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怨霊の登場


ここでは怨霊を、この世に怨みを残して死んでいった人の怨念がこの世にとどまり、自分を死に至らしめた、あるいは陥れた相手に復讐しようとする超自然的概念と定義します。この復讐とは早い話が霊のタタリであり、後世そのような霊は悪霊と呼ばれるようにもなります。日本史上最初にタタリらしきものが現れるのは、日本書紀における崇神天皇(10代天皇)の項で、こういう内容です。

崇神天皇が即位してまもなく疫病がはやり、多くの人が死んでいったので、天皇はこれを鎮めるべく手を尽くしたが、疫病は一向に治まらなかった。そこで占ってみると、この疫病は大物主命(オオモノヌシノミコト)のタタリと判明したため、大物主の子孫の太田田根子(オオタタネコ)をさがして祀らせたらようやく治まった。

(大物主命は出雲の大国主(オオクニヌシ)とも言われています。)

この場合、タタリの対象となるものは特定の人間ではなく不特定多数の人々であり、人々とは世の中と言い換えてもいいかもしれません。ではなぜ祟ったのかというと、先祖である大物主が子孫の祭祀を受けなかったため、大物主の怒りを買ったということになります。

子孫の祭祀を受けない先祖の霊が祟るというのは日本独自の考えではありません。むしろこの考えは中国的なのです。史記(司馬遷)の魯周公世家には、このような記述があります。

封紂子武庚禄父 使管叔蔡叔傅之 以続殷祀

(周は殷を滅ぼすと、)紂の子の武庚禄父を管叔と蔡叔を後見人として封じ、祖先の祭祀を続けさせた

紀元前1046年、周の武王は殷を滅ぼした後、殷の遺民を別の土地(宋といいます)に移住させ、先祖を祀らせました。殷最後の王、紂(ちゅう)の子だった武庚禄父(ぶこうろくほ)には、武王の弟である管叔と蔡叔を後見人として付けていました。
なぜ先祖を祀らせたかというと古代中国、特に殷には子孫の祭祀を受けられなくなった霊は祟る、という考えがあったからです。

この子孫の祭祀を受けられなくなった霊は祟るというのは先祖崇拝にもつながります。また中国では、祖霊信仰が早い時期から存在していたということでもあります。後の儒教の基本がすでに殷の時代にできていた、ということでしょうか?殷時代の青銅器はほとんど全てが祭祀用であり、器には占いの結果が鋳込まれています。

余談ですが、殷の遺民のなかには宋への移住を嫌った人もいて、彼らは土地を持たない放浪の民となります。当時最大の産業はいうまでもなく農業ですが、土地を持たない彼等には農業はできません。しかしいつのころか、彼等はある土地の産物を安く買い、その産物を珍しがる別の土地で高く売ってその差額を利益とする方法を考え出したのです。殷とは元々は商という土地の人が建てた国です。ですから各地を渡り歩いて物を売買する殷の民は、商人と呼ばれるようになりました。これが商売、商業、商人の語源です。

さて日本書紀の崇神天皇と大物主の話には、この考え(子孫の祭祀を受けられなくなった霊は祟る)が反映されているように思えます。崇神天皇は、和風おくり名をハツクニシラススメラミコト(初めて国を統治した天皇)といい、私はそれ以前の天皇と違って実在の可能性は比較的高いと考えています。また、彼が築いた国は邪馬台国のような原始国家ではなく、ある程度進んだ国だったと想像していますが、私は崇神天皇の国(王朝)と、後の大和朝廷とは別の国(王朝)と考えています。

年代的にはいつのころなのか。
倭の五王の一人、讃(履中天皇)が中国に朝貢したのが421年。15代応神天皇はその祖父ですから、1代15年とすると30年前の390年ごろ。崇神天皇は応神から5代前ですから75年前とすると315年ごろになりましょうか。このあたり、あまりというか、ほとんどアテにならない計算です(笑)。

しかし、もし私の想像どおりだとしたら4世紀ごろの日本には、子孫の祭祀を受けられなくなった霊は祟るという考えがあったということです。殷の時代は紀元前1600年頃〜 紀元前1046年。崇神天皇の時代より1300年位前のことです。これだけの期間があれば、その考えは中国より伝わって来た可能性はかなり高いとい思われます。

私は、崇神天皇の時代にはそんな考えはなかった。それは日本書紀の編纂者が適当に書いたことなのだ、とは思いません。崇神天皇の時代の出来事として、わざわざ大物主と太田田根子の話を書く理由がないからです。

祖先の霊を祀るのが祖霊崇拝で、祖先の霊の力で災いから家族や集団を守ってもらうという信仰です。氏族の場合には氏神がそれにあたります。氏神を祭るところが宗廟で、天皇家の伊勢神宮や源氏の鶴岡八幡宮は特に有名です。

怨霊の発生条件は、子孫の祭祀を受けられなくなった霊なのです。しかし崇神天皇の時代には、疫病の原因がわからず、占わせてはじめて大物主のタタリということがわかりました。ということは、この時代(4世紀ごろ?)では怨霊はある程度認識されつつも、それほどは一般的(?)ではなかった、ということではないでしょうか?

