矢中七騎
1576年6月、長篠の戦いの時。武田側の部将として君が臥床砦を守備していた和田城主和田業繁の部隊は、徳川家康の家臣酒井忠次の奇襲を受けた。
この戦いで重傷を負った和田業繁は福島嘉兵衛、真下下野、栗原内記、松本九郎兵衛、秋山縫殿亮、大澤定吉、長島因幡の7人に守られて戦場を離脱したが、和田業繁はこの時の傷がもとで信州駒場で死亡した。業繁は戦死したものの、後にこの7人は矢中七騎と呼ばれ、武勇を賞賛されることになる。
栗原内記、松本九郎兵衛、大澤定吉の屋敷の所在地はわかっているが他は不明だという。
下の写真はわずかに痕跡をとどめる大澤定吉の屋敷跡である。場所はセキチュー矢中店の南西250mのところにある。大澤定吉屋敷の西230mにある宝昌寺は、倉賀野城主金井秀景の弟、矢中新左衛門の屋敷跡で、ここのさらに西側(写真でいえば左側)に栗原内記の屋敷があったという。
7人は和田氏の直接の家臣ではなく在地の豪族として和田氏に与力し、また和田氏からは庇護されていた。
大澤定吉屋敷跡の石碑
館の堀跡か? 誰の屋敷だったのか
宝昌寺