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和田城


 

所在地 高崎市高松町
築城年 15世紀はじめ
築城者 和田義信?

 

 

ここでいう和田城とは和田氏が築いた城であって、高崎城のことではない。
とかく両者は同一 (和田城とは高崎城の別名などと書かれた資料もある) のものと考えられがちだが、高崎城は和田城の廃城後の跡地に築かれた城であり、所在地は同じでも両者は別のものである。

平安時代、この地は赤坂のと呼ばれていたが、鎌倉時代になって和田氏が移り住んでからは和田宿と呼ばれた。高崎と呼ばれるようになったのは、1598年徳川四天王の一人で箕輪城主だった井伊直政(1561〜1602)がここに移り、地名を変更した後のことである。

井伊直政は廃墟だった和田城の遺構の大部分を改修し、あらたに高崎城を築いたため和田城の痕跡はほとんどが失われている。
ほとんどというのは、かつてわずかに残された部分があったからだ。

下図は高崎城の縄張図だが、城郭研究の第一人者山崎一氏によれば、西郭 (左図 赤く囲った部分) は北の榎郭と南の西の丸をつなぐ重要な郭であって、この絵図のような複雑な構造はその機能を阻害する、と述べておられる。

山崎氏によれば、この西郭は高崎城を築城するとき新たに工事をしたものではなく、それに先行する構造。つまりすでに築かれてたものと考えられる。したがってこれが高崎城においてわずかに残された和田城の痕跡(櫓台)なのだ、という。

この西郭、いや、和田城の遺構は現在は完全に消滅している(下図 右)。
西郭は現在の和田橋の市街地側のたもとにあったが、ここは国道17号線と片岡地区と市街地を結ぶ道路の交差点であり、朝夕は県下でも有数の渋滞箇所だった。

私も会社員時代、通勤時はここを通るので、渋滞を見越して早めに家を出なければならなかった。このため交差点の真下に地下トンネルを掘り、国道17号線を通したのである。確かにここの渋滞はほぼ解消された。しかしここがスムースに通行できるということは、その先の交差点が渋滞することになる。
結果として、その先の交差点の向こうに勤務地があった私にとっては、地下トンネルのメリットはまったくといっていいほどなかった。

かつて存在した和田城櫓台跡(左図 赤い枠)
右の建物は高崎市役所

しかし現在は痕跡すら残っていない

高崎城縄張図 群馬県古城塁址の研究(山崎一)より


私は残念でならない。
こんなことは工事をはじめる以前から分かっていたはずだ。それでも工事を強行したのは、政治家の利権とメンツによるものだろう。この暴挙によって、貴重な遺構が跡形もなく消滅してしまったのだ。


■和田氏について

和田氏の祖は鎌倉時代、初代侍所別当だった和田義盛(1147〜1213)だという。
和田義盛は坂東八平氏の一つ、三浦氏の三代目当主だった杉本義宗(1126〜1164)の長子で、相模国三浦郡和田を領して和田氏を称した。

義盛は源頼朝にしたがって多くの武功をあげたが、頼朝の死後北条氏と対立し、その挑発を受けて挙兵せざるを得ない状況に追い込まれた。この戦いで義盛は戦死し、和田一族は滅亡した。和田合戦という。

しかしどのような経緯かはわからないが、義盛の八男義国は乱戦の中を潜り抜け上野国(群馬県)に落ちのび、和田山(高崎市箕郷町)に住み着いたという。(一説には和田山に逃れたのは義国の兄の子義信ともいわれている。)

 

和田山。和田義信の館跡と伝えられる
(高崎市箕郷町)
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当地の郷土史では、1230年ごろ和田義国が赤坂村に移住すると、以後この地を和田と改めたと書かれている。
しかし、和田義国は赤坂村のどのあたりを改名したのだろうか。(赤坂という地名は赤坂町となり、現在もなお高崎市に存在している)

