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怨霊対策


冬になると風邪を引きやすくなりますね。
風邪を予防するには部屋の湿度を上げたり、栄養のあるものを食べたり、ストレスをためないようにします。でも風邪を引いてしまったら、薬を飲んで暖かくしてゆっくり休むしかありません。

怨霊対策も同じようなもので、発生させないのが一番いいのです。
でもこの点がどうもよくわからないのですが、恨みを残して死んでいった人が怨霊になるのなら藤原四兄弟にしても、桓武天皇にしても、醍醐天皇にしてもどうして人に恨まれるようなことをしたのでしょう?
しかし一旦怨霊が発生してしまったら身を守る手段は二つしかありません。一つは怨霊の怒りを鎮めること、もう一つは怨霊の進入を防ぐことです。

■怨霊鎮魂

鎮魂には二つあります。一つは追贈で、生前と同じかそれ以上の官位(朝廷における身分のランク)を贈ることで、もう一つは神社で神として祀ることです。古代の人々が、本気になってこんなことをしていたのも現代の目で見れば微笑ましいですが、当時の人にしてみれば笑いごとではありません。祟られれば、ヘタをすれば殺されるのですから真剣です。追贈も神社で祭るのも、どちらも怨霊の怒りを抑え、なだめるのが目的です。

次に道真に対して追贈された位と、北野天満宮の起こりを略記します。

903年 道真死去
905年 味酒安行が道真の墓所に小さな祠廟を建て、神託により天満大自在天神と称した
906年 道真の長男高視が土佐から呼び戻され復位。一位を昇進させられる
923年 道真を右大臣に復し、従二位から正二位に追贈。道真追放の詔を破棄
930年 清涼殿に落雷
942年 多治比文子が道真の託宣を受けたと称し、自宅のそばに小さな祠を作って道真を祀る
947年 朝日寺僧最珍と近江の比良宮の禰宜の神良種が京都北野に道真の祠を建てる
959年 右大臣藤原師輔らが北野天満宮に宝殿増築
987年 一条天皇が勅命で道真公を祭り、「北野に坐します天満宮天神」と述べた。これにより以後「北野天満宮」の名前が正式のものとなる。
993年 左大臣正一位を贈る
993年 太政大臣を贈る
1004年 一条天皇北野天満宮に行幸

ここでは簡単に書きましたが道真の死後、約100年間にわたって朝廷は彼の祟りを恐れてきたのです。道真の死後数年で、道真失脚の関係者は次々に死亡し、有名な清涼殿への落雷や疫病の流行や、大鬼の目撃者が現れるなど怪事件も頻発したのです。

大鬼とはおそらく盗賊のような不審人物でしょう。相当治安が悪かったのでしょうが、これらの怪現象のほとんどすべてが菅原道真と結びつけて語られたことと思われます。その結果が正二位右大臣、正一位左大臣、最後は太政大臣の追贈でした。


神社に祀られている神は、天照大神をはじめとするヤオロズの神々ですが、北野天満宮における菅原道真のように怨霊神の怒りをなだめるために祀られる人もいます。また例えば大国主命(オオクニヌシノミコト)のように、大和朝廷が近隣諸国を侵略・征服して行く過程で敗者となった人を祀る神社もあります(出雲大社)。

■出雲大社

その出雲大社ですが、作家の井沢元彦氏は著書の『逆説の日本史 古代黎明編』の中で、出雲大社は大国主の怨霊を恐れた大和朝廷が、大国主をなだめ、封じ込めるために造った神殿であるとしています。はたしてそうなのでしょうか?

次に出雲と出雲大社についての私の考えを述べることにしますが、前提条件である国譲りの神話の概略はつぎのとおりです。

大国主大神はその霊力によって、住みよい日本の国土を築かれました。それはすべてのものが豊かに成長する国土で、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれました。

『日本書紀』の記録によると、大国主大神はこの国づくりの大業が完成すると、日本民族の大親神である天照大御神に、その豊葦原の瑞穂国をお譲りされたとあります。天照大御神は大国主大神の私心のない「国譲り」にいたく感激され、大国主大神のために天日隅宮(あめのひすみのみや)をおつくりになり、第二子である天穂日命を大国主大神に仕えさせられました。

この天日隅宮が今の出雲大社であり、天穂日命の子孫は代々「出雲國造」と称し、出雲大社宮司の職に就いています。現在は第八十四代出雲国造千家尊祐宮司がその神統と道統を受け継がれています。

出雲大社ホームページより

この日本書紀の記述が、天照大神の威光を強調するための作為であることはいうまでもありません。実際には大和朝廷の侵略によって出雲は滅ぼされ、出雲の王だった大国主は戦死したか、あるいは捕らえられて殺されたものと思います。おそらく大国主は、激しい恨みと怨念を抱いて死んでいったことでしょう。ここまでは、私は井沢氏と同意見です。

井沢氏は、この大国主が恨みと怨念によって怨霊となった、あるいはこれから怨霊となることを大和朝廷は心底恐れて出雲大社を造ったとしています。

私は漠然とではありますが、天照大神は邪馬台国の卑弥呼であり、大国主は崇神天皇からはじまる崇神王朝の歴代の天皇(崇神から仲哀天皇)に滅ぼされた地方豪族(特に出雲地方ですが)の総称だと思っています。

年代的には3世紀〜4世紀のこととでしょう。私は、天照大神と大国主が生きた時代は違うと思っていますが、それがあたかも同じ時代の出来事として書かれているのは記紀作者の作為というものでしょう。
そもそも天照大神によって高天原を追放されたスサノオがたどり着いたのが出雲であり、大国主はスサノオの子孫なのですから、天照大神と大国主は同時代のはずがないのです。これは日本書紀の矛盾です。

