Index ティータイムの歴史話 その1 その2

正義の人(杉原千畝と樋口季一郎) その3


■樋口季一郎

杉原千畝を紹介したなら彼のビザ発行の2年前、当時の満州国にあってユダヤ人を救済した樋口季一郎陸軍少将(1888〜1970)のことも書かなくては片手落ちになります。外交官と軍人と立場は違いますが、大勢のユダヤ人を救ったのは杉原だけではないのです。

●オトポール駅

1938年3月。杉原がビザを書く2年前のこと。

ソ連と満州国の国境付近にあるオトポール駅では、ユダヤ難民が満州国に入れず足止めされていました。彼らのほとんどが着の身着のままでドイツや周辺諸国を逃げ出し、旅費も食事も防寒服も満足になく、凍死寸前の人もいて悲惨な状況でした。

当時満州国の外交は日本のそれと同じでドイツの国策を無視できず困惑し、その結果の入国拒否でした。このユダヤ難民を救ったのが、当時ハルビンで関東軍特務機関長だった樋口季一郎なのです。

 

樋口は1888年兵庫県生まれ、18歳で岐阜県大垣市の樋口家の養子となり、樋口姓になりました。

1918年、陸軍大学校を卒業しウラジオストックとハバロフスクに勤務した後、駐在武官としてポーランドに赴任しました。

ウラジオストックとハバロフスク時代では、多くのロシア人と親交を結ぶと同時にロシア文学も熱心に学び、トルストイのアンナ・カレーニナを全訳したこともあるようです。またこの時期、ロシア人の先生に師事してピアノ練習もはじめました。もっとも間もなく挫折したようですが。

 

1925年、ポーランドのワルシャワに着任した樋口は生来社交的な性格で、夫人とともにダンスを習得してヨーロッパの社交界にデビュー。

当時のヨーロッパの駐在武官にとって社交界は大の苦手で、樋口のように積極的に交流を深める人と、敬遠して自分のカラに閉じこもり、偏狭な愛国心を持つようになる人と両極端だったようです。ちなみに樋口と親交の深かった石原莞爾は後者でした。しかしそのため、軍部では『樋口はダンスにうつつを抜かしている』と悪口をいう人もいたようです。

 

1937年8月、関東軍に特務機関長として着任したその年の12月。樋口はハルビンの内科医でハルビンユダヤ人協会の会長だったアブラハム・カウフマン博士(1885〜1971)の訪問を受けました。

 

 

博士の要件はナチス・ドイツの暴挙を世界に訴えるため、ハルピンで極東ユダヤ人大会の開催を許可してほしいとのことでした。樋口は、ハルピンの前はドイツに駐在していてユダヤ人の境遇に深く同情していたため、これを即決します。
12月26日、第一回極東ユダヤ人大会が開催され、ゲストとして招待された樋口は次のような演説を行い万雷の拍手を浴びたのです。

諸君、ユダヤ人諸君は、お気の毒にも世界何れの場所においても『祖国なる土』を持たぬ。如何に無能なる少数民族も、いやしくも民族たる限り、何ほどかの土を持っている。

ユダヤ人はその科学、芸術、産業の分野において他の如何なる民族に比し、劣ることなき才能と天分を持っていることは歴史がそれを立証している。然るに文明の花、文化の香り高かるべき20世紀の今日、世界の一隅おいて、キシネフのポグロムが行われ、ユダヤに対する追及又は追放を見つつあることは人道主義の名において、また人類の一人として私は衷心悲しむものである。

ある一国は、好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。それを何処へ追放せんとするか。追放せんとするならば、その行先を明示しあらかじめそれを準備すべきてある。

当然の処置を講ぜずしての追放は、刃を加えざる虐殺に等しい。私は個人として心からかかる行為をにくむ。ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ

※キシナウのポグロムとは1903年、帝政ロシア領であったユダヤ人虐殺事件。キシナウはモルドバ共和国の首都。

ある一国とはもちろんドイツのことです

 

