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音楽ができる場所だから


 戦前、歌手の淡谷のり子は戦地で慰問公演をする際、禁止されていたパーマをかけてステージ用のドレスを着ていた。軍部から咎められると、淡谷は「これが私の戦闘服なのよ!」と切り返し、憲兵から銃剣を突きつけられた時は、「殺しなさいよ。それで戦争に勝てますか」と啖呵をきったという。

外国人捕虜がいれば意識的に外国の歌を英語で歌い、軍歌のリクエストは拒否。あれやこれやで書かされた始末書は数え切れず。当局から睨まれていた淡谷だったが、彼女が慰問先で歌う「別れのブルース」には、一般兵士だけではなく将校さえ泣いたという。
戦場という極限状態の中だからこそ人は音楽に癒やされ、癒やされるため音楽を求めたのだろう。

■戦場のピアニスト
 世界一のモーツァルト弾きと讃えられたリリー・クラウス(1903〜1986)はハンガリーのピアニストで、戦前から日本でも人気が高かった。1936年、バイオリン奏者のシモン・ゴールドベルグと初来日したリリーは東京の日比谷公会堂で演奏し、聴衆に大きな感動を与えた。

太平洋戦争前夜、リリーの夫はユダヤ人だったので、ナチスの迫害を逃れニュージーランドで暮らすため、家族とヨーロッパを離れた。しかし途中オランダ領ジャワに滞在中太平洋戦争がはじまり、ジャワはオランダ軍に代わって日本軍が統治することになってしまった。
リリーは軟禁されたが、当初日本軍は「文化」に好意的だった。将兵の中には日比谷での演奏を聴いた人もいたし、彼女からピアノのレッスンを受ける兵士も出てきたのだ。

 リリーは日本軍の要請で、地元のオーケストラと共演したりラジオ放送に出演したりしていたが、その後戦局の悪化とともに待遇も変化し、演奏などできず家族はばらばらにされ、別々の収容所で暮らすことになった。1943年9月のことである。

ところが、新しい収容所の所長近藤利朗は元々彼女の大ファンで、日比谷公会堂の演奏会にも夫人と一緒に来ていたのだ。
収容者のリストを見て驚いた近藤は、早速リリーに面会し、彼女の頼みでピアノを調達。練習のために自分の部屋(所長室)を提供したのである。やがて近藤や日本人兵士だけではなく、抑留されていた外国人たちも部屋から流れてくるピアノの調べに耳を傾けるようになった。

12月26日。近藤の依頼でリリーは、この収容所で演奏会を開くことになった。ピアノは粗末なアップライトピアノ。会場は敷地内の倉庫だったが、このときばかりは捕虜と日本人兵士が協力して、会場を作ったのだ。

約1000人の聴衆の前で、演奏会はモーツァルトのイ短調ソナタ(K310)ではじまった。
1時間後、演奏が終わっても拍手はない。
シーンと静まり返った会場で、捕虜はもちろんのこと。近藤所長も、日頃は威圧的で、しばしば暴力をふるう日本人兵士も、皆感動して涙を流していたのだ。.

リリー・クラウス

リリーの演奏を聴く抑留者
1944年4月、抑留者によるスケッチ)

 リリーは間もなく別の収容所へ移されたが、1944年4月29日、そこでも演奏会を開いている。これは、リリーを知る放送局の関係者(日本人)が、収容所長を説得して開かれました。ただし、天皇の誕生祝いという名目で。
戦後になって本格的な活動を再開したリリーは、1963年以降78年まで6回来日した。彼女が近藤と再会したのは1967年のことだった。

■全満合同交響楽団

 中国東北部。旧満州地区の大都市ハルビンは、帝政ロシアに造られたヨーロッパの文化が薫る街で、戦前、ここは音楽の盛んな土地だった。
1925年、「赤トンボ」や「待ちぼうけ」などの曲で知られる山田耕筰(1886〜1965)は、ハルビン在住の音楽家を招き、日本人演奏家と合同で「日露交歓交響管弦楽演奏会」というコンサートを開いている。当時は日本の交響楽団にとって黎明期で、ハルビンの演奏家から大きな影響を受けたのだ。

 1932年、満州国建国当時、ここには二つのオーケストラがあった。一つはロシア人とユダヤ人を中心とするハルビン交響楽団。
設立当初は資金繰りなど、楽団の維持が困難な時期もありましたが、経営がハルビン市に移り、またヨーロッパからのユダヤ難民の中に、優れた音楽家がいることに着目した関東軍が、ユダヤ人とロシア人の融和のために同楽団を支援したのだ。
ちなみに、ここで紹介した樋口季一郎とカウフマンはハルビン交響楽団の顧問でもある。

 一方満州国の首都新京(現在の長春市)では1932年、日本人による新京交響楽団が結成された。ここに理事として就任したのが甘粕正彦(1891〜1945)である。
甘粕の前歴について、説明は無用だろう。
関東大震災直後の「あの事件」で投獄された甘粕は、出所後フランスへ、帰国後満州へ渡った。満州国建国後は1939年満州映画協会(通称 満映)の理事長に就任し、万年赤字で倒産寸前だった満映を立て直している。