卑弥呼は248年に亡くなりました。崇神王朝の周辺諸国への侵略がはじまるのは半世紀ほど後のことです(想像)。ですから大国主の年代は怨霊の登場の年代と一致しますし、私はこの時代には恨みや怨念を抱いて死んでいった人が怨霊になるとはまだ考えられていなかった、と思うのです。

# & ♭

国譲りの神話は、実際には『侵略と虐殺の神話』だったに違いありません。しかし日本書紀ではそれが話し合いの結果になっています。井沢氏はここに注目し、日本人特有の『和の精神』、『話し合い至上主義』は出雲で生まれたとしています。

少々おかしくないでしょうか?
出雲は崇神王朝も海を渡って大陸から移住した民族(たとえば朝鮮とか、ツングース族など)が中心になってつくられた国だと思います。本当に『和の精神』、『話し合い至上主義』が出雲で生まれたのなら、その精神は渡来した民族が古くからもっていた国民性(民族性というべきか?)だったはずです。

それはありえない話です。
大陸の民族が持っているのは『和をもって貴しとなす』ではなく、『力をもって貴しとなす』なのです。

古事記や日本書紀が完成した時代は、すでに日本人特有の『和の精神』が普及(?)し終わっていたころです。詳しくは以和為貴を見ていただきたいのですが、その精神の普及を朝廷が率先して推進して来た都合上、過去の出来事とはいえ、国譲りの神話はあくまでも『和の精神』、『話し合い至上主義』でなくてはならなかったのです。

さて井沢氏は、出雲大社についてつぎのように書いています。

1. 日本で最大の建造物に祭られている。(雲太和二京三の故事で有名)
つまり朝廷は大国主のタタリを恐れるあまり、大国主の霊をなだめるため天皇の御所より大きな建物にした。
2. ご神体の向きが変わっている。参拝者は大国主ではなく御客座五神を拝んでいる。
これは参拝者に大国主を拝ませないためだ。また御客座五神は大国主が祟らないように監視しているのだ。
(出雲大社の見取り図は次のとおりです。)
 
御神座:大国主
御客座五神:大和朝廷より出雲に派遣された5人の神

赤い矢印はご神体が向いている方向
青い矢印は参拝者が向く方向

3. 注連縄(しめなわ)の作り方が他の一般の神社とは反対になっている。これは死者の衣装を左前にするのと同じ理由である。
4. 普通の神社は二礼二柏手だが、出雲大社では四柏手をする。四は死であり、これは大国主に『お前は死者なんだ』と伝えるためとしか考えられない。

さて、この四つの意見はいかがなものでしょう?
出雲大社に大国主が祀られているのはそのとおりですが、大和朝廷は本当に大国主の怨霊を恐れたのでしょうか?
つぎに私の考えを書いていくことにします。

1.日本で最大の建造物に祭られている
2.御客座五神は大国主が祟らないように監視している

順序を変えて2.から書くことにします。
私の疑問は単純です。
参拝者に対する御客座五神と大国主の位置が疑問なのです。
御客座五神が大国主を監視しているなら、なぜ参拝者から見て御客座五神と大国主を一直線上に置かないのでしょう。

上の見取り図は出雲大社のホームページを参考にして描きましたが、これを見るかぎり参拝者から見て御客座五神が一番奥で、その少し前に大国主は横向き(西向き)になって鎮座しています。大国主の位置は、御客座五神から見て左、やや前方です。

監視とは見張っていることです。見張るとは対面していることより、背中を四六時中見られている方が、見張られている人にとっては辛いかもしれません(されたことがないので私の想像です)。ですから本当の意味での監視とは左のような配置ではないでしょうか?

それと井沢氏は御客座五神は大国主を監視していると主張しますが、逆に御客座五神が大国主に監視されている、とも言えないでしょうか?

つぎに1.への疑問です。
御客座五神とは一体何なのか。
これは、またの名を別天津神(ことあまつかみ)といい、天地創造時にあらわれた五柱の神々を指します。

天之御中主神
(あめのみなかぬしのかみ)
天の中枢にある根本的な神という意味。
古事記では天地開闢(てんちかいびゃく)の際、高天原に最初に出現したという。
高御産巣立日神
(たかみむすび)
「むす」は創造生成を意味する。
男神的要素を持つ高御産巣立日神と、女神的要素を持つ神皇産霊神と対になって男女の「むすび」を象徴する神でもあると考えられる。
天之御中主神、高御産巣立日神、神産巣立日神の三柱は造化三神とも呼ばれ、「独り身」で姿かたちはあらわさなかったという。
神産巣立日神
(かみむすび)
宇麻志阿斯訶備比古遅神
(うましあしかびひこぢ)
古事記では造化三神が現れた後、まだ地上の世界が水に浮かぶ脂のようで、クラゲのように混沌と漂っていたときに、葦が芽を吹くように萌え伸びるものによって成った神としている。4番目の神である。日本書紀本文には書かれていない。(Wikipediaより)
天之常立神
(あめのとこたちのかみ)
日本書紀では天常立尊と表記される。天(高天原)そのものを神格化し、天の恒常性を表した神である。

系図を書くと次のようになります。

古事記によれば、天地開闢の際、高天原に三柱の神(造化三神)が現れたといいます。天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神です。次に地面が海に浮かぶクラゲのようになった時、宇摩志阿斯訶備比古遅神と天之常立神が現われました。この五神はいずれも独り身であり、『やがて隠れた』と言われます。

この五神は天地創造の神ですが、この五柱(神は人ではなく柱と数えます)によって天地創造が完成したのではなく、その後の神代七代の神々の最後の伊邪那岐(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)の夫婦によって最終的に完成するのです。

さて、この五柱は本来ならば天照大神の大祖先紳ですから、天照大神以下歴代の天皇にとって忘れてはならない存在です。しかし『隠れた』ぐらいですから権威も権力もありません。天照大神の子孫を称することによって自らの王権の根拠とする天皇家にとって、天照大神以上の神の権威を認めるわけにはいかないのです。

そのような神が、怨霊(大国主)の監視役になるでしょうか?
ギリシャ神話を読めばすぐわかるように、最高神ゼウスと違って日本の神は力を持たず、罰を与えないのです。最高神天照大神からして弟のスサノオの乱暴狼藉におろおろするばかりで、岩戸に隠れる以外何もできないのです。権威もなく、罰も与えられない神々では監視役としては力不足なのではないでしょうか?