怨霊の活動が本格化(?)するのは8世紀から10世紀にかけてのことです。本格的に人々が怨霊を意識し始めるには、4〜500年の年月が必要だったのです。そしてその時には怨霊の発生条件は、この世に怨みを残して死んでいった人、という具合に変わってきています。そうなった理由はわかりませんが、この条件は日本だけではないかもしれません。怨みを残して死んでいった人のタタリは、何も日本だけの現象ではないからです。


簡単ですが古代に怨霊とされた人の一部を一覧にしてみました。この表では大国主は神話の人、聖徳太子と崇徳上皇以外は奈良時代から平安時代にかけての人です。出雲大社については別にここで考察します。

怨霊と
された人
年代 怨霊になった理由 具体的な祟り 鎮魂対策  
大国主 神話 天照大御神に殺された   出雲大社で祀る  
聖徳太子 7世紀はじめ 子の山背皇子が蘇我氏に殺されたため、子孫の祭祀を受けることができず怨霊となる 大化の改新で蘇我一族滅亡 法隆寺で弔う 梅原猛氏の説
大津皇子 7世紀後半 天武天皇の死後、叔母(後の持統天皇)が息子の草壁皇子を皇太子にさせるため殺される。 草壁皇子、その子軽皇子の若死    
長屋王 8世紀前半 聖武天皇への謀反の嫌疑をかけられて一族滅亡 謀反をでっち上げた藤原四兄弟の死    
淳仁天皇 8世紀
中期
称徳上皇の道鏡への信任に異議をとなえたため、怒りを買い流罪となる 旱魃、暴風雨、飢饉を引き起こす 明治時代になってから創建された白峰神宮に祀られる 明治時代になって惇仁と諡(おくり名)される
他戸皇子 8世紀
中期
謀反の罪で母親の井上内親王と共に、藤原百川に殺される 藤原百川の病死      
早良皇子 8世紀
後半
長岡京造成の責任者藤原種継が殺され嫌疑を受け、憤死。 疫病の流行、長岡京の洪水、桓武天皇の親族の連続死等 平安京への遷都
神泉苑御霊会
 
菅原道真 10世紀初め 醍醐天皇への謀反の嫌疑をかけられ、人事異動で大宰府へ 関係者の不審な死、疫病、落雷    
崇徳上皇 12世紀中期 朝廷への憎しみ 王家の没落(平治の乱、承久の変) 明治時代になってから創建された白峰神宮に祀られる  

先ほど怨霊の発生条件を、この世に怨みを残して死んでいった人と書きました。一般的には、桓武天皇に無実の罪を着せられて憤死した弟の早良皇子(さわらおうじ 750?〜785)が、この条件では最初の怨霊とされています。しかし当時の記録にはなくとも、後世の記録・文書には怨霊になったと書かれたものもあるのです。一例を挙げれば天武天皇の子、大津皇子(663〜686)です。

天武天皇は、兄とされる天智天皇の四人の皇女(大田、鵜野、大江、新田部)を妻にしており、それぞれの皇女には天武の後を継げる子が何人も生まれていました。
686年天武が死ぬと、皇位を継ぐ最有力候補は大田が生んだ大津皇子でした。ところが大田の妹の鵜野は、自分が生んだ草壁皇子(662〜689)を天皇にすべく陰謀を巡らし、大津に謀反の罪を着せて殺してしまうのです。鵜野にとって大津は血のつながった甥です。しかし草壁は、天武の喪が明けないうちに急死。草壁の子、軽皇子はわずか6歳。これでは幼すぎるので、成年になるまでの繋ぎとして鵜野は、強引に天皇に即位してしまいます。これが持統天皇です。持統の後、皇位は軽皇子が継ぎます。これが文武天皇(683〜707)です。持統から文武。継承者は孫になります。

草壁の妻は阿閉(あへ)皇女。この人は天智の娘ですから、草壁は叔母を妻にしています。文武はこの二人の子です。阿閉は、文武の死後即位します。元明天皇です。この場合は子から母への継承ですから極めて変則的です。

こう書くと何がなんだかワケがわからなくなりますから、一応図にしてみました。数字が皇位継承順です。


大津は無実の罪で殺されました。死後、彼がどこに埋葬されたのかは不明です。しかし万葉集には、大津の姉の大伯皇女が作ったとされる歌と詞書きが載っているのです。

大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の哀しびいたむ御作歌

うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟背とわが見む
(この世に生きる私は明日からは二上山を弟として眺めよう)

