Index ティータイムの歴史話 その2 その3

正義の人(杉原千畝と樋口季一郎) その1


■杉原千畝

1939年、バルト海に面する小国リトアニアの日本領事館に領事代理として一人の外交官が赴任してきました。
彼の名前は杉原千畝(すぎはらちうね 1900〜1986)。後に『命のビザ』を発行し、ナチスドイツに排斥された数千人のユダヤ人を救った人です。

リトアニアの首都(当時)カウナス郊外の借家を事務所にした領事館で杉原は現地で雇った数人の職員と仕事をしながら、幸子夫人と3人の子供、幸子夫人の妹と暮らしていました。

(外務省ホームページより)

 

カウナスの旧日本領事館 杉原千畝

 

まず領事館とは一体何なのか、領事と大使の違いは何なのか?
この文章を書きはじめて、しばらくしたらそんな疑問が生まれました。

●領事 外国に駐在し、自国の通商の促進と在留自国民の保護にあたる者。
通常、階級として総領事・領事・副領事などの別がある。
●大使 国家を代表して他国へ派遣される最上位の外交使節。また、その外交官。
特命全権大使。

ということのようです。どちらも外交官に違いはないでしょう。

■年表

 

杉原自身

日本の動きなど

1900 1月1日岐阜県八百津町に生まれる   
1918 早稲田大学高等師範部英語科入学   
1922 日露協会学校(ハルビン学院)特修科入学   
1932 このころロシア人女性と最初の結婚 満州国建国
1933 東清鉄道買収でソ連と交渉 河豚計画(満州国)
1936 モスクワ大使館勤務を命ぜられるが、ソ連に入国を拒否される
菊地幸子と再婚
 
1937 フィンランドのヘルシンキ公使館勤務   
1938   

1月
11月
12月

満州国、現下ニ於ケル対猶太民族施策要領制定
水晶の夜事件
五相会議開催(猶太人対策要綱)
1939 リトアニア日本領事館領事代理

3月
9月

樋口季一郎オトポールのユダヤ人救済
ドイツ、ポーランドへ侵入
1940

7月18日
7月29日
9月5日
10月

ユダヤ難民が領事館前に押し寄せる
ビザ発行開始
ベルリンへ向かう
チェコスロバキア日本領事代理

7月
8月
9月

第二次近江文麿内閣発足。松岡洋右外務大臣就任
ソ連リトアニアを併合
日独伊三国同盟締結
1941 東プロイセン日本総領事代理   
1942 ルーマニア日本公使館総領事   
1946   東京裁判はじまる〜1948年
1947

4月7日
6月7日

帰国
外務省を解雇される
   
1954 ニコライ学院ロシア語教授   
1956 科学技術庁情報センター勤務   
1960 川上貿易(株)モスクワ事務所長   
1968 助けたユダヤ人ニシュリと再会  
1985 イスラエル政府より『諸国民の中の正義の人賞』受賞
エルサレムの丘に顕彰碑建立
   
1986 7月31日 鎌倉にて死去。   
1992 人道の丘公園完成(岐阜県八百津町)  
2000 生誕100周年記念式典で河野外務大臣が謝罪  

 

杉原の履歴で最初に注目すべきは早稲田大学在学中に外務省がハルピンに設立した日露協会学校に官費入学したことでしょう。ロシア語を選んだ杉原は、わずか4ヵ月で日常会話に不自由ないほど習得できたようです。
2年後同校を卒業した杉原は外務省に採用され、ハルピンの日本総領事館にロシア係として勤務していました。

1932年満州国が建国されると帝政ロシア時代に建設された満州国を横切る鉄道(東清鉄道)をソ連から買い取る交渉が始まり、杉原は満州国スタッフの一人に任命されます。

ソ連側の提示価格は6億2500万円。
これに対して満州国側の購入予算は5000万円。粘り強く交渉を続けた杉原は1935年、最終的に1億7000万円で決着させたのです。杉原の圧勝(?)でした。

