してくるだろう。

これが本能寺の約1ヵ月前のことである。


  ◆
三島暦

1582年6月1日、勧修寺晴豊は本能寺にいる信長に呼ばれ、今年の12月の後に閏月を入れるよう要求された。
晴豊にとって、暦の件はこれで二度目になる。

当時のこと。
暦は月の運行を基準にする太陰暦だった。

暦には誤差がつきものである。
太陽暦(グレゴリオ暦)でも4年に一度、一日日数を増やして誤差を少なくしている(閏年)。

太陰暦では1年は354日で、太陽暦とは11日の誤差を生じる。
3年で約1ヵ月になるので3年ごとに1ヵ月増やす、つまり1年を13ヵ月にするのである。この追加した月を閏月(うるうづき)といい、たとえば1月と2月の間に追加すれば、それは閏1月(うるういちがつ)と言った。

太陰暦を基本にして、閏月を追加して誤差を少なくした暦を太陰太陽暦という。当時の日本の暦は、中国が唐の時代に作られて859年に伝わってきた宣明暦(せんみょうれき・・京暦)だった。もちろん太陰太陽暦の一種である。

暦の作成は朝廷が独占し、作成方法は陰陽寮によって厳重に秘せられていたが、時代が下るといつの間にか民間へ流布するようになっていた。また応仁の乱以降は、作成を担当していた勘解由小路家が断絶したため、京で作られた暦が地方へ伝わりにくくなり、各地で独自に暦を作るようになっていたのである(民間暦)。

当時、主に東国で用いられていた暦に三島暦というものがあった。
民間暦の一つで、伊豆の河合氏によって作られ、三島大社に奉納したためこの名前がつけられた。

京暦も民間暦も、どちらも基本は同じ太陰太陽暦だから、本来完全に一致すべきものだった。しかし現実には閏月の挿入方法等で微妙な違いが生じ、それが混乱を巻き起こすのである。

ちょっと考えてみてください。
朝廷(京暦)が、○月○月に□□という行事をするから諸大名は参列せよ、という指示を出したとする。
諸大名が使っている民間暦と京暦の○月○月が一致していなかったらどうなるか。

1581年(天正9年)、朝廷は、閏月の設定を1583年の閏1月にする暦を作った。しかし三島暦は1582年の閏12月を設定したことから、2種類の暦が作られてしまったのだ。

困ったのは尾張のカレンダー業者である。
正しい暦は京暦か、三島暦か、どちらを基にカレンダーを作ればいいのか。
業者は安土に出向き、信長に採決を依頼した。

1582年1月、信長は京暦を作る陰陽頭の土御門久脩と暦博士の加茂在昌、尾張の業者を安土に呼び、互いに討論させた。
しかし決着はつかず、翌月になって京都所司代の村井貞勝や、医者で中国古典にも精通している曲直瀬道三(まなせどうさん)を交えて再検討した結果、京暦が正しいとの結論を得て、これを信長に報告している。ここで暦の問題は収まったかにみえた。

ところが京暦では6月1日には日蝕が起きるはずだったが、実際には起きなかった。
不審をおぼえた信長は勧修寺晴豊を呼び、この問題を再度検討するように申し渡したのである。

今さら・・・と困惑した晴豊は、日記に「信長は無理なことを言う」と書いている。ちなみに京暦と三島暦の閏月の違いは小田原・北条氏でも問題になり、詳細に計算した結果、三島暦が正しいとの結論を出している。

勧修寺晴豊を呼んだのは、間違い・不正を嫌った信長が晴豊に考えを伝えるためだけだったのかもしれない。
しかし、たとえそうであっても信長が朝廷に介入したのは間違いなかった。

信長は暦の問題をキッカケにして、朝廷に食い込もうとしたのではないか。
少しづつ天皇の権限を奪おうとしていたのではないか。

これは1582年(天正10年)6月1日のことである。
翌日未明、信長はこの世から消えた。
本能寺の変が起きたのである。


偶然ながら、現在世界中で使われているグレゴリオ暦が作られ、それまでのユリウス暦に代わってローマ教皇・グレゴリウス13世に採用されたのはこの年(1582年)の2月であった。


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