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信長、神への道 1


 ■英雄

乱暴な言い方かもしれないが、戦国時代後期の武将を二種類に分ければ、信長とその他の武将に分類できると思う。私は、それほどまでに織田信長は画期的な存在であり、日本史上屈指の英雄だと思っている。
回り道になるが、本題に入る前にそのことを少々述べる。

まず信長とは、政治と軍事に関しては日本史上空前絶後の天才だった。そして当時無数にいた戦国武将のなかで、天下統一という目標のためにあらゆる手段を講じ、実行した唯一の男だった、と言える。

当時「天下を取りたい」と思った武将は数多くいただろうが、ほとんどの場合ただの夢か妄想であり、若いころから実際にそれを計画し、実行に移すという、途方もない野望と実行力を持った男は、信長ただ一人だったと言っていい。

我々は戦国末期、信長が新社会の基礎を作り、秀吉が改良し、家康が総仕上げをしたことを知っている。しかし秀吉も家康も、信長の存在なくして独自にあの大業を成し遂げるなど、ありえないことだった。

我々は歴史の結果を知っている。
だから小説やドラマには、歴史の結果からさかのぼった創作や史実を無視した創作がしばしば見受けられる。それが悪いとは思わない。小説やドラマを面白くするための創作は、ある程度は許されるだろうから。

たとえば徳川家康である。
家康は三河の小豪族の家、それも織田と今川の間に挟まれて、いつ滅んでも不思議ではないような家に生まれた。
そんな環境下で少年時代の家康が、将来征夷大将軍になることを予測した人物などいるはずもなく、家康自身ある年齢に達するまで、そうなる自分の将来に少しも気がつかなかったはずである。

家康は信長と違い、天下統一のような「大それた発想」ができる男ではない。家康は若いころから天下に大望があった、という内容のドラマがあったが、江戸幕府を開設したという結果にもとづく創作にすぎない。
もし家康が江戸時代の平和な農村に生まれたら、ごく平凡な一生を終えたことだろうし、周囲の人たちからは、あの人(家康)はいい人だよ、と言われたことだろう。

これが信長だったら、生まれついての性格がワザワイして村から追い出されただろうし(笑)、秀吉なら町に出て商売を始めて大いに儲けたかもしれない。

では家康のような小豪族ではなく、有力大名の誰もが天下を狙っていたのかと言えば、それは違うとしか言いようがない。
天下を取るというのは口に出して言うのはたやすいことだが、実際に行動に移すとなるとその武将個人の資質はもちろんのこと、補佐する左右の人物、地理的・経済的要素、周囲の国情など、クリアすべき課題があまりにも多すぎて、ほとんどの武将は実行するどころか、考えただけであきらめてしまったに違いない。

平安末期の源氏なら敵は平氏だけだが、戦国時代は違う。
周囲のすべてが敵なのだ。一族とて油断はならない。
敵は滅ぼすか、臣従させなくてはならない。敵対しないなら同盟してしなくてはならない。

織田信長(1534〜1582)

宣教師による信長の肖像


戦国時代とはいえ、誰もが天下統一を目指したわけではない。
ほとんどの武将達は地方勢力で満足していた。
彼等の願いは自己の領土の拡張と保全であり、それ以上の野心を持つことはなかった。
毛利氏や北条氏はその代表だろう。

北条氏は関東から出ることはなかったし、毛利元就の遺訓は「天下に野望を持ってはならない」だった。
毛利元就ほどの天才謀略家でさえ、息子達にそう言い残すのである。天下を取るということがいかに困難なことか、この老英雄は知りぬいていたに違いない。

家康が天下を意識し始めたのは、秀吉が病に臥すようになってからだと思う。つまり関が原の合戦の時点で家康は57歳だったから、50代はじめから半ばにかけてのことか。やっとおれにも運が向いてきたか、という心境だったろう。

 

 ■武田信玄は天下人になれたか

さて私は、「途方もない野望を持った男は信長ただ一人」と書いたが、上洛の兵を挙げたのは晩年の武田信玄も同じである。
しかしどう見ても信玄に勝ち目はなかった。

なぜなのか。

1573年1月、信玄は3万の兵を率いて京を目指し、途中の三方ケ原で徳川家康の軍に大勝したものの、当時不治の病と恐れられた肺結核を発症し、ほどなく死ぬ。胃がんだったという説もあるが、この際死因などどうでもいい。

天下人としての実力は充分あり、徳川軍を破りながら大望を果たせず、無念のうちに死んでいった悲劇の名将武田信玄。信玄にあと数年の寿命を与えたら天下を取っていた・・・・歴史ファン、信玄ファンにはそう思っている人が多い。

確かに武田信玄という武将は、戦争と民政手腕にかけては戦国屈指の名将だった。
これは間違いない。
今でも山梨県の人達は信玄の遺徳を偲び、信玄などと呼び捨てにはしない。

信玄公である。

しかし武田信玄、というか武田軍という軍隊には致命的ともいえる欠点。
天下を取るための障害がありました。なんだかわかりますか?