1936年杉原はモスクワの日本大使館勤務の辞令を受けましたが、ソ連側は杉原の入国を拒否してきました。これは当時の新聞でも報道されるほどの異例中の異例だったようです。

その理由は一説には鉄道買収交渉の時のソ連側の代表者だったカズロフスキーという人がこの時には人民委員部極東部長という肩書きになっていて杉原の能力を危険視し、ソ連入国を反対したといわれます。やむなく杉原はフィンランドの首都ヘルシンキの日本大使館に赴任しました。ソ連は通れなかったのでアメリカ経由で。(1937年9月)

その後リトアニアへ領事代理として赴任したわけですが、当時のヨーロッパは相当危険な状態でした。もちろん戦争のことです。
代理といっても正領事がいたわけではなく、日本人外交官は杉原一人なので事実上の正領事だったのです。ついでにいえば当時のリトアニアでは日本人は杉原一家だけでした。

代理だった理由は、何か事件が起きた時・・・例えば杉原の主要任務である諜報活動において、ソ連やドイツとトラブルが発生した時には相手国に対して正領事より代理の方が責任の問われ方が緩いだろうという配慮からでした。

杉原は休日になると家族とよくドライブに行きました。
夫人や子供等は単純に喜んだようですが、杉原にはこれも情報収集の仕事なのです。
農地に若者がいなくなれば兵士として徴用された可能性がある、道に深いワダチの跡があれば兵器を満載したトラックが走って行ったかもしれない・・・・・。

■ユダヤ難民

1940年7月18日、日本総領事館の前には数百名にのぼる群衆が押し寄せました。驚いた杉原が職員に事情を調べさせると、彼らはナチスに迫害されポーランドから逃げてきた難民であることがわかりました。

杉原が彼らの代表者5人を呼んでさらに詳しく話を聞いた結果、彼らは安全な国へ逃げるため日本の通過ビザを発行してほしいというものでした。リトアニアからソ連に入り、シベリア鉄道でウラジオストックへ行き、そこから日本経由で他の国へ渡るつもりだったのです。ちなみにこの時の代表のなかに、後にイスラエルの宗教大臣となって杉原をイスラエルに招待することになるゾラフ・バルハフティックがいました。

さて、当時日本の通過ビザを発行するには次の資格が必要でした。

1.行き先国の入国手続きが完了していること
2.日本での滞在費用を持っていること
3.旅行費用を持っていること

それ以前も杉原はユダヤ人でも誰でも、この三条件を満たしている人の申請があれば日本の通過ビザを発行していましたが、この日以降は勝手が違ってきました。

ユダヤ難民はいきなり日本領事館に来たわけではなく、最初はカウナス市内にあるオランダ領事館に行ったようです。オランダはヨーロッパ諸国のなかでは比較的ユダヤ人に好意的だったのです。

オランダ領事のヤン・ツバルテンディグはユダヤ人に対してカリブ海の小島キュラソーの入国許可証 (入国を許可するというだけで、手続きというほどのものではありませんでしたが) を発行しましたが、そこに行くにはソ連から日本へ行く必要があったのです。

とにもかくにも形式上は上記の資格の中で1.はクリアしていたのです。実はこのキュラソー行きというのは、とりあえず行き先決めておかなくてはならないので一時の方便でした。実際には日本に渡ったユダヤ人達はアメリカや上海へ行ったのです。

しかし・・・・・

数人ならともかく、これほどの人数に対してビザを発行するには外務省の許可が必要だ

そう判断した杉原はビザ発行の許可を得るべく本省(外務省)に電報を打つのです。このような内容でした。

1.人道上どうしても拒否できない。
2.パスポート以外でも、形式に拘泥せず、領事が最適と認めたものでよい
3.通過ビザの性質を失わないため、ソ連横断日数20日、日本滞在日数30日を申請する。

ところが当時日本政府は日独伊三国同盟締結を推進中で、外務省は今ドイツを刺激するようなことはすべきではないと判断し、拒否してきたのです。当時の外務大臣は就任したばかりの松岡洋右でした。


