Index  ティータイム

大ばくち もとも子もなく すってんてん
(甘粕正彦)


ここで満映とその理事長だった甘粕正彦について少々触れることにします。

■満州映画協会

満州映画協会(通称満映)は、当時の政治上の必要性から生まれました。
満州では1920年代から、新京(現在の長春)などの大都市に日本人や中国人が経営する専門の映画館が建てられ、アメリカや日本の映画を上映するようになりました。1923年、南満州鉄道株式会社(通称満鉄)に映画斑がつくられ、主に満州や中国の記録映画の撮影を開始します。記録映画とは早い話が日本軍(関東軍)の中国大陸における戦いの様子であり、満鉄映画斑は関東軍の宣伝部だったのです。

関東軍だけではなく、建国間もない満州国も諸外国に対して 『建国の正当性』 を宣伝する必要がありました。このため満州国政府の各部局は、積極的に国内の様子を記録した映画を制作していったのです。
1937年8月、満鉄は映画斑を独立させ、満州国との共同出資で資本金500万円(後900万円に増資)の株式会社満州映画協会を発足させました。初代理事長は川島芳子の実兄金璧東。金璧東は名目上の理事長であり、実権を持っていたのは元満鉄庶務課長で専務理事の林顕蔵でした。

満州映画協会社屋

同年10月には俳優の募集を行い、11月には1期生が入学。教師は日本からやって来た俳優たちでした。俳優の養成期間は1年でしたが多くの生徒は数ヵ月の訓練の後、撮影に参加していったのです。1939年になると俳優の人数は140人を越したようです。

設立まもない満映には正規のスタジオはまだできておらず、仮の簡易スタジオで数本の劇映画をはじめ、満州国を外国に紹介するための記録映画を次々に制作していったのです。特に記録映画は日満親善や王道楽土を宣伝するための重要なメディアでした。

しかし設立後の満映は劇映画ではヒット作品はなく、記録映画は日満親善も王道楽土もあまりにもわざとらしく、日本の植民地であることが露骨に表れるような作品で観客も少なく経営は赤字続き。それにもかかわらず、上層部は満州国政府や関東軍の幹部と癒着し、接待を重ね、いたずらに経費を浪費してばかり・・・・・。

1939年、見かねた満州国総務庁の課長武藤富男は、同じく総務庁次長の岸信介(後首相)と図り、満州建国を陰で支え、当時は協和会総務部長だった甘粕正彦(1891〜1945)を新理事長として迎えることにしたのです。(協和会とは当時満州にあった政治団体です)


■満映理事長になる

1939年11月1日。
甘粕は新理事長として初日、午前8時55分に出社しました。
ところが会社に入った甘粕がまわりを見ると、重役達がまだ出社していません。理由を尋ねると、重役達は10時ごろ迎えの自動車が行くのでそれから出社するとのこと。
甘粕は直ちに重役達に出社するよう連絡することを命じ、彼等が出社すると、徒歩の社員が9時前に出社するのに送迎車で出社する者が遅れるとは何事か! と怒鳴るのです。

それから全社員の前での就任挨拶は、これだけでした。

私は甘粕正彦です。今度、理事長に就任しましたから、よろしくお願いします

続いて、社員を代表して、総務部長の山梨稔が歓迎の辞を述べたのですが・・・。

「わが満州国生みの親、建国の父として余りにも有名な甘粕先生を理事長として迎えましたことは、私ども一同の大きな喜びであります。我々は新理事長のもとに粉骨砕身、社業の発展に努力し、満州の地に骨を埋める覚悟をもって・・・・・」

「もうよい。やめなさい。やめるのですッ」

ますます調子づいてきた部長の挨拶は、甘粕のドスのきいた怒声でたち切られた。

中略

「満州国建国の功労者というお世辞は、私には当たりません。粉骨砕身などという美辞麗句をいくら並べても、心に誠がなければ何にもなりません。私たちは日本人ですから、死んだら骨は日本に埋めるのですッ」