赤坂は、平安時代にはすでにその呼び名があったほど古い地名だが、現在の赤坂町よりはるかに範囲は広かった。
江戸時代初期、井伊直政が箕輪からここに移ったとき赤坂村は数箇村に分離され、各々別の村になった。例をあげれば現在の高崎市本町はかつては赤坂村の一部だった。

現在、和田町とか、上和田、下和田、和田多中という町名が高崎市にはあるが、これらは和田氏が名付けた町名ではなく、江戸時代以降昭和に至るまでの間に行政上の都合でつけられた町名なのだ。和田義国が改名したのは赤坂村の一部の地域、たとえば自分の領地の領有権を主張できる地域だけだったのかもしれないし、あるいは意識的に地名を変えたのではなく、和田氏が移住したため、自然派生的に和田と呼ばれるようになったのかもしれない。


■和田業繁

義国の後、和田氏は正信、正高、信高、高重、重信、義信と続き、この義信が正長年間(1428〜1429年)に和田城を築城したという。
築城当時の和田城の規模はまったく不明だが、館の周囲に堀を巡らし掘った土を土塁とした程度のものだったろう。

なぜなら永禄9年(1566年)4月、上杉謙信は13000の大軍で和田城を攻撃したが、このとき和田城にこもった城兵は城主和田業繁以下、わずかに900だった。
この中には武田信玄からの救援部隊300が含まれるので、和田方の軍勢は600。しかも和田氏の直属の家臣だけではなく、和田城周辺の豪族も含まれるから和田氏の純粋(?)な動員能力(兵力)は500人程度だったのではないか。

戦国大名の動員能力は1万石あたり250人程度といわれている。
ならば和田氏の勢力範囲はせいぜい2万石である。後の高崎藩は5万石といわれたから、これは実数からそれほどかけ離れた数値ではいないだろう。
弱小といっていい和田氏が、それほどの大規模な城郭を造れるはずがない。

義信の後は信忠、信清、信種、信輝、業繁、信業、業勝と続く。業勝は和田氏滅亡後会津の保科氏に仕えたという。
和田氏代々の中で、ある程度事跡がわかるのは和田業繁(わだ なりしげ ?〜1575)である。


■河越の合戦

天文15年(1546年)4月、関東全域の支配を目指す小田原北条氏の武蔵国(埼玉県)への侵略を阻止すべ、く山内・扇谷の両上杉氏と古河公方足利晴氏は手を組み、80000の兵を以って北条方の拠点河越城(埼玉県川越市)を取り囲んだ。これに対し北条側の兵力は河越城の3000と、救援に駆けつけた北条氏康(1515〜1571)の兵8000であった。
しかし、兵力1/10という絶対不利の状況ながら北条氏康は巧みな作戦を展開し、結果として大勝利を収めることになる。

この戦いはその後の関東の歴史に大きな影響を与えた。
扇谷上杉家は滅亡し、平井城(群馬県藤岡市)に逃げ帰った関東管領山内上杉憲政はその後武田信玄との戦いにも敗れ(小田井原の戦い)、北条氏の圧迫にも耐えかねて平井を捨てて越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ち延びることになる。

祖父の信輝に連れられて出陣した和田業繁にとってこれが初陣だったが、負け戦でさらに信輝は戦死するという無念の一戦であった。一説によれば、信輝は業繁の父ではなく祖父だという。祖父が孫を連れて出陣というのも妙な話だが、事実とすれば業繁の父は早くに亡くなったのだろう。

 

さて戦国時代、有力大名のいなかった上州では近隣の大勢力(上杉・武田・北条)による争奪戦が繰り広げられ、中でも前橋・高崎付近はこの三大勢力の抗争の中心地だった。
この時代、和田氏のように大国間の狭間に位置する小豪族などあわれというほかない。

いずれかの勢力に属さなければ家を保つことはできず、その選択を誤れば滅亡が待っているのだ。
自然、こうした小豪族は情勢に敏感で利害に聡くなる。

そのような状況下で当初関東管領上杉氏に属していた和田氏は、はじめは上杉謙信、続いて武田信玄に従った。武田家滅亡後は織田信長の家臣滝川一益に属したが、滝川一益が上州を去った後は北条氏に属し、北条氏とともに滅亡することになる。

