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箕輪城5(長野氏について)


 

 

長野氏の家紋。檜扇

 

■長野氏について

以下、箕輪城と長野氏(近藤義雄)を参考して書く。
最初にいえることは、長野氏は在原業平(825〜880)の子孫ではない、ということである。

在原業平の父阿保親王(792〜842)は、承和元年(834年)に上野守となったが任地へは赴任はしなかった。なぜなら上野国(群馬県)は常陸国(茨城県)、上総国(千葉県の一部)とともに親王任国といって「守」は親王が任命されても現地には行かず、代わりに赴任した「介」がその国の事実上の最高官となるキマリだった。また、子の在原業平が上野介として赴任したという記録は一切ない。

・守(かみ)はその国の最高官(国司)で、朝廷から任命されて現地に赴く。任期は5年。越前守、信濃守、美濃守・・・国の数だけ守があった。現在でいえば県知事かな。
・介(すけ)とは制度上は副国司であり、副県知事というところか。日本人にもっとも有名な介といえば、忠臣蔵でおなじみの吉良上野介だろう。

 

長野氏は、いかなる理由で在原業平の子孫を称したのか。

長野氏が在原氏ではなく、石上(いそのかみ)の子孫を称していたことが、長野業尚が創建した長年寺(高崎市下室田)の記録にある。それによれば、長野業尚のことが「石上朝臣長野伊予守業尚」と書かれているらしい。

また永正6年(1509年)、宗長という連歌師が現 高崎市浜川の長野氏の館に立ち寄ったとき、長野氏の姓は石上なり、と記している。
姓とは所属する集団をあらわすもので簡単にいえば、足利氏、新田氏は源氏が姓になる。足利とか新田は名字・・住む地域の字(あざ)の名前である。

石上氏は古代の氏族、物部(もののべ)氏の末裔で、丁未の乱(587年)で物部氏はいわゆる崇仏戦争で蘇我氏と争い敗れて没落したが、敗死した物部守屋の兄のひ孫の麻呂が始祖といわれる。この石上麻呂(640〜717)の名前は、上野三碑の多胡碑にも出ている。

 

多胡碑


碑文は次のとおりで、和銅4年(711年)上州に新たに郡(多胡郡という)を設置したときの記念碑である。訳文は略すが、石上麻呂は多胡郡設置の決定者の一人だったらしい。

弁官符上野國片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
石上尊右太臣正二位藤原尊

*多胡郡は1896年、隣接する南甘楽郡・緑野郡と統合され「多野郡」となったため、現在は存在しない。

 

古代の西上州では、碓井郡・群馬郡から片岡郡にかけて石上氏が勢力を伸ばしていたという。
どういう経緯で石上氏が上州で勢力を持ったのかはわからないが、近藤義雄氏は「箕輪城と長野氏」のなかで、上野国衙の役人に石上氏の流れを汲む人がいて、任期を過ぎても帰京せずに土着したのがはじまりかもしれない、といっておられる。国衙(こくが)とは当時の政庁。現在でいえば県庁である。

思いつきのコジツケにすぎないが、安中市の磯部(いそべ)は発音からして石上氏に関係するかもしれない。

おそらく平安時代の中期から後期にかけて。
石上氏の流れを汲む人が、長野郷にあって長野氏を称したと思われる。長野郷は現在の高崎市浜川町で、長野という地名は消滅したが、名称は長野小学校、長野中学校という名前にわずかに残っている。そしてこの浜川町には御布呂(おふる)という古代の遺跡があり、これは物部氏(石上氏)と関連付けられる。


■布留(ふる)

物部氏(石上氏)の崇拝する神は布都御魂大神(ふつみたまのおおかみ)といい、奈良県天理市布留(ふる)の石上神宮に祭られている。高崎市浜川町の御布呂とはあきらかに布留が訛ったものだ。布都御魂大神は人格神ではなく、実体は神武天皇が東征で使ったという剣で、物部氏の祖と言われる宇摩志麻治命(うましまじのみこと)がこれを御神体として祭ったのがはじまりとされる。