武田の兵の大部分は、農民兵なんです。
つまり平時は農作業に従事し、戦争の時に兵士として徴用されるのです。

これは戦国時代特有のことではありません。また武田信玄の領地特有のことでもありません。
一部を除いて全国共通のことです。もちろん信玄のライバル、上杉謙信も同じです。

武士は平安時代中期に生まれたが、元々武士とは武装した農民だった。時代と共に軍事に専念する純粋(?)な武士も増えたけれど。
もちろん武田信玄も上杉謙信も農作業はしない。純粋な武士である。
でもそうした専業武士(会社組織でいえば管理者層)はほんの一握りで、末端の兵士のほとんどは農民だったのだ。
兼業農民だった農民が専業農民になるのは、全国的には秀吉の刀狩の結果である。

農業は当時最大の産業であり、同時に完全な有機栽培だった。あたりまえだが現代のようにトラクターもなければ、化学肥料もない。必然的に当時の農作業は、膨大な人手と時間を必要とする。

多くの働き盛りの若者が・・・彼等は武田軍というピラミッド組織の底辺を構成する兵士でもある・・・農作業に従事しなければならない。逆を言えば、多くの若者を田畑にはりつけなければ、武田家の財政はもちろん、軍事も成り立たないのである。

さらに農業には、農閑期と農繁期がある。
第4回川中島の合戦が9月(旧暦)に行われたのは、この時期が農閑期だったからに他ならない。また、武田信玄が上洛の兵を挙げたのは1573年、真冬の1月だった。つまり武田信玄は、小競り合いならともかく、農閑期(秋から初春)でないと大規模な軍事行動を起こすことができないのだ。

運良く信玄が三方ケ原の合戦の後、病気にならず、そのまま進撃して織田信長を倒し、京都を占領したとする。時期的には初春以降になるだろう。しかしもうすぐ夏。田植えは近い。信玄は兵士達を帰郷させなくてはならない。

そうしなければ甲斐の農業、ひいては武田家の経営が行き詰まってしまうのである(信玄は金山を持ってはいたが)。
兵士を交替させればなんとかなるかもしれないが、それには相当な人数を予備兵として領内で待機させていなければならない。すると先発部隊はそれだけ兵力が落ちてしまうのだ。上洛の兵を挙げたのはいいが、信玄はこのジレンマをどう解決しようとしたのか。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 


ここでは武田信玄を引合いに出したが、他の戦国大名はすべて同じ条件である。
しかし信長は違う。

濃尾平野という肥沃な大地。津島湊を中心にした海運事業。楽市楽座や関所の廃止による流通革命による活気溢れる経済。
それは兵農分離・・・信玄には、やりたくてもできない政策・・・を可能にする。

兵農分離された信長の兵は、軍事に専念する職業軍人の集団である。
つまり信長は、一年中戦うことができるだ。

農閑期しか戦えない武田信玄と、一年中いつでも自由に軍事行動を起こせる織田信長。
たとえ指揮官や兵士の質が信玄の方が上だとしても、勝敗はあきらかではないか。

職業軍人集団のメリットはまだある。
全軍に対し、強力な統制ができると言うことだ。

古来、占領軍が占領地で何をしてきたかと言えば、暴行略奪である。
木曽義仲の例をみればいい。

何も昔のことばかりではない。ベトナム戦争におけるアメリカ軍や韓国軍をみればいい。
今でも沖縄など、基地周辺の住民は悩まされているではないか。

京都に駐留した信長軍の兵士は、たとえ一銭でも市民からモノを盗めば死罪だった。
死罪が妥当な刑罰なのかどうかは別として、なぜ信長は末端兵士にいたるまで全軍を統制することができたのか。

信長自身は歴史の素養などなかったと思うが、左右のブレーンが木曽義仲の事例をあげて献言したかもしれない。また信長自身が持つ強烈な秩序感覚も無視できないだろうが、やはり織田軍が職業軍人集団だったからではないか。

職業軍人とは簡単にいえばサラリーマンだから、当然給料が支給されている。
給料の支給停止は兵士にとって死活問題だから、兵士は不満があっても、命令に逆らうことができないのだ。(もちろんこれはタテマエ上です)

