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夜来香ラプソディー
(山口淑子)


■満映へ

李香蘭こと山口淑子は1920年、撫順に生まれました。父は文雄、母はアイ。
文雄は佐賀県の出身で、日露戦争後中国に渡り南満州鉄道株式会社(満鉄)に就職し、その後撫順炭鉱に移りました。

満鉄の日本人社員は中国語が話せないと入社できず、その能力が給料に影響するので、中国語が堪能な文雄は夜になると中国語講座を開いて社員に中国語を教えていました。その教室には幼い淑子が生徒としていつもいたのです。

1930年代初期は1931年には満州事変が起こり、翌1932年3月には満州国が建国され、反日・抗日運動が一層激化してきた時期です。
1932年9月15日、撫順炭坑は抗日ゲリラの襲撃を受けました。
撫順守備隊(日本軍)は、ゲリラの侵入経路からゲリラが付近の平頂山を通過したにも関わらず、住民はそれを通報しなかったため住民はゲリラと通じていると判断し、報復としてその翌日平頂山の住民を虐殺する事件が起こります。有名な平頂山事件です。

文雄は日頃中国人と親しかったため、ゲリラが易々と炭鉱を襲撃したのは文雄がゲリラを手引きしたのではないかと疑われ、憲兵隊の取調べを受けました。まもなく容疑は晴れたものの、撫順には居づらくなった文雄は、友人の中国人・李際春を頼って奉天に移り住んだのです。

奉天(現在の瀋陽)は日本人が名付けた地名です。現在でもそうですが、満州地区の大都市で政治、経済、文化の中心地。中国人、ロシア人、日本人等が居住し、建物はヨーロッパ風あり、中国風あり、日本風あり。ハルビンと並んで異国情緒豊かな町でした。また歴史的には清王朝発祥の地で、ヌルハチが建てた瀋陽故宮をはじめ、帝王陵墓群など文化遺産も多いのです。このような環境は、淑子に大きな影響を与えたことでしょう。

李際春は親日派満州軍閥の元将軍であり、当時は瀋陽銀行の総裁の地位にありました。
淑子達の新しい家は李際春の第二夫人の家で、山口一家は第二夫人の面倒を見る代わりに家賃はタダだったようです。ちなみに李際春は関東軍の満州国建国に協力したため、戦後漢奸として処刑されています。

一口に中国語といいますが、各地方ごとにそれぞれの言葉があって、それは日本の方言のように 『一応なんとか意味は通ずる』 というような生易しいものではなく、外国語と同じようなものでした。その中で北京語が 『標準語』 で、検定試験(国家試験)があって級が上がるにしたがって就ける仕事も変わるのです。
淑子にとって、父から中国語の教育を受け、また同居人に美しい北京語を話す第二夫人がいたことは幸運なことでした。もっともそれが彼女の運命を変えてしまうのですが。

このころ淑子は偶然、歌謡歌手の淡谷のり子に会っています。
奉天には映画館も多く、映画上映の前座として歌手に歌わせることもありました。のり子もその一人だったのです。
出演後、1人でホテルに帰ろうとしたのり子は道に迷ってしまい、たまたま見つけた山口という表札から日本人の家かもしれないと、玄関をノックしたのです。応対したのが淑子でした。後に淑子は、この思い出話を淡谷のり子に話したようです。

ところで当時の中国では親しい友人とは義兄弟を誓ったり、友人の子を養子にもらう習慣がありました。どちらがその申し出をしたのかわかりませんが、淑子は李際春の養女となり、李の姓と香蘭という名前をつけてもらいました。蘭は満州の名花なのです。

淑子はこの名前がすぐに気に入りました。
大変美しい名前だと思いますが、実際には私はその美しさを半分も理解していないでしょう。淑子は手記でこうのべています。

リイ・シャン・ラン ―― 音楽的な表音の響きと、漢字字画の「香」と「蘭」をかもしだす雰囲気を理解できるのは中国人だけかもしれない(李香蘭 私の半生)


養女といっても名目上だけで、李際春の家で暮らすわけではなく、淑子はそれまでと変わらない毎日をおくっていたのです。
奉天の商業女学校に入学した淑子ですが、肺を患ったため半年休学し、自宅療養をしながら健康のために歌を習い始めました。これは小学生のころ知り合った白系ロシア人のリューバ・モノソファ・グリーネッツの勧めです。後にリューバは、危機一髪のところで淑子の命を救うことになります。

淑子の先生はイタリア人オペラ歌手のマダム・ポドレソフ。マダム・ポドレソフのレッスンを受けるようになった淑子は、半年後にはマダムのリサイタルの前座をつとめるほど実力がついてきました。
このリサイタルの観客は日本人だけではなく、中国人やロシア人等、奉天の名士が揃っていましたが、その中の一人に奉天放送局企画課長の東敬三がいたのです。