少し先走った。
話を戻して和田業繁に関係した戦いを簡単に紹介する。
ただし、和田氏の事跡について記された資料は関八州古戦、和田記などがあるが、いずれも江戸時代の資料で信頼性は必ずしも高いものではないことをお断りしておく。

 

 


■三寺尾の合戦

天文16年(1546年)、武田信玄は、信州の佐久の要衝志賀城を包囲。城主笠原清繁は、関東管領上杉憲政に援軍を要請した。
河越の敗戦以来、日に日に情勢が不利になっていた上杉憲政は何とか体勢を挽回すべく、要請を快諾。家臣の諫言を無視し、金井秀景を総大将として援軍を派遣した。金井秀景は倉賀野氏の重臣で、河越の合戦で戦死した倉賀野行政の代わりに倉賀野城を護っていた男である。

しかし援軍が派遣されたものの、佐久の小田井原で上州軍は3000もの戦死者を出して大敗。ほどなく志賀城は陥落し、笠原清繁も討ち取られてしまう。
武田信玄が討ち取った上州軍兵士の生首を志賀城の前にさらし、城兵の戦意を喪失させたのはこの時のことである。

その2年後天文18年(1548年)、武田信玄は上州に侵入。南牧から妙義を通り鬼面に到達したという。
この時のことが甲陽軍鑑(現代語訳)にはこう記されている。

天文18年8月18日の巳の刻(10時)晴信公(*1)は甲府を発って上野へ軍を進められる。鬼面(*2)というところまで敵地を焼き払い、奪いなされた。そこで上野侍の安中越前守は、思案して同国の城主たち9人が集まって、総勢6000ばかりで、すぐ上野三寺尾(*3)に陣をしいて、各勢が力合わせてけなげにも晴信公に対して、何とか進攻をくいとめようというので、9月3日卯の刻(朝6時)に、おずおずと合戦を始める。

甲州方では碓氷峠の切所(要害)を越えて、他国、上野での初めての出陣のため、いかに小敵とはいえ慎重に配慮して全軍は動かず、内藤修理・原加賀守・同隼人佐・馬場民部・浅利式部丞・小宮山丹後守の五軍勢でもって反撃して追い散らし、雑兵ともに527討ち取り頸帳にしたためて同日巳の刻に勝鬨をとり行われる。

*1 晴信 武田信玄のこと。信玄は壮年になってからの法名。
*2 鬼面 訳者は鬼石町としている
*3 三寺尾 現在の高崎市乗附町、石原町、寺尾町のこと


信玄は碓氷峠から侵入し鬼面(鬼石?)まで兵を進めたというが、碓氷峠から三寺尾のほぼ中間点にいる安中氏が、安中の地を離れて遠く三寺尾で戦うというのは不自然というほかない。この時点では安中城が信玄に落とされていない。さらにこの地域には松井田城、国峰城をはじめ、信玄に敵対する大小の城砦が数多く、武田信玄ほどの用心深い男が、これら敵の城砦をそのままにして鬼石まで進攻するであろうか。三寺尾の合戦は史実かどうか、いささか疑問である。


■瓶尻(かめじり)の合戦

上杉憲政が越後へ逃れた後平井城は北条氏のものとなったが、憲政の要請を受けた長尾景虎(のちの上杉謙信)は天文22年(1552年)上州へ進攻しこれを奪還した。これに対して、このままでは上州は上杉謙信のものになってしまう、と考えたのだろう。北条氏康は武田信玄と協定し、氏康は野州へ信玄は上州へ兵を出すことになった。

弘治3年(1557年)4月、武田信玄の嫡子義信は13000の兵を以って上州に侵入し、瓶尻において箕輪城主長野業政率いる上州勢と戦いこれを破った。和田業繁は倉賀野、小幡、安中、白倉、多比良等の諸将とともに参戦している。