1945年3月。敗戦のわずか5ヵ月前。甘粕の発案でこの二つのオーケストラは一時的に統合され、全満合同交響楽団と称し150人のメンバーからなるオーケストラとして満州各地を巡演し、熱狂的な歓迎を受けるのだ。それは満州国最後の輝きといえる。関東軍の支援を受けて、資金は満州興行銀行が提供し、満州鉄道が用意した専用列車で新京、奉天(瀋陽市)、大連、旅順と巡演したのだった。
演奏曲目は、ベートーベンのバイオリン協奏曲、コルサフのシェエラザードなどだが、満州国国家や軍艦マーチも演奏されるなど、「政治的配慮」もあった。指揮者は、さきごろまで世界最高齢の現役指揮者として活躍した朝比奈隆(1908〜2001)。

 

全満合同交響楽団(中央にいるのが朝比奈隆

 

朝比奈隆と辻久子 加藤登紀子と小澤征爾



 バイオリン協奏曲のソリストは、天才少女といわれた辻久子(1926〜)。11歳でデビューした辻は、1938年には日本音楽コンクールバイオリン部門で第1位となった。彼女が初めて満州に渡ったのは1941年15歳の時で、この時こんなエピソードがあった。

辻を満州に招いたのは、甘粕正彦である。歓迎パーティの席で甘粕が、バイオリンを披露した久子に祝儀のポチ袋を渡そうとしたところ、恐いもの知らずの久子は 「そんなもん、いりません」 とはねつけてしまった。周囲はどうなることかと固唾を飲んだが、甘粕は何もいわずにそれを引っ込め、以来この15歳のプライド高き少女をいっそうひいきにしたという。(王道楽土の交響楽/岩野裕一 より)

コンサートは大成功だった。ハルビン交響楽団の創立直後に同楽団の事務局員だった加藤幸四郎は、妻の淑子と娘の登紀子を連れて演奏を聴き、その素晴らしさに感動している。娘の登紀子。あの歌手の加藤登紀子(1943〜)である。

指揮者の小澤征爾(1935〜)や、ジャズピアニストの秋吉敏子(1929〜)も満州生まれ。音楽が盛んだったこの地と何か関係があるのかもしれない。余談だが、小澤征爾の征爾という名前は、父親が心酔していた関東軍の板垣征四郎と石原莞爾の名前から一文字づつもらってつけられたという。

ニューヨークを拠点に、現在も精力的に活動する秋吉敏子は、遼陽市の生れである。
1956年、単身渡米した秋吉は、日本人としてはじめて有名なバークレイ音楽院を卒業。その後、ジャズファンからもアメリカの評論家からも高い評価を受けた。1976年には、水俣病の悲劇をジャズで表現した組曲「ミナマタ」を発表している。

■夜来香幻想曲

 満州国の国策会社だった満州映画協会(満映)の最大のスターは、李香蘭こと山口淑子(1920〜2014)である。女優としてデビューした山口は、その後歌手としても満州だけではなく、中国と日本でも絶大な人気をた。

その人気が最高潮に達したのが1941年2月11日。来日して日劇に出演した時だろう。
宣伝のキャッチ・フレーズは「歌う李香蘭」。
初日、一目彼女を見ようと日劇に押し寄せた観客は10万人。早朝から人がチケット売り場に並び、開演のころにはまだチケットを買えない群衆がぐるりと日劇を取り囲むこと7回り半。入場できない人が暴動を起しそうになり、それを鎮めるため警官が出動するほどの騒ぎになった。群集の整理にあたった丸の内警察署長は、日劇のバルコニーの上で集まった人に


諸君!
今やわが国は、東亜新秩序の完成に向って 渾身の努力を続けているのであります。
忠勇なる将兵は、大陸の広野に戦っている
のであります。それを思えば諸君、今日のこのありさまは・・・

と演説。
日劇のとなりに社屋があった朝日新聞社は、押し寄せる群衆に自動車を壊されて憤慨し、この騒動を非難する大政翼賛会の精神訓話を掲載した。

あの風景を見て情けないと思った。あさましいと思った。たまの休日だ、日頃生産に携
わっている勤労階級が1日の娯楽を求めて映画(※)に集まる。それはいい、だが、一定の人数しか入れぬなら、あとは引き返して来りゃいいじゃないか。

・・中略・・

今の時代、学生は娯楽などというより、たまの休日は家に帰って本でも読むことだ。もう少し自分たちに課せられた歴史的使命に思いをいたせと言いたい。

(※)映画ではなくて、コンサートなのですが区別がつかないらしい(笑)

一方東京帝国大学法学部では、これが「日劇七まわり事件について記せ」 と期末試験の問題となり、3年生だった宮沢喜一(後首相)は、自由を求める大衆の心理を如実に示す実に痛快な出来事である、と回答。「優」の評価を得たという。

