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信長、神への道 3


  ■弾劾状

織田信長は、日本史上最大とも言える独裁者であり、一切の妥協を排除し自分の権力の絶対化を目指した男だった。そんな信長にとって、自分以上の権威や権力の存在ほど目ざわりで不愉快なことはなかったに違いない。しかし、いかに強大な軍隊を擁する信長でも、簡単に叩きつぶせないものが少なくとも二つあった。

将軍と天皇である。

両者とも軍事力と呼べるようなものは持っていない。いるのはどちらもせいぜい警護の武士程度である。
今の感覚で言えばガードマンを雇っているようなものだ。

だから将軍も天皇も、どちらも武力でこの世から消し去ることは容易だが、問題はそれによって巻き起こる世間の反発をいかにして押さえるか、と言うことになる。

信長にとって、他の諸大名なら追放しようが滅ぼそうが、世間の非難を浴びることはない。なぜなら、信長と戦った武将達・・武田、上杉、毛利、浅井、朝倉・・・。彼らは信長と同格の大名だったからだ。厳密に言えば成り上がりの信長と、平安末期からの名家である武田家とでは、家の格はかなり違うけれどね。

同様に本願寺を頂点とする一向宗の勢力もまた問題ではない。
と言うと語弊があるが、信長は本願寺との戦いでは非常に苦戦したが、問題とはすなわち「戦争するための大義名分」なのでご了解いただきたい。

しかし将軍は違う。
政治的・軍事的に無力とはいえ、将軍はまがりなりにも武家の頭領である。
これを倒すには、不忠・不孝・逆賊の非難や汚名を一身に受ける覚悟が必要になるし、また逆の立場に立てば、「逆賊信長を討つ」という名目で、反信長勢力の結束を一層強化することができるのだから。

反逆者の汚名を避けるには、将軍を倒すには倒すだけの理由を考え、それを世間に納得させる努力をしなければならない。もっと簡単に言えば、将軍を倒すことこそ正義である、という自己の行為の正当性を主張できるだけの根拠が必要になってくる。

戦国時代は実力のみが支配する時代だった。
そんな時代に、正義だの正当性だの、関係ないじゃないか


と考えるのは間違っている。
古代中国では、新王朝の創始者がまずやることは、自己の正当化。つまり旧王朝を倒すことこそ正義であると主張することだった。
また、旧王朝を倒すことを世間に納得させることだった。

もっとも自己の正当化といっても、多くの場合タダのこじつけだが(笑)、それが重要なのだ。
それに仮に武力で将軍を倒し、後継者はオレだと叫んでも、それだけでそのとおりと納得し、ひざまずいてくれるような人間が一人でもいようか。武力で一時的に民衆を支配できても、そんな政権は長続きするものではない。

支配者というものは、常に支配の正当性を求められるものなのだ。
日本においては、支配の正当性は天皇から与えられている。関白とか征夷大将軍という肩書きがそれである。

では将軍足利義昭とは、どう言う存在だったのか。
各地の戦国大名、本願寺を頂点とする寺院とその宗徒・・・信長の敵は無数にいる。
信長の目指す新時代の新システムに馴染めない者や反対する者達は、信長が天下の主になれば滅び去るしかない。

武人として、その反対勢力の頂点に立つのが足利義昭なのだ。
足利義昭は信長よりわずか3歳年下にすぎなかったが、その意味ですでに中世の亡霊といっても過言ではなかった。

1568年、織田信長がはじめて足利義昭を奉じて京に上った時。
ほどなく義昭は正式に征夷大将軍となり、得意の絶頂にあった。
この時期、義昭と信長の利害は、少なくとも表面上は一致していたが、信長の本心は・・

天下の主になるのは、おれの方だ。
義昭など天下を取るための道具にすぎない。
いずれ使い捨てる。
しかし今はまだ利用できるし、利用しないテはない

ということだったろう。
このような考えは信長だけの考えではない。
三国志で言えば曹操である。
曹操と漢王朝最後の皇帝だった献帝の関係は、信長と義昭の関係によく似ている。