ここに物部氏の本質がある。
物部(もののべ)の「もの」とは打ち物(武器)を意味し、部(べ)は朝廷に属する土師部、馬飼部などのように職能名であることから物部氏は朝廷内の軍事担当貴族だった。事実石上神宮は大和朝廷の武器庫だったという話もある。

 

石上神宮(天理市)
(Wikipediaより)

 

西上州で布都御魂を祭神とする神社には、貫前神社(富岡市)や咲前神社(安中市)がある。貫前神社の神名は経津主神(ふつぬしのかみ)といい、布都御魂とは呼び方が違うが、それが神格化したものである。また明治以前、貫前神社は抜鉾(ぬきほこ)神社と呼ばれていた。鉾(ほこ)とは槍を短くしたような武器(剣)で、武器の名を神社の名前にするなど、いかにも物部氏系の神社である。

 

貫前神社(富岡市一之宮)
(貫前神社ホームページより)
咲前神社(安中市鷺宮)
(咲前神社ホームページより)

 

また天理市石上の石上寺は在原業平の居住地という説もあるので、在原業平と石上神宮・石上寺は何らかのつながりがあったのだろう。さらに箕輪城の鬼門よけとして東北に建てられたのが石上寺である。

長野氏はこれらのことから在原業平の子孫を称したのかもしれない。さらに近藤氏は、長野氏が代々名前に使っている「業」の字は業平の業からとって、先祖代々の名前を書き換えたのではないかと述べておられるが、ありえないことではないと思う。

 

石上寺(箕郷町東明屋)

 

ここまで書いてしょうもないことを考えた。

奥州安倍氏は物部氏の末裔という説がある。
前九年の役(1051〜1062)は、安倍貞任と源頼義の戦いだった。いわば物部
VS 源氏です。

武田氏はまぎれもなく源氏だから、これを戦国時代に置き換えて長野業政と武田信玄の攻防戦を物部 VS 源氏という構図で小説を書くのも面白いかもしれない。長野業政は死の間際、武田に屈してはならないと言い残したというが、業政は物部の末裔として自分を安倍貞任になぞらえて、意地でも朝廷側には屈しないという筋書きで。



■系図

長野氏の系図はいくつか知られているが、細かいくい違いが多くよくわからない。こういうことが長野氏の出自を不明瞭にしているのだろう。
つぎの系図は長野弾正家系図(箕郷町誌)に基づく。

 

 

一方で近藤義雄氏は、多くの資料を基につぎのような系図を作成し紹介している。

 

 

系図は他にもいくつかあるらしいが、すべて紹介する意味もないのでここまでとする。

歴代の長野氏のなかで、実在がほぼ確実とされる最初の人は長野乙業とされているが、その事跡はまったく不明である。ただ、浜川町に乙業の館跡と伝えられる場所がある。ここは長野氏発祥の地であり、浜川砦や長野氏の菩提寺である来迎寺も近い。

 

乙業の館跡

 

 

■箕輪城築城

現在の箕輪城の遺構は江戸時代になって井伊直政が改修した結果であって、築城当時の姿そのものではない。もっともこれは箕輪城に限らず、室町時代中期以前に築かれた他の多くの城砦にあてはまる。当時は度重なる合戦で防禦を強化するため、改修に改修を重ねるのが普通だった。

 

築城当時(箕輪城考/福島武雄より) 業政のころ(同左) 現在の遺構(城内案内板より)



築城当時は本丸を中心に北西と東南に郭を配した、いわゆる並郭式の単純構造だったと推定される。
その後何回か改修され、長野業政のころには北西の郭は御前廓、東南のそれは二の丸となり、さらにいくつかの郭が追加されたのだという。現在も発掘調査が続けられていて、小田原北条氏時代のカワラケ(素焼きの陶器)や中国製の磁器や鉄砲の弾丸も出土している。


■長野業政

長野氏はマイナーな氏族なので信頼性の高い資料に乏しいが、長野業政(業正とも書く。 1491〜1561)は比較的知られている。業政を紹介するWebサイトは多いが、そのほとんどは次のような内容である。

