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倉賀野城


 

所在地 高崎市倉賀野町
築城年 1400年ごろ
築城者 倉賀野光行

 

 

倉賀野城は、倉賀野町を流れる烏川の崖に築かれた平城である。現在は住宅が密集し、わずかな痕跡しか残っていないので、公園にある石碑がなければ住民もここが城跡だったとはわからないだろう。

 

本丸跡の石碑

 

案内板

深堀跡(左の画像の○印)

縄張図(クリックで拡大)
群馬県古城塁址の研究(山崎一)より
航空写真はGoogleより

現在の航空写真と当時の縄張図が対比できる。
当時の堀や土塁が道路になっているのがわかります

 

■倉賀野氏について

倉賀野城を築いた倉賀野氏は、武蔵七党の児玉党の一派秩父氏の支族である。
児玉行高が秩父重綱の養子となり、その三男高俊が倉賀野氏を称した。ちなみに行重のひ孫の行義は大類氏を称している。

倉賀野城は南北朝の時代、倉賀野光行よって築かれた。
以後、倉賀野氏は頼行、且行、綱泰、近行、行信、行政と続く。

1546年、河越の戦いで倉賀野行政が戦死すると子の為広が継ぎ、為広病死後は尚行が継いだ。倉賀野尚行は永禄8年(1565年)、倉賀野城が武田信玄に落とされると城を脱出して越後へ逃れ、後に直江兼続に仕えたという。

尚行が継いだとき、幼少の尚行を補佐し城を守ったのが倉賀野十六騎と呼ばれる武将たちである。
その筆頭に金井秀景(?〜1590)という武将がいた。
当初関東管領上杉氏に属した多くの上州武将がそうだったように、金井秀景も上杉謙信に従い、後に武田、滝川、北条と仕える先を変えている。

これを無節操というべきではないだろう。
そうしなければ命も領地も保つことができない時代であり、強大な大名がいなかった上州はそういう地だったのだ。

永禄8年(1565年)倉賀野城は箕輪城に先立ち武田信玄の攻撃の前に落城。降将ながら金井秀景は許されて城主となり、その後元亀元年(1570年)武田信玄から倉賀野氏を称することを認められ、同時に淡路守の称号を与えられた。

武田家滅亡の後は織田信長の家臣滝川一益に属し、一益が神流川の戦いに破れ上州を去った後は北条氏に従ったが、秀吉の小田原攻めで小田原で戦死したという。


■児玉氏と秩父氏

 

倉賀野氏の系図(奥平・小幡両氏については異論もある)

 

平安末期から鎌倉時代にかけて、武蔵国(埼玉県から東京都にかけた地域)に武蔵七党と呼ばれた武士団があった。その筆頭ともいうべき児玉党は児玉氏を中心として埼玉県本庄市、秩父市、群馬県高崎市、藤岡市、富岡市あたりまで勢力を伸ばしていた。

児玉氏は藤原北家の藤原伊周(ふじわらの これちか 947〜1010)の執事だった有道惟能(ありみちの これよし ?〜?)が伊周失脚後に武蔵国児玉に下向したことに発する。児玉氏を称したのは惟能の子惟行(これゆき ?〜1069)である。

児玉氏には多くの支族があるが、その一つが承久の変(1221年)での功により安芸国(広島県)に領地を得て土着し、後に毛利氏の家臣となった。その子孫には日露戦争時の満州軍参謀総長となった児玉源太郎がいる。

児玉党の一派である秩父氏は平良文(886?〜?)の孫、平将恒(1007?〜1057?)を祖とする。将恒の母は平将門の娘でもある。武蔵野国秩父郡において秩父氏を称し、各地に勢力を拡大した。

児玉源太郎

東郷平八郎

 

その子孫には畠山氏(源平時代の武将、畠山重忠が有名)、高山氏(キリシタン大名高山右近が有名。ただし異説もある)などがいる。倉賀野氏はもとより、大類、奥平、小幡、白倉、高山(上記高山氏と遠縁)の各氏もその子孫である。(奥平氏と小幡氏には異説もある)

支族の一つに相模国渋谷(神奈川県藤沢市から東京都渋谷の一部)で渋谷氏を称した子孫には、鎌倉時代に薩摩国(鹿児島県)に移住し東郷氏を称した者がいた。明治時代、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎はその子孫である。


永泉寺の砦

JR高崎線倉賀野駅の西にある永泉寺はかつては倉賀野城の北を守った砦であり、現在は城主金井秀景の墓所でもある。砦としての遺構は南にある堀跡らしきものを除いては、ほとんど見あたらない。

 

永泉寺

堀跡か?

金井秀景の墓所

 


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