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清王朝


明の時代の中国東北部。
後に満州と呼ばれるようになるこの土地は、明の支配下とはいえ直接支配ではなく、現地の実力者に管理監督を委任する間接統治でした。こうした体制は支配する側にとってはラクな反面、管理が行き届かず反乱を未然に防ぐことが難しいということでもあります。

明の末期。この地で勢力を持っていたのは女真族でしたが、女真族と一口にいっても統一された部族ではなく、建州女真、海西女真、野人女真などいくつかに分かれて互いに抗争に明け暮れる戦国時代のような状態でした。

ここに英雄が登場します。
建州女真族の族長ヌルハチ(1559〜1626)です。

ヌルハチは、祖父ギオチャンカと父タクシの死後25歳で家を継ぎ、明や他部族と巧みに和平・離反を繰返しつつ戦い、ついに女真族を統一。1616年にハンの位に就くのです。ハンとはチンギス・ハンのハンのことで、諸部族を統合する大王を意味します。もちろん勝手に称することはできず、実力があって他の族長から推されて就任するのです。

ハンになったヌルハチは、かつて中国(全域ではなかったものの) を支配した女真族の先祖が建てた国、の後継者たらんとし、国号を後金としました。明からの独立です。
そして明に対して七大恨(明への恨みや不満を書き連ねたもの)を掲げ、宣戦を布告。まず撫順を攻略します。

その後ヌルハチは1619年、10万の明軍をサルフ(瀋陽の近く)に破り、女真族の独立を確固たるものにすると、1621年には瀋陽・遼陽をも占領。遼河以東の地を完全に支配することに成功します。しかし1626年、寧遠城(遼西)を包囲中、城兵の放ったポルトガル砲の砲弾で負傷し、これが原因で8月に亡くなりました。

簡単ですがこの時期の出来事を年表にしてみました。

1583年

ヌルハチ、家督を継ぐ

1592〜93年
1597〜98年

豊臣秀吉の朝鮮侵略

1593年

ヌルハチ、女真族を統一

1603年

江戸幕府が開かれる

1616年

ヌルハチ、ハンに就く。後金を建国。

1636年

ホンタイジ、皇帝を称する。国号を清とする。朝鮮を服属させる

1643年

順治帝即位。

1644年

李自成が北京を占領。明滅亡。清が北京を無血占領。清の中国支配が開始。

豊臣秀吉の朝鮮侵略はヌルハチにとって天の助けだったかもしれません。明の注意は秀吉の方に行っていましたから。


■満州とする

撫順を中心に一大勢力を築いたヌルハチは軍団の改革を推し進め、八旗を組織します。八旗とは文字どおり旗(軍旗)のことで黄、白、紅、藍の4旗に、縁どりのあるなしの合わせて八つの旗を指します。

この軍団に所属する人は旗人と呼ばれ、田地を与えられる特権階級の人たちでした。組織の最小単位は300人からなる小隊で、これを1ニルといいます。5ニルからなる中隊を1ジャラン、5ジャランからなる大隊を1グサ(旗)としました。1旗には7500人いることになります。この制度は19世紀になって近代軍隊が組織化されるまで続きました。

ヌルハチは、後に満州文字と呼ばれるようになる独自の文字を作らせています。東アジアで漢字以外の独自の文字を持つ民族の代表は何といっても日本でしょう。また朝鮮のハングル文字もそうですし、他には西夏を建てた李元昊(りげんこう)も独自の西夏文字を作っています。

これはそれぞれの民族の、自己の文化へのこだわりでしょう。ただし満州文字も、西夏文字もそれぞれの王朝が滅びた後は使う理由がなくなっていますが、満州文字はその変形が現在も一部の民族で使われているようです。

ところでいつのころからか、時代も経緯もわかりませんが、元々女真族には文殊菩薩信仰があって、ヌルハチのような部族長は文殊菩薩の生まれかわりと信じられていました。
女真族を統一したヌルハチは、この地域を満州Manju)と名付けます。満州とは古来からの地名ではなく、ヌルハチが名付けたもので、その名は文殊から来ているのです。発音はともかく、字は全然違いますが。

満州文字

さらには漢字による姓を作り、愛新覚羅(あいしんかくら、あるいは、あいしんぎょろ)と名乗ります。
漢民族は例えば、杜甫、李白のように普通は姓名一文字づつで、まれに諸葛亮のような二文字姓があります。愛新覚羅と四文字にしたのは、異民族としてのこだわりであり、誇りでしょうか。

ヌルハチの奮闘によって後年の清王朝の基礎が次第に出来あがってきました。後を継いだホンタイジの目標は、なんといっても中国本土に攻め入り、そこを支配することでした。

あえて 『中国本土』 と書きましたが、現在の中国の領域の感覚で考えると妙な気がします。
満州の地、つまり中国東北部は古くからの中国の領土のような錯覚を覚えますが、
の地は元々は女真族をはじめとする異民族の故地であり、ここが正式に中国の一部になるのは、そんなに昔のことではなく、1949年中華人民共和国が成立してからなのです。


■清国誕生

ヌルハチの死後、家督を継いだのは八男のホンタイジ(1592〜1643)です。

妙な名前です。
ホンタイジとは皇太子の意味なのです。本名はどうなっているんでしょう。なぜ名前が伝わらなかったのか。ま、どうでもいいことですが。

1626年、ハンに即位したホンタイジは、翌年従兄のアミンに朝鮮を征服させたのを皮切りに、内モンゴルに侵入し1635年にはその地をことごとく支配下に収めるのです。その後、何かと政治に口出しする一族の実力者ダイシャン、アミン、マングルタイを追放し、ハンとしての権威を確立するとともに、行政を改革し中央集権的な王朝へと発展させていくのです。

1635年、ホンタイジは蒙古(元)皇帝に代々継承されてきた璽である 『元朝伝国璽』 を手に入れます。璽とは印鑑のことで、古代の印鑑といえば漢の光武帝から贈られた金印 『倭奴国王』 が有名です。伝国の璽とは、簡単にいえば会社における 『取締役社長之印』 のようなもので、人は変わっても印は変わりませんし、これを持つ者がその組織の最高権力者とみなされるのです。

これを入手した経緯はどのようなものなのか。おそらく内モンゴルを侵略した時、モンゴル王の末裔から力ずくで奪ったのでしょうが、これでモンゴルを支配する正当な(?)理由ができたのです。いや、それ以上に、かつての大帝国・元の後継者を称することできるようになったのです。ホンタイジはこれをきっかけに1636年、国号を後金からと改め、皇帝を称するようになるのです。

話をちょっと戻しますが、1627年、アミンの攻撃に敗れた朝鮮王の仁祖は後金の勝利を認め、後金を兄、朝鮮を弟とする兄弟の盟約に同意します。それだけではなく後金に歳幣、つまり年ごとに一定の額の上納金を献上することを約束させられたのです。