長野業政は、関東管領上杉氏の重臣として、上杉憲政が小田原北条氏の圧迫に耐えかねて、平井(藤岡市)を捨てて越後に逃れた後も北条氏には屈せず、斜陽の管領家を支えつづけた。
また、西上州支配を目指して侵入する武田信玄との戦いでは一歩もひけを取らない戦いぶりで、名将の名をほしいままにした。死に臨んでは一族・家臣たちに武田に屈してはならないといい残した。

もう少し詳しく書けばこのようになろうか。

@業政の嫡子は河越の合戦で戦死

A河越での敗戦後、上杉憲政は武田信玄に対抗したが業政は大反対し参軍もしなかった。結果は、上州軍は3000の戦死者を出して敗走(小田井原の合戦)

B上杉憲政が平井を捨てて越後に行った後も管領家に忠節をつくした

C瓶尻の戦いでは陣頭に立って奮戦したが力及ばす敗退。その後箕輪城を包囲攻撃した武田軍を巧みな戦術で撃退した

D領民のために切り開いた堰は長野堰と呼ばれ、今日も流れている

E12人いる自分の娘を各地の豪族に嫁がせて、武田防衛ネットワークを構築した

F武田信玄は、業政がいるかぎり西上州の制覇はおぼつかないと嘆いた

G死の間際、決して武田に屈してはならないと遺言した

H業政の死後、後を継いだ業盛は父の遺言を守り、城を枕に自害した

 @、A、D、E、Hなどはほぼ正確と思えるが、それ以外の項目は必ずしも史実ではない。特にBは後世につくられたもので、実際には河越合戦の後、長野氏は関東管領上杉憲政から離反し小田原北条氏に仕えることになった。これが上杉氏衰退の一因となったが、永禄3年(1560年)、上杉謙信が北条氏討滅のため上野国に侵攻すると業正は上杉に属するようになった。


●業政のエピソードを二つ。これでどんな人物をイメージするだろうか。

信州小県郡真田 (現 上田市) の豪族真田幸隆 (昌幸の父、幸村の祖父 1513〜1574) は村上義清との戦い敗れ、長野業政を頼って一時期箕輪に住んでいたことがある。不自由な居候生活がどれほど続いたかはわからないが、そのうち長野家の家臣が幸隆をからかって

双六の初重九の重と信濃衆は 引くとは見えて居られざりけり (すごろくの しょでっく の じゅうと しなのしゅうは ・・・・ )

という歌をつくった。そのことが真田幸隆の耳に入り、笑いものにされて幸隆は心中穏やかではなかったという。
無知な私にはこの意味がわからないが、業政はそうは思っていなくても、家臣等の思いはまた別のものだったのだろう。天文10年(1541年)のころらしい。

◇  ◇  ◇

また、「名将言行録 長野業正」は、真田幸隆との間にこんなエピソードがあったことを伝える。
名将言行録は、幕末から明治にかけて館林藩の岡谷繁実によって戦国期から江戸時代中期まで武将や大名、家臣192人のエピソードを記述したものである。膨大な資料を丹念に調べ取捨選択した一大労作であり、書かれた話は現在でも映画やドラマにも使われることがある。

さて、長い間長野業政のもとに身を寄せていた幸隆だったが、そのうち武田信玄に仕えれば故地を回復できると考えるようになった。しかし世話になっている長野業政にとって、武田信玄はまさしく不倶戴天の敵。その信玄に仕えるとは言い出しにくい幸隆は、病気と称して箕輪城にも登城せず家に引きこもっていた。

しばらくして業政から使いの者が来ていうには、「病気なら良薬をさがしに甘楽の奥の峠を越えて行くとよい」というメッセージとともに馬を幸隆に与えた。
不審に思いつつも、業政の「すぐに旅立ったほうがいい」という言葉にしたがって単身出立し、下仁田まで来たら後から幸隆の家臣や妻がやってくるのに気がついた。

妻がいうには、幸隆が旅立った後長野家の家臣がやってきて業政からの書状を渡し、すぐ幸隆を追うように伝えたという。
その書状を読んだ幸隆は驚く。

武田信玄は若いが優れた武将だから仕えるがよろしい、と書いてある。
続いて原文では、ただし箕輪に業政あらん限りは、左右なく碓井川を越えて馬に草飼はんと思に給ふべからず、となっている。
業政がいる限り、碓井川を渡河させない。西上州は渡さないという意味だろう。すべて業政に見破られていたことを知った幸隆は、こんなことなら正直に打ち明ければよかった、と恥入ったという。