日劇七周り半


さて、様々な事情で満州映画協会を退社した山口は、上海に住むようになった。
1945年、すでに戦局は日本にとって絶望的であり、彼女には中国の映画会社と出演の契約が残っていたが、映画撮影などできる状態ではなかった。

映画がだめならコンサートを開こう、と陸軍報道部の中川牧三中尉のバックアップを得て、1945年5月23日から3日間、山口は上海の大光明大戯院で 夜来香幻想曲(イエライシャン・ラプソディー)と名付けたコンサートを開き、大成功をおさめることになる。

中川牧三 川喜多夫妻

中川牧三(1902〜2008)。
8歳でバイオリン、18歳で声楽を学び、指揮は近衛秀麿に師事。上海陸軍報道部で文化担当将校として、上海交響楽団をはじめ、近衛秀麿、山田耕筰等音楽家、舞踏家等を支援。2004年には101歳という高齢で関西フィルハーモニーの指揮をしている。

プロデューサーは川喜多長政(1903〜1981)。
川喜多は、かしこ夫人(1908〜1993)と共に1928年10月、外国映画輸入配給会社(現在の東宝東和株式会社)を設立し「自由を我等に」、「巴里祭」、「会議は踊る」など数々の名作を輸入した。また戦後、山口が漢奸容疑で国民党に逮捕されると、容疑を晴らすために奔走し、無罪を勝ち取った。

 「夜来香幻想曲」とはこのコンサートの最大の目玉で、李香蘭最大のヒット曲「夜来香」をモトに、服部良一(1907〜1993)がジョージ・ガーシュィンの交響曲、ラプソディ・イン・ブルーのタイトルにヒントを得て、ブギウギなどジャズの要素を取り入れ交響曲風に編曲したものである。
指揮は服部良一。演奏は当時東洋一のオーケストラといわれた上海交響楽団。この時期、本来なら禁止されていた敵性音楽であるジャズを演奏できたのは、音楽、とりわけ洋楽に理解ある中川中尉の尽力によるものだろう。

コンサートは大成功だった。
3日間、昼夜2回の切符には3倍のプレミアがつき、約2000人の会場は、上海租界にすむ中国人や外国人に連日埋め尽くされた。
本番プログラムの第一部は「東洋歌曲集」で、「荒城の月」や「カチューシャ」、第二部は「中国歌曲集」で「四季歌」、「木蘭従軍」など当時の流行歌。第三部が「夜来香幻想曲」。
ここで山口は、時には衣装を着替え、時にはルンバやワルツ、ブギウギのリズムに乗ってステップを踏みながら熱唱したのだった。

最終日、演奏が終了すると熱狂した大勢の観客は立ち上がり、ステージに向かって押し寄せた。
これにはむしろ、山口や服部の方が驚いてしまう。
戦後服部は、笠置シズ子(1914〜1985)のために、ブギウギの要素を取り入れた多くの曲を作ったが、そのキッカケになったのはこのコンサートの成功だったのかもしれない。

■音楽ができる場所だから

 1945年3月14日、東京大空襲の4日後。
東京港区の日比谷公会堂に、日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)が演奏するチャイコフスキーの交響曲4番が響き渡った。以下は、この時同楽団を指揮した山田一雄の回想である。

3月14、16、17日の3日間にわたり、惨状の中にポツンと焼け残った日比谷公会堂で、わたしはチャイコフスキーの「4番」と、ストラビンスキーの「火の鳥」を振った。
今日のように平和な時代に、「音楽がなければ、われわれは生きてゆけない」などと言ったら、大げさに聞こえるだろう。だが、あの時は、客席を埋めつくす大勢の大衆を見て、わたしは、まさにこのことを実感した。
空襲からわずか4日後、あたり一面焼土と化し、食べ物も何もない極限の状態においてすら、心から音楽を愛し求める人が万難を排し、熱気をもって会場に来てくれたのである。

 この時代、偏狭な軍国主義に染まった日本や満州で、クラシック音楽のコンサートというと意外な気がする。チャイコフスキーもストラビンスキーも、当時の仮想敵国ソ連の作曲家なのだ。
しかし、いつの時代にも、どこの国にも音楽を求める民衆は大勢いた。
音楽家にとって、国家による政治など些細なことで、望むのは自分の芸術を表現できる「場」であり、聴いてくれる「聴衆」なのだろう。
 
 リリー・クラウスは、同じ抑留者から「親日派」、「利敵行為」と非難されたこともあった。しかし何をいわれようと、彼女には関係なかったことだろう。
自分はピアノを弾けるし、会場には聴いてくれる人が集まっているのだから。
朝比奈隆が満州に渡ったころは、連絡船が次々にアメリカの潜水艦に沈められて、危険な状態だったが、それでも彼は満州に行ったのだ。
後年朝比奈は、当時の心境をこう回想しています。

私には、満州へ行くという意識はありませんでした。ただ、そこが音楽ができる場所だったから行ったのです。


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