1636年、ホンタイジが皇帝を称するようになると、ホンタイジは朝鮮に兄弟ではなく、君臣の関係を要求してきます。皇帝とはこの世に1人だけのものですからホンタイジにすれば当然のことで、皇帝になった以上自分と他国の関係は君臣以外にはなく、兄弟は解消しなければならなかったのです。しかし仁祖王はホンタイジを皇帝と呼ぶことも君臣の関係も拒否します。
仁祖王には仁祖王の言い分があります。

皇帝を称することができるのはあくまで 『中国(当時は明)』 の最高権力者であって、周辺の蛮族の王(ホンタイジのこと)が名乗れるものではない。第一、明王朝はまだ滅んではいない。もし自分(仁祖)がホンタイジを皇帝と認めたら、自分のプライドはどうなる?なにしろ満州人は蛮族ではないか・・・・・。


この仁祖王の皇帝に対する考えは、特別なものではなく、古代から19世紀末に至るまでの朝鮮の考えでした。明治初期、朝鮮が日本政府の書状(差出人は明治天皇)の受け取りを拒否したのはこの理由によります。なぜなら天皇の『皇』の字を使えるのは中国皇帝だけだからです。


しかしホンタイジが自ら軍を率いて朝鮮へ侵入し、『逆らえば皆殺しにする』 と最後通牒をつきつけると仁祖はやむなく降伏。そればかりか野蛮人の服と蔑んできた胡服を着させられ、受降台(降伏の儀式を行う壇)で三跪九叩頭することになるのです。

三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)とは 『中国皇帝』 に対する儀礼で、3回ひざまずき、その都度地につくまで頭を下げることで、土下座以上に屈辱な礼でした。
さらにホンタイジは以下のことを要求します。強大国の属国に対する残忍さとは、このようなことをいうのでしょう。

1.朝鮮国王は清の皇帝によって任命される
2.朝鮮国王は朝鮮国内で起こった事件の詳細をすべて皇帝に報告する義務を負う
3.朝鮮国王は清の使節をソウル城門の外まで出迎えなければならない
4.朝鮮国王の地位は清国廷臣の下とする
5.朝鮮政府には貨幣の鋳造権がない

現在韓国ではこの戦争を丁卯胡乱と名付けています。胡とはエビスの意味で、韓国は負けて支配された腹いせなのか、清を胡と呼んでいます(笑)

この清と朝鮮の関係は、明治時代になって日清戦争で日本が勝利するまで続きます。しかし、日本が朝鮮にとって解放軍でなかったことは歴史の事実です。


さて、ホンタイジですが、悲願の中国支配を果たせぬまま1643年に亡くなります。
このころになると明王朝はますます衰退し、各地で反乱が続発するようになります。ある王朝の栄華が絶頂期に達すれば、その後は衰退しかないのは古今を通じ皆同じなのです。

何故なのか

皇帝が先祖(創業者)の血みどろの戦いを忘れ、太平の世をむさぼりはじめた時、彼等は単に先祖の遺産を食いつぶし、酒色に耽けだけの木偶人形になるしかないのです。これは室町時代の多くの守護大名や、江戸時代末期の旗本もまた同様です。

不思議なことに、一旦下り坂になった王朝には、名君と呼ばれるような人はまず登場しません。大体においてロクな者が皇帝にならず、物事を判断・決裁する能力もない。だから権力は家臣・・・例えば宦官・・・に移ってしまいう。
権力を握った家臣は、その権力を維持するために自分以上の役職にある者、能力のある者を追放してしまう。もちろん 『皇帝の名』 において。さらには名君登場を防ぐため、王族であっても無実の罪を着せて殺してしまう・・・秦の趙高などはその典型なのです。

贅沢(中国の場合、これがハンパじゃない)をするから国庫は火の車。反乱が起きれば追討軍を差し向けるが、もちろん膨大な費用がかかる。いずれにせよ、カネの不足は増税でまかなう以外にない。増税に苦しむ民衆は土地を逃げ出し流民になる。

流民のままではメシが食えないから盗賊となる。類は類を呼び、盗賊が大集団となるうちに親分が生まれ、組織が作られる。そうなると盗賊団というよりは、もはや軍隊であり、反乱軍なのです。それは秦末期の陳勝、呉広に代表されます。

反乱を鎮圧するのはもちろん政府軍ですが、政府軍の最下層の兵は反乱軍と同じ一般民衆で、反乱を起こす側とは紙一重の立場です。戦意など高まるはずもないのです。
もし反乱軍が政府軍に打ち勝てば、その反乱の指導者が新たな王朝を建て、皇帝に即位するようになります。そして王朝の最後の皇帝は例外もありますが、反乱軍による血の粛清を受けるために存在するようなもので、中国王朝の歴史はこの繰返しといっても差し支えありません。

 

 

明の末期。こうした反乱軍の指導者の一人に李自成(り・じせい)という男がいました。最初はただの盗賊集団のようでしたが、大集団となると左右の者に新王朝建国を勧められ、本人もその気になってしまうのです。

明は、北方の清が万里の長城を越えて南下する気配を見せるので、これにも対処しなければならず、このため明軍の精鋭は万里の長城の東端の山海関で釘付けとなり、反乱軍鎮圧に全力をあげることができません。
1644年、この隙に李自成は40万の兵で北京を陥落させてしまうのです。明王朝の崇禎帝は宮殿の裏山に逃げ、そこで死んでしまいます。明王朝の滅亡です。

ここに呉三桂(ご・さんけい)という男がいます。
明の将軍で、祖国防衛のため山海関で清軍と対峙していました。
そこへ北京陥落と皇帝の死が伝えられます。

 

山海関
ここは天然の要害で、その険しさから
『天下第一関』 と呼ばれた。

老龍頭(山海関)
万里の長城の最東は渤海に面し、長城を龍に例えると
海水を飲んでいるように見えるので老龍頭と呼ばれる

(どちらも中国河北省ホームページより)


おそらくほぼ同時であったでしょう。呉三桂は李自成からの書状を受取るのです。
新王朝の将軍に任命するから引き続き山海関を守り、清の侵入を防げ、と。そして目の前の敵である清軍からも書状が届き、『明は滅びたから、今後は清に仕えよ』 といわれるのです。

呉三桂は迷います。
主君を殺した李自成の家臣になるか、昨日までの敵であった清に味方するか、それとも、あくまで明の忠臣であるべきか・・・・結局呉三桂は清に味方し、清軍の先頭に立って北京に進撃を開始するのです。

ついでにいうと、この呉三桂の寝返りは後世様々な論議を呼びました。
明の将軍のくせに、なぜ祖国を裏切って異民族に投降したのか、ということです。
一説によれば呉三桂は、愛妾の陳円円という女性を北京に住まわせていたが、李自成に奪われてしまったことを怒り、それで清に寝返ったといいますが、まあ、これは講談、物語の世界でしょうね。こんな理由では家来はついて来ません。