ここでふと徳川家康を思い出しました。
仮に徳川幕府が滅ぼした豊臣秀頼の怨霊を恐れたとしたら、その監視役に家康の父親を持ってくるでしょうか?
江戸時代、家康は神君として崇拝されましたが、父親の松平広忠も神君の父君として、家康ほどではないにしろ崇拝されたでしょうか?
松平広忠の墓所は岡崎市の大林寺という寺にあるようで、ネット上で写真を見ることができます。ごく普通のお墓で、とても崇拝されていたようには思えません(江戸時代はまた違ったかもしれませんが)。幕府を創業した家康が日光に祀られているのとは大違いなのです。

親子とはいえ、松平広忠と徳川家康ではこれほどの違いがあるのです。
出雲大社に御客座五神を持ってきた理由は大国主の監視ではなく、権威はなくとも天照大神の大祖先紳なのだから祀らなくてはならない、という理由ではないでしょうか。

つぎに別の角度から私の疑問を書きますが、我ながら内容はめちゃくちゃであることを、あらかじめお断わりしておきます。

出雲大社は、本当に大国主を祀る神殿だったのでしょうか?
現在も、文献上も、そうなっていることは確かです。
しかし出雲大社の元々の主祭紳は御客座五神であり、時の流れの中で(日本書紀の創作で)いつの間にか大国主が主祭紳になってまったとは考えられないでしょうか。つまり出雲大社は大国主を祀る以前は、御客座五神を祀る神殿だったのではないでしょうか?

また出雲大社とは、大和朝廷の出雲征服の記念会館だったとしたらどうでしょう?
征服者が征服事業の完成を記念して大土木工事を行ったり、巨大建造物を立てる例はたとえば応神天皇陵とか、大阪城とか、始皇帝の阿房宮などいくらでもあるのです。ちなみに阿房宮は1万人を収容できる宮殿で、秦の滅亡後項羽によって焼かれましたが、鎮火するのに3箇月かかったといわれています。

出雲大社は征服者大和朝廷の権力を誇示し、被征服者である出雲の人民に新しい支配者を知らしめるための記念碑なのです。その意味で大国主は、大和朝廷に刃向かった者としてさらし者にされているのです。

そしてもし御客座五神が出雲大社の本来の主祭神だったなら、出雲大社が天皇の御所より大きな建物だった理由がわかるのです。この五柱は天皇家の祖先神ですから、天皇の御所より大きくとも一向に構わないのです。松平広忠の墓所のサイズは東照宮の足元にも及びませんが(笑)。

あるいはこうとも考えられます。
御客座五神は、天照大神が現れるまで高天原の支配者であり、天照大神が率いる軍隊に滅ぼされたのではないか。だから『やがて隠れた』のではないか。大和朝廷は、大国主以上に御客座五神を恐れるがため出雲大社を建築した。大国主はオマケにすぎない。
しかし天照大神が御客座五神を滅ぼしたとは書けないから(何しろ万世一系ですから)、名目上の主祭神を大国主にしたのではないか・・・。

古事記では、高御産巣立日神は天照大神の外交官として出雲に行き、大国主と交渉しています。あるいは高御産巣立日神は天照大神と戦って敗れたが、戦後天照大神に臣従したのかもしれません。

おかしいでしょうか?
だからめちゃくちゃと書きました(笑)

3.注連縄の結い方が普通と逆である

注連縄(しめなわ)とは天照大神が天の岩戸に隠れた後、外の騒々しさに何事かと岩戸を開けて中から出た時に、再び中に入れないように岩戸に尻久米縄(しりくめなわ)という縄を張ったのがその起源のようです。
また注連縄は蛇の交尾を表したもので、蛇の持つイメージ・・・蛇の頭が男根を連想させること、生殖の神秘、強力な生命力等々が古代人に畏怖されたとも言われます。

注連縄はある領域の内外を区切るものであり、普通は内側を清浄域、外側を不浄域とします。同時に不浄なものが内側に侵入するのを防ぐ境界線(結界)の役目もあります。

さて注連縄の作り方ですが、これには左末右本と左本右末の二通りの作り方があります。
左末右本とは拝殿に向かって右側から左側へ向かって縄をなう方式で、はじめ(右)が蛇の頭(本)、終わり(左)が尻尾(末)ということになります。左本右末はその逆です。それと縄をなう方法も左巻きと右巻きがありますから、注連縄は中間だけを見たのでは左末右本なのか、左本右末なのか、よくわかりません。

一般的な綯い方は左末右本で、これは全国の神社の約90%がこのやり方のようです。ですから残り10%の神社には左本右末の注連縄を採用しているということです。

諏訪大社(左末右本) 出雲大社(左本右末)
同じ出雲系でも諏訪大社と出雲大社は注連縄のつくりが違う

井沢氏は出雲大社の注連縄の左本右末の綯い方について、大国主が霊界から出てこないようにするためと主張しています。
確かに出雲大社の注連縄は参拝者から見れば通常の反対であり、大国主から見れば普通の左末右本になります。ですから大国主にとってこの注連縄の向こうが、つまり参拝者側が神域ということになります。

この理論はちょっとおかしいですね。
参拝者側が神域ということは、神域は本殿のような閉ざされた空間ではなく、無限に開放された空間になってしまいます。しかし無限に開放された空間では日本全土になってしまいますから、この場合には神社の本殿を除いた神社全域ということです。

つまり本殿が不浄域、本殿の外側(出雲大社全体)が清浄域ということになり、神を祀るという神社本来の機能がなくなってしまいます。またつまりと言いますが、つまり大国主が参拝者を祀ることになってしまうのです。それと、井沢氏の理論では本殿は不浄域になりますから、たとえ監視役でも天照大神の祖先紳を不浄域の中に押し込めるということは、祖先崇拝・祖霊信仰という立場からも矛盾するのではないでしょうか?