1933年、同放送局では 『満州新歌曲』 という番組の企画があって専属歌手をさがしていました。条件は1.中国人少女であること 2.譜面が読めること 3.標準の北京語が話せること 4.日本人スタッフとの打合せのため日本語も理解していることでしたが、この条件を満たす中国人歌手が見つからず東敬三は悩んでいたのです。

そんな東の目に止まったのが淑子でした。
東のスカウトを受けた淑子は、李香蘭という養女としての名前と由来を話し、これがそのまま彼女の芸名になりました。
その後淑子は北京に留学しますが、休みに帰省するたびに奉天放送局に行って歌を録音したそうです。淑子の歌は電波に乗って満州中に広まったのです。

ほどなく14歳の淑子は北京語の勉強のため、北京に留学することになります。ここでは文雄の友人、潘毓桂(後に天津特別区市長)の世話になって潘家の養女として潘淑華と名乗っています。淑華の淑は淑子の淑であり、潘家では娘の名前の末尾には華をつけるのが習慣でした。つまり淑子は家族同様に扱われたのです。

ところで、このころの淑子にはこんなエピソードがあります。
ある日、淑子が同級生と中南海公園へ出かけたら、抗日工作員が討論会を開いていたのです。『日本軍が万里の長城を越えて北京へ侵入した時、我々はどう闘うか』 という内容でした。集まった人達は各々立ち上がって意見をのべます。

『城壁の中には一人の日本兵も入れさせない』、『死ぬまで戦うぞ』 などの声が上がった。

・・中略・・

私の順番がまわってきた。さきほどから、自分の答えを用意しておかなければならないと気ばかりがあせって、考えがまとまらなかった。まとまるはずがなかった。祖国と故国が戦おうとしている。両方の国と人々を愛する私はどうすればよいのか。

とうとう私の番がきて、司会者が目で回答をうながした。
『私は・・・・』 と言いよどんでから、『私は北京の城壁に立ちます』 と答えた。

とくに思いつめた結論ではなく、とっさの発言だった。城壁に登れば、外から攻めてきた日本軍の銃弾か、城壁内で迎え撃つ中国側の銃弾か、どちらかの弾丸にあたって、私は一番さきに死ぬだろう。それが自分にもっともふさわしい身の処しかただと本能的に思ったのである(李香蘭 私の半生)


この淑子の発言に対して、その場にいた人達がどんな反応を示したか、手記には何も書いてありません。

この北京留学中に、淑子は川島芳子と知り合います。
養父の潘毓桂が天津特別区市長に就任し、天津の市長公邸に住むようになったので、淑子は夏休みを利用して天津に遊びに行っていたです。淑子はそこへやって来た実父の文雄に連れられて、川島芳子が経営する中華料理店・東興楼に食事に行きました。

文雄が淑子を川島芳子に紹介すると、川島芳子は同じ発音の名前であることから淑子に興味を持ちました。川島は淑子に、ボクは小さいころ”ヨコチャン”と呼ばれていた。だからキミのことも”ヨコチャン”と呼ぶからな、といったそうです。

川島芳子は淑子が気に入ったらしく、その後何度か淑子を呼んで食事をしたり遊んだりしましたが、そのころの川島芳子はすでに関東軍からは見放されていて、頽廃と自暴自棄の日々を送っていました。
養父の潘毓桂は、そんな川島芳子を危険視していたので、淑子が川島芳子の店に出入りしていると知ると大変怒り、淑子に北京に帰るよう厳命したのです。

後に潘毓桂は漢奸として捕らえられ死刑の判決を受けますが、天津市長時代、私財を投じて災害救助を行ったことが認められて減刑されています。

商業学校の卒業間近、やはり文雄の友人で関東軍将校で広報の担当だった山家亨が満州映画協会(満映)の人を連れて淑子に会いに来ました。これが淑子のその後を変えるのです。

ちなみに山家亨は、長野県松本市の陸軍部隊に所属したことがあって、そのころ市内に住んでいた川島芳子にとって山家は初恋の人でした。山家は夫人を早くに亡くし、その後は満映の女優達と浮名を流しましたが、川島芳子は満映の女優ということで山口淑子のことと勘違いし、淑子は山家亨を自分から奪った、といいふらしていた時期があったようです。


■満映デビュー

さて山家亨は淑子を連れて満映に行き、総務部長の山梨稔に紹介します。山梨は後に満映の新しい理事長になった甘粕正彦から真っ先にリストラされた人です。
満映側の話では、淑子の役は映画の中の歌の吹き替えということだったので、日本と満州の親善にもなるし・・・若い淑子は単純にそう考えていました。