さて、呉三桂は清軍の先鋒として李自成をあっという間に破り、北京に入城。李自成の天下はわずか50日で終わりました。西安に逃れた李自成は、ほどなく地元民に殺されています(1644年)

この前年にホンタイジは死去し、代わりにわずか6歳の皇子が即位します。後の順治帝です。
6歳の幼児では何もできないので、代理として政務を執ったのは叔父のドルゴンでした。ドルゴンの指揮の下、清軍は各地の抵抗勢力を平らげ中国をほぼ支配下に収めます。

清王朝といっても当時はまだまだ弱小だったので、投降してきた明の将軍を受け入れ、自軍に編入していったのですが、その中で特に功績が大きい3人を三藩といい、清からは領土をもらい清が中国全土を支配するようになってからも、そこだけはあたかも独立国のような状態でした。
もちろん呉三桂も三藩の一人で、彼の場合清軍の先鋒として北京を落とした功績で雲南地方を領するようになります。これが呉三桂にとって後の災いになるのです。


■康煕帝

ホンタイジの後を継いだものの、順治帝は24歳の若さで亡くなります。
その後を継いで即位したのが3代皇帝康煕帝(こうきてい 生1654〜没1722。在位1661〜1722)です。
即位当時の康煕帝はまだ幼かったので、これを輔佐し実務を担当したのはソニン、スクサハ、エビルン、オボイの4人の内大臣でした。

1667年、ソニンが死去すると、辣腕家のオボイの勢力が増大。
これを憂えたスクサハは 『先帝(順治帝)の墓守をして余生をおくりたい』 と辞表を提出します。
オボイはこれを機会に政敵スクサハをかたづけようと、康煕帝には 『スクサハが辞表を出したのは帝(康煕帝のこと)に仕えるのを潔しとしていないからです』 と屁理屈をつけて24か条からなる罪をでっちあげ、スクサハ自身と7人の子、1人の孫、2人の甥を死刑にすることに成功するのです。

康煕帝はまだ幼く、このようなことは判断できずオボイのいうままでしたが、成長するとともに真相を知りオボイの粛清を考えるようになります。1669年6月、参内したオボイは侍衛(帝の側近)に取り押さえられ、康煕帝はオボイの罪12か条をあげて投獄。オボイは獄死し、彼に味方していたエビルンは追放されました。ここに16歳の少年皇帝は、はじめて朝廷の実権を手中に収めるのです。

しかし康煕帝の権力、清王朝の支配は全中国に及んでいたわけではありません。
華南には三藩と呼ばれる勢力があったのです。

前記のように三藩とは明王朝の討伐に功績のあった漢人の将軍達で、雲南省の呉三桂、広東省の尚可喜(しょうかき)、福建省の耿精忠(こうせいちゅう)がそれでした。

三藩はいずれも建前上は地方に駐在する軍司令官にすぎませんでしたが、実際はそれぞれの地域を実質的に支配し、オボイ等の内大臣と結びついてその保護の下、あたかも独立国のような状態だったのです。オボイの死とエビルンの失脚は彼等に衝撃を与えます。朝廷内の後ろ盾を一挙に失ってしまったのです。

康煕帝は三藩の力を削ぐため、それぞれに軍隊を撤収するように命令します。もちろんこれは挑発でした。その挑発に乗って三藩が反乱をおこすと、康煕帝は巧みな作戦でまず尚可喜と耿精忠を降伏させて呉三桂を孤立させます。呉三桂の死後、後を継いだ孫の呉世潘(ごせいはん)は昆明で清の大軍に囲まれて自害し、8年の内乱はここに終わりました。時に1681年、康煕帝は28歳でした。

康煕帝の次のターゲットはロシアでした。
先代の順治帝のころからロシアはしばしば南下し、アムール河付近に姿を見せていましたが、康煕帝はロシアの前線基地であったアルバジン城を包囲攻撃します。これは3年にもわたる長期戦でしたが、同時に外交交渉を行い1689年、ロシアのピョートル大帝との間に交渉が成立し、清とロシアの国境が定められたのです。(ネルチンスク条約)

次はモンゴル対策でした。
1635年以来、内モンゴルは清朝に忠誠を誓っていましたが、外モンゴルはトシェート・ハン家とジャサクト・ハン家の二家で争いが起こり1687年、トシェート・ハンはジャサクト・ハンを殺し、続いてジャサクト・ハンと同盟していたジューン・ガル族と対立するようになります。

1688年、ジューン・ガル族の族長ガルダンがハルハ族を攻撃するとハルハ族は潰滅し、清朝に保護を求めます。しかし清朝にとっては、いわば他国での戦いであり、あえて動きはしませんでした。しかし1690年、ガルダンはトシェート・ハンの引渡しを要求し、内モンゴルで清軍と交戦。これによって康煕帝はガルダンと戦う理由を得るのです。

1696年4月、康煕帝は3個師団を編成し北京を出発。自ら37000人の中軍を指揮しました。
ゴビ砂漠を横断し、6月にはトーラ河(現在のウランバートル市の東方)の上流ジョーン・モドの地でガルダンに大打撃を与えます。
ガルダンは、故郷のジューン・ガルは不和となった甥のツェワンラブタンが制圧したためここへは帰れず、チベットに逃亡する機会をうかがっていましたがアルタイ山中で病死します。ここにハルハ族は亡命していた内モンゴルから故地に戻り、清朝の勢力は一気にアルタイ山脈の東にまで達したのです。

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康煕帝の風貌は、宣教師だったフランス人のブーヴェがルイ14世に献上した『康煕帝伝』 の中にあります。整った顔立ち、大きな眼、カギ鼻、少しのあばた。優れた判断力、強固な意志と克己心、超人的な正義感、義務感・・・等々。

また彼は、政治・戦略に優れていただけではなく、武術、馬術の達人であるばかりか大変な好学の人で、北京にいた宣教師(カトリック教イエズス会)を教師として幾何学、解剖学、天文学、化学、音楽理論をマスターし、遠征の時には自ら北極星の位置を測り、北京からどれだけ離れていると計算したそうです。1人の人間として、奇跡的ともいうべき天才でした。


■鄭成功

ここで時間を30年ほど前に戻します。三藩の乱の20年ほど前に。
明王朝最後の皇帝、崇禎帝は亡くなりましたが、これで戦いが終わったわけではありません。明王朝再興を願う人は皇帝の一族を押し立てて清と戦っていたのです。その代表者が鄭成功(てい・せいこう)です。この人は近松門左衛門の国姓爺合戦でおなじみですね。

鄭成功(1624〜1662)は中国人鄭芝龍(てい・ しりゅう)を父、長崎平戸藩の田川七佐衛門の娘を母として生まれました。日本名は福松といい、同じ母からは弟の次郎佐衛門も生まれています。
父の芝龍は貿易商(といえば聞こえはいいが、実際は密貿易)として来日して田川の娘と知り合ったのです。