事件はそれから3ヵ月も経たないうちに起こりました。

●将軍の決断

さてオトポール駅での惨状を知った樋口は手記でこう回想しています。

満州国はピタッと門戸を閉鎖した。
ユダヤ人たちは、わずかばかりの荷物と小額の旅費を持って野営的生活をしながらオトポール駅に屯ろしている。

もし満州国が入国を拒否する場合、彼ら(ユダヤ難民)の進退は極めて重大と見るべきである。ポーランドも、ロシアも彼らの通過を許している。

しかるに『五族協和』をモットーとする、『万民安居楽業』を呼号する満州国の態度は不可思議千万である。これは日本の圧迫によるか、ドイツの要求に基づくか、はたまたそれは満州国独自の見解でもあるのか

当時日本政府は日独防共協定を結んでいましたがドイツはこれを拡大解釈し、ユダヤ人もその(防共の)対象としたのです。ですから下手なことをすればドイツを刺激し外交上の問題となることは明らかでした。しかし樋口はこれを政治上の問題ではなく人道上の問題ととらえ、満州国外交部の下村信貞と協議し必要な処置をとらせたのです。

さらに当時南満州鉄道の総裁だった松岡洋右は樋口に相談されると直ちに救援列車の出動を命じたのです。オトポールに近い南満州鉄道駅である満州里(マンチューリ)はハルピンから900Kmの彼方にあり、列車の本数は少く特別な臨時列車が必要でした。

3月12日、ハルピンに最初の列車が到着。ハルピン在住のユダヤ人も出迎えて同胞の救出をことのほか喜んだといわれています。こうして救われたユダヤ難民は上海に、あるいはアメリカへと旅立って行ったのです。

この特別臨時列車はその後、合わせて13本あったといいます。

こうして救われたユダヤ人はどれぼどだったのか。

その記録は残っていませんが、一説には2万人といわれていますが、この数に関しては後述します。

 

樋口の元にユダヤ難民の第一報が届いた時点では18人だったのです。その後漸次増加したとは思いますが、最初の臨時列車でハルビンに着いたのは数十人だったと思います。
しかし樋口の功績は最初の数十人だけではなく、その後も臨時列車を走らせたことなのです。臨時列車を含めて救われたユダヤ人は、正確なところはわかりませんが、1000〜2000人位と思われます。


 

極東ユダヤ人大会でのドイツを非難する演説といい、ユダヤ人救出といい、当然ながら外交問題に発展しました。樋口は一市民ではなく、関東軍にあっては将軍の地位にあるのです。ドイツのリッべントロップ外相はオットー駐日大使を通じて次のような抗議文を送って来ました。

 

今や日独の国交はいよいよ親善を加え、両民族の握手提携、日に濃厚を加えつつあることは欣快とするところである。

然るに聞くところによれば、ハルビンにおいて日本陸軍の某少将が、ドイツの国策を批判し誹謗しつつありと。もし然りとすれば日独国交に及ぼす影響少なからんと信ず。請う。速やかに善処ありたし。

 これに対して樋口はつぎのような内容の手紙を書き、関東軍司令官だった植田謙吉に郵送。

 

私は、私の行為は決して間違っていないと信じます。

法治国家として当然のことをしたまでです。

満州国は日本の属国ではないし、ましてドイツの属国でもありません。

たとえユダヤ民族抹殺がドイツの国策であったとしても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいきません。

 続いて関東軍司令部に出頭を命じられた樋口は参謀総長だった東條英機に会い、こう述べたのです。

 

ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめをすることが正しいと思われますか?

