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鷹留城


 

所在地 高崎市下室田町
築城年 明応年間(1500年ごろ)
築城者 長野尚業

 

 

高崎市下室田の鷹留城は、約5km東にある同市箕郷町の箕輪城といわゆる一城別廓を構成している。一城別廓とは、比較的近距離にある複数の城が相互に連携をとりあい、あたかも一つの城のような機能を発揮できるように築かれたものをいう。

この城に行くには麓の高崎市榛名町支所付近から駐在所の横の道を登るのと、城の北側を通る広域農道(フルーツライン)から入る方法と二つある。体力も根性もない私は、もちろん後のルートで見学した。フルーツラインを室田方面へ行くと「鷹留城入口」という標識があるのでわかりやすい。車も止められるし、城までわずか300mである。

 

フルーツライン脇にある入口の標識。
目立たないので見落とすかも

 

縄張り図(クリックで拡大)
群馬県古城塁址の研究(山崎一)より
本丸にある案内板(クリックで拡大)
本丸南の帯廓

 

本丸。城兵の慰霊碑がある 本丸
本丸西の堀。なかなか見事である

 

本丸(右)と東廓(左) 搦手にある土橋
あちこちにある歌碑。
これもいいが、それより郭の案内板がほしい
長野氏の菩提寺、麓にある長年寺 長野氏の墓(クリックで案内表示)

 

当時上州には守護として山内上杉氏が平井にいたが享徳の乱(1455〜1483)、長尾景春の乱(1476〜1480)など戦いが頻発し、さらには扇谷上杉との対立もあって上杉氏の力は年々衰えていった。このような情勢下で長野郷(現 高崎市浜川町周辺)で勢力を張っていた長野業尚(なりひさ ?〜?)は、明応年間(1500年ごろ)に鷹留城を、また同時期に箕輪城を築くことになる。このことは長野郷のみならず室田がすでに長野氏の勢力下にあったことと、鷹留城も箕輪城も当時としては大規模な城郭なので、長野氏の経済力が尋常でなかったことを意味する。(箕輪城を築いたのは業尚の子、憲業という説もある)

業尚は吾妻方面への進攻も計画しており、この鷹留城はその前進基地としての役割ももあったのだろう。結果として業尚の吾妻進攻はその地の豪族、大戸氏に阻まれ不成功となるが、成功するのは業尚の孫で名将と謳われた業政(なりまさ 1491〜1561)の代まで待たねばならない。

その後鷹留城は、武田信玄の上州進攻に対抗するため、松井田、安中方面への出撃拠点として重要な役割りを担うことになる。
しかし永禄9年(1566年)9月、高浜砦が落とされ、箕輪城との連絡が分断された鷹留城は武田軍の総攻撃の前にあっけなく落城。城の南麓には長野業尚が建てた菩提寺、長年寺の記録によれば、城主長野業通は長野原に落ち延びたといわれる。吾妻の大戸氏や羽尾氏は業政の娘を妻にしているので、あるいは業通はその縁を頼ったのかもしれないが、真相は不明である。

 


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