ところがスタジオにやって来た淑子はメイクはされるし、ポーズはとらされるし、騙された!と気づいた時は後の祭り。制作部長のマキノ光雄に抗議しましたが、かめへん、まかしときぃ、と適当にはぐらかされる始末。何がなんだかワケのわからないうちに出来あがったのがデビュー作の蜜月快車(1939年公開)でした。
そうこうするうちに、満映側では淑子の知らないうちに年内の撮影スケジュールを組み、淑子の両親を説得し、専属契約を結んでしまったのです(笑)

マキノ光雄は日本映画の父といわれたマキノ省三の二男です。兄は映画監督の雅弘であり、俳優の長門裕之・津川雅彦兄弟は甥にあたります。

このころの満映は男優は45名、女優は淑子をはじめとして35名を擁し、創立当初に比べるとはるかに組織として確立されてきたました。そして淑子は満映が崩壊するまで、唯一の日本人俳優でした。

満映内部で、淑子が日本人であることを知っているのはごく一部の人だけでしたが、時には中国人俳優達の間で李香蘭は日本人ではないか、という噂が出ないこともなかったようです。
それでも淑子は日本人、中国人を問わず、誰とでも仲良くなれる人だったので、疑問を感じていても俳優仲間に追求されることはなかったようです。
しかし淑子にとっては、それも後の悩みになったことでしょう。

その後淑子は 『鉄血慧心』 、『東遊記』 など次々に出演し、翌年には東宝制作の 『白蘭の歌』 に起用されました。これは当時最高の二枚目スタ−長谷川一夫との共演で、映画は大ヒット。翌年1940年、東宝は長谷川一夫とのコンビによる『支那の夜』 と『熱砂の誓ひ』 を相次いで製作していったのです。

山口淑子(李香蘭)
きれいです!

『支那の夜』 と『熱砂の誓ひ』 は、『白蘭の歌』 と共に大陸三部作と呼ばれ、いずれも映画の中で歌われる淑子の歌と合わせて大ヒット。1938年に初めて来日した時、税関から、中国服を着て中国語を話すなんて、お前はそれでも日本人か!と罵声を浴びた淑子は、日本においても大スタ−となるのです。映画評論家の清水晶はこう述べています。

当時の日本の青年にとって、大陸進出は現在の欧米駐在にも似た憧れであり、李香蘭はそうした日本の“虹のかけ橋”を彩る夢の女王だった。・・・その彼女が日本人であったとはまさに歴史の皮肉であった。


大陸三部作はいずれも主人公(長谷川一夫)の日本人と、彼を慕う中国人娘(山口淑子)のラブストーリーですが、これは当時の日本人の思い上がりの作品なのです。満映の作品は満映という国策会社の作品ですが、東宝の大陸三部作に比べればまだ中国人向けの要素をもった映画であり、東宝の作品の方がはるかに 『国策的』 でした。淑子の人気について映画評論家の佐藤忠男はこう述べています。

長谷川一夫の役は日本を代表し、李香蘭の役は中国を代表する。
中国がこんなふうに日本を信頼し、日本に頼りきるならば、日本は必ずや中国を愛するであろう、というのが、この映画がラブ・ロマンスに託して表明しているメッセ−ジであり、それは中国人にとっては日本人が一方的に中国におしつけてくるバカバカしく偽瞞的で屈辱的な思想以外の何物でもないが、日本国内で日本の中国侵略の現実を知らずにいる日本人にとっては、甘い自惚れを満足させてくれる甘美な幻想であった。

日本の映画ファンはこの幻想に酔った。だからこの映画はヒットした。李香蘭は心から日本男子を慕う純情可憐な中国娘に見えた。このように中国人から慕われているから日本は中国を指導するのであり、それは侵略ではないという理屈になる。


淑子はまさに社会現象というべき大ブームを日本に巻き起こしました。多くの日本人は、中国大陸での日本人や日本軍の実態を知らず、李香蘭が日本人であることなど考えもせず(無理もありませんが)、巧みに日本語を操る美貌のスターに酔いしれたのです。

淑子の人気が最高潮に達したのは1941年2月11日。来日して日劇に出演した時でした。
宣伝のキャッチ・フレーズは 歌う李香蘭。
初日、一目淑子を見ようと、日劇に押し寄せた観客は10万人。早朝から人がチケット売り場に並び、開演のころにはまだチケットを買えない群衆がぐるりと日劇を取り囲むこと7回り半。

入場できない人が暴動を起しそうになり、それを鎮めるため警官が出動するほどの騒ぎになったのです。群集の整理にあたった丸の内警察署長は日劇のバルコニーに乗って

諸君!今やわが国は東亜新秩序の完成に向って渾身の努力を続けているのであります。忠勇なる将兵は大陸の広野に戦っているのであります。それを思えば諸君、今日のこのありさまは・・・(李香蘭 私の半生)