続いて足利義昭は信長を副将軍に任命しようとしたが、信長はこれを断わっている。

冗談じゃない。副将軍なんかになってたまるか。
もしなったら、義昭に逆らえば逆賊・謀反人になってしまうじゃないか。
それに将軍なら一人だけだが、副将軍なら何人でも任命できるだろう。
ならばそのうち信玄や謙信も任命するかもしれない。


つまり信長は、足利幕府の組織に入ることを断わった。
今で言うなら、新内閣ができて新総理(足利義昭)から入閣(しかも副総理)を勧められたが断わったのだ。

これに対して世間がどのように反応したかはわからない。
凡人(世間)には天才の心中を察することはできないのだ。
いや、織田家の家臣等にもわからなかったに違いない。

燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや(えんじゃく いずくんぞ こうこく の しをしらんや)という言葉がある。
秦の末期、秦王朝を倒すべく最初に立ち上がったのは農民の陳勝(ちんしょう)だったが、彼が若かったころ、仲間の農民に「将来オレが出世しても仲良くやろうぜ」と言ったところ、仲間からは「百姓がなにいやがる」と笑われた。これは、その時陳勝がいった言葉である。

燕や雀のような小さな鳥に、コウノトリのような大きな鳥の志がわかるはずがない(小人物には大人物のことはわからない)という意味で、私のような小人物には信長の天才性をうまく書き表すことはとうていできません。

足利義昭(1537〜1597)

 

中世の亡霊である義昭と、あらゆるものの変革を目指す信長。
二人の関係は、はじめから長続きするはずのない関係だった。

義昭は将軍になったのはいいが、次第に不安になってきた。
信長が何を考えているのかわからなくなるが、それでも自分を利用しようとしていることだけはわかる。

やがて信長の真意を見抜いた足利義昭は、各地の大名に使者を送り、瞬く間に織田信長包囲網というべき組織を作り上げたのである。この点、義昭は信長の想像以上の陰謀家だった。さすがの信長もそこまでは見抜けなかった。

この包囲網によって信長がどれほど振り回され、悩まされ、何度死地に落とされことか。
信長は、はじめは夢中でわからなかったが、やがてすべてが将軍の陰謀であることに気がつく。

ついに信長は義昭を滅ぼす決意をした(実際には追放した)。
1572年、信長は義昭に対し、17条の意見書を出したのだ。

信長が、義昭を奉じて上洛の兵を起こしたのは1568年。
義昭が自分を将軍に就けてくれた信長を、感謝のあまり父とまで呼んだは、わずか4年前のことだった。

以下が17条の意見書だが、私のヘタな口語訳で、わかりにくいのが、ますますわかりにくくなったかもしれない(汗)

原文 口語訳

一、御参内の儀、光源院殿御無沙汰につきて、果たして御冥加なき次第、事旧侯。

これに依つて、当御代の儀、年々懈怠なき様にと、御入洛の刻より申し上げ侯ところ、早おぼしめし忘れられ、近年御退転、勿体なく存じ侯事。

一、先代将軍 足利義輝様は、天皇へのご機嫌伺いを怠ったため、松永彈正に暗殺されてしまいました。

だから信長は、公方(義昭)様には怠りなく参内なされるよう以前より申し上げてきましたが、公方様にはそのことをお忘れになっております。まったく残念なことであります。

一、諸国へ御内書を遣はされ、馬、其の外御所望の体、外聞如何がに侯の間、御遠慮を加へられ、尤もに存じ侯。

但し、仰せ遣はされ侯はで叶はざる子細は、信長に仰せ聞かせられ、添状仕るべきの旨、兼ねて申し上げなされ、其の心得の由侯つれども、今はさも御座なく、遠国へ御内書をなされ、御用仰せらるるの儀、最前の首尾に相違ひ侯。

何方にも然るべき馬など、御耳に入れ候はば、信長馳走申し、進上仕るぺきの由、申し旧し侯ひき。さ様には侯はで、密々を以て、直に仰せ遣はさるる義、然るべからずと存じ候事。