長野業政像(長純寺)

◇  ◇  ◇

また同じく名将言行録だが、こんな話も載せている。
長野業政には和歌や連歌の嗜みがあった。在原業平の子孫を称しているので、世間から笑われないようにするためだろう。

長野家の家中で、百姓の家から妻を娶った男がいた。
ある日のこと、この妻が髪を結っていると窓の向こうに2m近い大きな蛇がいるのを見た。
彼女は夫を呼び、おうこのような蛇がいる、と叫んだ。

「おうこ」とは、肥桶をかつぐ天秤棒のことで、夫はこんな下品な言葉を使う妻では中間(身分の低い家来)にでも聞かれたら笑いものなると、妻を実家に帰したが彼女は去り際に 「万葉の 歌の言の葉 なかりせば 思いのほかの 別れせまじを」 という歌を書いて壁に貼り付けて帰っていった。

夫はこの歌の意味を考えたが、どうしてもわからない。
そうしているうちに、このことが業政の耳に入った。

業政に呼ばれた夫が事情を話すと、業政はこういった。

さても恥ずかしきことかな。
「みちのくの 千引の石と わが恋と になわばおうこ 中や絶えなん」 という歌が万葉集にある。おうこというのは下品な言葉ではないし、それを知らず離縁したとあっては、末代の恥になる。早く呼び戻すがいい。

夫が主君のいうとおりにしたのはいうまでもないが、この歌が実際に万葉集に載っているのか確認できない。
万葉集で「千引の石」が出てくる歌は4-743にある。

我が恋は 千引きの石を 七ばかり 首に繋けむも 神のまにまに [大伴家持]
(私の恋は、千人引きの石を七つ首にかけたように重い。これも神の御心なのだ)

あるいはこの歌を知っていた業政が、家臣を説得するためにとっさに前記の歌を作って詠んだのかも(違うかもしれないが)。
なんとなく太田道灌の山吹の故事を思い浮かべる。

注) 
「万葉の 歌の言の葉・・・・」  万葉集に、あんな歌が載っていなければ、別れずにすんだのに、という意味かと思います。
「みちのくの 千引の石と・・・・」陸奥にある千引の岩と私の恋を天秤にかければ、あまりの重さに棒は真ん中で折れてしまう。それほどまで私は深くあなたを愛しているのだ、という意味かな(ちょっと自信なし)。

千引の石とは、青森県の千曳神社にある大石。

邪魔なので領主が、これをどかそうとして村人に作業を命じた。
その村には一人暮らしをしている若い女がいたが、彼女は男達に混ざって作業をするのがイヤで村を出て行こうとした。

彼女には恋人がいた。
彼は彼女の悩みを聞き、実は自分は千引の石の精であることを打ち明けた。続いて彼は、たとえ千人に引かれても自分はびくともしないが、彼女が引いたなら簡単に引かれようと約束した。

作業の日、彼がいったように千人の男が引いても石は動かなかったが、彼女が一人で引くと巨石は軽々と動いた。以後、彼女は仏の化身として村人からあがめたという。

*千引の石は、この世とあの世の境のいわば「結界」の証で方々にあるとされるが、古事記に書かれた出雲の黄泉比良坂にある石が有名。



●長野堰

業政の事業として知られるのは、現在長野堰とよばれる灌漑用水である。
この疎水は、高崎市榛名町本郷を出発点とし高崎市のほぼ中央を流れ、江木町の円筒分水で幾筋かの堰に分離され、最終的には再び烏川に流れこみむ。
全長は約16Km。この疎水は、私の実家からそう遠くないところを流れていたので昔から知っていたが、長野堰と長野氏が結びついたのは高校生のころだった。

この開拓事業は長野康業(上記の系図には出ていない。いつごろの人かは不明。平安末期ごろか?)がはじめ、子孫の業政のときある程度完成したらしいが、最終的に完成したのは井伊直政の時代だったろう。