緒戦は優勢だった上州勢だが、次第に武田勢に押され総崩れとなり退却。3日後には武田勢は箕輪に兵を進め、東の法峯寺に陣して攻撃を開始した。
現在の法峯寺は箕輪城の廃城後移ったのであり、当時は城の東にあった。

箕輪城を攻撃したものの武田方は長野業政の巧みな指揮で損害が多くなり、上杉謙信の信濃侵入の報を受けて25日には城の包囲を解き帰陣した。瓶尻の所在は今尚不明だが、松井田町人見ともいわれている。


■上杉謙信との戦い

永禄4年(1561年)、上杉謙信は越後・関東の諸将を合わせて11万の兵を率いて小田原へ進撃した。
このとき謙信方として従軍した関東諸将の名簿(関東幕注文)が上杉家に伝わっていて、その中に箕輪衆の一人として和田業繁の名前が載っている。

業繁の母は箕輪城主長野業政の妹で、さらに妻は業政の娘だった。
和田氏は、箕輪の長野氏の配下と認識されていたのだろう。

さて、謙信は小田原城を包囲攻撃したものの、要害堅固を以って知られた同城を落とすことはできず攻略を断念し、その後鶴岡八幡宮で関東管領の就任式を行った。その式の最中、武蔵国忍城 (埼玉県行田市) の城主成田長康は謙信から受けた侮辱に怒り、兵をまとめて帰国したという。成田長康がどのような侮辱を受けたかは不明だが、謙信を見限る武将が続出したらしい。和田業繁もその一人で、ほどなく業繁は武田方に内通することになる。

 

和田業繁に喜兵衛という弟がいた。上杉謙信の近習で、第4回川中島の合戦のとき謙信が武田勢の追撃を振り切って戦場を脱したとき、付き従っていた従者の一人である。
当時和田城にいた喜兵衛は、武田に内通した兄が金井秀景、高山泰重等と謀り箕輪城を攻める計画をたてていたことを知り、朋輩の小野伝助とともに厩橋城 (前橋市) にいた謙信に、和田城へ兵を向ければ城内で自分も兵を挙げると密使を送った。

謙信は早速手勢を率いて和田城に向かったが、小鳥 (高崎市上小鳥町、下小鳥町) のあたりに来たとき、謀が露見して和田城を脱出してきた喜兵衛と伝助に会い、事情を知って怒って二人を斬ってしまった。

このあたりのことを上野国赤坂庄和田記によれば謙信は、

未熟ノ内通シテ、由ナキ出馬ヲ勧ムルコト奇怪ノ至リナリ

といい、両名を斬った後、さらにこういった。

此上ハナシ、相違シタレバトテ是迄ノ発馬シテ帰詮モナクシテ無下ニ厩橋ニ引返サバ渠儕後日ノ笑草タラン。所存アリテ小勢を倶シタレドモ勝負ハ兎モアレ一責攻メテコソ思案モ有ベシ

つまり、このまま何もせずに厩橋に引き返しては笑いものになってしまう。小勢だが勝敗はやってみなくてはわからない、と、そのまま和田城に押し寄せたが兵は少なく戦い疲れ、城外に放火して厩橋に引き上げたという。

 

以上は上杉謙信の第一次和田城攻撃だが、第二次和田城攻撃がある。
上杉謙信にとって武田方に寝返った和田城は、厩橋城から南下するときの最初の障害、敵方の城となる。
このため、上杉謙信の和田城攻撃は避けられないものであった。

永禄9年(1566年)4月、上杉謙信は柿崎景家を先陣とする兵13000を以って和田城に向かった。
これに対し、和田城方は600の城兵に、武田信玄から派遣された武将、横田康景の鉄砲足軽を中心とする300。合わせて900という寡兵であった。しかし和田業繁以下、城兵は必死に防戦し、横田康景率いる鉄砲隊の奮戦も功を奏し上杉勢を撃退することに成功した。戦後信玄は箕輪城から和田城へ出向き、和田業繁の働きを賞したという。


