Index  ティータイム 前へ 次へ

信長、神への道 2


  ■源頼朝

源頼朝とは不思議な男である。
不思議とは、頼朝が周囲の反平家派の豪族達に担ぎ上げられて挙兵した後、多少の紆余曲折はあったものの、わずかな期間で坂東の主となったことを言っている。

1180年11月。富士川で平家軍と対峙したとき、頼朝率いる坂東軍は総勢20万と言われた。
かなりの誇張があると思うが、その半分としても10万という大軍である。

そもそも頼朝とは平治の乱の後、清盛の「情け」で助命されたものの、第一級の政治犯として政府(平氏)によって伊豆に幽閉されていた身であった。それが挙兵の数ヵ月後には20万の軍勢を率いる総大将なのである。

常識的に考えられることではない。
何が頼朝をして大軍の総大将にさせたのか。

理由は少々複雑である。
平安時代末期は公家政治がどうしようもなく腐敗し、末期症状を呈していたこと。その政治システムは、武士達(すなわち農民)の利益に反していたこと。多くの武士達は、その状況を打破したくとも一人ではどうすることもできず、自分たちの盟主となれる人物の出現を待っていたことがあげられる。

少し前、そんな武士達の期待を一身に浴びて政権を掌握したのが平清盛だったが、清盛は瞬く間に公家化してしまい、全国の武士の期待を見事なまでに裏切ってしまった。

なんのことはない。
昨日までの藤原氏が、今日からは平家に代わっただけで、政治そのものは少しも変わってはいない。
おまけに強大な軍事力があるだけに、平家は藤原氏以上に始末が悪かった。

頼朝は、坂東武者達の政治への不満がどこにあるか、実によく理解していた。
それは坂東という、当時としては辺境の地に流されたおかげで、武士達のホンネを直接、あるいは間接的に聞くことができたためだろう。また三善康信のように、月に3度も京都の情勢を手紙で書き送るような奇妙な協力者がいたことも見のがせない。

頼朝は、はじめから坂東武者の期待に応えることを約束して挙兵したわけではない。彼にとっては迷惑なことだったが、以仁王の平氏追討の令旨を受け取ったため、ほどなく平家の追討軍がやって来るので先手を打ったにすぎない。

しかし反平家の旗印は明確だった。
それに引き寄せられて、続々と坂東の豪族達が兵を率いて集ったのである。

頼朝は、抜群の政治感覚を持っていたと言っていい。
自分は何をスローガンとして平家と戦うべきか、平家を滅ぼした後何をすべきか。ごく短時間のうちに自分の目標を決められただろう。

頼朝の目標とは、全国の武士の権益の保護者となり、武士の武士による武士のための政治を行うこと。つまり公家政治にかわる武家政権の確立だった。頼朝にとって平家を打倒するのは、その目標から見れば一つのステップにすぎない。

しかし頼朝の立場など、水の上に浮ぶ木の葉のようなもので、決して磐石なものではなく、不安定この上ない。この場合水とは、坂東の反平家側の豪族達という意味である。坂東武者が必要としているのは、源頼朝という一個人の肉体ではなく、その体に流れる源氏嫡流の血であり、自分達の利益の保護者という立場なのである。

頼朝とは、坂東軍の総大将というよりは広告塔だった。
広告塔など、使い物にならなければすぐ撤去されてしまうだろう。

だから頼朝は、自分が少しでも坂東武者達の期待に背くようなことをすれば、たちどころに滅ぼされてしまうことがわかっていたし、彼等の権益に反することは、いかなることでも排除しなければならなかった。頼朝が義経を決して許さなかった理由はこれである。

弟の義経がいたから平家を倒せたという意見もあるが、これはある意味では正しく、またある意味では間違いだと思う。源義経は確かに日本史上屈指の天才将軍だったが、彼の出現によって平家の滅亡は、たとえば3年かかるものが、1年ですんだだけにすぎない。つまり義経の功績は時間の短縮である。