日を追うごとに領事館前のユダヤ人は増えていきます。
杉原はリトアニアがソ連に武力併合されるのは時間の問題とみていましたし、外務省からは早々にリトアニアを引揚げるよう指示されてもいたのです。

外交官としての職務に忠実なら、いや、身の安全・保身を考えるなら、杉原はユダヤ人達の要請を断固拒否すべきでした。独断でビザを発行すれば外務省はクビになるだろうし、へたをすれば敵対行為としてドイツから命を狙われる危険すらあったのです。当然ながら彼の周辺にはドイツのスパイがいたはずで、ひょっとしたら領事館で働く現地採用の職員も疑おうと思えば疑えるのです。

そして悩みに悩んだ杉原は外交官としての自分の立場や外務省の指示よりも、人間としてするべきことを優先させるのです。この時の様子を知るには杉原自身の回想や、幸子夫人の手記にまさるものはありません。

最初の回訓(外務省からの回答)を受理した日は、一晩中私は考た。回訓を文字どおり民衆に伝えれば、そしてその通り実行すれば私は本省にとって従順であるとして、ほめられこそすれ、と考えた。

仮に当事者が私でなく、他の誰かであったとすれば、恐らく百人が百人、東京の回訓通り、ビザ拒否の道を選んだだろう。それは何よりも、文官服務規程方、何条かの違反に対する昇進停止、乃至斬首が恐ろしいからである。

私も、何をかくそう、回訓を受けた日、一晩中考えた。

・・・・・・果たして浅慮、無責任、我武者ら(がむしゃら)の職業軍人グループの、対ナチス協調に迎合することによって、全世界に隠然たる勢力を擁するユダヤ民族から、永遠の恨みをかってまで、旅行書類の不備、公安配慮云々を盾にとって、ビザを拒否してもかまわないが、それが果たして、国益に叶うことだというのか。

苦慮、煩悶の揚句、私は人道博愛精神第一、という結論を得た。そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している。(決断・命のビザ)

領事館内の執務室

領事館に集まったユダヤ人

「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」
 「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけれど、そうしてください。」 私の心も夫とひとつでした。大勢の命が私たちにかかっているのですから。 夫は外務省を辞めさせられることも覚悟していました。

「いざとなればロシア語で食べていくぐらいはできるだろう」とつぶやくように言った夫の言葉には、やはりぬぐい切れない不安が感じられました。 「大丈夫だよ。ナチスに問題にされるとしても、家族にまでは手は出さないだろう」
それだけの覚悟がなければできないことでした。 
(六千人の命のビザ)

29日早朝。杉原はカウナスのソ連領事館にで出かけます。ソ連の通過許可証がおりなければ日本ビザ発行の意味がなくなるからです。当時はソ連とドイツは見かけ上とはいえ友好関係があったので杉原は不安でしたが、ソ連領事は意外に快く通過を許可しました。

杉原の人間性と彼のロシア語がロシア人とまったくかわらないないほど流暢だったのが幸いしたのでしょう。領事館に帰った杉原はユダヤ人にビザ発行を告げます。

夫が表に出て、鉄柵越しに「ビザを発行する」と告げた時、人々の表情には電気が走ったような衝撃がうかがえました。
一瞬の沈黙と、その後のどよめき。抱き合ってキスし合う姿、天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人、子供を抱き上げて喜びを押さえきれない母親。窓から見ている私にも、その喜びが伝わってきました。
(六千人の命のビザ)

それからまさに不眠不休のようなビザ発行がはじまります。
杉原はユダヤ人を一人づつ呼び、名前は?行き先は?と質問し、ビザを手書きして行ったのです。寝る前には幸子夫人に棒のようになった腕をマッサージしてもらう日が続きます。杉原は決して幸子夫人にビザ発行を手伝わせはしませんでした。夫人が狙われることを恐れたからです。