甘粕の就任式はこれで終わった。職員一同の驚きは、これからどんな事が起こるだろうか・・・という不安につながってくる。その不安は、早くも翌日、現実のものとなった。(甘粕大尉)


翌日。山梨稔総務部長はヒラに降格されました。
甘粕には、他人の美辞麗句を腹の中でせせら笑いながら聞き流すような芸当は、生涯身に付かなかった・・・角田房子はその著、甘粕大尉のなかでそう書いています。理事長就任前、甘粕は満映の人事を調査していました。山梨は降格の第一候補だったのです。

 


これを手始めに改革がはじまりました。
社員全員の履歴を調べ、学歴詐称など不正手段で入社した者を中心として解雇された者は全社員の5%になりました。学歴の調べ方も一人一人出身校に連絡して確認するという徹底ぶりでしたが、
甘粕は解雇された人には次の就職先を世話したので誰からも不満は出なかったといわれています。

次に日本人であろうと中国人であろうと実力だけで給料を決め、社員・俳優を問わず中国人の給料を日本人のそれと同レベルに引上げます。一気に給料が数倍になった中国人俳優もいましたし、減給された日本人社員もいました。

李香蘭の月給は250円だが、李明(中国人俳優)の月給45円はあまりにも差がありすぎる。李明は200円程度にしなさい。下っ端の俳優達は18円。これでどうして食えますか。少なくとも今の李明の45円の線まで引き上げなさい。高い給与を出すと必ずよく働くものです。(李香蘭 私の半生)


当時軍隊に召集された満映社員はその時点で退職となるのが慣例でしたが、それを知った甘粕は、国のために召集された社員を退職にするとは何事か!と激怒し、退職の時点から今日までの給与を送金することを命じるのです。
送付された給与と一緒に、満映としての謝罪文と受領書が添付されていました。謝罪文は退職させたことへの詫び状ですし、受領書は給与を受け取った証拠書類なので、本来はサインして満映に返送すべきものです。

ところが甘粕は、受領書を返却しない人をあらためて解雇するのです。理由は 『こちらは謝罪もしたし、過去の未払い給与を送付した。それを受け取った者が受領書を返送するのは当然の礼儀である。それなのに受領書を送らないとは無礼も甚だしい。そんな者は満映にはいらない』 ということでした。

とにかくムダなことが嫌いで、面会者は誰であれ、用件は3分以内にお願いします、といわれましたし、約束の時間に遅れようものなら自分の腕時計を相手に見せ、あなたのせいで私は○分、時間をムダにしたといわれ、会議は甘粕も出席者も椅子に座らず立って行い、意見が出そろったところで甘粕が結論を述べてそれで終了。いつも2〜30分で終わったようです。
それほど厳しい男かと思えば当時としては珍しく、福利厚生の一環として社内運動会を開催し、社員の親睦を図ったりしたのです。

この運動会は、日本人と中国人の親睦を図るにはスポーツが一番良い、という社員の提案があってはじめたものですが、その前には100万円をかけて野球のグラウンド、バレーやテニスのコート、陸上競技場を建設しています。
資本金900万円の会社が100万円を出して厚生施設を作るのです。そんなことはできない、と渋る経理部長は甘粕に、やれといわれたら、やればいいのですっ!と一喝されました。

改革に改革を重ねた結果、満映の作品数は1938年は8本、1939年は9本でしたが、1940年は19本、1941年は26本、1942年には19本とそれまでの倍以上の数になっています。

甘粕正彦(満映運動会にて)

経営も、それまでは数ある満州国内の国策会社のなかでも赤字の代名詞のような満映でしたが、甘粕が来てからは指折りの優良会社に変貌して行ったのです。

甘粕はまた、音楽にも力を入れました。
当時満州国には二つのオーケストラが存在しました。
一つは1908年、ロシア革命を逃れてハルビンに移住した白系ロシア人によるオーケストラです。1925年にはそのメンバーが30人ほど来日し東京などでコンサートを開くのです。そのころの日本はまだ交響楽の黎明期でしたが、その発展に力を尽したのがハルビンのオーケストラでした。1936年になるとこのオーケストラはハルビン交響楽団として再スタート。