一、公方様は諸国へ御内書を送られ、馬やその他のものをご所望なされていますが、その外聞がいかがなものでしょうか。よくお考えいただきたいものです。

それと御内書を送る際には、必ず信長の添状も一緒に添えることをかねてから申し上げており、公方様からもご承諾いただいたはずなのに、今はそれを忘れられ、遠国へ御内書を送られておられます。

馬がほしいのなら信長が差し上げますのに、そうはせず密かに御内書を送られのは、よろしくありません。

一、諸侯の衆、方々御届け申し、忠節疎略なきと輩には、似相の御恩賞を宛行はれず、今々の指たる者にもあらざるには、御扶持を加へられ侯。さ様に侯ては、忠・不忠も入らざるに罷りなり侯。諸人のおもはく、然るべからざる事。 一、熱心に奉公して忠節心篤い者達に相応の恩賞を与えず、新参のさしたる事もなき者達を優遇されています。

そのようなことでは忠不忠の別も無くなってしまうし、世人の思いもよくないでしょう。

今度、雑説につきて、御物をのけさせられ侯由、都鄙其の隠れなく侯。其れに就いて、京都以外の~意たる由、驚き存じ侯。

御構へ普請以下、苦労の造作を仕り侯て、御安座の儀に侯ところ、御物を退けられ侯て、再び何方へ御座を移さるべく侯や。無念の子細に侯。さ侯時は、信長の辛労も徒に罷りなり侯事。

一、このたび公方様は風評に惑わされて、金銀を持って御所を逃げたことは都の人の広く知るところとなり、それによって京都は騒然となってしまいました。

御所の普請も苦労を重ねて、ようやく御安座がかなったというのに、またも何方かへと御座を移そうとなされる。

いかなるお考えによるものでしょうか。これでは信長の苦労も徒労に終わってしまいます。

一、賀茂の儀、岩成に仰せつけられ、百姓前堅く御糺明の由、表向御沙汰侯て、御内儀は御用捨の様に申し触し侯。

惣別、か様の寺杜方御欠落、如何がにと存じ侯へども、岩成堪忍届かず、難儀せしむるの由に侯間、先づ、此の分にも仰せつけられ、御耳をも休められ、又一方の御用にも立てられ侯様にと存じ侯ところ、御内儀此のごとくに侯へば、然るべからずと存じ侯事。

一、賀茂の神領を岩成友通へ与え、土地の百姓を固く糾弾するよう命じておきながら、実際にはそのままにしています。

このような寺社領没収はいかがなものでしょうか。岩成も困窮して難儀していたので、公方様が岩成の申立てをいれて他の訴えには耳を貸さなければ、後日岩成を何かの用に役立てることもできるかと考えて、信長は容認しておりました。

しかし(将軍の)御心がそのようなことであれば、もはやそれも叶いません。

一、信長に対し等閑なき輩、女房衆以下までも、おぼしめしあたらるゝ由に候。迷惑せしめ侯。我等に疎略なき者と聞こしめされ侯はぱ、一入御目にかけられ侯 様に御座侯てこそ忝なく存ずべく侯を、がひざまに御意得なされ候。如何がの子細に侯やの事。 一、信長に近い者達に対しては、女房衆以下にいたるまで辛く当たり、困惑させていると聞いております。

信長と親しい者なら、公方様には一層目をかけられて当然であるべきなにに、逆に疎略に扱われる。これはどうしたことでしょうか。

一、恙なく奉公いたし、何の科も御座侯はねども、御扶助を加へられず、京都の堪忍屈かざる者ども、信長にたより、歎き申し侯。

定めて、私に言上侯はぱ、何とぞ御憐みもこれあるべきかと存じ侯ての事に候間、且は不便に存知、且は公儀の御為めと存じ候て、御扶持の儀申し上げ侯へども、一人も御許容なく候。