と5分にわたり演説。
日劇の隣りに社屋のあった朝日新聞社は、押し寄せる群衆に社有車を壊されて憤慨し、この騒動を非難する大政翼賛会の精神訓話を掲載しました。

あの風景を見て情けないと思った。あさましいと思った。たまの休日だ、日頃生産に携わっている勤労階級が1日の娯楽を求めて映画(映画ではなくてコンサートなのですが・・・笑)に集まる。それはいい、だが、一定の人数しか入れぬなら、あとは引き返して来りゃいいじゃないか。

・・中略・・

今の時代、学生は娯楽などというより、たまの休日は家に帰って本でも読むことだ。もう少し自分たちに課せられた歴史的使命に思いをいたせと言いたい。(李香蘭 私の半生)


東京帝国大学法学部では、『日劇七まわり事件について記せ』 と期末定期試験の問題となり、3年生だった宮沢喜一(後首相)は、自由を求める大衆の心理を如実に示す実に痛快な出来事である、と回答。「優」の評価を得たのでした。


■悩む

『支那の夜』 の挿入歌である蘇洲夜曲は、元々が渡辺はま子と霧島昇のデュエットの歌で、そのヒットから映画が作られたのです。

なぜレコードは渡辺はま子で、映画では淑子が歌ったかというと、作曲した服部良一(1907〜1993)も渡辺はま子もコロンビア所属であり、淑子はテイチク所属だったからです。当時の作曲家は所属の違う歌手に歌を提供することはできませんでした。

ところで支那の夜は上海が舞台で、日本人青年(長谷川一夫)と日本軍を憎む中国人女性(李香蘭)と恋物語ですが、長谷川一夫が彼に敵意を持つ李香蘭に、いつまで強情を張るんだ、といって平手打ちをくわせると、それを機に李香蘭は長谷川一夫に恋するようになるという、とんでもない内容なのです。

淑子は手記の中で、この長谷川一夫の平手打ちについてこう述べています。

劇中の平手打ちは本物だった。長谷川さんは「ごめん、本気になってしまって」と謝ったけれど、鼓膜が破れるかと思った。しかし、民族の誇りを傷つけられた中国人の心の痛みに比べたら何ほどのものであったろうか(李香蘭 私の半生


日本の侵略に苦しむ中国人にとって、日本人を慕う中国娘は屈辱以外の何ものでもなく、しかも殴った相手に恋するなど言語道断のものでした。淑子は手記の中でこう述べています。

戦前の日本では、男が女を殴ることも一種の愛情表現で、殴られた女が殴った男の強さや思いやりに感激し、改めて愛に目ざめるという場面は、芝居やスクリ−ンでよく見うけられた。しかし、それは日本人だけにつうずる表現だった。

殴られたのに相手に惚れ込んでいくのは、中国人にとっては二重の屈辱と映った。映画の教宣目的は全くの逆効果で、抗日意識をいっそうあおる結果となったのである(李香蘭 私の半生)


しかしこのころの淑子は仕事をこなすのに夢中で、その内容にまでは思いが至らなかったのです。若いということは、そういうものでしょう。後年、『李香蘭 私の半生』 を執筆するにあたって、当時の映画をあらためて見直した淑子は、恥かしさに絶句したのです。

話は変わりますが、淑子の出演映画は次のとおりです。
この中で1944年の野戦軍楽隊は満映所属最後の映画であり、1948年のわが生涯の輝ける日は 『山口淑子』 としてのデビュー作です。1958年の東京の休日を最後に淑子は女優を引退しています。

満映系
蜜月快車 1938
富貴春夢 1939
東遊記 1939
鉄血慧心 1939
迎春花 1942
黄河 1942
サヨンの鐘 1943
誓ひの合唱 1943
私の鶯 1943
萬世流芳 1943
東宝系
白蘭の歌・前後篇 1939
支那の夜・前後篇 1940
熱砂の誓ひ 1940
孫悟空 1940
幸運の椅子 1948
霧笛 1952
戦国無頼 1952
上海の女 1952
風雲千両船 1952
抱擁 1952
土曜日の天使 1954
白夫人の妖恋 1956
アンコールワット物語 1958
東京の休日 1958
松竹系
蘇州の夜 1941
戦ひの街 1943
野戦軍楽隊 1944
わが生涯の輝ける日 1948
初恋問答 1950
女の流行 1950
醜聞 スキャンダル 1950

 

 

新東宝系
流星 1949
人間模様 1949
帰国 ダモイ 1949
暁の脱走 1950

*現在ビデオで入手できるのは醜聞 スキャンダルと暁の脱走の2作品だけです。
*私の鶯の歌集はCDで入手可能です。

私の鶯(1943年)

暁の脱走(1950年)
池部良共演
李香蘭(劇団四季)
野村玲子主演

満映時代の映画の中で、ちょっと紹介したいのが 『私の鶯』 と 『萬世流芳』 です。
特に 『私の鶯』 は幻の映画といわれ、満州でも日本でも上映されず、淑子自身がそれを見たのは1984年になってからでした。大阪で偶然フィルムが発見されたためであり、それも2時間モノが途中編集され、1時間10分に短縮されていたのです。