 

長野堰(高崎市上並榎町で撮影)

 

長野堰の地図は http://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/midori/m_walk/course3/029nag/pdf/naganmap.pdf (農林水産省ホームページより)を参考にしていただきたいが、あらめてこの地図を見ると、少々不思議な気がする。

長野氏の直轄地は箕輪城下から浜川に至る地域だが、この堰の開発によって長野氏の領地はどれほど潤ったのだろうか。堰の流路の多くは和田氏の領地なのだ。それとも長野堰は、長野氏とは関係なく別人が開発したのかもしれない。


●業政ネットワーク

永禄3年、関東に進攻した上杉謙信は関東の諸将11万を以って小田原に攻め込んだが、要害堅固をもって知られる小田原城を落とすことはできず撤退せざるを得なかった。以後連年、謙信は関東に出兵することになる。しかし謙信にとって関東管領としての立場上関東制覇は最重要課題ではあったが、、信濃・越中はそれ以前からの懸案事項でありこれを放置することはできなかった。この多方面での出兵は、上州武将への支援不足として跳ね返ってくる。

信玄は信玄で、西上州制圧は宿敵謙信の勢力を削減させる意味で重要な問題だった。
こうした情勢の中で、武田・北条に対する防衛ネットワーク構築の必要性を迫られた業政は、その基本方式を姻縁に求めた。すなわち12人の娘を近隣の豪族に嫁がせ、広範囲な防禦体勢を構築したのである。

長女 小幡城主 小幡信貞
国峰城主 小幡景定
忍城主 成田
山名城主 木部範虎 *1
大戸城主 大戸左近兵衛
和田城主 和田業繁
倉賀野城主 金井秀景
羽尾城主 羽尾修理亮
浜川砦主 浜川六郎?
厩橋城主 長野 *2
十一 板鼻城主 依田
十ニ 鷹留城主 長野業固


*1 嫁いだのは範虎の嫡子定朝(貞朝)という説もある
*2 厩橋の長野氏は同族。上杉謙信が厩橋城を関東経営の拠点にするまでは同族長野氏がいた。



元々関東管領上杉氏の支配の原理は、管領職の権威を基本とし、被支配地域の武将・地侍達が古くから持つ、伝統的・習慣的な君臣意識という情誼に頼るところが大きかった。これは一種の感情論的・精神論的なものであり、支配者側の権威がなくなれば、あるいは権威より強力な軍事力をもつ者が現れれば一朝にして崩れ去るものだった。

ちなみに上杉謙信は典型的な権威主義の男で、古看板のような関東管領職をありがたく拝命し、その伝統的な支配方式で関東の武将が支配できるし支配しなければならないと考えた。これに対し、武田信玄や北条氏康の支配方式は、あくまでも軍事力や経済力に裏付けられた現実的な利害関係だった。だから謙信による関東支配は、はじめから絵に画いた餅のようなものだった。

業政の12人の娘の嫁ぎ先は、一部の例外をのぞいて業政が武力で屈服させた相手でも、利害を以って味方に取り込んだ相手でもない。一族縁者なのだから、姻戚なのだから味方してほしい、という情誼に頼る方法で戦国という苛烈な時代では甘いやり方だったが、これは長野業政という老将の限界だったろう。

業政は、西上州全域の支配者ではない。
西上州の諸将にとって、業政は軍事力は多少は上であっても自分達と「同格」の武将であって、「主君」ではなかった。
業政には諸将を力で支配して「家臣」にするのには力不足だったし、その時間もなかっただろう。このネットワークは、長野業政という名将の存命中は鉄壁だったかもしれないが、その死後もろくも崩れ去るのである。

もっとも力による支配とて完璧ではない。裏切る者数知れずとなった武田家の滅亡はそれを象徴している。
所詮、人は武力、軍事力の前には屈服はしても心服することはないのだろう。



■長野氏滅亡

永禄4年(1561年)、長野業政は死没した。跡を継いだのは右京進業盛(1544〜1566)である。
業盛の母は、Wikipediaでは保戸田氏となっている。箕輪城の東南に保渡田 (ほどた) という町があるが、ここの人だったのかもしれない。