すでにリトアニアの外国領事館は日本を除いてすべて撤退してしまい、日本以外でビザを発行できるところはなくなっていました。8月3日、リトアニアがソ連に併合されるとソ連は日本領事館に対し、8月中に退去通告してきます。残された日数はわずかです。

28日には領事館を閉鎖し市内のホテルに移動しましたがここにもユダヤ人達はやって来ます。領事館に居場所を伝える張り紙をしておいたのです。

9月5日、ついにリトアニアを去る日が来ました。
駅で列車を待つ間も、列車に乗ってからも、杉原は列車の窓越しにビザを書きつづけました。列車が走り出すとホームにいる、まだビザを書いてもらっていないユダヤ人に杉原は、

「許してください、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています。」
夫は苦しそうに言うと、ホームに立つユダヤ人たちに深ぶかと頭を下げました。茫然と立ち尽くす人々の顔が、目に焼きついています。

「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」
列車と並んで泣きながら走ってきた人が、私たちの姿が見えなくなるまで何度も叫び続けていました。
(六千人の命のビザ)

こうして発行されたビザは一体何枚だったのか。
公式記録にあるだけで2139枚。杉原はあまりの枚数をこなさなければならないため、途中から手数料の徴収をやめ、ビザ発行を記録するのもやめて書き続けましたので、おそらく4500枚以上と想像されます。それに一枚のビザで家族も有効でしたから、助かったユダヤ人は6000人以上と推定されています。

しかしせっかくビザを貰いながら何かの都合でシベリア鉄道に乗らなかった人、途中で下車してしまった人。杉原ビザを持ったすべてのユダヤ人が助かったわけではありませんでした。またビザをもらえなかったユダヤ人はまだまだ大勢いましたが、その後彼らのほとんどが殺されたようです。

●杉原と外務省との電報のやり取りです。残念ながら7月29日〜8月6日の部分は外務省の資料にも存在しないようです。

日付 宛先 内容
7月28日 杉原→外務省 第五〇號

當國内共産黨工作ノ急速度ニ進展シタル影ニハ「ゲペウ」ノ假借ナキ且電撃的「テロ」工作行ハレタル次第ニシテ「ゲペウ」ハ先ツ赤軍進駐ト共ニ波蘭人白系露人當國人及猶太人ノ政治團体本部ヲ襲ヒ團員名簿ヲ取上ケタル上選挙三日前ヨリ團員ノ一斉検挙ヲ開始右ハ今ニ至ルモ繼續セラレ居ル処今日迄ニ逮捕セラレタル者「ウィルノ」千五百當地其ノ他ノ諸地ニ二千アリ大部分ハ旧波蘭軍人官吏白系露人将校當國旧政権与党タリシ國民党乃至社會黨幹部「ブント」派及「シオニスト」猶太人等ニシテ前首相「メルキス」及「ウルプシス」外相モ夫々家族ト共ニ莫斯科ニ送ラレタリ


尚一週間前ニ抑留波蘭軍人千六百「サマラ」方面へ押送サレタルニ対シ英國側ハ當地並ニ莫斯科ニ於テ蘇側ニ抗議中
右粛清開始以来危険ヲ感シ農村ニ潜込ミタル者鮮カラス獨逸領ニ脱走セル者数百ト謂ハレ猶太人ハ本邦経由渡米スヘク査證關係ニテ當館ニ押掛クル者連日百名内外ニ及ヒ居レリ
獨、蘇へ轉電セリ

8月7日 杉原→外務省 第五八號

チエツコ」旅券ニ通過査證ヲ與ヘ差支ナキヤ囘電アリタシ尚當地獨逸公使館ニ於テ右ニ例外トシテ獨逸通過査證ヲ與フル場合アリ

8月9日 杉原→外務省 第五九號

當國避難中ノ「ベルクマン」外約十五名ノ有力ナル「ワルソー」出身猶太系工業家ノ一行ハ南米ニ移住スヘク當館ノ敦賀上陸通過査證(當館ハ通過査證ニハ滞在十日限ト註記シ居レリ)ヲ得タルカ途中本邦企業團ニ対シ其ノ資本及経験提供方折衝ヲ試ミタキ趣ニテ一ケ月滞在許可方願出タル処何等容疑ノ点ヲ認メサルニ付左様許可シ差支無キヤ折返シ回電アリタシ(電信料本人負擔)