王道楽土の交響楽/岩野裕一 には、『私の鶯』 はタイトルを変えて上海で上映されたことがあった、との記載があります。

『私の鶯(1943年作)』 は当時の金で40万円をかけた大作で、淑子をはじめ、ロシア人も多数出演したミュージカル映画でした。
監督は島津保次郎、音楽担当は服部良一。

島津保次郎が、来日したハルビン・バレエ団を見て感激し、友人の岩崎昶とミュージカル映画(当時の言葉で音楽映画)の構想を練りはじめたのです。東宝の重役である森岩雄に相談すると、森は東宝と満映に働きかけ、満映が主体となって制作することになりました。
島津は脚本も手がけ、助監督には満映の池田督と李雨時。通訳としてロシア人も雇われました。ちなみに岩崎昶は戦後になって群馬交響楽団をテーマにした映画、ここに泉あり(主演 小林桂樹)を制作しています。

原作は小説家大仏次郎の 『ハルビンの歌姫』。
ロケは当時の国際都市ハルビンで行われ、ハルビン交響楽団の指揮者シュワイコフスキーをはじめ、多くのロシア人声楽家、音楽家の協力を得ることができたのです。あらすじはこのようなものでした。

1917年、ロシア革命によってシベリアから満州へ亡命、逃走してきたロシア帝室歌劇場の白系ロシア人歌手たちが、ある町で日本商社の支店長隅田(黒井洵)一家に救われる。しかし、その町も戦闘に巻き込まれ、オペラ歌手たちは隅田一家とともに数台の馬車に乗って町を脱出するが、途中で隅田の乗った馬車が落伍し、妻(千葉早智子)や幼い娘・満里子(ロシア名マリア、李香蘭)や歌手たちを乗せた馬車とはぐれてしまう。

隅田は、中国各地を巡り、行方不明の妻子を探すが見つからずに15年が過ぎる。実は妻は病死し、娘の満里子はオペラ歌手ディミトリー(グリゴリー・サヤーピン)の養女マリヤとなり、ハルビンに住んでいたのだった。

ディミトリーはハルビン・オペラ劇場で歌いながら、マリヤに声楽を教えていた。
マリヤもロシア人音楽会で「私の鶯」をうたい好評を博してデビューするが、おりしも満州事変勃発後、ハルビンの街は混乱する。

騒ぎはおさまったが、ディミトリーは病に倒れ、失職し、マリアがナイトクラブで「黒い瞳」などを歌って生計を支える。そのマリアを隅田の友人の実業家(進藤英太郎)が見つけて隅田に引き合わせ、親子の対面をするが、ディミトリーの気持ちを考えて、自分のところに引き取ることはしない。

ディミトリーはオペラ劇場復帰が決った。マリアも日本青年画家・上野(松本光男)と結ばれ、一家に春が蘇るが、ディミトリーは晴れの舞台で歌劇「ファウスト」の最後の場面を絶唱したあと倒れる。
隅田、上野らとロシア墓地に詣でた満里子は、ディミトリーの墓前で「私の鶯」を歌って、心から冥福を祈るのだった・・・。
(李香蘭 私の半生)


淑子演じるマリアがソリストに抜擢され、ハルビン満鉄厚生会館の野外音楽堂でハルビン交響楽団をバックに美声を披露するシーンは、この映画最大の呼び物だそうです。

さて、この映画がなぜ上映されなかったかというと、まず1943年という年を考えなくてはなりません。
戦時一色に塗りつぶされた当時は、戦意発揚を目的とした映画ならともかく、軟弱と見られていた音楽(しかも敵性音楽)を主体とし、白系ロシア人も多数出演し、しかもセリフはロシア語が中心で日本語がほとんど出てこないような映画には、当局の許可は下りなかったのです。

島津保次郎と池田督は、『日本は必ず戦争に負ける。負けるからこそ、よい芸術映画を残しておかなければならない。やがてアメリカ軍が日本を占領したとき、日本は戦争映画だけでなく、欧米の名画にも負けない秀れた芸術映画を作っていたという証拠を残しておきたかった』 と語り合ったといわれています。


『萬世流芳(1943年作)』 は満映と中華電影公司(満映の関連会社)、中華聨合製片公司(中国の映画会社の統合組織)の三社の合作で、アヘン戦争100周年にちなんで、アヘン撲滅に粉骨砕身した林則徐を描いた時代劇です。

林則徐の義挙は、未来永遠(萬世)に薫りつづける(流芳)、という意味を込めて 『萬世流芳』 となりました。淑子の役はアヘン窟の飴売り娘。慕っている青年に 『吸ってはいけない。人生をだめにする』 と懸命に歌う役です。