業政の死は、長野氏と連合する諸豪族に深刻な影響を与えた。
永禄5年(1562年)には和田城主和田業繁が、永禄8年(1565年)には倉賀野城の金井秀景が武田に属するようになった。どちらも業政の娘婿である。
その前後、永禄4年から7年にかけて、一旦は城を追われ武田信玄の庇護を受けていた小幡信貞が国峰城主に返り咲き、北は吾妻の要衝岩櫃城が、西は松井田城・安中城が落城し次第に長野氏は追い詰められていった。

永禄9年(1566年)9月、上州に侵入した武田信玄は若田原 (高崎市八幡町、八幡霊園の付近) で長野勢と一戦し、これを敗走させた。このとき武田信玄が布陣したのは鼻高だったとも、その北にある一社八幡宮だったともいう。また長野勢は、若田原の北東1.5Kmにある住吉城から出撃したともいう。

この戦いは実際にあったのか、それとも軍記ものの創作なのか、私にはわからない。
このときの武田軍20000の大軍に対して、箕輪落城時点での長野勢は1500といわれる。

永禄9年に武田信玄が上州に侵入してからの戦闘で長野氏が失った、あるいは逃散した兵士を除いた兵力が1500とすれば、信玄侵入以前の長野氏の兵力は2000程度だったのではないか。全盛期の長野氏の動員兵力がどれほどだったのかはわからないが、松井田城をはじめ周辺の城砦の落城等度重なる敗戦や武田への寝返りで、長野氏の動員能力は見る影もなく低下していったのだろう。

参考までに江戸時代初期、廃城直前の箕輪城下は12万石といわれた。当時は1万石で250人前後の兵士が動員されたから約3000人.ということになるので、前述の2000人という兵力にはそれほどの差異はないだろう。(この2000という数字は長野氏直轄領の兵力で、同盟する諸豪族のそれは別である。)

さて兵力が懸絶している場合の作戦は、奇襲とか伏兵とかに限られる。義経の一の谷や、信長の桶狭間はその好例である。
若田原は、行けばわかるが広大な台地の上であり、全域が一望のもとに見渡せる。

つまり、相手側の動きが手に取るようにわかる。
小勢で大軍に向かえば洪水のように押し流されてしまうような場所に、ただでさえ少ない兵力を投入するか、私には疑問である。長野業政と武田信玄の戦いがここであったという話もあるので、それと取り違えているのかもしれない。

若田原の戦いが史実かどうかは別にしても、鷹留城と箕輪城の中間にある高浜砦が落とされて、両城の連絡・連携は不可能となった。ほどなく鷹留城はあっけなく落城し、城主長野業通は長野原に落ち延びたといわれる。

その後ほどなく永禄9年9月29日。武田軍の攻撃の前に箕輪城は落城し、城主業盛は自刃して果てた。時世の句は 

春風に 梅も桜も散り果てて 名のみぞ残る 箕輪の山里


遺骸は近隣大円寺に埋葬された。
落城の直前、業盛の一子亀寿丸は家臣に守られて城を脱出した。現在の長野家当主はこの亀寿丸の子孫である。

当時厩橋城(前橋市)は上杉方で、重臣の北条高広(1517〜1587)が城主としていた。
北条は紛らわしいが、きたじょう、と読む。小田原北条氏ではない。遠祖は鎌倉幕府創業の功臣大江広元で、安芸の毛利元就とは同族である。

北条高広が、なぜ箕輪に援軍を送らなかったのかわからない。
上杉謙信自身の救援が間に合わなければ、北条高広自身の判断で援兵を送るべきではなかったか。

長野氏のような小豪族は、こうしたとき上からの救援を信じて大勢力に味方するのだ。逆をいえば大は存亡の危険を冒してでも小を助けなければ頼りにならない、人の主ではないとして見放されてしまう。高天神城は武田勝頼が援軍を送らなかったため徳川家康に落とされたが、それによって勝頼の声望が一気に低下し、木曽義昌等の離反を招いたことを思い浮かべてしまう。すでに謙信は関東制覇を放棄していたのだろうか。