出雲大社はもちろんそうですが島根県の熊野神社、愛知県の津島神社など主祭神に大国主の先祖であるスサノオを祭る神社に見られます。しかしどちらも出雲系だから当然というわけではありません。大国主の子のコトシロヌシを祭る美保神社、タケミナカタを祭る諏訪大社などは左末右本です。このように左本右末の綯い方は数は少ないですが、決して特殊な注連縄ではないのです。

4.四柏手は死柏手

先に結論をいいますと、四柏手の四は死には通じません。
古代では四は『し』ではなく、『よん』と発音します。そして四はむしろ縁起の良い数字であり、四柏手はごく普通の柏手だったと考えられるのです。例えば万葉集にこんな歌があります。

空みつ倭の国は 水の上は地往くごとく船の上は床にをるごと大神の鎮へる国ぞ 四の船 船の舳並べ平安けく 早渡り来て 返言奏さむ日に 相飲まむ酒ぞ

《意味》 
日本の国は水の上は地上を行くように、船の上は床に座っているように、大神に守られている国である。
(遣唐使が乗る)四艘の船は船首を並べ、平穏無事に早く行って来て、帰国の報告を奏上する日に共に酒を飲もう

また、続日本紀には『天平5年(733年)4月3日、遣唐船の船四艘が難波の津より進発した』という文章があります。

そうなんです。遣唐使の乗る船は四艘一組だったんです。
当時の航海が命がけの大冒険だったことはいうまでもありません。船はジャンク船のようなものだったし、航海技術などと言えるようなものはなく何事も風まかせであり、無事航海を終えることは奇跡以外のなにものでもなかったのです。
鑑真(688〜763)が来日を決意し実行するも5回も失敗し、失明してしまったのは有名な話です。

遣唐使の時代ではありませんが魏志倭人伝によれば、航海中のトラブル(遭難、病気など)を一身に引き受ける持(じさい)という役目の人がいました。

其行来渡海詣中国 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 
衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之為持衰 
若行者吉善 共顧其生口財物 
若有疾病 遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不勤

海を渡って中国に使いをするときは、常に一人は頭を梳かずシラミも取らず、垢にまみれた服を着る。
肉を食わず、婦人に接せず、亡くなった人のようだ。これを持衰という。
もし、航海が成功すれば生口(奴隷)をはじめ、財宝を与えられる。もし病気や暴風雨などに遭えば、これを殺す。航海中、身を慎まなかったからトラブルが起きたのだ。(ヘタな訳ですんまへん)

要するに航海中にもしトラブルが起きれば、持衰は身を慎んでいなかったとされ、殺されてしまうのです。このような役の人がいたということは、繰り返しますが、当時の航海がいかに危険なことだったかを物語るものなのです。
当時の人にとって暴風雨や病気などのトラブルは自然現象ではありません。神の怒りなのです。交通事故が起きた後、こんなの役に立たないと怒って交通安全のお守りを捨ててしまうようなものです。

このような危険な旅ですから縁起を担ぐのは当然で、遣唐使の乗る船は四艘一組でした。当時の人が四が死に通ずると考えていたのなら、こんな不吉な船数で出航するはずがないのです。四はむしろ縁起の良い数字といったのはこのことです。
柏手といえばこれも魏志倭人伝の記述ですが、邪馬台国では貴人に会ったときは・・・

見大人所敬 但搏手 以當跪拝
大人(たいじん・・身分の高い人)を見て敬意を表すときは、ただ手をたたくのみで、跪いて拝む代わりとしている。

柏手とは相手に敬意を表する時の動作であり、その後これが転じて神社で柏手を打つようになったと考えられます。それと古代人にとって魂は和・荒・幸・奇の4種類があり、それぞれの魂に対して敬意を表すため柏手を打ったのです。

四柏手は出雲大社だけではなく宇佐八幡、伊勢神宮、弥彦神社もそうです。四柏手は古代には神社を参拝するときのごく普通のやり方で、それが二柏手に変わったのは明治以降のことです。

1868年(慶応4年)3月、明治政府は神仏混淆を禁止し、寺院と神社を区別させる目的で神仏判然令を出しました。神仏混淆は、神道を信仰する一般大衆に仏教を広めるために、仏教の末端にいた坊さん達が『神も仏も実は同じもの』と言って進めたのが始ま りのようです。

神仏判然令によって仏像を御神体としていたり、梵鐘を置いていた神社ではこれらが撤去され、八幡大菩薩、熊野権現といった仏教風の神号も禁止されました。あいまいになっていた神道と仏教の境界線をはっきりと線引きしたというワケです。
しかし大衆はこれに過剰反応を起し、判然ではなく分離と受け取られ、それが極端な形として廃仏毀釈へ発展していくのです。

1873年になると従来の社家制度が見直され、神職の世襲は一部を除いて廃止されることなり、新たな神職登用が行われました。しかしこれは早い話が失業対策で、明治維新の功労者で政府や自治体に採用されなかった人達を神職として新たに採用することになったのです。

こうしたニワカ神職達には、神社によって微妙に異なるシキタリが理解しにくかったため、祭事の簡素化が図られました。この時、本来は八拍手、五拍手、四拍手、三拍手と神社によってまちまちだった拍手の数の統一が行われたのです。ついでにいうと神職や参拝者が神前に捧げる玉串もこの時はじまっています。