8月12日 外務省→杉原 第一八號
貴電第五八號二關シ
一九三九年三月十六日前ニ發給セラレ又ハ期間ヲ延長セラレタル「チエッコ」旅券ハ其ノ有効期間中ノモノナル限リ査證ヲ與へ差支ナシ但シ避難民ニ付テハ行先國ノ入國許可決定濟ノ者ニアラサレハ通過査證ヲ與ヘサル様注意アリタシ
8月14日 外務省→杉原 第二一號

貴電第五九號二關シ
右一行ノ本邦滞在方二付テハ本邦上陸許可後ノ問題ト致度シ尚此ノ種ノ者二關シ本邦通過査證ヲ與へ得ルハ行先國ノ入國許可手續完了ノ者二限ルニ付若シ同人等カ右手續未了ナルニ於テハ上陸モ許可セラレザル次第ナルニ付右御含置アリ度シ

8月16日 外務省→杉原 第二二號

最近貴館査證ノ本邦経由米加行「リスアニア」人中携帯金僅少ノ為又ハ行先國ノ入國手續未濟ノ為本邦上陸ヲ許可スルヲ得ス之カ処置方ニ困リ居ル事例アルニ付此際避難民ト看傲サレ得ベキ者ニ対シテハ行先國ノ入國手續ヲ完了シ居リ且旅費及本邦滞在費等ノ相當ノ携帯金ヲ有スルニアラサレハ通過査證ヲ與ヘサル様御取計アリタシ

8月24日 杉原→外務省 第六六號

當國避難中波蘭出身猶太系工業家「レオン、ポラク」五十四歳ハ妻子ト共ニ米國ニ移住スヘク二月在紐育従兄ヲ通シ「アフイデウイト」手續ヲ了セル処本人ヨリ一箇月前ニ手續セル妻子ニ対シテハ本月一日當地ニ於テ入米査護下附セラレ(當館ヨリ通過査證ヲ受ケタリ)タルヲ以テ自分ニ対シテモ間モナク許可来ルモノト確信スルモ一方米國公使館ハ十七日限リ引揚ケタルト當國側出國手續日ニ日ニ困難トナリッツアルニ鑑ミ速ニ妻子ト共ニ出發本邦ニ於テ右査證ヲ待チ受ケタキ趣ニテ特別取計ニ依ル通過査證方願出テタル処同人提示書類ニ依ルハ在外資産ハ充分アリ且一九二七年頃商用ヲ以テ蛤爾賓、大連、天津ニ旅行セル旨申告シ居リ容疑ノ点ヲ認メサルモ査證差支ナキヤ御回電アリタシ

8月28日 外務省→杉原 第二三號

貴電第六六號二關シ
「ポラク」ニ対シテハ入米許可決定ノ後通過査證ヲ與フル様致度シ

*9月1日

(8/1?)

杉原→外務省 第六七號

當國避難民中ニハ近クニ中南米代表ナキト當館ノ引揚切迫ヲ見越シ先ツ以テ現在唯一ノ通過國タル我査證方願出ル者アリ而モ我査證ハ蘇側ニ於テモ米國方面出國手續上ノ絶対条件トナシ居ル等事情斟酌ニ値スルモノアルニ鑑ミ確実ナル紹介アル者ニ限リ浦潮乗船迄ニ行先國上陸許可取付方本邦以遠ノ乗船券予約方並ニ携帯金ニ付テハ極端ナル為替管理ノ為在外資金ヲ本邦ヘ転送方手配スル場合敦賀ニ予報方手配方夫々必要ノ次第ヲ承知スル旨申告セシメタル上右実行ヲ条件トシテ査證シ居ルニ付右手續未了ノモノニ対シテハ至急浦潮ニ於テ乗船拒絶方御取計アリタシ