中華電影の社長は川喜多長政(1903〜1981)
川喜多は、かしこ夫人(1908〜1993)と共に1928年10月、外国映画輸入配給会社(現在の東宝東和株式会社)を設立し、自由を我等に、巴里祭、会議は踊るなど数々の名作を輸入したことで知られます。中華電影は満映の関連会社として設立され、川喜多は要請されて社長に就任したのです。

このように萬世流芳は三社の合作でしたが、出演した中国人俳優には満映と中華電影があったため、ファンから非難された人がかなりいたようです。なぜ日本の息のかかった映画に出演するのか? それでも中国人か! という具合です。
しかしこの映画は、それまでの記録を塗り変えるほど大ヒットしたのです。


このころから淑子は、中国と日本の板ばさみに苦悩するようになります。自分は日本人なのに中国人を装って多くの人を騙している、日本軍の横暴さをイヤというほど目の当たりにしている、学生時代の友人(中国人)は抗日運動に身を投ずるし・・・・・。

自分の立場を知れば知るほど淑子は悩みます。
そんな時、淑子は新聞社から記者会見を申し込まれました。
この時淑子は、記者会見で自分は本当は日本人だ、と打ち明けようと思う、と記者クラブの理事に相談したところ、理事からはファンの夢を壊してはいけない、と反対されてしまいます。やむなく会見本番ではそのことは黙っていましたが、終わり際にある記者(もちろん中国人)が放った質問は、淑子を固まらせてしまうのです。

あなたは中国人でしょう。なのに、なぜ日本と一緒になって中国を侮辱するような映画に出たのですか。中国人としての誇りを持っているのですか?


淑子は頭の中が真っ白になり、すみませんでした。若かったとはいえ、愚かでした。二度と同じ轍は踏みません。お許し下さい、と謝る以外なかったのです。淑子の真摯な謝罪に、記者達からは自然と拍手が湧き起こりました。

1944年秋、淑子は満映の理事長室で甘粕正彦に面会しました。辞表を提出し、契約の破棄を申し出る淑子に甘粕は事務員に淑子の契約書を持ってくるよう命じた後、こういいました。

よくわかりました。長いあいだ、ご苦労様でした。あなたが李香蘭でいることの不自然さはわたしにもわかっていた。満州国や満映はどうなるかわからないが、あなたの将来は長い。どうか自分の思う道を進んでいってください。

できるなら日本映画界で発展してください。日本で仕事をされるにしても、つらいことが多いにちがいない。くれぐれも体を大事にして、自分の道を進んでください。(李香蘭 私の半生)


そういって甘粕は淑子の目の前で契約書を破り捨てたのです。おそらくすでに甘粕は満州国の運命、つまり満映の運命がどうなるか予想できていたのでしょう。甘粕の机の上には一冊の本・・『アラビアのロレンス』 が置いてありました。


■さよなら李香蘭

満映を退社した淑子は、上海に住むようになりました。
すでに戦局は日本にとって絶望的であり、淑子には華影との映画出演の契約が残っていましたが、映画撮影などできる状態ではありませんでした。華影とは1943年、中華電影と中国側の映画会社である中華聯合と合併会社(中華電影聯合)です。

上海租界地区は不思議な地域です。
1842年の南京条約で上海につくられたもので、当初はイギリス、アメリカ、フランスがそれぞれ租界を設定し、後に国際共同租界とフランス租界に分かれたのです。租界地区は一言でいえば行政権がある外人居留地で、治外法権、自治権、警察権などもそれぞれの国が持っていました。


映画がだめなら、リサイタルを開こう、と陸軍情報部の中川牧三中尉のバックアップを得て、1945年6月。淑子は上海の大光明大戯院で 『夜来香幻想曲(ラプソディー)』 と名付けたリサイタルを開き、大成功をおさめるのです。制作は川喜多長政。この時のスタッフの一人に映画ポスターの制作や、後にスィングジャーナルに寄稿することになる映画・音楽評論家の野口久光氏(1909〜94)がいました。

夜来香(黎錦光 作詞・作曲 日本語詞佐伯孝夫)はいうまでもなく淑子最大のヒット曲で、戦後は李香蘭の名で、1950年には山口淑子として日本語の歌詞で歌い、再びヒットさせるのです。

夜来香幻想曲とはこのリサイタル最後の曲目で、服部良一がガーシュィンのラプソディ・イン・ブルーのタイトルにヒントを得て、夜来香にブギウギなどジャズの要素を取り入れてシンフォニックに編曲したものです。指揮は服部、演奏は当時東洋一のオーケストラといわれた上海交響楽団です。この時期、本来なら禁止されていた敵性音楽であるジャズを演奏できたのは、音楽に理解ある中川中尉のおかげでした。