ちなみに出雲大社に四拍手が残っているのは、神職の世襲が認められたからでしょう。出雲大社の神職は、出雲国造の出雲氏の子孫である千家氏がその職にあります。同じ出雲氏の子孫である北島氏は出雲大社とは別の宗教法人を主宰しています。

以上、ちょっとムキになってしまいましたが(笑)、私は出雲大社は大国主を祀る死の神殿だとは思いますが、大和朝廷は大国主の怨霊を必要以上に恐れてはいなかったと思うのです。


■御霊会

御霊会(ごりょうえ)とは怨霊を鎮魂し、そのタタリを防ぐための祭礼です。
863年、平安京大内裏(京都市中京区)の東南にあった神泉苑で、早良親王をはじめとする六人の怨霊(六所御霊)を鎮めるため、読経や芸能が行なわれました。神泉苑は中国長安の興慶宮を模したものと言われ、平安初期には天皇の私的庭園として天皇がたびたび行幸し狩猟を楽しんだところでもあります。

六人の怨霊とは次の人達を指します。後に菅原道真と吉備真備の二霊を加えることによって八所御霊となり、京都の上御霊神社と下御霊神社に祀られています。

早良親王 桓武天皇の弟。藤原種継暗殺事件に連座して、淡路へ流される途中乙訓寺で絶食して死去
伊予親王 桓武天皇の第三皇子で、母は藤原是公の娘吉子。806年、藤原仲成の陰謀により母とともに川原寺に幽閉され、服毒自殺
藤原吉子 伊予親王の母
藤原仲成 藤原種継の子。妹薬子が平城天皇の寵愛を受けたが、その譲位の後重祚を企てて謀反を起こし、坂上田村麻呂に射殺された(薬子の変)
橘逸勢 恒貞親王を伴健岑とともに擁立して東国に入り、謀反を起こそうとした罪により捕縛された。伊豆国配流となったが、途中遠江国板筑駅で病死
文室宮田麻呂 筑前守の時、新羅人張宝高と交易を行い解任された。843年、新羅人と反乱を企てたとして伊豆に流された。

このころ神泉苑の池には龍が住むと信じられていて、おりからの旱魃もあって雨乞いの祈祷も行われています。神泉苑は空海がここで雨乞いの修行をしたという伝説もあったため、請雨修法の道場ともされていたのです。この神泉苑の御霊会はその後船岡山や花園で開かれる御霊会のさきがけとなったものです。

●祇園御霊会

大国主の祖先である素戔嗚尊( スサノオノミコト)について、こんな話が伝わっています。
貧しい身なりの旅人に姿を変えたスサノオは、旅の途中である家を訪れて一夜の宿を乞いました。裕福な弟の巨旦将来(こたんしょうらい)は断りましたが、貧乏でも心優しい兄の蘇民将来(そみんしょうらい)はスサノオを快く迎え入れたのです。

喜んだスサノオは翌日、『疫病が流行れば、茅の輪(ちのわ)を作って門にかかけなさい』と言って旅立ちました。その後疫病が流行った時、茅の輪を門にかけた蘇民将来の一家は助かり、巨旦将来の一家は皆死んでしまったということです。

貧しい身なりの旅人、実は神様だったというわけですが、こういう話はけっこうありますね。
神様ではなく身分の高い人だったら、これは謡曲『鉢の木』のようです。藤原光明子は、全身が膿でただれた病人を助けましたが、この病人は実は仏様だったという言い伝えもあります。

日本三大祭りの一つである八坂神社の祇園祭は、御霊会がそのはじまりです。八坂神社はスサノオを祭る神社で、一説には869年、都に疫病が流行ったため、それを鎮める祈願を込めて卜部日良麿が、66本の矛で牛頭天王を祀ったのがその起源であるといいます。
卜部日良麿(う らべ ひよしまろ)とは名のとおり卜部氏の一族です。卜部氏は祭祀に携わる氏族で、名のとおり卜占(ぼくせん)によって吉凶を判断していました。子孫は後に吉田社(京都吉田山)と平野社(京都平野)に分かれ、徒然草の吉田兼好は吉田社系の子孫です。

牛頭天王(ごずてんのう)とは、もともとはインドの祇園精舎の守護神で、日本に伝わって大国主の祖先神であるスサノオと習合したもので、疫病を流行らせる疫病神でもありますが、親切な人に対しては万病に効く術を授けたとも言われています。

祇園祭で 7月に行われる『夏越祓 』(なごしのはらい・・6月までの罪を祓い、7月以降の無病息災を願う行事 )の茅の輪くぐりの風習は、この蘇民将来の言い伝えに由来しています。また祇園祭の粽(ちまき)は茅巻(ちまき)がその由来であり、蘇民将来子孫也と書かれた札を粽につけて門にかけると、我家は蘇民将来の子孫だから病気からお守りください、との願いがかなうといいます。

970年以後、祇園御霊会は毎年の恒例行事となりました。庶民の側からも芸能の奉納があり、999年に無骨(むこつ)という芸人が大嘗祭のしめ山に似た作山を作って行列に加ったのが,現在の山鉾のはじまりとされています。

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さて神泉苑御霊会の対象となったのは、前記の六所御霊でこれは実在の人達ですが、民衆が主体となった祇園御霊会の場合、対象とされるスサノオは疫紳として民衆の信仰は集めてはいたものの、上記のように実在した人間ではありません。
そもそも当時の民衆に、恨みを抱いて死んでいった政治的敗者が怨霊になって厄難を引き起こす、という考えがあったのでしょうか?また六所御霊として祀られた人のことを知っていたでしょうか?両者の一番の違いはそこではないでしょうか。

当時新興都市であった平安京は急激な人口増加がありました。平安京は農民の税負担が畿外より軽かったためでもありますし、賄賂を使って非合法に住民になった者も多かったようです。