社会は時として新しい思想を持ち、時代にマッチした人物の出現を待つことがある。
源頼朝は、まさに当時の社会が待ち望んだ人物だった。
彼の成功の理由は、その政治的思想が社会のニーズにマッチしたためといっていい。

社会のニーズ。
それは平安時代後期で言えば、国民の大多数を締める農民層、つまり武士層のニーズである。事実、頼朝が基礎を作った武家政治はスタイルこそ時代と共に変化したが、その後700年の長きにわたって日本の基本的な政治方式となったのだ。

ついでにいえば、鎌倉時代から室町時代への移り変わりは単純である。
足利尊氏には源頼朝のような新思想はなく、持つ必要もなかった。鎌倉幕府から室町幕府への移行は、ただの政権交代にすぎない。

 

 ■社会のニーズ

さて長々と源頼朝のことを書いたのは近世以前、社会のニーズにこたえて登場した人は、頼朝と信長の2人だけと思うからだ。
では信長の思想とは何なのか。

私のような凡人にその詳細を書くことなどできるはずもないが、信長の施政方針は少しはわかるつもりでいる。冒頭の一文がそれである。

戦国時代後期のボロボロに形骸化した中世の権威や秩序、政治・経済の方式に戦いを挑み、次々にこれらを叩きつぶし、それに代わる新しいシステムを導入して行った。

「新しい社会と秩序」を構築し、それをベースに自己の権威と権力の絶対化を確立することだった。


戦国時代後期はある意味、平安時代末期に似ている。
当時は中世の権威や秩序、政治・経済など多くのシステムが形骸化し行き詰っていたが、形骸化を自覚しない者は当然。自覚していてもこのシステムを破壊しようと立ち上がった者はいない。

こんな時、立ち上がってシステムを破壊する者こそ英雄というものだろう。もっとも破壊はしても、その後正常に機能する新システムを導入できなければ意味がないけれど。戦国時代とは、その出現が求められた時代だった。逆を言えば平和な時代に出現した英雄など、無用の長物どころか世の害毒でしかない。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 


楽市楽座と関所のことを少し書く。
当時の商業は、どんなものでも自由に開業することはできなかった。「商品を販売する権利」を金で買わなくてはならず、その権利は多くの場合、土地の領主や有力な寺社が持っていた。

当時の関所は江戸時代のそれとは違って税関であり、人には通行税が、商品には物品税(?)が課せられた。ひどいところでは数百メートルごとに関所があったという。

これがいかに物品の流通を妨げていたか、物価を高くしていたか、また庶民の生活をいかに圧迫していたか、いくら想像してもしすぎるということはあるまい。

座も関所も、寺社や領主にとって貴重な財源だった。
楽市楽座は信長の独創ではないが、どちらも撤廃しようとした。
理由は、理に合わぬ、と言ったところだろう。

当然その許可を与える寺社や、領主達は反発する。座や関所のおかげで労せずして金が入るのに、なにゆえに古くから認められてきた「既得権」を手放さなければならないのか。

しかし徹底した合理主義者である信長には、座とか関所などというものは不合理きわまりないものに映ったに違いない。
信長が庶民の味方だったかどうかはわからないが、その意中を俗っぽく表すなら

庶民の味方?
違う。おれは、正義の味方なのさ・・ということか。


正義の味方であってもなくても、結果として信長の施策が庶民の支持を得たのは確かだった。

正義。
おそらく信長が最も好きだった言葉は「正義」ではあるまいか。

信長の改革には、燃えるような正義感と使命感を必要とした。
座や関所を撤廃するのも正義なら、一向宗との戦いもまた、信長にとっては正義であった。
そのために誰が、何人死のうと、信長には良心の呵責は一切ない。やはり信長は日本人ばなれした男なのだ。