弟の次郎佐衛門は、兄の成功が明朝復興に尽力し日本に援助を求めていることを知ると江戸へ行き、幕府に海外渡航を申請しますが許可されず、兄宛に書いた手紙の返事も届かないのであきらめて長崎に行きそこで没したようです。

1628年、明王朝末期。
鄭芝龍は明王朝の海防都督として迎えられました。
この時鄭芝龍は日本から妻子を呼び寄せようとしましたが許可が下りず、やむなく長男の福松(後の鄭成功、当時7歳)だけが海を渡ることになりました。父の下で鄭森(ていしん)と名を変えた福松は、15歳で選ばれて南京に遊学するほどの秀才でした。この遊学中に明朝が滅びるのです(1644年)

その後各地で明朝の復興を目指す明の皇族が自立します。南京では福王、紹興では魯王、福州では唐王が・・・・・・・。
南京から呼び戻された鄭森は唐王の軍に加わり、唐王より国姓(国王の姓)である朱を賜るのです。明王朝の創始者は朱元璋(しゅげんしょう)。朱はその姓で、国姓爺合戦の国姓とはもちろんこのことを指しています。
ちなみに爺とは『お方』 とか、『様』 ということで、国姓を賜ったお方、国姓様という意味です。老人ではありません。鄭成功は39歳の若さで没したのです。

森から成功に改名したのはこの時で、実際には鄭成功というよりは朱成功と呼ぶのが正しいのですが、成功自身は朱姓を名乗るのを遠慮して、鄭成功と名乗っていました。

さて優勢な清軍の前に情勢は日に日に悪くなって行き、さすがの鄭芝龍も明朝復興に見切りをつけて清軍に投降してしまうのです。状況判断といえば聞こえはいいですが、このあたり密貿易で鍛えたカンが働いたのでしょう。
鄭芝龍は息子の成功に、お前も明朝復活はあきらめて清に投降するように、と手紙を書きます。しかしそれを読んだ鄭成功は、子供には忠義を教えるのが親の務めではないか。離反を勧めるとは何事だ、と激怒するのです。

やがて優勢な清軍の攻撃の前に福州は陥落し唐王は殺されますが、脱出した鄭成功は厦門島と金門島を占領し、これを拠点として反攻の機会を窺います。
鄭成功の当面の目標は南京攻略でした。
1658年、10万の兵を集めた成功は、5月13日に厦門島を出発します。300隻からなる大軍団でした。
6月7日には平陽、13日には瑞安、16日には温州を包囲するという快進撃でしたが8月9日、羊山沖で暴風雨にあって主力艦の大部分と3人の息子を失うという事故が起きるのです。

昔から羊山沖には海龍が住んでいて、その怒りを買わぬよう事前に祀りをする慣わしがあり、船は海龍の眠りを妨げないよう、大砲を撃ったり、銅鑼を鳴らしてはならず、静かに航行するものとされていました。鄭成功は一顧だにしませんでしたが、迷信深い兵士たちはこの事故を海龍の怒りと信じ、見る見るうちに士気は低下していったのです。このため翌年4月まで成功は行動を停止せざるを得ませんでした。

1659年4月19日、鄭成功は長江をさかのぼって瓜州、鎮江を攻略します。
鎮江攻撃の時、鄭成功が編成した部隊の一部は、全身を鉄の甲冑でおおったので鉄人部隊と呼ばれ、清軍の恐怖の的になります。目、耳、口、鼻以外全身を鉄甲でおおい、手には斬馬刀を持ち、飛び来る弓矢をものともせず突撃していくのです。

この部隊がどこで編成されたか、指揮者は誰かは不明ですが、一説によれば鄭成功の要請で密かに派遣された日本人部隊だったという説もあります。事実この戦いの時、鄭成功側の五つの部隊の一つは日本人による外人部隊だったのです。話が前後しますが、鄭成功が江戸幕府に援軍を要請して断られたのは前年(1658年)のことです。この日本人部隊はどうやって編成されたのか?

鎮江が陥落した今、南京は指呼の間でした。
事態を重く見た清朝では皇帝の順治帝が自ら出陣するといい出しますが、左右の者に説得されて思いとどまっています。

ここまで来れば南京は陥落したも同じ・・・・・そう考えた鄭成功の心に油断が生じます。
南京の総司令官、郎廷佐は一計をめぐらし、鄭成功に 『降伏するが、都から家族が脱出するまで待ってほしい』 と申し出ます。清の援軍を待つための時間稼ぎでした。油断した成功にはそのウソが見ぬけません。

さら敵将馬進宝が内応するという情報を信じ、無為に時を過ごしてしまうのです。この間に清軍は着々と増援され、鄭成功が気づいた時には逆に完全に包囲されていたのです。成功軍は大敗北を喫し、片腕ともいうべき甘輝、万礼の2将軍を失い、瓜州、鎮江も放棄して厦門島へひき返さざるを得ませんでした。私は鄭成功の人間としての誠実さ、実直さは大いに認めますが、武将としての能力には疑問を感じます。似た人を日本の武将でいえば山中鹿之助でしょうか。

このままでは座して死を待つばかり・・・そう考えた鄭成功は、本拠地を台湾に移すべく行動を開始します。当時の台湾はオランダ領で、長官はコイエットといいました。
1661年3月、25000人の兵を乗せた鄭成功率いる船団は台湾海峡を渡り、一部隊は上陸。別働隊は難攻不落といわれたゼーランジャ城を包囲。鄭成功自身はブロビンシャ城を攻撃します。

奇襲攻撃だったにもかかわらずオランダ軍は良く持ちこたえましたが、陸海共に兵力で勝る成功軍が圧倒し、ブロビンシャ城は陥落。ゼーランジャ城は孤軍となって抗戦し続けます。

持久戦となりましたが、コイエット長官の要請で送られたバタビア(ジャカルタ)からの援軍は、成功の海軍に殲滅され、1662年2月著しく士気が低下したオランダ軍はついに降伏するのです。バタビアへ引き揚げたコイエットは軍事裁判で死刑を宣告されますが、特赦で終身刑に減刑。12年後保釈金を積んで釈放されます。

その後鄭成功は 『抗清復明』 のスローガンの下、ルソンに働きかけて共同戦線を計画します。
マニラの長官は、受け取った国書(共同戦線の要請)が高圧的だったことを怒り、報復のためキリスト教徒以外の中国人を追放するという返事を書くのです。

しかし鄭成功は、この返書を読むことはありませんでした。
返書が届かないうちに彼は熱病にかかり、39歳の若さで急死したのです。
オランダの降伏のわずか3ヵ月後、1662年5月8日のことでした。