平安京に流入した人々は、それまで住んでいた土地とそこの祖霊神から離れ、祖霊神に守られない新しい土地に住むことになったのです。祖霊神とは住む土地や家族、血族集団といった共同体の守護神です。崇神天皇の時代に起きた大物主を、子孫の太田田根子に祀らせたのも祖霊神がからむ祖霊信仰でしょう。

こうした人口増加に加え、当時の劣悪な衛生環境が疫病の発生の原因の一つになったことは間違いないでしょう。家屋敷周囲の側溝に汚物を流すな、という発令すら出されたのです。その結果疫病が流行り、河原は死体の山になり、ある僧侶が数えるとドクロが3千も放置されていたということです。

厄難からは新たな信仰が生まれるものです。
796年、越の優婆夷(こしのうばい)と呼ばれた女が、平安京から生国の越前国に強制送還されています。彼女が人々で賑わう市において『みだりに罪福を説き、百姓(ひゃくせい)を眩惑』したという理由です。

平安京の民衆は疫病が流行るたびに、祖霊神がいないのですからそれに頼れず、スサノオに祈ることしかできず、その結果が祇園御霊会となったのでしょう。

●へそ曲がり的御霊会考

御霊会は朝廷の貴族達の怨霊への『純粋な恐怖感だけ』から実施されたものでしょうか?
もちろんその恐怖感がかなりの割合を占めているとは思いますが、御霊会が政治的に利用されたとしたら・・・?

私は、ここでこう書きました。

この天人相関説は、帝王にとって両刃の刃ともいえる非常に危険な考えでした。なにしろ自然界に異変が続けば、不徳の帝王にされてしまうのです。

また、ここの末尾ではこう書きました。

天照大神の子孫を称することを王権の根拠とする天皇は、自らを最も清浄なものと位置づけ(何しろ神の子孫ですから)、その対極に位置する死穢に犯されることを極端に恐れるようになったのではないかと想像します。この場合死穢は怨霊と置き換えてもいいでしょう。

天皇は最も清浄な存在としてあらゆる厄難を鎮める義務があったのですが、天人相関説によれば厄難が続く限り、天皇の権威は地に落ちる一方なのです。こんなに災害や疫病が多いのは帝王がだらしがないからだ、ということです。天皇にとって、これほど辛い理論はありません。

私には神泉苑からはじまる御霊会は、天皇の怨霊への敗北宣言のように思えます。天皇側でそう明言するはずもありませんが、自分(天皇)にはもはや厄難(怨霊)を鎮める力がない、だから御霊会を開催し、ただひたすらに怨霊達を慰めるのだ・・・・・これは曲解でしょうか?

この神泉苑御霊会は誰が企画立案したのでしょう。調べたのですがわかりませんでした。三代実録にはこのように記載されています。

於神泉苑修御霊会 勅遣左近衛中将従四位下藤原朝臣基経 右近衛権中将四位下兼行内蔵頭常行等 監会事・・・

神泉苑に於いて御霊会を執り行なった。 天皇の命により藤原基経と兼行常行が出席し、御霊会を監督した・・

藤原基経(836〜891)は良房の養子として家を継ぎ、後に光孝天皇の時に関白となる人です。
この三代実録からの想像ですが、御霊会の実行委員は藤原基経ですが、影の委員長は基経の養父の良房(804〜872)ではなかったでしょうか。そして御霊会を企画したのも良房ではなかったでしょうか。

天皇が権威を失墜するのとは逆に、藤原氏の権勢はとどまる所を知りません。藤原良房が権謀術数を駆使してライバルを次々に失脚させ、人臣最初の太政大臣になったのは857年、摂政になったのは866年のことです。神泉苑御霊会の時期(863年)とほぼと一致するのです。

神泉苑御霊会をはじめとするその後の御霊会開催の理由の一つとして、藤原氏の天皇への嫌がらせがあるのではないでしょうか? 天皇に対し、あなたは不徳の帝王なんですよ。早く譲位した方がいいんじゃないですか?と無言のうちに言っているのではないでしょうか?・・・さらに曲解ですかね?(笑)

以上へそ曲がり的御霊会考でした。

神泉苑御霊会は、その後の朝廷や民間で行われた御霊会のさきがけになりましたが御霊会を開きつつもその効果はなく、朝廷や民衆は引き続き怨霊(災害)に悩まされるのです。


■風水都市平安京

さて神社に祀ったり、御霊会を開催するのは怨霊を慰めるためですが、もう一つの怨霊対策は、防御設備が完備した場所に引越して怨霊の侵入を防ぐことです。桓武が考えた侵入する怨霊とは、長岡京建都の途中で発生した早良皇子のことです。そして、早良の怨霊を防ぐために造られた都市が平安京ですが、その前にちょっと前置きを。

陰陽説(おんみょうせつ)というものがあります。
これは古代中国で生まれた思想で、自然界の万物は陰陽に分類され、それが混ざり合い循環することで万物が生まれ、消滅して行くという考えです。具体的に言えば太陽(陽)−月(陰)、天(陽)−地(陰)、男(陽)−女(陰)などがあります。

宇宙の最初は、天地も陰陽も混沌とした状態と考えられていました。この状態を太極といい、その様子を表したものが太極図(左)です。白い部分が陽、黒い部分が陰になります。上昇する地の気と下降する天の気に象徴されており、この中から万物が生まれるというワケです。

さらにこの陽と陰の気が混ざり合って五つの要素が生まれたとされます。木、火、土、金、水がそれで、それぞれが発する気を自然界のあらゆる現象にあてはめる思想です。これを五行説といい、陰陽説とあわせて陰陽五行説、日本に伝わって独自の発展(?)を遂げたものを陰陽道といいます。