東條の尽力だったのかどうかはわかりませんが、この事件はいつの間にかうやむやになりました。うやむやとは、いかにも「日本」です。

 

このオトポール事件。

ドイツへの配慮からか日本国内の新聞では記事にはならず、樋口の家族さえその死後、新聞の掲載記事で知ったのです。こうした樋口の行為を、アブラハム・カウフマンの息子のテオドル・カウフマンは、著作の中でこう書いています。

 

樋口は世界で最も公正な人物の一人で、ユダヤ人にとって真の友人だ


樋口には後日談があります。
1943年北方軍司令官として札幌にいた樋口は、アリューシャン諸島で孤軍となったキスカ島守備隊を帰還させるべく大本営に談判したことでも知られます。このキスカ島守備隊の撤退は映画化もされて、まるで小説のような面白さですが詳細はまた別の機会に。

1945年8月18日。無条件降伏の3日後。北海道占領を目的としてソ連軍が突然千島列島の占守島を攻撃してきました。その兵力約8000。同時にスターリンは千島列島と北海道北半分をソ連領とすることをアメリカに要求。

司令官樋口はすすめていた軍の武装解除を一旦停止し、戦車部隊を中心に断固たる防衛を命じたのです。8月22日まで続いた戦いの結果、ソ連は3000人もの死傷者を出して敗退。1日で占守島を占領する予定でしたが思わぬ齟齬をきたしたのです。もしソ連軍が計画どおり千島列島から北海道に上陸したら・・・・・あるいは日本もドイツのように分断されたかもしれません。

 大損害を受けたソ連は樋口を戦犯として指名し、連合軍総司令部に引渡しを要求しました。しかしこれを聞いた世界ユダヤ人協会がアメリカ国防総省に働きかけ、アメリカはソ連の引渡し要求を拒否することになったのです。


■2万人はつくられた美談か?

樋口のことはあまり知られていないせいか、間違った情報もあります。その代表が「黄金の碑(ゴールデン・ブック)」でしょう。  
こんな内容です。  

 

1. エルサレムの丘にある本を広げた形をした高さの3m黄金の碑。それはユダヤ民族に尽した人を称える記念碑である。  
2. この記念碑に、樋口季一郎の名前がモーゼやアインシュタイン等と共に刻まれている。 『偉大なる人道主義者、樋口将軍』と。  
3. 樋口季一郎の名前はイエス・キリストの次で二番目にある  

 

 

残念ながら、いずれも間違いです。  
ゴールデン・ブックは確かに存在しますが、エルサレムの丘ではなく、エルサレムにあるユダヤ民族基金という団体が事務所内に保管する書物です。これはユダヤ民族基金への献金者のリストで、第1巻は1901年に編纂され現在26巻まであります。 そこに樋口の名が書かれているのは事実ですが、樋口が直接献金したことはなく極東ユダヤ人協会が樋口への感謝の意味を込めて献金したようです。  

上記したように、オトポールで樋口が直接指示して救われたユダヤ人は、最初は数十人でした。その後の臨時列車で救出された人数を合わせても1000〜2000人ほどと思われます。
ところが樋口に救われたユダヤ人は2万人(あるいは3万人)とする書物や資料が少なくありません。

大変な数の相違です。
この違いはどいう経緯で発生したのでしょう。

樋口には樋口自身の執筆による「アッツ、キスカ軍司令官」という回想録があり、その中に「2万人」が記載されているのです。しかし、防衛省には同書の原稿が保管されており、そこには「2万人」の記載はありません。つまり樋口自身は「2万人」と書いていないのです。
つまり、これは回想録を出版するにあたり、編集者が勝手に2万人を追加したということです。
この回想録が出版されたのは1971年。樋口はすでに故人であり、出版社に訂正を要求することはできなかったのです。

さらにこの「2万人」を広めたのが、「流氷の海―ある軍司令官の決断/相良 俊輔」と小説です。
では、なぜ1000人ほどの人数を2万人までに拡大する必要があったのか。

この「拡大」が、日中戦争から太平洋戦争にかけてのことなら、あるいは政府(関東軍)による戦意高揚のための作為とも考えられます。
戦意高揚のための作為――実際には違うことを――、あたかも実話、それも美挙のように話を作り替えることは実際にあったことです。たとえば、爆弾三勇士とか、木口小平は死んでもラッパを離さなかったとか、広瀬武夫は身の危険を冒して杉野上等兵を探したとか。これらの話の詳細は割愛します。興味をもたれた方はご自分で調べてください。