武田信玄(1521〜1573) 上杉謙信(1530〜1578)
戦国時代屈指の武将だが、その思想は中世そのものだった


楽市楽座、関所の廃止ばかりが信長の政治ではない。再び武田信玄の話になるが、運よく上洛できたとして信玄は将軍、足利義昭をどのように扱うつもりだったのか。

信長の尽力で征夷大将軍に就任した足利義昭は、信長に副将軍になることを薦めた。
もっとも信長は丁重に断わったが。

なぜ断わったかは後で書くが、武田信玄なら喜んで引き受けるのではないか。
そうすれば信玄は、将軍の名前と権威で四方の敵と戦うことができるし、自分の敵を逆賊と呼ぶことができるからだ。

上杉謙信も、彼が信長の立場だったら、喜んで引き受けただろう。
謙信は生まれながらの上杉家一門ではない。遠祖は相模(神奈川県)にあって、坂東八平氏の流れをくむ長尾氏の出身で、旧名は長尾景虎といった。

景虎は、小田原北条氏に圧迫されて越後に逃げ込んだ関東管領上杉憲政から、上杉姓と関東管領の役職を譲られ、形式的とはいえ足利幕府の役職に就いていたのである。つまり古い権威を受け入れる人だった。

次に信玄も謙信も、武将であると同時に僧籍にあったことはよく知られている。
信玄は、比叡山からプレゼントされた法衣(高僧が着る服)を喜んで着ていたし、信長の比叡山焼き討ちの後、甲斐に落ち延びてきた僧侶を保護し、「比叡山を再興させてやる」とまで言った。もっとも丁重に断わられているが。

当時の神社仏閣が純然たる宗教団体ではなく、むしろ武装集団、軍隊であったことはよく知られている。武装する理由は自分達の権益を守るためと、対立する宗派を叩きつぶすためである。

対立する宗派を叩きつぶすとは、宗教戦争のことである。
江戸時代以降、日本には宗教戦争というものがない。
しかし信長以前には、ごく普通のことだった。

法華宗と浄土宗の戦いを見ればいい。
元々京都にあった本願寺が大阪の石山に移転したのは、法華宗との「宗教戦争」に敗れたからである。(1532年)

日本で宗教戦争がなくなったのは、信長が比叡山や本願寺と戦い、宗教が持つ権威を天空から地表に引きずり下ろした結果なのである。

日本人は宗教に疎い。そればかりか無宗教を自認する人も多い。
世界的に見れば異様なものだが、日本人がそうなったのは織田信長の戦いの結果なのだ。

さて信玄や謙信には寺社勢力と戦い、彼等から「既得権」を奪うことはできないだろう。この二人は・・というか、信長以外のほとんどの大名は体制内の人なのだ。

副将軍も関東管領も古い権威だった。比叡山をはじめとする宗教団体も同じである。
それでも当時の人にとっては大変な権威だったのだから、それをありがたがるのは当然のことで、この権威と協調しながら天下を目指すのが、いわば常識的な手法だったはずである。その権威を否定し、叩きつぶそうとした信長こそ異常だったといってもいい。

古い権威と軽く書いたが、副将軍、というか、足利幕府の体制を古いと感じた人は、当時いなかっただろう。誰もが副将軍として(幕府の執権として)天下に号令をかけることこそ、天下取りのだ一歩と考えたことだろう。それが当時の常識だったのだ。

しかし武田信玄や上杉謙信が一時的に天下を取ったとしても、彼等は「平清盛」なのである。
その天下は長続きはしたかったろう。

信長が敷いたレールに乗ったのが、豊臣秀吉と徳川家康だったことは言うまでもない。
言い換えれば、信長が生前未完成ながら作ったシステムは、誰にも変えられなかった、変えようがなかったのだ。

武田信玄や上杉謙信を批判しましたが、彼等の限界を書いたと言うだけで、他意はありません。
私は上州とも縁の深いこの両将のファンです。


Index  ティータイム 前へ 次へ