一方武田軍の農民兵は無給だった。
戦功をたてれば一時金(つまり恩賞)はもらえるかもしれないが、原則としてタダ働きである。領主は、無給で生死をかけた戦争に兵士を駆り出さなければならない。戦えと命じなくてはならない。

だから彼等への報奨は、占領地での現物支給と言うことになる。すなわち暴行略奪を禁止し、背くものは死罪という命令は、出したくても出せない事情があるのだ。逆に兵士の中には、それ(暴行略奪)が楽しみで戦地に行く者も少なからずいた。

戦場における多くの兵士は、勝利がわかったとたんに狂暴化する。
生死のはざまで極度の緊張を強いられる彼等は、死の不安がなくなると生きているアカシを求めるようになる。敗残兵を無意味に殺傷するのも、攻城戦で城内の婦女子を暴行するのはそのためである。占領地の暴行略奪は戦場とは違うから、いわゆる「虎の威を借る」行為だろう。



先ほど、基地周辺の住民はそれに悩まされていると書いたが、何事にもメリットとデメリット。光と影がある。
基地があるゆえに、地域経済がある程度活性化するのも事実である。

職業軍人のことで言えば、世の中が平和になれば多くの職業軍人は無用のものとなり、必然的に軍縮に伴う大規模なリストラが行われる。職を失い浪人となった者は、政府を恨む不平分子となる。江戸時代、そうした不平分子にまつり上げられたのが由井正雪だ。

以上簡単だが、軍事面から信長の信玄に対する優位性を書いてみた。
しかし実際には、もっと重要なことがあった。

計画である。

 

 ■天下布武

武田信玄は若い時、父信虎の政策が気に入らず(*)、彼に同調する家臣や国人(在地の領主)と共謀して父を駿河(静岡県)に追放し、ついで信濃(長野県)を侵略して村上義清等を破り、次に村上義清をバックアップする上杉謙信と長年対立してきた。時には双方が数千もの人的損害を出すほどの戦いまであった(1561年第4回川中島の合戦)。

最終的に信玄は信濃全域を手中に収めるが、第4回川中島合戦の時点で彼は40歳だった。信玄52年の人生の中で40年とは相当の犠牲である。

信玄が天下を意識したのは、織田信長が足利義昭(1537〜1597)を奉じてはじめて上洛した時のことだろう。
だからそれは若いころからの計画・戦略に沿った行為ではない。「尾張の小僧(信長のこと)にできるなら、おれにもできるはずだ」ということにすぎない。

上杉謙信との戦いなど、時間の浪費以外の何ものでもなかった。信玄が真に天下を目指すなら、早々に謙信と和睦し、北信濃など村上義清に返還すればよかったのだ。上杉謙信という人は戦国武将にしては稀なほど信義に篤い男だったから、信玄が礼をつくして交渉すれば、その後謙信は決して信濃には侵入しなかったはずである。

しかし信玄は謙信と和睦しなかった。信玄がほしかったのは領地としての信濃であり、彼には天下への望みはなかったからだろう。
ちなみに信玄は、信濃を手中に収めた後は上野(群馬県)で謙信と戦っている。武田信玄には計画というものがないのだ。

(*)普通、武田信玄は、信虎があまりにも暴君だったため、甲斐の国の将来を思って父を追放したことになっているが、これは甲陽軍鑑など、信玄の立場から書かれた書物の影響かと思われる。実際に信虎が暴君だったかどうかはわからない。
信虎が身分を問わず、有能な人材を積極的に登用しはじめたので、信玄は不満を持った国人達に推されて信虎を追放したと言う説もある。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 


では信長はどうだったのか。
いつごろから天下を意識しはじめたのか。

信長は相当若いころから天下を意識していたと思う。具体的にいえば桶狭間の戦い後のころからではないか。
理由はこの戦いの後、敵方だった徳川家康と同盟して東方の脅威(武田氏と北条氏)を弱めたこと。
さらに本拠地を尾張清洲から小牧に移し(1563年)、次に美濃に移したこと(1567年)。この二つの事実があるからだ。

特に家康との同盟は重要だろう。
同盟と言うよりは信長と家康の関係は主従のようなものだったが、信長が安心して美濃から西の方面に専念できたのは、このおかげと言っていい。

また家康の側から見れば、この同盟は信長の突然の死によって解消したが、この間に見せた彼の律儀さが他の大名への信頼となり、後年彼が天下を取るために、どれほど役立ったかわからない。

さて、信長は家康と同盟した、と軽く言われるが、はたしてそんなに軽いものなのか。
家康は今川方の武将だったのだ。

桶狭間で今川義元を討ち取った後、信長はそのまま清洲に引上げた。
しかし総帥義元は死んでも今川家は滅びてはいないから、家康は引き続き今川方であった。また織田家とは停戦状態と言うだけで、いつ再び兵(たとえば義元の弔い合戦)を挙げるかわからない。
もっとも義元の嫡子氏真は暗愚でそんな気概も能力もなかったが、家臣達に突き上げられれば行動に移すとも限らない。