当初は資金繰りなど、楽団の維持が困難な時期もありましたが、経営がハルビン市に移り、またオトポール駅におけるユダヤ難民の中に優れた音楽家がいることに着目した関東軍が、ユダヤ人と白系ロシア人の融和のためにハルビン交響楽団をバックアップするようになるのです。樋口季一郎とカウフマン博士はハルビン交響楽団の顧問になっています。

一方満州国の首都新京では1932年、日本人による新京交響楽団が結成されました。後に同交響楽団は満州唯一の財団法人となりましたが、甘粕は満映に続いてここでも理事長になっています。この時代、映画とその伴奏を努めるオーケストラは密接な関係があったのです。

1945年3月。敗戦のわずか5ヵ月前。
甘粕の発案でこの二つのオーケストラは一時的に統合され、
全満合同交響楽団と称し150人のメンバーからなるオーケストラとして満州各地を巡演し、熱狂的な歓迎を受けるのです。それは満州国(関東軍というべきか?)最後の輝きだったでしょう。
この時の指揮者は、つい先日まで世界最高齢の現役指揮者として有名だった朝比奈隆
(1908〜2001)。バイオリンのソリストは天才少女といわれた辻久子(1926〜)でした。辻久子が初めて満州に渡ったのは1941年。15歳の時でした。この時、こんなエピソードがあります。

辻を満州に招いたのは、甘粕正彦である。
歓迎パーティの席で甘粕が、ヴァイオリンを披露した久子に祝儀のポチ袋を渡そうとしたところ、恐いもの知らずの久子は  『そんなもん、いりません』 とはねつけてしまった。周囲はどうなることかと固唾を飲んだが、甘粕は何もいわずにそれを引っ込め、以来この15歳のプライド高き少女をいっそうひいきにしたという。
(王道楽土の交響楽)


コンサートは大成功でした。
ハルビン交響楽団のごく初期に同楽団の事務局員として尽力した加藤幸四郎は、妻の淑子と娘の登紀子を連れて演奏を聴き、その素晴らしさに感動しています。娘の加藤登紀子。あの歌手の加藤登紀子です。そういえば秋吉敏子(1929〜)も、小澤征爾(1935〜)も満州生まれです。音楽活動の盛んだったこの地に生まれたことと何か関係があるかな?

この軍国主義の時代、クラシック音楽のコンサートというと意外な気がしますが、日本でも満州でも音楽を聴きたいという人は数多く、また東京や大阪など大都市のオーケストラは戦時中でも定期的にコンサートを開いています。1945年3月10日は、あの東京大空襲の日ですが、それからわずか4日後には日比谷公会堂で日本交響楽団の定期コンサートが開かれているのです。次の文は、この時タクトを振った山田和雄の回想です。

3月14、16、17日の3日間にわたり、惨状の中にポツンと焼け残った日比谷公会堂で、わたしはチャイコフスキーの「4番」と、スロラビンスキーの「火の鳥」を振った。
今日のように平和な時代に、「音楽がなければ、われわれは生きてゆけない」などと言ったら、大げさに聞こえるだろう。だが、あの時は、客席を埋めつくす大勢の大衆を見て、わたしは、まさにこのことを実感した。大空襲からわずか4日後、あたり一面焼土と化し、食べ物も何もない極限の状態においてすら、心から音楽を愛し求める人々が、万難を排し、熱気をもって会場に来てくれたのである。
(王道楽土の交響楽)


甘粕が映画や音楽という文化を心から愛したのか、それともその 『必要性』 から文化を保護したのか、私にはわかりません。甘粕自身は弟の二郎氏(後に三菱信託銀行社長)によれば 『君が代』 も満足に歌えないほどの音痴であり、彼の経歴からも想像できるようにおよそ文化には程遠い半生を送ってきました。