日本への伝来は、日本書紀によれば継体天皇7年(513年)7月、百済から五経博士の段楊爾(だんようじ)という人が来日し、もたらしたとあります。五経とは四書五経のことで、四書とは論語・孟子・大学・中庸。人の道を説くものです。五経とは,書経・易経・礼記・詩経・春秋をいい、陰陽説を説いたものが礼記であり、陰陽五行思想に基づく易学を説いたものが易経です。

その後律令制の下で、中務省の下部組織として陰陽寮がつくられました。陰陽寮は時代と共に盛衰はありましたが、明治時代になって政府に廃止されるまで続いています。陰陽寮に所属し陰陽道に携わる人を陰陽師といい、有名な安倍晴明(?〜1005)はその一人です。陰陽師の職務は、天文の観測から吉凶を占うことと暦を作ることですが、次第に厄難封じの祈祷をするようにもなります。

陰陽道の影響は現在もなお残っています。例えば・・節分、重陽の節句、七夕祭り、大安・仏滅・友引のカレンダーへの割り当て、当たるも八卦・当たらぬも八卦の易・・・・等々。
五行説を表にしたものを五行配当表といい、次のとおりです。

五行 五惑星 五色 五時 五方 四神 十二支
木星 青竜 寅、卯
火星 朱雀 巳、午
土星 土用 中央 -- 辰、未、戌、丑
金星 西 白虎 申、酉
水星 玄武 亥、子

# & ♭

本題からは外れますが、五行説に関係するものをちょっと紹介します。

●青春

青春という言葉がありますね。北原白秋という文人もいます。
上の五行配当表をご覧ください。五行説では春は青に、秋は白に対比します。ですから青春であり、白秋なんです。

●還暦

干支(えと)といえば、子(ね)、丑(うし)、寅(とら)・・・・の十二支をすぐイメージしますが、実際には干と支は別のものです。
干は木、火、土、金、水の五行を陽と陰に分けたものでこれを十干といい、内容は次のとおりです。

十干 十二支
五行
きのえ
きのと
ひのえ
ひのと
つちのえ
つちのと
かのえ
かのと
みずのえ
みずのと

うし
とら

たつ

うま
ひつじ
さる
とり
いぬ
いのしし

本来、干支とはこの十干と十二支が組み合わせたものをいい、次のとおりです。

1
甲子

2
乙丑

3
丙寅

4
丁卯

5
戊辰

6
己巳

7
庚午

8
辛未

9
壬申

10
癸酉

11
甲戌

12
乙亥

13
丙子

14
丁丑

15
戊寅

16
己卯

17
庚辰

18
辛巳

19
壬午

20
癸未

21
甲申

22
乙酉

23
丙戌

24
丁亥

25
戊子

26
己丑

27
庚寅

28
辛卯

29
壬辰

30
癸巳

31
甲午

32
乙未

33
丙申

34
丁酉

35
戊戌

36
己亥

37
庚子

38
辛丑

39
壬寅

40
癸卯

41
甲辰

42
乙巳

43
丙午

44
丁未

45
戊申

46
己酉

47
庚戌

48
辛亥

49
壬子

50
癸丑

51
甲寅

52
乙卯

53
丙辰

54
丁巳

55
戊午

56
己未

57
庚申

58
辛酉

59
壬戌

60
癸亥

今年(2006年)は丙戌(ひのえいぬ)にあたります。
甲子園球場は1924年、甲子(きのえね)の年に作られたため、そう命名されたのはおなじみです。丙午(ひのえうま)生まれの女性は気が強くて男を尻に敷くという迷信がありましたが、今時こんなの信じている人はいないでしょうね(笑)

さてこの表から明らかなように、最初の甲子から最後の癸亥まで60年あります。その後は最初の甲子に戻ります。暦が戻ることから、60年(60歳)を還暦というわけです。

●庚申信仰

上の表の57番目は庚申(こうしん)といいます。
古代中国では、天帝は世界中全ての人を監視し、善行を積む人には天恵を、悪行を行う者は罰を下すとも言われました。いわゆる天罰です。天帝は人の体内に三尸(さんし)という虫を忍ばせます。庚申の夜が来ると三尸は寝ている人の体を抜けて天に昇り、天帝にその人の悪行を告げ口するというのです。
日本で庚申信仰が盛んになったのは江戸時代で、人々は庚申の夜は徹夜で起きていて三尸を天に行かせないようにする習慣がありました。

庚申信仰は十干の庚(かのえ)と十二支(じゅうにし)の申が結びついたもので、60日に1度めぐって来る庚申の日に行われる信仰行事を庚申待(こうしんまち)といい、60年に1度めぐってくる庚申の年は特に盛大に行われました。これらの行事を記念して祈願をこめて建てられた塔を庚申塔といいます。

群馬県高崎市郊外にある百庚申の跡

かつては百もあったといわれる庚申塔だが今では60位になってしまったようだ

●七夕

天帝の娘の織姫は、素晴らしい織物を織ることで有名でした。
しかし彼女は毎日それに明け暮れていたので、娘のことを心配した父親の天帝は彼女に牽牛という若者を紹介したのです。すると織姫は、今度は機織りの仕事を放り投げて、牽牛とデートばかりするようになりました。どうも彼女は凝り性のようです。

すると怒った天帝は、二人を天の川を境に引き裂いてしまいました。自分で紹介したくせに無粋なオヤジですね。でも天帝は1年に1度くらいは会わせてやろうと、7月7日の夜だけ会うことを許したのです。これが七夕の起こりです。

●方位と時刻と四神

つぎの図は陰陽五行説による方位と時刻、それに四方に配される神獣を表したものです。

0から23の数字は時刻を表します。これを見ればなぜ午前、正午、午後というのかおわかりかと思います。また北極と南極を結ぶ線を子午線というのも同様におわかりでしょう。