そんな中で、家康を味方にできる、と信長は判断したのだ。大したものである。
普通、こんなことはない。
信長には桶狭間の戦果を拡大すべく、逃げる今川勢を追って駿河に侵入するという選択肢もあったし、むしろそれが当時の常識的戦法だったかもしれない。

信長には、戦いのための戦いというものはない。
彼は、すべての戦いには目的があることを知っていた。今川義元との戦いの目的は、その脅威を防ぐことにあった。
信長は目的が達成された以上、無駄なことをする男ではない。


さて美濃の稲葉山城を攻略し、斉藤氏を追放した後、信長はここを岐阜と改名した。
古代中国で岐山(きざん)の麓で興った周が、殷を滅ぼして王朝を築いた故事にならったと言われる。
阜は丘のことだから、岐阜と岐山は同じ意味になる。

周の武王は、殷の紂王(ちゅうおう)を討って周王朝を築いた。
紂王は、中国史上指折りの悪王とされている。

信長が武王なら、悪王とは誰のことか。
信長は、密かに足利幕府と思っていたのではないか。

それと、信長は世の中のあらゆる事柄に自分の価値観をあてはめ、それと一致しないものはことごとく否定した。否定とは、言い換えれば破壊、殺害などである。
そのような傾向(否定すること)は誰でも多かれ少なかれ持っていると思うが、信長ほど極端な人はめずらしい。だから中世の権威や秩序、政治・経済も信長には悪と映ったことだろう。

さらに信長は、このころから書状に「天下布武」という印を使い始めている。
天下布武・・・天下に武を敷く。武で天下を治めると解釈してもいいだろう。

最近、この天下布武の意味について別の解釈が出ている。
古代中国の古典である春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)の一節を引用し、周の武王が持っていた七徳の武を目指していたのだと言う。

それによれば、武とは戈(ほこ・・武器の一種)を止めると言うことで、単に武力と言うことではなく、@暴力を禁ずる、A戦い収める、B大国を保つ、C功を定める、D民を安んじる、E人身を和ませる、F財物を豊かにする ことだと言う。

天下布武の印


仮に周の武王がこの七徳を持っていたとしても、信長がそれを目指していたとは、私には到底信じられない。三国志演義の劉備ではあるまいし、戦国時代は徳をもって治められるような、生易しい時代ではなかったのである。

岐阜と言い、天下布武と言い、これこそ天下統一への明快な宣言であろう。
これに対して他の戦国大名達がどう反応したかは、わからない。
若僧が何いやがる、という程度だったかもしれない。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇ 


物事を実行するにあたって、最も重要なことは「計画を立てる」ことである。
信長にあって信玄にないものは、計画なのだ。

信長は彼の「計画」に沿って、家康と同盟し、本拠地を美濃に移し、近江の浅井長政と同盟した。
もちろん京への道を確保するためである。

計画とは最終的な目標を立てて、それを達成するためには、どのように行動するかということだ。
行動に必要なのは方針(戦略)であり、一つ一つの具体的な行動方式を決めるのは作戦である。

たとえば天下を統一すると言う最終目標に対し、やるべきことは無数にあるが、その一つとして経済の充実を図りたいとする。
経済と一言で言っても、農業からの面もあれば商業からの面もある。

どちらにしても経済を充実させるには、領国内の市場を活性化しなければならない。
そのための施策の一つが楽市・楽座であり、また流通を妨げる関所の撤廃も必要になろう。

楽市・楽座も関所の撤廃も、簡単にできることではない。
それに反対する勢力も少なからずいるので、その対応もまた必要になってくる。対応とは早い話が戦いであり、負けては元も子もないので戦いに勝つためには勝つための施策、対策が必要になってくる。

このように一つの方針や行動が決まれば、やるべきこと、克服すべき課題が芋づる式に、次々に出てくる。その解決には大変な実行力が必要になってくるし、すべてが上手くいくとは限らない。
しかし、その課題を一つ一つ順序立てて解決していけば、それは思いつきではなく、計画的な行動になるのだ。

もっとも計画には修正と、誤算がつきものである。
信長にとって、いい意味でのくい違いは、足利義昭が美濃にやって来たことだろうし、最大の誤算は浅井長政の離反であったろう。


さて話を変える。
計画と同じくらい重要なことは、社会のニーズであろう。
わかりやすく言えば、その人物は社会が必要としている人物なのか、と言うことである。


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