鄭成功の死後、後を継いだのは長男の鄭経(ていけい)でした。
清とオランダの連合軍を破るなど、一時的には勝利を収めたものの優柔不断で、統率力に欠けるところがあり、投降者があとを絶たなかったといわれます。鄭経の死後、二男の鄭克爽(ていこくそう)が継ぎますがこの克爽の時に清に降伏し、鄭氏の戦いは完全に終わるのです。

●国姓爺合戦(近松門左衛門)のあらすじ

明の末期、明の将軍李韜天は韃靼王に内通し、明王朝は滅亡した。
思宗皇帝と華清皇后は宮殿に乱入した敵兵に殺されたが、皇子は明王朝に忠義を尽くす将軍呉三桂によって九仙山に、皇女は日本に、それぞれ落ち延びた。

明の遺臣鄭芝龍も日本に逃れ、平戸の女性を娶り一児をもうけた。やがてこの子(鄭成功)は母親が日本人なので『和』 、父親が中国人なので『唐』 。あわせて和唐内と呼ばれるようになる。

成功は成長すると中国に帰り、明王朝の復興を願って、韃靼の将軍甘輝に味方になるよう説得する。甘輝は鄭芝龍の先妻との間に生まれた娘、つまり鄭成功の異母姉の夫でもあった。

鄭芝龍は妻(成功の母)と成功と3人で甘輝の守る城に出向き説得するが、甘輝は芝龍の妻だけに会い、『女の縁にひかれて韃靼を裏切ることはできない』 と拒絶する。

しばらくして城外で待ってた鄭芝龍と成功は、川に紅が流れてくるのを見る。
これは鄭芝龍の妻が城内に入るとき、甘輝の説得に成功すれば白粉、不成功なら紅を流すといったので彼女の合図を待っていたのだ。しかしその紅は甘輝の妻(つまり鄭成功の異母姉)が事情を知って、夫の甘輝が明のために父や異母弟と力を合わせて戦ってくれるよう願って、自らの胸を刺して流した血だった。

甘輝は妻の死をムダにすまいと、明に味方することを約束。
呉三桂も皇子を奉じて挙兵する。
こうして鄭芝龍と成功は韃靼を打ち破り、逆臣李韜天を倒してついに明王朝を復興する。

まあ、呉三桂を忠義の武将と書いたり、鄭成功の片腕ともいうべき甘輝を敵将に設定したり、むちゃくちゃなところもあります(笑)が、明王朝のように一旦落ち目になった国家を復興させるのは古今を問わず不可能に近く、歴史は鄭成功の思いとは反対の方向に展開していきました。


■雍正帝

雍正帝(ようせいてい 在位1723〜1735)は清王朝4代皇帝です。
雍正帝の日常の政務を一つ。

雍正帝は、地方行政官からの書状を自ら目を通し、自ら返事を書きました。それまでの皇帝は、取次ぎの者から報告を受けるだけだったのですが、雍正帝の指示で、地方行政官に任地の状況(例えば天候や農作物の収穫、領内の様子など)を直接報告するよう義務付けたのです。

雍正帝は、毎日のように送られてくる報告書(手紙)をすべて読み、一つ一つに返事を書く。つまりああしなさい、こうしなさいと指示を与えるのです。これは即位してから死ぬまで続きました。地方行政官にすれば、怠ければクビになりますからまじめに報告せざるを得ないのですが、どちらが大変かといえば、雍正帝の方かもしれません。

話は変わって、雍正帝のスパイはそこいらじゅうにいる・・・当時の人はそう信じていました。
ある年の元旦。一人の家臣が仲間数人を呼んで自宅でカルタ遊びをしている時、カードが一枚が無くなってしまい、どうしても見つかりません。

翌日その家臣は雍正帝から、お前は昨夜何をしていたか、と問われると正直にカルタ遊びをしていましたと答えます。
このカルタ遊びは賭け事でしたが、雍正帝は賭け事を禁止していたのです。
すると雍正帝は笑いながら、これを無くしただろう。もう賭け事はするな、と一枚のカードをその家臣に渡します。それは昨夜どうしても見つからなかったカードでした。

またある男が人事異動で遠い土地へ赴任することになりました。召使は現地で雇うので今の召使は解雇しなくてはなりません。
男がその旨を召使に伝えると、彼は、私は数年間あなたに仕えてきましたが、あなたには特別な落度はありませんでした。皇帝陛下にはそうお伝えします、といったそうです。この男もスパイだったのです。

雍正帝は思想統制の一環として文章を厳しく検閲し、自分に批判的なもの一切を禁止します。
ここまでは良くあることですが、科挙の出題問題に 『維民所止』 という一節があったことでその出題者を処刑してしまいました。

維の字に亠をつければ雍正帝の雍、止の字に一をつければ雍正帝の正になります。
これは雍正の頭を切り落とそうとしているのだといい、さらに維民所止は維と止を民所で切り離している。ということは雍正帝の胴体を二つに引き裂くことだ、いうのです。徳川家康の国家安康、君臣豊楽のいいがかりと同じで、雍正帝はこれを反逆罪としたのです。

話は康熙帝の時代になりますが、1642年、内乱が続いたチベットでは、グシ・ハンが他の部族を倒してチベット全域を占領し王朝を築いていました。康熙帝がグシ・ハンをチベットの正当な支配者として認めていたのに対し、1724年、グシ・ハン一族の中で内紛が起きると雍正帝はこれに乗じ、年羮尭を司令官に任命し遠征軍を派遣。グシ・ハン一族を一挙に制圧したのです。

戦後措置として、チベットはタンラ山脈よりディチュ河にかけて二分され、西南部はガンデンポタンに支配させ、東北部は甘粛省、四川省、雲南省などの諸省に属させられることとなりました。現在の中華人民共和国はチベット民族の自治区を西蔵部分のみに限定し、その他のチベット各地を中国本土の諸省に編入していますが、この境界線分割方式はこの時決まったものです。

ガンデンポタンとは、ダライ・ラマを長とし、1642年に成立したチベットの政府です。(本拠地はラサ)


■乾隆帝

雍正帝の後を継いだのが乾隆帝(けんりゅうてい 生1711〜没1799)です。在位60年(1736〜1795年)は康煕帝の在位61年に次ぐものですが、これは乾隆帝が祖父康煕帝の在位期間を超えるのを遠慮して、次の嘉慶帝に譲位したためです。

乾隆帝は晩年、十全記というものを書きましたが、その中で自分(乾隆帝)は一生の間に10回の戦争を経験し、いずれも勝利したと自慢しています。10回の戦争とはこんな内容です。

