箕輪城1(登城口と近接する砦)
所在地 高崎市箕郷町東明屋 築城年 1500年ごろ 築城者 長野尚業?
国指定史跡の箕輪城は、中世の群馬県を代表する丘城である。すべての道は箕輪城に通ずるではないが、地図で見れば東西南北どの方面へも道が通じていて、ここがかつて西上州の中心であったことがよくわかる。
城の名前はその所在地をいうのが普通だが、ここは箕郷町でもこの城は「箕輪城」であって、「箕郷城」ではない。元々この地域に箕輪村は存在したが、「箕郷」という地名はなかった。経緯を簡単に書けば、明治22年(1889年)に周辺の富岡村、和田山村、白川村、善地村などが合併し車郷村(くるまさとむら)となり、さらに明治29年(1896年)に箕輪町と合併し箕郷町が生まれたのだ。
井伊直政が箕輪城から和田に移ると、それに伴って人も移動し、空き家が増えるようになった。今も箕郷町に残る「あきや」という地名・・・東明屋、西明屋は、字は違うがその名残である。また箕輪城廃城後、この地の地名・・・田町、連雀町、四ツ屋など・・は、移転先の高崎城下でも使われている。ついでにいうと、箕輪城から約1Km東南に矢原というところがあるが、これは戦国時代、矢が多く飛んできたためにうまれた地名だという。
以下、各画像の説明に乗せてある@、A・・・の番号は上記縄張図の番号の位置で撮影したものである。
丸戸張 椿名砦 大手門 箕輪城の南西にあった出撃用の小砦。
箕輪城の東南にあった小砦。長野氏の本拠地が
南の浜川だったころ、北方を固めるために造られた?
江戸時代初期、井伊直政時代の大手口。
大手尾根口門
白川口 白川口埋門 埋門(うずみもん)とは、搦め手など目立たない部分に
設けて、ここから脱出したりするための秘密の門。
搦手口 虎蹈門(ことうもん) @ 虎蹈門から見た大堀切り 箕輪城を見学するにはここから入るのが一番手っ取り
早い。登ったところには駐車場がある。虎蹈の出展は古代中国の兵法、六韜で、「虎の巻」と
いうのはここから出た言葉。