関東大震災の後の 『あの事件』 の後、幽閉同然のフランスでの生活で、甘粕はヨーロッパの音楽、中でもオーケストラこそ文化の象徴であると考えていたようですし、国家にとって文化 レベルの低さは威信にかかわるとも考えていたようです。当時の満州で、国家における文化の必要性を理解していたのは甘粕ただ一人でした。
そんな
甘粕には、満映という文化組織の理事長に就任した以上、すこしでも文化というものを理解し文化的人間になろう、と努力した形跡があるのです。

ちなみに甘粕は、宴会の最後はみんなで立ち上がって手を組み輪になって、♪ぽっぽっぽ、ハトぽっぽ、と大声で歌う(怒鳴る?)のが常だったようです。


■大ばくち・・・

1945年8月9日、ソ連軍が満州に侵入すると、12日には満映の男子社員には戦地への招集令状が発せられ、関東軍からは催促の電話が入ります。しかし甘粕はこれを拒絶しました。甘粕は本来一般市民を守るべき関東軍が、自らが用意した列車に一般市民を後回しにして、関東軍の家族を優先的に乗せて日本へ逃がしたことに心底腹を立てていたのです。
13日に開いた会議では、『こういう状態で防戦し、市民を犠牲にするのは間違いです。ソ連が来たら降参すべきです』 といったのです。元憲兵大尉が、です。

8月15日。敗戦は満州国はもちろんのこと、満映にとっても甘粕にとっても全ての終わりでした。8月16日、彼は満映の会議室に日本人社員を集めて、私は死にます、と告げたのです。

続いて 『皆さんは前途春秋に富む方が多いのですから、長く祖国再建のために働いてください。そして、ここに残っている婦人と子供を頼みます。日本に帰れるように』 と激励すらしたのでした。日ごろ甘粕の話すことはすべて決定事項であり、社員はそれに異議をとなえる習慣をもっていませんでしたから誰も何もいえません。

次に甘粕は中国人社員を集めて、『これからは皆さんがこの会社の代表となって働かなければなりません。しっかり頑張ってください。いろいろお世話になりました。これからこの撮影所が中国共産党のものになるにしろ国民党のものになるにしろ、ここで働いていた中国人が中心になるべきであり、そのためにも機材をしっかり確保することが必要です』 といったのです。

続いて甘粕は、満映の銀行預金を引き出して全員に退職金を支給しました。日本人従業員は、甘粕が関東軍と交渉して用意した列車に乗って帰国し、後に東横映画株式会社を作ります。東横映画は現在の東映株式会社の前身です。

理事長は死ぬつもりだ、満映の社員は誰もがそう確信していましたから、その日以来甘粕には見張りをつけて四六時中監視していましたが・・。
8月20日、ソ連軍が新京(現在の長春)に侵入すると甘粕は、満映の理事長室で隠し持っていた青酸カリを飲んだのです。うめき声に気がついて人が駆けつけましたがもはや手遅れ。死を看取ったのは主事の赤川孝一と映画監督の内田吐夢でした。赤川孝一は作家赤川次郎の父親です。

こうして甘粕は亡くなり、新京交響楽団(もはやフルメンバーは集まりませんでしたが)の演奏する葬送曲に送られて、彼の遺骨は満映の敷地内の埋葬されました。甘粕は今も旧満映の跡地の下で眠っています。
その数日前、理事長室の黒板にはこんなことが書かれていたそうです。

大ばくち もとも子もなく すってんてん

最期にあたって自分の一生を茶化したのでしょうが、これをどのように解釈しましょうか?
満州国そのものが大ばくちではありましたが。

甘粕の死後、理事を引き継いでいた和田日出吉と渡瀬成美は、中国共産党の指揮下にある東北電影工作者聯盟に、満映の全ての権利を委譲。ここに満映は消滅したのです。中国人社員の多くは、満映で得た技術を東北電影工作者聯盟で発揮しました。