金川(その1) 大金川(だいきんせん)は四川省の西北部の王国で、1747年周辺の小国(小金川)と戦争になったため、これを鎮定するため3万の兵を送った。しかし大金川を滅ぼすことはできず、停戦。
ジューン・ガル 1754年、ジューン・ガル王国のハン継承争いに乗じて出兵し、ジューン・ガル王国を滅亡させた。
アムルサナー ジューン・ガル王国の滅亡後、クーデターを起したアムルサナーだったが、1757年にこれを破り、アムルサナーはロシア領に逃げ込み、そこで天然痘にかかって死去。
ウイグル ウイグルはジューン・ガル王国の支配下にあったが、同国滅亡後は清の支配下になることを拒み、滅亡した。この後、現在の新彊ウイグル自治区と、ロシア領のトワ自治省が清の領土となった。
ビルマ 当時のビルマはアラウンパヤー朝の全盛期で、1767年アラウンパヤー朝がシャム王国を滅ぼすと、乾隆帝はこの隙に大軍を送り込んだ。しかし相手側の巧妙な戦術に翻弄され清軍は潰滅。乾隆帝は翌年も遠征軍を送ったが、これも失敗した。
金川(その2) 大金川は周囲の小国と争いは依然続いたが1771年、同盟して清に対抗するようになった。非常に困難な戦いで、4年後にようやく大小金川を滅ぼして終結。
台湾 1786年、台湾で秘密結社天地会の反乱が起こり、全島がほとんどその手に落ちたが、清軍に鎮圧された。
ベトナム 当時ベトナムは、レイ王朝は実権を失い南北に分裂していたが、南ベトナムのタイソン王家が北ベトナムのチェン王家を滅ぼしハノイを占領。レイ王朝の最後の君主、チエウトンを名目上の王としてハノイを統治させた。
1787年、タイソン王家は再びハノイを占領。チエウトンは清に亡命し、援助を要請したため、1万の清軍はハノイに入城。しかしこれはベトナム軍の罠で、完全に包囲された清軍はベトナム軍の攻撃で潰滅。
ネパール(その1) 1751年、チベットは清の保護下にありダライ・ラマが君主として認められていた。1790年、ネパール軍がチベットに侵入すると清の救援部隊の指揮官パジュンは戦わず、なぜかダライ・ラマにネパール軍へ金品を贈るよう指示した。パジュンは乾隆帝にはネパールが降伏したとウソの報告。
ネパール(その2) ウソはすぐばれてパジュンは河に身を投げた。ネパール軍がチベットに再度侵入すると、清軍はヒマラヤを越えてカトマンズに入ったがここで大損害を受けたため、ネパールと講和した。

中には勝利には程遠いような遠征もありましたが、これによって現在の中国の領土の基本ができたことは確かでした。

最初の金川への遠征だけで国庫収入の2年分の経費を消耗するほどでしたが、それが可能だったのは康煕帝以来の蓄財がいかにすさまじかったかを物語ります。しかし結局はこれが後になって財政を圧迫するようになるのです。

乾隆帝は、それまでの皇帝のように質素ではなく、北京の故宮博物館を見ればほんの一部を見ることができますが、まばゆいばかりの建築物、調度類の数々は中国史上最大ともいうべきものでした。
また一個人としての乾隆帝は父祖に劣らぬ勤勉ぶりで好学であり、康煕帝が編纂した康煕字典、雍正帝が刊行した古今図書集成に続き、乾隆帝も四庫全書と呼ばれるものを編纂しています。

叢書とはある分野の書物を集約したもので、経・史・子・集の4種類分類されたため四庫全書と呼ばれるようになったのです。
1741年に集書の詔勅が発せられて以来、中国古来のあらゆる書物を集めて書き写され、完成したのは1781年でした。集めた資料の中には、清王朝の国内統治上不都合なものは禁書になったり、内容を改ざん、削除されたものも少なからずありました。
四庫全書は、最終的には正副合わせて8部が作られましたが、列強の中国侵略で戦乱に焼失するものもあり、今日では4部が現存しているようです。

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乾隆帝のエピソードです。
乾隆帝が楊州を訪れたとき、接待を仰せつかった地元の商人が、満州民族の料理と漢民族の料理を組み合わせた料理を創作しました。あまりの品数の多さに一度では食べ切れず、合間に詩歌管弦や観劇などの休憩も行い、宴会が終わるのに数日を要したとのことです。この宴会料理は、満州民族と漢民族の料理を組み合わせたということから、後に満漢全席と呼ばれるようになりました。

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デパートのことを百貨店といいますね。その由来は乾隆帝に関係しているようです。
乾隆帝はおしのびで宮殿を出て市内を見物するのが好きだったらしく、その日もいろいろ見て回っていました。
すると萬貨全という看板で商売をしている雑貨屋が目に止まりました。萬貨全とは、品揃えが豊富でないものはない、というような意味です。

これを見た乾隆帝は、店のオヤジをからかってやろうと思って中に入り、番頭に糞叉子を注文しました。糞叉子とは家畜の糞を片付けるための道具です。
その番頭は早速何種類かの糞叉子を持って来ましたが、乾隆帝は 『鉄のではない。金でできた糞叉子がほしい』 というのです。だいたい、金でそんなもの作るか〜?(笑)

やがて店の主人が出てきて事情を知ると、主人と番頭は乾隆帝に、金製の糞叉子はございません、と謝るしかありません。
乾隆帝が、この店の看板には萬貨全と書いてあるじゃないか、というと、主人と番頭はすぐに看板を下ろしてから、これから何という屋号にすれば良いかと尋ねるのです。

乾隆帝は笑って、萬貨全ではなく、百貨全にしたらどうだ、といったそうです。
これが百貨店という名称の語源だとか。

乾隆帝は康煕帝、雍正帝が確立した政治的、財務的財産を継承し多くの遠征や各地を巡行し、天壇や紫金城などの新改築を行いました。彼自身は先代、先々代のように質素ではなかったのです。

この時代、貨幣経済が全国に行き渡ります。自給制は崩壊し、農民も金を得るために農作物を市場で売るようになりました。経済は発展し、商人は国内はもとより、商品を外国に輸出するようになるのです。主な輸出相手はイギリスで、商品はお茶でした。
これが後になって、中国の不幸のはじまりになるのです。

乾隆帝の晩年、たび重なる遠征や大規模な建築工事は財政を疲弊させ、各地で反乱が起こるようになります。このころ清王朝は元を除けば中国史上最大(現在以上)の領土を得ますが、それは同時に腐敗と退廃のはじまりでした。その後中国は次第に、そして坂を転げ落ちるように急速に衰退していきます。


■アヘン戦争

アヘンは明の時代から中国に輸出されていました。最初は医薬品として用いられましたが、嗜好品になったのは清の時代になってからです。東インド会社は1780年アヘンの専売権を得た後、アヘンの輸出に力を入れるようになります。
それまでは東インド会社は清から茶は買うものの、見返りとして売る商品がなかったのです。

中華思想上、イギリスの特産品である毛織物は清の人にとっては 『野蛮人の着物』 でしたが、別の見方をすればイギリスはもとより、当時のヨーロッパに比べ、清がいかに物質に恵まれた国であったかを意味します。