余り文緊なる御諚どもに侯間、其の身に対しても、面目なく存じ候。勧世与左衛門・古田可兵衛・上野紀伊守が類の事。

一、熱心に奉公して何の落ち度もないのに、待遇が悪いため困窮した者達は、信長を頼ってきてはわが身を嘆いております。

信長から言ってもらえば何とかなると考えてのことでしょうから、不憫なので、そのことを申し上げましたが、ただの一人とて善処された者はいませんでした。

それは勧世与左衛門・古田可兵衛・上野紀伊守らの事です。

一、若州安賀庄御代官の事、栗屋孫八郎訴訟申し上げ侯間、去りがたく存じ、種々執り申し参らせ候も、御意得断たず過ぎ来なり侯事。 一、若狭国安賀庄の代官の件につき、粟屋孫八郎から訴訟がありましたが、再三にわたり申立てにもかかわらず無視し続けてこられました。
一、小泉女家に預げ置きし雑物、に質物に置き侯腰刀・脇指などまで、召し置かるゝ由に侯。

小泉何とぞ謀叛をも仕り、造意曲事の子細も侯はば、根を断ち、葉を枯しても、勿論に侯。

是れは、計らざる喧嘩にて果て侯間、一旦、法度を守らるれば尤もに侯。是れ程まで仰せつけられ侯儀は、御欲徳の儀によりたると、世間に存ずべく侯事。

一、小泉の女房が預け置いていた雑物や質草として置いていた腰刀・脇差までも取り上げてしまったと聞いています。

小泉が何か謀叛でも企てたというのなら、徹底的に追求するのもわかりますが、単に喧嘩をしたにすぎません。

法に従うのは、ごもっともであるが、これほどまで厳しい処罰では、世間に公方様は欲得により処断をなされたと思われてしまいます。

一、元亀の年号、不吉に侯間、改元然るべしの由、天下の沙汰につきて、申し上げ侯。禁中にも御催しの由に侯ところ、聊かの雑用仰せ付けられず、今に廻々に侯。是れは、天下の御為めに侯ところ、御油断然るべからずと存じ侯事。 一、信長は元亀の年号は不吉なので、改元すべきとのことを以前より申し上げてまいりました。

朝廷からもその勅命がありましたが、そのために必要な少しばかりの費用を出し惜しんでいるため、今も改元できないでいます。改元は天下の御為ですから、御油断があってはよろしくありません。

一、烏丸事、勘気を蒙らるるの由に侯。息の儀は、御慣りも余儀なく侯ところ、誰やらん、内儀の御使を申し侯て、金子を召しおかれ、出頭させられ侯由侯。

歎かわしく侯。人により、罪に依つて、過怠として仰せ付けられ侯趣もこれあるべく侯。是れは、賞性の仁に侯。当時、公家には、此の仁の様のところ、此のごとき次第、外聞咲止に存じ侯ひつる事。

一、烏丸光康を勘当し、子息光宣に対しても同様に御憤りになっておられたところ、内々の使いを立ててワイロを上納させ、それで赦免なされてしまいました。

嘆かわしいことであります。人により罪によっては罰金を仰せ付けられるのも道理ですが、烏丸は堂上の人であります。

当節公家にはこのような人が多いのだから、それに対しこのような仕置きをなされては、他への聞こえもよろしくありません。

一、他国より御礼申し上げ金銀を進上、歴然に侯ところ、御隠密侯てをかせられ、御用にも立てられず侯段、何の御為めに侯やの事。 一、他国より御礼があって金銀を献上してきたのにこれを隠し、政治の用にも役立てようとしません。一体、何をお考えなのでしょうか。
一、明智地子銭を納め置き、買物のかはりに渡し遣はし侯を、山門領の由仰せ懸げられ、預ケ置き侯者の御押への事。 一、明智光秀が、町から徴収した地子銭を買物の代金として渡したところ、公方様は明智が山門領の町から銭を徴収したと言って受取主を差し押さえてしまいました。
一、去る夏、御城米出だされ、金銀に御売買の由に侯。公方様御商買の儀、古今に承り及ぱず侯。

今の時分に侯間、御倉に兵粮これある体こそ、外聞尤もに存じ侯。此のごときの次第、驚き存じ侯事

一、昨年夏、幕府の御城米を売却して金銀に換えてしまわれたが、公方様が商売をなされるなど、今だかつて聞いたことがありません。

近ごろは倉庫には兵糧が満ちあふれているのに、そのような次第となったことを知り驚いております。

一、御宿直に召し寄せられ侯若衆に、御扶持を加一られたく思食され侯はぱ、当座、何なりとも御座あるべき事に侯ところ、或は御代官職仰せ付けられ、或は非分の公事を申しつかせられ侯事、天下の褒貶、沙汰の限りに侯事 一、御宿直当番の若者に、手当を加えたいと思われたなら、その場その場で与えるものはいくらでもあるのに、代官職を与えたり、あるいは非分の公事をあたえております。