9月3日 外務省→杉原 第二四號

貴電第六七號ニ關シ船会社カ帝國領事ノ通過査證ヲ有スル者ノ乗船ヲ浦潮ニ於テ蘇官憲ノ命令ニ反シテ拒絶スルコトハ事実不可能ナルノミテラス右ハ我方査證ノ信用ヲ害スルモノナリ現ニ貴電ノ如キ取扱ヲ為シタル避難民ノ後始末ニ窮シ居ル実状ナルニ付以後ハ往電第二二號ノ通厳重御取扱アリタシ

注)
*波蘭人・・ポーランド人、猶太人・・ユダヤ人、莫斯科・・モスクワ

*9月1日は電文の内容から8月1日の間違いのように思えますが、そうすると『第六七號』という電文番号に矛盾が生じます。

●ところで

8月12日付けの外務省からの電報には

避難民の行き先国の入国許可決定済みの者以外に、通過査証を与えないようにしなさい

また8月16日には

避難民と思われる者に対しては行き先国の入国手続きを完了し、かつ旅費及び滞在費など、充分な所持金を持たないものには通過査証を与えないようにしなさい

と書いてあります。
つまり行き先国で入国が許可されていて、その手続きが完了されていて、さらにお金を充分持っている者にはビザを発行してよいということです。これは当時の政府の方針 (1938年外務省の訓電) であり、外務省がいたずらにユダヤ人に対して無情だったわけではありません。外務省にすれば、行き先のない外国人が国内に増えてしまっては困るのでしょう。

しかしこの訓電(訓示となる電報)を読めばわかりますが、着の身着のままのユダヤ人にとって240円は大変な金額だったことでしょう。この8月12日、16日の電報は事実上の入国拒否と同じなのです。

ホームページ上で調べたら、ある小学校の創立100周年記念というサイトがあって、そこに昭和7年(1932年)の資料が掲載されていました。それによると教員の初任給が40円となっていました。240円は実に半年分の費用なのです。

■日本上陸

ビザを受け取ったユダヤ難民ですが、そのまますぐにモスクワからシベリア鉄道に乗れたわけではありません。そこにはソ連という国家の壁がありました。リトアニアが併合された後、ソ連は 『国民』 の出国に良い顔をしなかったのです。『社会主義に何の不満がある』という理屈でした(自由への逃走)。

ここの部分は『自由への逃走』に基づいて書いていますが、私には国民というのがよくわかりません。難民はリトアニア人ではなく、国籍はポーランドやドイツなどだったはずです。

さらに運良くシベリア鉄道に乗れても『若い男はシベリアで強制労働させられる』というウワサを信じて途中下車する人も出るし、途中駅に停車するとソ連の秘密警察が乗り込み、難民から貴金属や腕時計を取り上げる始末。

『出国まで預かる』といって奪った。返してもらえた者は誰もいない(自由への逃走)

当時ザ・ジョイントというユダヤ人組織があって、その一員だったジョゼフ・シムキンは組織から特命を受けて、シベリア鉄道に乗った難民を無事にウラジオストックに送り届けることになりました。この組織はアメリカで作られ、第一次、二次大戦で各国のユダヤ人を救出してきたようです。

ジョゼフは同朋のためにシベリア鉄道の切符を手配し、乗車してからは秘密警察と折衝し不当に金品を奪われないようにし、下車してからは出国するため日本領事館との交渉をしたのです。日本に行くためビザの偽造までしたようです。

彼はウラジオストックから日本へ行く難民を見送った後モスクワへ戻り、再び難民達とシベリア鉄道でウラジオストックへ向かうのです。この生活が秘密警察の監視の中で1年続いたといいます。