■その後の箕輪城

西上州の支配者はめまぐるしく変わった。武力による支配のはかなさであろう。
箕輪城は長野氏滅亡後は、武田信玄の持ち城となり、家臣の内藤昌豊が城代として入城した。武田氏滅亡後は上州に入った織田信長の家臣滝川一益、信長の死後は北条氏が支配するところとなった。

北条氏滅亡後関東に入った徳川家康は、井伊直政に12万石の大名として箕輪城を与えたのだ。12万石という石高は、徳川の家臣の中では最大の石高だった。
しかし井伊氏の城主時代も長くはなかった。慶長3年(1598年)、直政は家康の命により箕輪城を廃し、和田の地に移りそこを高崎と改名したのだった。



■長野氏の墓所

長野氏の墓所は長年寺、長純寺、来迎寺と少なくとも三箇所はある。
複数の墓所というと現代に生きる我々には奇異に感じるが、当時は決してめずらしいことではなかった。

歴史上の有名人の墓でも実際に遺骨が埋葬されているのはむしろめずらしく、その多くは供養塔である。特に武将の場合、たとえば城が焼け落ちたときなどは遺骨が残らないこともあるし、首塚・胴塚というものが別々の場所にあることも多い。ちなみに真田信繁(幸村)の墓所は京都の龍安寺、長野県の長国寺(真田家の菩提寺)など5箇所以上ある。現在のような墓石と遺骨がセットになったのは近世以降のことである。

●長年寺

長年寺は、長野氏の菩提寺として長野業尚によって文亀元年(1501年)に建てられた曹洞宗の寺である。開山は渋川市中郷(旧子持村)にある雙林寺(そうりんじ)の三世住職曇英(どんえい)禅師という。雙林寺は上州の守護代で上杉氏の家老長尾景仲(1388〜1463)が開基であり、長野氏とも関係がある。

長年寺は下室田の鷹留城の南、県道29号線沿いにあるのですぐわかる。ここには右下の画像にあるように7人。長野業尚、業正、憲業、業氏、業固、業茂、業続の五輪塔の墓石が並んでいる。

 

長年寺 累代の墓所 案内板(クリックで拡大)

 

●来迎寺

来迎寺は高崎市浜川町にある時宗の寺で、永仁5年(1297年)遊行二祖真教上人の開基という。以下は高崎市ホームページからの転記である。

来迎寺にある長野氏累代の墓は、長野氏滅亡後、まわりの濠の中に崩れ落ちて埋められていたものもありましたが、大正12年ごろ、長野氏の子孫の人たちが発掘し、現在地に整理して安置したものです。石塔の組み方に寄せ集めのものがあるのは、そのためです。

墓地には五輪塔(ごりんとう)8基、宝篋印塔(ほうきょういんとう)6基が整然と並べられていて、墓地に立つと、長野氏往時の盛んな様を偲ぶことが できます。年号を読み取れるものもいくつかあり、至徳元(1384)年、応永9(1402)年、永享11(1439)年、寛正4(1463)年、応仁 3(1469)年、明応9(1500)年、文亀3(1503)年、享禄元(1528)年などです。14世紀後半から16世紀前半の所産といえます。

 

来迎寺 長野氏累代の墓所 案内板(クリックで拡大)

 

●長純寺

長純寺は、明応6年( 1497年)長野信業(業政の父ともいわれている)開基による長野氏の菩提寺。曹洞宗の寺院で高崎市箕郷町富岡にある。
寺に入れば、いたるところにある [←業政公墓所]  という標識に従って行けば、長野業政の供養塔にたどり着く。

さて、実際の業政の遺骨はどの寺に埋葬されているのだろうか。

 

長純寺 長野業政墓所 案内板(クリックで拡大)

 

●なりもりぼえん

箕輪城の長野氏最後の城主、長野業盛の墓所である。ここは旧群馬町の史跡公園、かみつけの里と県立北高校の中間にある。
業盛は死後僧法如によって埋葬されたという。本来の墓所大円寺はここの東600mのところにあるが、なぜ業盛の墓所をここに移したのかはわからない。

 

なりもりぼえん 長野業盛墓所 案内板(クリックで拡大)

 


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