1980年代の後半ごろから、右翼など、いわゆる「歴史修正主義者」の主張が目立つようになりました。
いわく、太平洋戦争は祖国防衛戦争だったとか、アジア解放のための正義の戦争だったとか、南京大虐殺はなかったとか、713部隊の人体実験は左翼の捏造とか・・・。
日本人として、旧日本軍や関東軍の暴悪を否定したい気持ちはわかりますが、そのために真実から目を背けてはなりません。

日本軍や関東軍は、中国大陸で言語に絶する残虐行為を行ってきました。
南京大虐殺はオトポール事件の数カ月前、1937年12月のことです。また731部隊による人体実験の舞台になったのはハルビンの郊外、平房というところです。

樋口は、確かにユダヤ人を救出しました。それは賞賛すべき行為です。
しかし2万人という数は、日本軍や関東軍の暴虐さを少しでも薄めるための「美談」として、右翼やいわゆる歴史修正主義者たちに創作された可能性は否定できないでしょう。また2万人とは関係ありませんが、樋口は、駐在武官としてヨーロッパに赴任していた時のこととして、こんなことを回想しています。

かつて私が、秦(彦三郎中将)と共に南ロシア、コーカサスを旅行して、チリフスに至った時、ある玩具屋の老主人(ユダヤ人)が、私共の日本人たることを知るや襟を正して、「私は日本天皇こそ、我等の待望するメッシアではないかと思う。何故なら日本人ほど人種的偏見のない民族はなく、日本天皇はその国内において階級的に何らの偏見を持たぬと聴いているから」というのである。

日本人には、中国、朝鮮人への態度を見ればわかるように、人種差別・偏見はかなりあります。
現在ですらそうなのですから、戦前は相当のものだったでしょう。「朝鮮人暴動」のデマが流れ、無実の朝鮮人数千人が虐殺されたのは「関東大震災」のときです(1923年)。

この老人の話しは、日本のユダヤ人へ温情を強調するために、2万人が編集者によって追加記載されたように、「薄めるため」に創作されたのではないでしょうか。繰り返しますが、出版当時樋口はすでに故人であり、出版社へ修正要求はできなかったのです。


■おわりに

杉原千畝はしばしば「日本のシンドラー」と呼ばれますが、この呼び方は正しいのでしょうか?
私はむしろシンドラーの方こそ、『ドイツの杉原』と呼ぶべきと考えます。

杉原千畝のビザ発行は1940年でシンドラーより3年前だったこと。シンドラーは自分が経営する工場の労働力とするためにユダヤ人を助けたこと。杉原氏の方が助けた人数がずっと多いことがその理由です。

お断りしておきますが、私はシンドラーを貶めるつもりは全くありませんし、彼の行為は称賛すべきだと思っています。しかしそれでも純粋に人道上の立場から、危険を顧みずビザを発行した杉原千畝の方により次元の高い精神の尊さを感じるのです。

# & ♭

杉原にしても樋口にしても松岡洋右(1880〜1946)の存在なしでは語れないでしょう。不思議な人ではあります。
杉原にビザを発行してはならないと指示した彼と、日本にやって来たユダヤ難民に便宜を図った彼とでは別人のようです。

この矛盾を無理に説明するなら当時の日本は三国同盟推進中であったため、政府の公式見解としてはユダヤ人保護を打ち出すのはまずいとの思惑があったのでしょう。松岡は外務大臣の要職にあったのですから。

しかし私人としての松岡は別に反ユダヤではなく普通の日本人の宗教感覚であり、ユダヤ人への差別意識はなかったのでしょう。だからこそオトポール駅でもユダヤ難民を救うため臨時列車を発車させたのでしょう。