1年後、任務を終えたジョゼフに残酷な悲報が届きます。ポーランドに残した家族・・・4人の兄と姉、23人の家族は皆ナチスに捕らえられ『死の強制収容所』へ送られたのです。

1941年9月来日したジョゼフはその後上海へ移り、1955年に再び来日。東京で貿易商を営み1993年に86歳で永眠しました。彼の墓は横浜の外人墓地にあり、そこにはジョゼフのユダヤ人救出を称える碑が立っています。

第二次世界大戦中ナチスドイツに追われた多数のユダヤ難民を命をかけて救出し、自らも杉原千畝リトアニア副領事の発行した命のビザで日本に脱出し救われた同朋の勇士ジョゼフ・シムキン氏はよみがえりし時を信じ安らかにここに眠る

『自由への逃走』は、今では数少なくなってしまった当時のユダヤ人の談話を中心とした力作です。彼らの苦難の逃避行は涙なくしては読めません。


さてウラジオストックに着いたユダヤ人達です。
幸運にもウラジオストックの日本領事であった根井三郎はハルピン日露協会学校の出身で杉原とは旧知のなかでした。あるいは杉原はウラジオストックには根井がいることを知っていて、彼ならなんとかしてくれると思ったのかもしれません。

外務省からは依然としてユダヤ人達を入国させないよう指示してきました。ウラジオストックからの日本行きの連絡船に乗せるなということです。しかし根井はユダヤ人のビザが訓令違反で発行されたことは承知の上で、まがりなりにも正式なビザ (訓令違反とはいえ領事の発行したビザは正式なのです) を持つ人の入国を拒否するのは日本帝国の威信にかかわるとして外務省を説得したのです。

帝國在外公館査証ノ威信ヨリ見ルモ面白カラス

根井はこのように言って外務省の命令を斥け、難民達を乗船させます。1940年10月から翌年6月まで、ウラジオストック〜敦賀間の週一回の定期便に乗り、ユダヤ人達は日本に着きました。しかし全員がすぐに上陸できたわけではなく、敦賀での入国審査で所持金不足、行き先の入国手続き未了のユダヤ人に日本当局は入国を拒否したのです。

1941年3月13日、天草丸(2344トン)に乗ったベンジャミン・フィッショフら72人の難民達も「希望」の地に胸を膨らませていた。荒波にもまれ、船酔いに苦しめられたことも忘れて。天草丸は滑るように敦賀港に入った。

入国審査のため、福井県警察部の警官が船に乗り込んできた。しかし、パスポートを調べると、彼らは冷たく言った。「最終目的国のビザがない者は日本入国を認めない」

72人は、ビザが不要なオランダ領キュラソー島に向かうことを証明する”キュラソービザ”を持っていなかった。欧州脱出にそれが必要だと知るのが遅れ、40年8月下旬にリトアニアのオランダ領事館へ走ったものの、すでに閉鎖。日本領事館にはかろうじて間に合い、杉原はすぐに日本通過ビザを出してくれたのだが。

「必要なビザは日本で取ります」。必死に訴えもむなしく、下船は許されない。彼らを出迎えに来ていた神戸ユダヤ人協会のスタッフは、救済策を講じるため急きょ神戸に戻った。

「リトアニアの日本領事館はビザを出してくれたのに、なぜ同じ日本が…」。悔しがるベンジャミンたちを乗せたまま、天草丸は三日後に敦賀を離れた。

再び厳寒のウラジオストックへ。しかし、ここでもソ連秘密警察の怒号が待っていただけだった。「なぜ戻った。お前達、日本のスパイだな」。船から一歩も出ないように命じられた。「日本にもいけず、一生船にいろというのか。それとも逮捕されてシベリアで強制労働…」。ベンジャミンは、混み合う船室の片隅で身震いした。(自由への逃走)

 
このように一時は再びウラジオストックに戻され、さらにはソ連当局からも目をつけられた人もいたのです。
当時神戸にはユダヤ人協会があって難民の受け入れを行っていました。この協会の人たちが奔走し、駐日オランダ大使館とかけあって『キュラソービザ』を発行してもらい入国拒否にあった難民を救ったのです。