余談ですが、かつて満州族は中華思想上は蛮族でした。
その蛮族である満州族が中国を支配したため、自らが中華思想に毒されるようになったのは皮肉な現象です。

当時のイギリスは3時のティー・タイムの習慣が一般化し、茶の需要が急速に高まっていました。アッサムやスリランカで茶の栽培がはじまったのは後年のこと。茶は中国から輸入する以外方法がなかったのです。貿易収支の均衡を図るべく、イギリスが力をいれたのが、アヘンの輸出でした。

アヘンの輸入量は急増しました。
1821年には4770箱でしたが1838年には23000箱(1300トン)、清側が決済する銀に換算して1500万両にのぼりました。これは清朝の年間歳入が4000万両でしたから約38%にもなったのです。

もはや、清にとって貿易などという生易しい段階ではなく、このまま行けば亡国は必至だったのです。
清の朝廷ではアヘン対策として二つの意見が出ました。
一つはこれほど広まっているのだから密輸ではなく、正規の貿易ルートに乗せて監視する方法であり、アヘンで自滅する者は勝手に自滅せよという方法であり、もう一つは厳罰主義で、1年の猶予を与えた後、それでも改めない者は死刑にする、という方法でした。
そして後者に賛成した人の中に林則徐(りんそくじょ 1785〜1850)という人がいました。

林則徐がさらに具体的な方法を具申すると、皇帝(道光帝)は彼を欽差大臣に任命します。欽差大臣とは皇帝の特命を受けて、問題解決のために全権を授けられた者のことです。

1839年3月、林則徐は広東に到着するとアヘン商人から20283箱のアヘンを没収し、20日かけてこれを処分することに成功しました。
イギリスはアヘンを中国にもちこまないという誓書の提出を拒否し、7月に九竜でイギリス人水夫が村民を殺害する事件がおこると両国の関係はさらに険悪となり、イギリス人はすべて国外追放となります。

これに反発したアヘン商人達は帰国し、パーマストン外相に働きかけて出兵を要請します。その結果、イギリス議会は戦争賛成271票、反対262票で可決し、ここに遠征軍を送ることになるのです。

・・・その原因がかくも不正な戦争、かくも永続的に不名誉となる戦争を私はかつて知らないし、読んだこともない。今私と意見を異にする紳士(戦争賛成演説をしたマコレーのこと)は広東おいてひるがえる英国旗について言及した。だがその旗は悪名高い禁制品の密輸を保護するためにひるがえったのだ・・・・


開戦反対を唱えたグランストンの演説です。
そのとおり。これほど恥知らずな戦争というものが古来あったためしはなく、イギリスは永久に歴史に汚点を残したのです。

近代兵器で武装したイギリス軍の前に、清軍はあっけなく壊滅してしまいます。
清、いや、中国の悲劇はここに始まりました。林則徐は腐敗した清の官僚のなかにあっては珍しく清廉な人でしたが、あわれ敗戦の責任を負わされて地方に左遷させられてしまうのです。

アヘン戦争の敗北は、同時に中国册封体制の終焉でもありました。
册封体制とは古代より近世に至るまでの 『中国式東アジア統治方式』 で、簡単にいえば中国が頂点となり、周辺諸国を従属させるものでした。もちろん中国から見れば日本もその対象です。

中国の最高権力者は皇帝であり、従属した周辺諸国の最高権力者は王を称することが中国皇帝から許されました。ですから、邪馬台国の卑弥呼が魏に朝貢し、魏から賜った印璽には親魏倭国王と、王の称号が入っているのです。有名な金印に書かれた漢倭奴国王もまた同様です。また、中国皇帝は従属国を保護する義務がありました。秀吉の朝鮮侵略に対して明が朝鮮に派兵したのはこのためです。

1844年、アメリカとフランスは清国敗北につけこんで、イギリスと同様の戦勝国としての待遇を清国に強制します。中国が列強諸国の半植民地化していくのはこの時にはじまります。また南京条約で香港がイギリスの植民地となり、1997年に返還されたことは承知のとおりです。


■西大后

清王朝の末期に君臨したのは皇帝ではなく、一人の女性、それも平凡な庶民出身の娘でした。彼女は皇帝の側室として宮廷に入り、数々の幸運が味方したため権力を掌握し、思うがままに朝廷をあやつるようになったのです。
その時代は19世紀半ばから20世紀初めに至る約50年間。すでに清王朝は崩壊に向ってすさまじい勢いで坂を転がり落ちていった時期でした。

西大后(1835〜1908)は満州人恵徴(けいちょう)の娘として安徽省に生まれました。16、7歳で父をなくした彼女は、即位したばかりの咸豊帝(1831〜61)の宮女・秀女の募集に応募すべく北京に向ったのです。

B A @ 人数 等級





   

 


不定 下級
妃嬪



中級
妃嬪
六人
四人 貴級
妃嬪



二人


    一人

    一人  

ここで中国王朝の皇后や妃嬪(側室)の制度について少々書くことにします。この制度は各王朝によって内容は少々異なりますが、左の表は清王朝のものです。

宮女や秀女は宮廷内の女官ですが、格が違います。もし皇帝の『お手』がつけば、どちらも妃嬪(側室)として扱われますが、宮女は常在という最下級位からはじまる(表の@)のに対して、秀女はいきなり中級妃嬪である貴人となります(表のA)。

宮女は25歳までに皇帝のお手がつかなければ、実家に帰れますが、秀女は生涯を宮廷ですごさなければなりません。皇后を選ぶ時は、しかるべき家柄の娘を数人候補として選びますが、皇后になれなかった者は貴級妃嬪の妃以上として遇されます。なお皇貴妃とは、皇后がなくなった場合に皇后となるべく選ばれた人のことです。このように側室も階級があるのですが、中国史上最も有名な貴妃といえば、楊貴妃でしょう。

西大后は、秀女として宮廷に入って3年で貴人から嬪になったようですから、いちはやく咸豊帝のお目にとまったのでしょう。1856年に息子戴惇(さいじゅん)を生んで妃となり、翌年には貴妃になっています。(この時点では西大后は、まだ西大后と呼ばれてはいませんでしたが、便宜上このように書きます)

戴惇は咸豊帝のただ一人の皇子であり、生母の西大后の権力は高まり次第に政治にも口出しするようになってくるのです。

 

1860年9月。
天津条約に不満を持つイギリスとフランスの連合軍が北京に入城すると、咸豊帝は驚き慌てて熱河(河北省)の離宮に逃げます。北京に残って連合軍と交渉したのは軍機大臣の恭親王(咸豊帝の弟)でしたが、咸豊帝は恭親王より怡親王、鄭親王、鄭親王の弟の粛順を信頼していたため、この3人も咸豊帝に同行しました。
ところが翌年7月、咸豊帝は病に臥し、死期を悟った帝は上記3人に息子戴惇のことを頼み、皇后(後の東大后)には密かに遺詔を与えるのです。