甘粕は悪名高き人でした。
いうまでもなく関東大震災直後大杉栄、伊藤野枝、7歳になる伊藤の甥、橘宗一を殺害した事件のことですが、いわゆる『甘粕事件』 の実行犯はいまだに不明で、犯行の責任を甘粕が一人で被ったとの説もあります。

甘粕は事件の首謀者として逮捕、起訴されました。
大杉等は無政府主義者としてマークされていた人物ですが、仮にも法治国家である以上、葬り去るにしても正規の逮捕、起訴、裁判が必要であり、さらに帝国軍人がわずか7歳の子供まで殺したとなると、世論が黙ってはいなかったのです(当時は軍の批判は比較的自由にできる時代でした)

しかし実際に裁判がはじまると、甘粕が子供を殺したことに疑問をもった塚崎弁護士は、甘粕が誰かをかばっているのではないかと思い、こう質問しました。

私はあなたの母上から頼まれました。あの子に限って子供を殺すはずがない。この事だけはあきらかに事実を述べるよう伝えてくれと、涙を流しての切なるご依頼です。

中略

もう一度お考えなさい。裁判は(天皇)陛下の名に於いて行うものであって、神聖でなければなりません。いわば陛下の裁判であります。(甘粕大尉)


また絲山弁護士は

憲兵大尉という高等官にある者が罪もない子供を殺害したとあっては、あなた自身の不名誉ばかりでなく、帝国陸軍将校全体の名誉にかかわりますぞッ


天皇の名を出されてはさすがの甘粕もどうすることもできず、涙を流しながら陳述したのです。

大杉とその妻は、考えがあって私が殺しましたが。部下の者には何の考えもなかったろうと思います。それらの者に罪を負わせるのは忍びませんので、ただ今まで偽りを申し立てていました。・・・実際は私は子供は殺さんのであります。(甘粕大尉)


結局甘粕は懲役10年の判決を受けましたが、3年で出所しています。彼はこの事件のことを終生他人に話すことはなく、真相を胸に秘めたまま死んでいったのです。

出所した甘粕は陸軍の費用でフランスへ行き、帰国後満州へ渡りました。そこでどのような行動をしたのかは不明です。甘粕は一応 『犯罪者』 だったため軍籍は剥奪されており、満州国建国には相当暗躍したと思われますが、名目上は関東軍は関与していないことになっていました。
しかし甘粕が板垣征四郎とかなりの密度の濃さで接触したことは事実ですし、溥儀が天津を脱出し旅順のヤマトホテルに入った時、溥儀の護衛(というより監視かな)役を依頼されたりしました。

満州国が建国されると民生部警務司長、協和会(満州における大政翼賛会のような組織)総務部長を歴任。満州は昼間は関東軍が、夜は甘粕が支配する、さえいわれるほど勢力を持つようになるのです。
続いて1939年満映の理事長に就任するのですが、理事長就任が決まった時満映社員は、最も非文化的な人間が満州一の文化機関を支配するとは、と誰もが当惑したようです。

甘粕のエピソードをいくつか書きますが、これから甘粕のことをどのようにイメージするでしょうか?

1937年12月、日本軍が南京を陥落させると、この勝利に日本中は湧き立ちました。満州においては中国人を駆り出して手には小旗を持たせ、祝賀行進をさせたのです。それを聞いた甘粕は表情を曇らせて、総務庁の武藤富男(後、明治学院大学長)にこういいました。

中国の古都・南京が日本軍に占領されたのは、満州にいる4000万の漢民族にとって悲しいことなのです。その悲しい時、漢民族をひっぱり出して、慶賀の行列をさせるのは大きな間違いです。(甘粕大尉)