リサイタルは大成功でした。
最後の夜来香幻想曲の演奏が終了すると、熱狂した大勢の観客は立ち上がり、ステージに向かって押し寄せてきたのです。これには淑子や服部の方がむしろ驚いてしまいます。
戦後、服部は笠置シズ子にブギウギの要素を取り入れた多くの曲を作りましたが、そのキッカケになったのはこのリサイタルの成功だったかもしれません。

そして1945年8月15日。
日本の無条件降伏とともに、淑子は川喜多長政、野口久光等とに上海の収容所(日僑区)に入れられてしまいます。昨日まで主人顔した日本人は、今や収容所でその日の食事にも困る始末。財産のない女性のなかには自分の体を売る人もでてきました。幸い淑子達は川喜多家の家財道具を売ってなんとかしのいでいました。

そんな中、淑子は漢奸として捕らえられ、国民政府の裁判にかけられるのです。いうまでもなく 『中国人でありながら日本の侵略に加担した罪』 で。具体的にいえば日本に協力し、一連の国辱的な映画に出演した罪でした。ちなみに満映に雇われた多くの中国人俳優も漢奸として逮捕されています。(その後映画界に復帰した人もいます)

有罪なら最悪死刑です。12月8日午後3時、李香蘭は上海国際競馬場で銃殺刑に処せられる、というデマが新聞に掲載されます。
そこへ面会に現れたのが幼なじみのリューバでした。上海租界地でソ連領事館に勤務していたリューバは、淑子の逮捕と銃殺刑になるという記事に驚き、慌ててやって来たのです。

リューバは、淑子ちゃん、あなたが日本人であることが証明されれば無罪になるのよ。身分証明書とか、何か書類はないのかしら、といいました。この時川喜多は、それなら戸籍謄本があればいい、と閃くのです。川喜多はリューバに、北京にいる淑子の両親のもとに行き、戸籍謄本をもらってきてほしい、と頼んだのです。当時、大陸にいた日本人は自分の国籍を証明するため、いつも戸籍謄本を持っている習慣があったのです。リューバは快諾しました。

収容所における淑子には一種の誘惑がありました。
ある中国人のグループに食事に招待された淑子は、国民党政府(蒋介石の政権)に雇われて共産党をスパイするなら直ちに釈放するし、漢奸の罪も無罪にしよう、家も与えよう、行動の自由も保障しよう、といわれたのです。淑子は即座に、自分は漢奸ではないし、スパイをするつもりは一切ない、と毅然としてこの話を断るのです。もし受け入れたら、その後淑子の命はどうなっていたでしょう。

取調べで淑子は、自分は日本人であり、漢奸には該当しない、と主張します。川喜多をはじめ、中国人、日本人を問わず周囲の多くの人も、そう証言します。しかし、それを証明するための決定的証拠がないのです。取調べの係官はこういいました。

李香蘭が日本人・山口淑子であることはほぼ立証されつつある。しかし、一般の中国人はいぜんあなたが中国人だと思いこみ、あるいは少なくとも中国人の血が半分は流れていると信じている。

その李香蘭が戦時中は華やかな銀幕生活をつうじて祖国を売っておきながら、罪を追及されだすと、今度は実は日本人だったと称して日僑区にとじこもり、日本に亡命しようとしている ―― そう思っている人が大部分だ。(李香蘭 わが半生)


淑子は少々日本人離れした顔立ちでしたから、日本人だといってもなかなか信用されません。
この係官の言葉のとおり、何も知らない民衆は、いまさら日本人だなんて、しらじらしい。李香蘭とはとんでもない卑怯なヤツだ、と思っていたことでしょう。無理もありませんが。

係官は、無罪になるためには淑子が日本人であることを証明する物的証拠が必要だ、というのです。どうやらこれは取調べに付き添った川喜多が、係官にそういわせるために、巧みに誘導していったような気がします。
川喜多は、しめた!と思ったでしょう。
日本の戸籍制度を説明し、戸籍謄本を証拠物件として提出すると約束します。しかしリューバはなかなか戻ってきません。

それから何ヵ月か過ぎた1946年2月のある日。
淑子のもとに古びた藤娘の人形が届きました。それは淑子が子供のころからのお気に入りの人形でした。届けた人は違うけれど、淑子はその人形はリューバが寄越したものであることを直感しました。

人形の帯に不自然なほころびがあるのに気がついた淑子は、帯の中に戸籍謄本が入っているのを見つけたのです。
仕事を作って北京に出張したリューバは、山口家を訪れ事情を説明。デマを信じ、銃殺されたとばかり思っていた家族は狂喜しましたが、両親はリューバは勝利国側の人であり、ソ連人が日本人を助けたとなるとリューバの立場が危なくなると考え、戸籍謄本を藤娘の人形に仕込むことを考えたのです。

淑子の両親は何もいいませんでしたが、人形を渡されたリューバはその中に戸籍謄本があること、それは淑子の両親が自分の立場を気遣ってくれていることにすぐ気づきました。さらに彼女は人形を自分で渡さず、別の人に頼んだのです。もちろん戸籍謄本のことは何もいわずに。