さらに想像すれば杉原の解任は松岡が外務大臣を辞職した後に唐突におこっています。松岡自身は杉原の行為を内心認め、彼の在任中はひそかに擁護したのかもしれません。

杉原と外務省といえば入国を拒否した非情な外務省(悪)と、それに敢然と立ち向かった人道主義者杉原(善)といった単純構造でとらえられがちですが、当時の外務省とすればあのような立場をとらざるを得なかったでしょう。別に弁護するわけではありませんが外務省は日本の対外窓口であり、当時の日本政府は『あの道』を歩んでいたのですから。

杉原が解雇されてから1991年までの44年間、外務省が杉原を無視し続けたのは弁解の余地はありません。しかしようやく2000年、生誕100周年における河野外務大臣の謝罪により杉原の名誉は回復されたと思います。

戦前の日本には五族共和のスローガンや猶太人封策要綱のような方針はあったものの、事実上ユダヤ難民の入国、通過を拒否してきました。太平洋戦争がはじまると軍部の態度は変わり、上海のユダヤ人達は狭く不潔なゲットーに押し込められたのです。杉原の行為も、樋口の行為も決して国策に沿ったものではなく、あくまで個人としての行為であり、政治ではなく人道上の行為なのです。

あの暗い時代。自分の信念で多数のユダヤ人を救った杉原や樋口は日本人が永久に記憶すべき偉人ではないでしょうか?我々は旧日本軍の行為というと、とかく南京事件をはじめとする悲惨・残虐な事件を連想しがちですが、樋口のような軍人である以前に、人間として立派な人もいたのです。ところが近年になって杉原や樋口の行為を貶める発言をする人が出てきました。

当時の日本は八紘一宇、五族共和をスローガンとしていた。杉原や樋口の行為は国策に沿って行ったのだ。
なぜなら外務省は杉原には入国条件を満たしているユダヤ人にはビザを発行して良いと言っているし、樋口は猶太人封策要綱に従ったにすぎない。

これに対する私の考えはすでに書いています。杉原は河豚計画も猶太人対策要綱も知りませんでした、これは杉原だけではなく日本・満州以外の外交官も同様だったようです。知らせなかったのは策定の主導が軍部(関東軍)であり、外務省を軽るんじていたのかもしれません。河豚計画について幸子夫人は次のように述べています。

夫は全くそのこと(河豚計画のこと)を知らなかったのですが、日本政府のユダヤ人に対する政策が他国に比べて緩やかだったのはそうした背景があったことも影響していたのでしょう。もしも夫がこの計画のことを少しでも耳にしていたら、少しは気が楽だったかもしれません。(六千人の命のビザ)

もし杉原がこれを知っていたらビザ発行に際して幸子夫人に、日本ではこのような計画、施策があるから大丈夫だ、と必ず言うはずですし、杉原自身があれほど悩むことはなかったでしょう。さらに杉原を誹謗する人たちはこんなバカバカしいことを言っています。

杉原は諜報(スパイ)活動をしていた

外交官の仕事とは赴任先国や周辺諸国の情報を収集し分析することです。簡単に言えば営業所に赴任した営業所長が営業活動をするようなもので、諜報活動は当然の業務なのです。なぜ今さらこんなわかりきったことを、誹謗中傷するように言うのか。

さらに前述した根も葉もない中傷になると

杉原は多数のユダヤ人を救う見返りに、多額の謝礼を受け取った

ただ一言。
人の精神の美しさを理解できないのは、おのれの精神が醜いためだ。私はそう思います。

●参考ホームページ

リトアニア共和国ホームページ

岐阜県八百津町ホームページ

杉原千畝記念財団

http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/Holocaust/sugihara.html

https://en.wikipedia.org/wiki/Chiune_Sugihara


●参考資料

6000人の命のビザ(杉原幸子)
自由への逃走 (中日新聞)
決断・命のビザ(渡辺勝正)
外務省と杉原千畝(杉原誠四郎)


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