私は西大后を信じていない。もしあの女にけしからぬふるまいがあったら、そなた(皇后)は重臣を召集し、この詔を見せて、即刻あの女に死を与えよ。

という内容でした。

咸豊帝の死後、皇后は宮廷内の東六宮に住んだため東大后と呼ばれ、戴惇の生母は西六宮に住んだため西大后と呼ばれるようになります。皇帝(同治帝)となった戴惇にとっては共に母でした。

このころから西大后の権勢欲は、加速度的に膨張していきます。
そのために邪魔な怡親王、鄭親王、粛順を謀殺すると政治は恭親王にまかせ、自分は権力を私物化していくのです。兄弟をとりたてる、父親の葬式のとき多額の香典をつつんでくれた男を要職につける、幼なじみの男(実は西大后の愛人)を母の弟ということにして内務府総管大臣という職につける・・・よくあるパターンです。

そのうち同治帝が病に倒れ、19歳の若さで亡くなってしまいます。病名は梅毒とも、天然痘ともいわれていますが、その2ヵ月後には同治帝の皇后も急死するのです。原因は不明ですが、姑の西大后からはいびられ続けた、という記録もあります。

続く皇帝は4歳の戴恬(さいてん)でした。後の光緒帝です。
戴恬の母親は西大后の妹でしたから、西大后は引き続き権力をほしいままにできたのです。

このころになると西大后は、東大后と恭親王が邪魔になってきています。東大后という人は政治感覚はまったくなく、ただ人が良いだけの奥様だったようで、下心があることに気がつかず自分にあれこれ親切にする西大后をすっかり良い人と思いこみ、こともあろうに咸豊帝が死の直前に渡した詔を西大后の目の前で破り捨ててしまったのです。内心の驚きを隠しつつ、感激した西大后は東大后に対してあらためて信頼を誓うのです。

1880年3月、病床にあった西大后を見舞った東大后は、お土産に貰った餅を食べて急死。1885年にはフランスとの戦争の責任をとらせるという名目で、恭親王を追放してしまうのです。もはや宮廷には、西大后が遠慮する相手は誰一人いません。

1898年、日清戦争後の中国は列強にとって格好の餌食でした。
この国難は宮廷内に改革派(変法維新派)を誕生させます。
彼等の計画は、光緒帝を使って西大后等の保守派を追放することでした。

しかし西大后のスパイはこの動きをいち早くキャッチし、光緒帝は幽閉され、改革派のリーダー、康有為と弟子の梁啓超は日本に亡命。6人が死刑になっています。後のこの6人は 『戊戌六君子(ぼじゅつろくくんし)』 と呼ばれるようになります。
幽閉された光緒帝には囚人より悲惨な毎日が待っていました。食事はひからびていたり、腐りかけていたり、とうてい口にはできず、飲み物には微量の毒薬が含まれていたらしく、光緒帝は日に日に衰弱していくのです。

1900年、義和団の変が起き、義和団がドイツ公使を殺害すると、ドイツ、フランス、日本など8カ国の連合軍を相手にした戦争がはじまります。7月20日、連合軍は北京に入城。21日には西大后は北京を脱出。光緒帝も同行しました。連合軍に捕らわれては利用されるだけと判断したためです。

この時光緒帝が寵愛していた珍姫(ちんき)は西大后に、逃げるよりは北京にとどまり連合軍と交渉すべきだ、と諌言したため西大后の怒りに触れ、井戸に投げ込まれて殺されてしまいます。

9月4日、西大后の一行は西安に到着。
その後連合軍との交渉がはじまり、1901年7月にようやく調印するに至るのです。辛丑条約(しんちゅうじょうやく)です。

西大后は、その年の11月に生まれてはじめて汽車に乗って北京に戻りましたが、その後の西大后はなぜか西洋かぶれになっています。それまでは西洋のことは毛嫌いしていたのですが、汽車旅行が快適だったためともいわれています。北京在住のヨーロッパ各国の公使夫人を招いて宮廷午餐会を開いたり、自分の肖像画を描かせたりしたのです(左の絵)。

さて、1908年の春から、光緒帝はますます衰弱し、口もきけないほどになってきていました。10月10日は西大后の誕生日で、彼女は船遊びをしたり、観音菩薩に扮したりして遊んでいましたが、祝賀の宴に光緒帝が来ないことを非難しています。

10月20日、光緒帝の死が近いことを知った西大后は、次の皇帝に醇親王の長男を指名しました。これが最後の皇帝、溥儀です。

翌21日19時、光緒帝は死去。
その数日前から西大后も体調を崩していましたが22日17時に崩じてしまうのです。
偶然とはいえ、あまりに近い二つの死じは様々な憶測が生むことになります。

西大后の臨終の言葉は、以後女をして国を当たらしむるべからず。これ本朝の家法に違背すればなり、というものでした。
どういう考えでこういったのでしょうか?


●略式系図

愛新覚羅一族は膨大な人数がいますので、例え半数でも系図に書くのは非常に困難です。ですから、ほとんどを略して代表的なところを表すことにします。@は皇帝としての順番です。

 

 

清王朝は必ずしも長子相続制ではありません。ホンタイジはヌルハチの8男、順治帝はホンタイジの9男ですし、乾隆帝は雍正帝の4男でした。また醇親王、粛親王がそれぞれ2人いますが間違いではありません。

○○王の横にある( )内はその人の実際の名前です。
ホンタイジの長男の粛親王の子孫が東洋のマタハリと呼ばれた顕し、日本名川島芳子です。

また緑、赤、青の字にご注目を。
清王朝では兄弟、従兄弟など世代が同じ人の名前には共通の一文字をつける習慣があったのです。

これを字輩(じはい)といい、明王朝にもこの習慣がありました。清王朝では乾隆帝の命令で以後習慣化したのです。子孫の世代がすぐわかります。
この一文字は勝手につけることはできず、永・綿・・奉・慈・娯を使うよう決められていました。永綿(えいめん)と載(とし)を奕(かさ)ね、慈(はは)の娯(たの)しみに奉(ほう)ずる、という意味です。

さらに咸豊帝は奉・慈・娯を・毓・恒・啓に変更しました。溥(ひろ)く毓(そだ)て恒(つね)に啓(ひら)く、という意味です。ですからラストエンペラー溥儀の溥は勝手に付けた文字ではなく、はじめから溥の字を使うよう定められていたのです。

(1) 最初に書いたようにあまりにも人数が多いので永・綿の字がつく人は省略していますし、奕・載・溥の字の人もごく一部だけ記載しました。
(2) 資料によってはヌルハチを初代皇帝としているものもありますが、皇帝を称するようになったのはホンタイジからなので、ホンタイジを初代皇帝としています。

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