しかし戸籍謄本を提出した淑子ですが、係官からは 『李香蘭よ、この書類(戸籍謄本)に書いてある山口淑子と、君が同一人物である証拠はどこにあるのか?』 と尋ねられます。当時の中国には日本のような厳密な戸籍制度がなかった――淑子はそう述べています。
係官には戸籍謄本の意味がよく理解できなかったらしく、川喜多が日本に留学経験のある中国人に頼んで説明してもらうと、一応証拠物件として受理されました。

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1946年2月判決が下り、裁判長の葉徳貴はこう告げました。

漢奸の容疑は晴れた。無罪。
ただし全然、問題がなかったわけではない。

この裁判の目的は、中国人でありながら中国を裏切った漢奸を裁くことにあるのだから日本国籍を完全に立証したあなたは無罪だ。しかし、一つだけ倫理上、道義上の問題が残っている。それは、中国人の芸名で 『支那の夜』 など一連の映画に出演したことだ。法律上、漢奸裁判には関係ないが、遺憾なことだと本法廷は考える。(李香蘭 わが半生)


淑子は深々と頭を下げ、映画の企画、製作、脚本についてまで責任を持つことはできないが、出演したのは事実であり、若かったからとはいえ、考えが愚かだったことを認めます、 と謝罪したのです。

中国側にとって淑子を有罪にするのは簡単なことでした。淑子の戸籍謄本を受理しないこともできたのです。
それなのに淑子が無罪になったのは、かなり以前から一部の中国人の間では李香蘭は日本人ではないかというウワサもありましたし、中国人が時折見せる『懐の深さ』 だったのかもしれません。それと川喜多は上海の中国人社会から信頼されていた人物であり、淑子の態度も真摯であり、裁判官の心証を損ねるようなことがなかったのでしょう。

ほとなくして上海の港に日本に引上げる淑子や川喜多の姿がありました。
しかし乗船の直前、トラブルが起こります。
乗客を一人一人チェックしていた港の係員が、淑子を見て 『李香蘭だ!』 と叫んだのです。周囲の人の視線が一斉に淑子に向けられます。李香蘭は日本に逃げるつもりだ、という人も出てきます。

淑子と川喜多は必死になって、日本人であることが証明されて裁判では無罪になったと説明しても、係員は裁判所からは何の通達もない、通すことはできないの一点張り。やむなく淑子は中国に留まり、川喜多はその気になれば帰国できたのですが、社員(淑子のこと)を見捨てることはできない、と淑子と一緒に留まったのです。2人がようやく日本行きの船に乗ったのは1ヵ月後の3月のことでした。

 
 さよなら 李香蘭 
(1989年フジテレビ開局
30周年記念ドラマ)
淑子 :沢口靖子
川島芳子 :山田邦子
甘粕正彦 :片岡鶴太郎
川喜多長政 :林隆三
長谷川一夫 :林与一

乗船した淑子は、ラジオから彼女の歌う夜来香が流れてくるのを聴きます。偶然とはいえ、淑子にとっては神が出航を祝福してくれたように聴こえました。

さよなら李香蘭・・・・・淑子は無意識のうちにつぶやきました。

帰国後の淑子は日本人女優として再スタートします。しかし決して順調だったわけではなく舞台女優としては挫折し、たまたま声のかかった映画、幸運の椅子(1948年東宝)が評価され、映画女優としてのスタートでした。

その後、戦後の日本人として初めてハリウッドに出演、彫刻家イサムノグチ氏との結婚と離婚、外交官大鷹弘との再婚、テレビのワイドショーに司会として登場、ジャーナリストとして世界各地を訪問、日本赤軍の重信房子と単独会見、参議院議員に当選(1992年引退)・・・多くの話題を集めたのです。

 

そして日中の国交が回復された1972年、田中角栄首相(当時)の中国訪問を北京からレポートしたのが他ならぬ、淑子だったのです。

山口淑子は様々な要素が複雑に絡み合い、まさに波乱万丈の半生をおくることになりました。身の危険にさらされることも何回もありましたが、それを乗り越えられたのは彼女自身の聡明さであり、行動力であり、また周囲の人の愛情でもありました。

彼女の自伝『李香蘭 私の半生』 を読むと、山口淑子という人は大変正直で、誠実な人という印象を受けます。北京の城壁に立つ、中国と日本の間で悩む、中国人記者の質問に真摯に謝罪する、自分の出演映画を見直してあまりの恥かしさに絶句する・・・これらのことは演技ではなく、山口淑子の人間性そのもののように思えてなりません。漢奸裁判で彼女を救ったのは、そんな彼女自身の人間性だったでしょう。

2005年2月。
近況が新聞に掲載されました。85歳という年齢を微塵も感じさせない山口淑子は依然として美しく、健在です。


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