■神流川の戦い

天正3年(1575年)5月、長篠の合戦で武田方の将として君が臥床砦(きみがふしど とりで)にいた和田業繁は、徳川家康の家臣酒井忠次の奇襲を受け重傷を負った。君が臥床砦は鳶ケ巣山砦などとともに、長篠城を包囲するため武田軍が急造した砦である。
業繁は福島嘉兵衛、真下下野、栗原内記、松本九郎兵衛、秋山縫殿亮、大澤定吉、長島因幡等七将に救出され戦場を離れたが、退却の途中信州駒場で死亡した。
この救出劇はよほど困難な戦いであったらしく、福島嘉兵衛以下七将は後に矢中七騎と呼ばれ武勇を賞賛されることになる。

和田業繁の後を継いだ信業(のぶなり 1560〜1617)は武田家の家臣跡部勝資の子で、業繁に請われてその娘婿になった。
天正10年(1582年)3月、武田家が滅びると上州は織田信長の家臣滝川一益が支配するところとなり、信業もこれに従った。しかしその3ヵ月後の6月2日、本能寺で信長が倒れると中央での政変に応ずべく、滝川一益は上方へ向かわなければならなくなった。そこで起きたのが神流川の戦いである。


滝川一益の家臣は上州の諸将には信長の死を隠し、信長の命で上方へ上ると告げるべきと進言したが、一益はこれを拒否した。
一益がいうには、悪事千里を走るという。このようなこと(信長の死)は黙っていてもすぐ知れ渡るものだ。それなのに信長の命で上方へ上るなどと嘘をいえば、バレたときは上州諸将の信を失い、かえって窮地に陥る、と。

一益の判断は正しかっただろう。
信長の死は、ほどなく北条氏にも上州武士達にも知られるところとなった。

北条氏政、氏直父子は直ちに5万の兵を率いて上州へ進発した。大混乱しているであろう上州を支配できる絶好のチャンスと思ったのだろう。火事場泥棒のようなものだ。
鉢形城 (埼玉県寄居町) の北条氏邦は800の兵で金久保(金窪)に布陣した。神流川をはさんで倉賀野は目と鼻の先である。

6月18日、滝川一益は北条氏邦と戦いこれを撃破したが翌19日、北条氏政、氏直が到着すると形勢は逆転。2000の戦死者を出して倉賀野城に退却し、その後厩橋城へ引き上げた。
一方北条勢は勝利したものの損害も大きく、滝川勢を追撃することはなかった。

 

神流川の戦いの碑(高崎市新町)

軍配山古墳(玉村町)
滝川一益は、この上で戦いを指揮したと伝えられる

 

北条勢が動かないことを知った一益は20日、厩橋で戦死者の供養をし上州諸将から預かった人質を解放した後箕輪城に移り、ここで上州諸将と別れの酒宴を催した。
一益が鼓を打って、「武士の交り頼みある仲の酒宴かな」と謡えば、倉賀野城主金井秀景は「名残今はと鳴く鳥の」と唄い、互いに名残惜しんだという。

滝川一益が去った後、上州の諸将のほとんどは北条氏に従った。和田信業もまた。
しかしまもなく大変革が訪れる。豊臣秀吉の小田原攻めである。

秀吉の命を受けて上州に進攻した上杉景勝、前田利家の軍勢は西上州の諸城を次々に落とし、和田城もあえなく落城した。和田信業はこのとき小田原城にあって豊臣勢と戦ったが、小田原落城後は北条氏直とともに高野山へ行き、氏直の死後は小笠原家に仕え、その部将として大阪の陣で戦った。信業の死後、嫡子の信勝は保科家に仕えたという。

高崎市下之城町の徳昌寺は、和田業繁の祖父、信輝を開基とする。ここには和田氏一族の墓がある。

 

徳昌寺 和田氏一族の墓

こうして和田城は廃城となったが、やがて箕輪城の井伊直政によって高崎城として生まれ変わるのである。ついでに書くと、連雀町や田町は井伊直政が箕輪から高崎に移るにあたり箕輪から持ってきた(?)ものである。また椿町の「椿」とは箕輪の椿山権現に由来する。


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