# & ♭

山口淑子(李香蘭)の人気が高まると満州にはファンクラブが作られました。会長は皇帝溥儀の付き人だった吉岡安直です。後に首相となる岸信介も会員でした。

ファンクラブには時々例会(早い話が宴会)がありましたが、ある日山口淑子は、例会の途中で甘粕が部屋に入って来て、照れくさそうに末席で酒を飲んでいたを見ています。例会が終わると山口淑子は甘粕から 『私もファンクラブに入会しました。どうぞよろしく』 といわれたそうです。また山口淑子は、甘粕が風邪を引いて寝込んでしまった時、吉岡悠紀子(吉岡安直の娘)とお粥を作って、泊っている新京のホテルに持って行くと甘粕は、やあ、すみませんねえ、といいながら、照れたような表情で起き上がってお粥を食べたそうです。

私の想像ですが、仕事をしている時の甘粕は厳しい表情で、いつも眉間に皺をよせていたようなイメージがありますが、この人は本質的には照れ屋だったのかもしれません。照れ屋なんて、ちょっと不気味ですが(笑)

甘粕は時々ポケットマネーでパーティーを開き、満映の女優達を招待しましたが、冬なら自分から率先して彼女達の外套を脱がせ、付近にいる社員にもそうするよう命じたそうです。また新京市長主催のパーティーの席上、満映の女優は、もちろん山口淑子も、ホステスのように酌を命ぜられていましたが、それを知った甘粕は烈火のごとく怒り、女優は芸者ではない。芸術家だ! といって酌を止めさせたのです。

そうかといって甘粕は日本人も中国人も平等に接したとはいえません。
パーティーの最後には食事が出ますが、甘粕の指示で日本人には白米のご飯。中国人には麦入りのご飯が出ました。
これは明らかに差別でしたが
山口淑子はそれがイヤで、そうかといってそんなことは甘粕にはいえず、いつか気づくだろうと自分はいつも麦ご飯を食べていた、と語っています。甘粕はやはり 『日本帝国』 という意識の枠から出ることはなかったのです。
甘粕は相当の酒豪だったようで、山口淑子はこう述べています。

大酒豪だった。1日1本のウイスキーをあけた。ウイスキーは南方のある機関からスコッチが何本も送られてきて絶えることがなかったという。
1日の仕事が終わると必ずウイスキーをあおり、その日のことを忘れ、ついでにさまざまな過去も忘れようとしているかのようだった。理事長は、酩酊のおかげで余生のバランスを保っていたように私には思われてならない。
(李香蘭 私の半生)


# & ♭

ある日北京に行った甘粕が大使館員と車を走らせていると、妙な印がついている街路樹を何本も見ました。不審に思って大使館員に尋ねると、石炭が不足しているので関東軍の命令で印のついた木を切って石炭にするのだとか。
驚いた甘粕は、とんでもない愚行だ!そんなことをしたら、地元民はもとより、世界中の中国人がどう思い、どのような反応を示すことか。古都の美しさを破壊した日本は世界から軽蔑される・・・そういって直ちに関東軍にかけあって中止させるのです。

甘粕は北京の街路樹を守りました。
このエピソードは1944年のことで、どうやら甘粕はこのころからすでに日本の敗北、満州国の崩壊を予測していたようです。戦いに敗れた後も、日本の誇りは保たれねばならぬ――悲しいほどの愛国心を、甘粕は抱いていた。角田房子はそう書いています。

# & ♭

フランスから帰国した甘粕は、自由、平等、博愛など日本には無用のものだ、と友人に再三話したようです。甘粕は日本の天皇を頂点とした国のかたち・・国体・・こそ国家として世界最高のスタイルであるとし、国民があって国があるのではない。国があってはじめて国民が存在し得るのだと信じていました。
これは甘粕の思想の限界でしたが、彼だけではなく、当時の日本人の限界でもあったのですから、甘粕だけが特別なわけではなく、まして現代の感覚で正しい、間違っていると評価してもはじまりません。