ところで杉原が発行したビザの有効期間は10日間でした。
日本に上陸したユダヤ人は10日以内に次にどこの国に行くか決めて出国しなければならないのですが、そんなことができるユダヤ難民は一人もいなかったでしょう。前記のとおり、オランダ領キュラソー行きはビザ取得の方便なのです。

ユダヤ協会の働きかけでユダヤ難民の代表がユダヤ教の研究者であり信者である小辻節三を訪問し、日本滞在延長への協力を要請したのです。小辻は快く引き受け、彼らと一緒に何度も外務省へ出向きました。

しかし全く相手にされず困った小辻はついに外務大臣松岡洋右に直訴することにしました。松岡が南満州鉄道の総裁をしていたとき、小辻は松岡の部下だったのです。松岡自身はこの2年前、満州国とソ連との国境近くにあるオトポール駅での事件でユダヤ人救済に協力していました。(このことはその2に書きます。)

さて小辻に相談された松岡はさすがに立場上規則を曲げることはしませんでしたが、『ある抜け道』を示唆したのです。
抜け道とは『入国特許』というゴム印を作ってビザに押印することで10日は1箇月、1箇月をすぎたら無期延長を黙認するということでした。こうしてユダヤ人達は出国するまで何日でも日本に滞在できるようになったのです。

小辻が最初は相手にされなかったというのは、やはり『お役所』だったからでしょう。根井のこといい、小辻のことといい、松岡のことといい、困難もありましたがユダヤ難民は幸運でした。

小辻節三(1899〜1973)。元青山学院教授。
神道の家系で京都生まれ。28歳で渡米し神学、ヘブライ語を学びます。太平洋戦争がはじまるとユダヤ人を助けたことから憲兵隊や特高警察ににらまれ、一時は暗殺されたとの噂が広まったと言われます。

1959年、ユダヤ教に改宗しアブラハムの名前を受けますが、ユダヤ教への改宗は欧米にあってもきわめて珍しいことでした。
1973年、鎌倉で亡くなると遺言によって遺体はエルサレムに運ばれ、そこに埋葬されました。

敦賀上陸後のユダヤ人難民たちに対する一般市民の対応も、日本人として嬉しいものです。
ボロをまとうような姿で上陸した人々に対し、温かい飲み物や食べ物をふるまったり、宿泊施設を神戸に設けたり手厚くもてなしたと伝えられます。

こんなことがあったそうです(自由への逃走より)

16歳位の日本人の少年が籠いっぱいのミカンやリンゴをユダヤ人のところに持って来た。ユダヤ人がお金を払おうとすると、少年は籠を置いて走り去った。

あるユダヤ人が買い物をして店を出ると警官に呼び止められた。不安な顔をしていると警官はいくらでそれを買ったか尋ねた。金額を聞いた警官はユダヤ人と店に行き、出てきた店主の顔をいきなり殴り飛ばした。警官は店主から金を返させるとユダヤ人に渡し、そのまま出て行った。この店主は外国人だからわからないだろうと高く売りつけたのだ。

それがヨーロッパで迫害され続けてきたユダヤ人達とって、どれほどの驚きだったことか。彼らの中には京都の古刹などの名所を見物する人もいて、つかの間の休息を楽しむことができたのです。

その後ユダヤ難民は、日本国内で受入れ国の正式ビザを取得できた人はアメリカやイスラエル(英領パレスチナ)へ。ビザを取れなかった人は上海へ旅立ちました。当時の上海はビザなしでも行けたのです。

しかし上海へ行ったユダヤ人達は必ずしも幸福ではなかったようです。
太平洋戦争がはじまると日本政府の態度は大きく変わり、ユダヤ人達はゲットーに押し込められ惨めな毎日を送るようになります。
さらに終戦近くなるとアメリカ軍の空襲で犠牲者も出るのです。


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