四方にはそれぞれの方位の守護神ともいうべき神獣が配置されます。高松塚古墳やキトラ古墳などの壁画でもおなじみの玄武(げんぶ・・北)、青龍(せいりゅう・・東)、朱雀(すざく・・南)、白虎(びゃっこ・・西)です。江戸末期の剣豪千葉周作の流派は辰一刀流であり、その道場の名は玄武館でした。

玄武(キトラ古墳) 白虎(高松塚古墳)

方位で鬼門とされるのは丑寅の方角です(東北)。
中国の陰陽説では、人間の寿命を管理する神が泰山という東北の山に住んでいるといわれました。死後の世界をも司るというので、東北が鬼門とされたようです。

さて長々と書いてきたのは玄武、青龍、朱雀、白虎の四神を説明したかったからです。平安京を怨霊の侵入から守るため、当時最新の科学が導入されました。それが風水術です。


風水とはWikipediaでは次のように解説されています。

風水(ふうすい)は古代中国の思想で、都市、住居、建物、墓などの位置を決定するために用いられてきた。気の流れを物の位置で制御する思想。堪輿(かんよ)ともいう。

風水は大別すると、巒頭(らんとう)と理気(りき)に別れる。 
巒頭は、その土地の気の勢いや質を地形等の形成を目で見える有形のもので判断する方法であり、形法、形勢派、巒体派などとも呼ばれる。

形法風水では、大地における気の流れを重視し、龍脈からの気の流れが阻害されておらず、運ばれてきた気が溜まり場になっているような土地に都市や住宅を建造しなければならないとする。

『気』とは自然界における万物を生み、活動させるエネルギーとでもいいましょうか。脈とは気の流れ道をいい、大地の気の流れ道を龍脈、天の気の流れ道を天脈、人の気の流れ道を人脈といいます。風水ではこれら三つの脈、とりわけ龍脈が重要になります。

さて龍脈です。大地の気は山脈の尾根に沿って流れると言われます。その起点は山脈のなかで最も高い山とされ、これを太祖山といいます。起点があれば終点もあるわけで、それを穴(けつ)といいます。ちなみに関東にあっては富士山が太祖山であり、穴は皇居付近にあると言われているようです。

穴の直前にある山を父母山といい、風水の地形はここを基準点として前面(南)と左右(東西)に向かって展開されるのです。つまり基準点は北であり、それを守る神獣が玄武です。

太祖山から父母山までは上空から見て直線的であってはならず、なるべくクネクネと曲がっているのが良いとされています。もっとも山脈の尾根ですから、まっすぐのはずがないのですが。

穴には大地の気が集合しますが、放っておいては気が風で散らされてしまいます。ですから散らないように守らなくてはなりません。そのため上空から見て父母山を頭とみなし、両手で子供(穴)を抱きかかえて保護するようにします。
この両手は、父母山から派生する丘陵地が腕、終端の山(丘)が掌になります。この掌にあたる山(丘)を砂(さ)といい、父母山から見て左手を青龍砂、右手を白虎砂といいます。

さて穴は左右の砂に保護されますが、穴の南側が川などで囲まれるのが良いとされます。水にはやはり気が散じるのを防ぐ力があるのです。川は穴を取り囲むようでなければならず、反対に、反り返るような形では逆効果とされています。さらにその川の前面に、平野などの開放的な地勢があれば理想的な地形となるのです。この平野を守る神獣が朱雀です。

このように風水は大地の気の流れを確認し、その気の力を活用する方式です。 大地の気は風に乗って流れ散り、水によって止められます。気の力を活かすには、その場所がそれに相応しい地形であることが必要であり、相応しいとはその場所の東西南北が、四神に対応しているような地形を指すのです。これを四神相応の地といいます。

 

このように四神相応とは穴の左右と背後を山や丘陵地で囲み、前面(穴の南)に川が流れる地形なのですが、日本の風水ではいささか解釈が違っていて青龍は川、白虎は道、朱雀は沼や海になります。これを平安京にあてはめると玄武は船岡山、朱雀は巨椋池(現在は埋め立てられています)、青龍は鴨川、白虎は山陰道に対応します。

船岡山は標高わずか112mの山というよりは丘ですが、平安京はここを基点とし、南の巨椋池に向かってまっすぐな大通り(朱雀大路)の左右に造られたのです。朱雀大路の左右が左京区、右京区です。
巨椋池(おぐらいけ)は1941年の干拓事業によって埋め立てられました。現在では上に高速道路が走っていて、巨椋インターチェンジがあります。

青龍と白虎はそれぞれ鴨川と山陰道ですが、青龍砂、白虎砂もちゃんと存在します。大文字山(青龍砂)と嵐山(白虎砂)です。そして玄武と朱雀を結ぶ線と、青龍砂と白虎砂を結ぶ線の交点に大極殿が建てられていたのです。東北の鬼門にあって、怨霊を防ぐ役目を担ったのが比叡山延暦寺です。

この風水はなにも平安京だけのものではありません。
平城京も、ソウル(韓国)もその思想で建設されたと言われています。

また、それ以前は武蔵国の僻村に過ぎなかった江戸の都市計画にも使われたと言われています。
四神に対応するのは次の表のとおりですが、平安京と比叡山の関係は江戸にあっては上野の寛永寺になります。寛永寺の山号は東の比叡山・・・東叡山なのです。

方角 四神 地形 平安京 江戸
青龍 鴨川 平川(日本橋川)
西 白虎 山陰道 甲州街道
朱雀 沼、海 巨椋池 東京湾
玄武 船岡山 上野山
鬼門 -- -- 比叡山延暦寺 東叡山寛永寺

さて、せっかく桓武が早良の怨霊から逃げるため苦労して建都した平安京ですが、桓武の死後も公家達は菅原道真をはじめとする怨霊に悩まされることになります。怨霊は外部からではなく、内部で発生してしまうのです。


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