これでは天下の非難を浴びることは避けられません。

一、諸侯の衆、武具・兵粮以下の嗜みはなく、金銀を専らに蓄ふるの由に侯。牟人の支度と存じ侯。

是れも、上様、金銀を取り置かれ雑説の砌は、御構へを出だされ侯に付いて、下々までも、さては、京都を捨てさせらるべき趣と、見及び申し侯ての儀たるべく、上一人を守り侯段、珍らしからず侯事

一、諸侯は武具・兵糧のほかに嗜みはなく、もっぱら金銀の蓄えに励んでいます。これは浪人した時の備えのためであります。

上様も以前より金銀を蓄えておられたが、先日洛中に妙な風説が立った際にそれらを持って御所を出てしまわれたため、下々の者は公方様が京を捨てて浪々するものと誤解してしまいました。上に立つ者は、行いを慎んでいただきたいものです。

一、諸事について御欲がましき儀、理非も外聞にも立ち入らざる由、其の聞こえ侯。

然る間、不思儀の土民百姓に至るまでも、悪しき御所と申しなす由に侯。

普光院殿を、さ様に申したると、伝へ承り侯。其れは、各別の儀に侯。何故、かくのごとき御影事を申し侯や。爰を以て、御分別参るべき歟の事。以上。

一、諸事につき欲が深く、理も非も外聞も気にかけられぬ公方様と世間は言っております。そのため、何も知らぬ土民百姓までが悪将軍と呼んでいます。

普光院(足利義教)殿がそのように呼ばれたと言われていますが、それならば格別な事であります。

何故そのような陰口を言われるのか、よくお考えになって、御分別を働かせていただきたいものです。


この意見書の目的は小説から引用した方がわかりやすい。

(信長は)祐筆をよんだ。
「条々」といったのは、将軍義昭に発する諫状(いさめじょう)の題であった。十七個条から成るその長大な文章を一気にしゃべった。諌めるの書とはいえ、事実上、義昭の十七の罪を鳴らす弾劾状である。

さらには弾劾状というより、宣伝書であった。義昭その人とめざして言うのではなく、信長は天下の諸侯や人心に義昭の悪を訴えようとしていた。

----かかる悪将軍である。

ということを天下に宣伝し、その後多少の期間を置き「義昭改心せず」としてこれを討つのである。人は納得するであろう。

「おれを陥れようとした」ということは、一語も書かない。まずその第一条に、くれぐれも天皇を尊崇し奉れとあれほど申し上げておいたのに、ちかごろは参内も怠っておられる。けしからぬ、というのである。(国盗物語/司馬遼太郎)


-----かかる悪将軍である。
この意見書のすべての項目が主張するところは、まさにそれである。
自分(信長)と敵対するからこれを討つというのでは、かつての斉藤道三や松永彈正と同様に反逆者の非難を浴びることになる。それでは世論は納得しない。

だから真っ先に天皇を持ってきたのだ。
信長に言わせれば、将軍には不敬の罪があることになる。
実に見事な弾劾文だ。なかには、これはどうか?と少々疑問を感じる項目もあるが、弾劾状とは本来そういうものだろう。

この書状は無数の写しが作られ、全国にばら撒かれた。武田信玄は死の床でこれを読んだと言うが、あるいは本当かもしれない。
むしろ信長の目的はそこにあった。「かかる悪将軍である」ことを世間に発表することにあった。巧妙な宣伝である。

もちろんこれは、足利義昭への兆発であった。
信長は、室町幕府下の大名として、先手を打つわけには行かない。どうしても義昭に先に手を出して、やむなく対戦するというカタチにしたいのだ。

挑発に乗った義昭は挙兵したが敗れて追放され、毛利家の庇護をうけることになった。
信長の次のターゲットは天皇家だった。


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