# & ♭

一個人としての甘粕について満州国総務庁の武藤富男は 『甘粕には私利・私欲がなく、生命に対する執着もなかった。彼とつきあった人は、甘粕の様な生き方が出来たら・・と羨望の気持ちさえ持った。また、そこに魅せられた人が多かった』 といっています。満映の理事長時代、甘粕は日本人・中国人を問わず、ある面では恐れられ、またある面では慕われたようです。

また新京放送局のアナウンサーだった森繁久弥(あの名優の森繁久弥です)は 『満州という新しい国にわれわれ若い者と一緒に情熱を傾け、一緒に夢を見てくれた。ビルを建てようの、金をもうけようのというケチな夢じゃない。一つの国を立派に育て上げようという、大きな夢に酔った人だった』 といっています。甘粕のいう 『大ばくち』 とはこのことだったのかもしれません。

甘粕には当時の日本の軍人にありがちだった 『他人を巻き添えにする自決』 は当てはまらず、終戦直後に日中の満映社員にとった態度は見事としかいいようがありません。また、満映理事長としての名経営者ぶりは痛快ですらあります。

甘粕正彦という人はあくまで自己の職務に忠実な男であり、そのため歴史の教科書等が伝えるようにガチガチの帝国軍人だったかもしれないが、また別の意味では立派な人物だったのではないか、私はなんとなくそう思いはじめています。しかし長所と同時に欠点も多く、この人ほど毀誉褒貶に富む人も珍しいといわれています。

満州国建国の直前、溥儀が天津を出て旅順のヤマトホテルに入ると、砂糖に群がる蟻のように溥儀の旧臣達が面会を求めてホテルにやってきましたが、すべて甘粕に断られたため、誰も溥儀に面会できませんでした。

こうした甘粕の行為を、溥儀はやはり権勢欲、または物欲から出たものと眺めたであろう。だが溥儀の想像のように甘粕に多少とも私欲があれば、のちに ”満州の甘粕” と恐れられた勢力は持ち得なかったと思われるし、半面もっと楽に世渡りができただろう。溥儀はかつて甘粕のような男に出会ったこともなく、人間の中にそういう種類もあるということを想像もできなかったであろう。

・・中略・・

甘粕が溥儀から贈物を受けたのも、この時期であった。溥儀は 『自分はいま貧しくて、何の礼もできない。せめてこれを記念に』 とカフス・ボタンをはずして甘粕に差出した。
甘粕はとっさに 『礼を受ける理由はない』 と言い放って無造作に返そうとしたが、側近から 『わが国では貴人からの贈物を返すことはできない習慣です』 とたしなめられて受けとった。
(甘粕大尉)


後に甘粕はこのことを 『心ないことをした』 と友人に語っています。この話を聞いた甘粕の弟の二郎はこういいました。

それは相手に対して失礼だし、侮辱することにもなるが、いかにも兄らしい行為だ。
兄はとっさにそういうことをしてしまうのだが、いつも後になって相手の気持ちを考えて、悪かったと心を痛めていた。つき合いが続けば兄の後悔もわかってもらえるが、その時だけだど ”いやなヤツだ” で終わってしまう。そのため、つくらなくてもいい敵をつくる結果にもなった。
(甘粕大尉)


角田房子はこう書いています。

甘粕は頭にひらめいたものが即座に言葉になり、行動となる。この ”待て、しばし” のなさは、甘粕の定評になっている事務能力の高さにつながることが多かったろうが、対人関係ではしばしばマイナスに働いた(甘粕大尉)


実務者としての
甘粕は稀代の能吏であり、抜群の手腕を発揮しましたが、清濁あわせ呑む度量とか、懐の深さというものはなく、その意味において大人物というわけではなかったと思います。彼の軍人としての最終位は大尉でしたが、これはこの人に相応しい階級ではないでしょうか。甘粕は士官(少尉、中尉、大尉)としては最も優秀でも、将軍・宰相の器ではなかったでしょう。
しかしそれでも、甘粕とはすごい男だ、と私は思います。


Index  ティータイム