これを読むと、死後大津は最初は二上山ではなく別の場所に埋葬されましたが、いつのころかはわかりませんが、何かの理由で葛城の二上山に墓所が移されたようです。

厳密にいえば、この二上山に大津の墓があるというのも疑問がないわけではありません。日本書紀には大津の墓所の記載はなく、考古学上もこの時代には山に墓を築く習慣はなかったようですが、江戸時代になってこの歌があるために、大津の移動後の墓所は二上山とされたのです。その後明治政府は、さほどの根拠もなく古代天皇の墓を次々に比定しましたが、大津についても江戸時代からの流れで二上山を墓所としたのです。
このように大津の墓所には疑問があるのですが、少なくとも姉の大伯は、弟は二上山に移されそこに眠っている、と信じたからこのような歌を詠んだのでしょう。

さて大津の罪は謀反でしたから、これは国家反逆罪です。現在の感覚でも、当時の感覚でも彼は第一級の政治犯でした。その墓所を移動するなど、そんなことを指示できたのは天皇以外には考えらないのです。
ではその理由は何なのか。

草壁はわずか27歳、文武は24歳で亡くなっています。
持統は、文武の死の時点ではすでに故人となっていましたが、もし生きていれば何と思ったでしょう。

・・・邪魔な大津が死んで息子(草壁)が即位できると思ったら、夫(天武)の喪中に死んでしまった。やむなく自分が即位したけれど、あとを継ぐ文武も死んだ。まだ24歳だ。草壁だけならともかく、文武までこんな早死にするなんて、何かのタタリじゃないか・・・・・と考えるのが自然ではないでしょうか。

現在でも不幸が続けば、何かのタタリじゃないか、と考え、神社でお祓いをする人がいます。そんな心の不安を煽る悪徳商法もあります。この場合、何かのタタリの『何か』とは、持統が謀殺した大津以外にありえないのです。
つまり私は草壁・文武と、青年皇族が続けて若死にしたのは大津のタタリと考えた当時の天皇(元明天皇?)が、大津への恐れと鎮魂のために、それまで放っておいた大津の遺骸を二上山に移したのではないか、と思うのです。二上山に移された大津の遺骸はそれまでとは違って丁重に祀られたことでしょう。

大津が怨霊となって草壁を死に至らしめたという当時の記録はありません。
しかし大津と伝えられる坐像がある薬師寺の薬師寺縁起(1015年成立)によれば、大津は悪龍となり雲に昇り毒を吐く。天下静まらず・・・・とあります。記録にはなくとも大津は怨霊になったと当時の人は考えたのでしょう。


皇位継承争いは皇族同士だけの争いではありません。奈良時代以降、宮廷内では日本史上最大の権勢欲集団ともいうべき藤原氏の陰謀が渦巻きます。藤原氏は自らは天皇になれないので、国政を私物化するため、天皇家とのパイプをより太くすべく画策するのです。後にその陰謀は、藤原道長の時代に一家三立后(藤原道長の3人の娘が皆皇后になったこと)として実現します。

持統天皇が大津を謀殺したのは、藤原不比等(鎌足の子)のバックアップを得て初めてできたことです。夫(天武)に先立たれた寡婦持統の思い・・・自分の息子(草壁)に皇位を継がせたい・・・を察知した藤原不比等は、巧みに持統に取り入ったことでしょう。持統が女の身で帝として君臨し、陰謀を巡らすことができたのは、片腕となった藤原不比等の力があったればこそと思われます。そして、やがて次第に力をつけてきた藤原氏は、不比等の子、光明子(こうみょうし)を皇族以外の出身者としてはじめて皇后とすることに成功するのです。

これはきわめて異例のことでした。当時の皇后というのは単なる天皇の妻ということではなく、天皇亡き後は場合によったら皇位を継承する可能性がある立場にあったのです。その好例が持統天皇です。したがって藤原光明子が皇后になったということは、跡継ぎがいない場合、天皇の地位が藤原氏に移ることにもなりかねない、天皇家にとっては非常に危険なことでした。

天皇の妻には時代によっても変わりますが、身分の高い順に皇后、妃、夫人(ぶにん)などがあり、皇后と妃は皇族から選ばれていました、

聖武天皇と光明子との間には、基王(もといおう 727〜728)という男子が生まれますが、生まれて間もなく死亡してしまいます。基王の死と入れ替わるように生まれたのが安積王(あさかおう 728〜744 )です。母は県犬養広刀自。藤原一族ではありません。
聖武の子は男子は基王と安積王の2人だけだったので、安積が皇太子となった場合、藤原一族は天皇との接点が光明子以外なくなる危険が出てきました。

744年、安積王はナゾの死をとげます。藤原氏に暗殺されたことは間違いないと思われます。二人の男子が亡くなり、残された聖武天皇の子は女子だけでしたが、その中で阿部内親王(光明子の子)が女性としてはじめて皇太子に任命されたのです。後の孝謙天皇、称徳天皇です。

皇族以外の女性が皇后になる危険性は上記のとおりですが、藤原光明子が皇后になることに大反対したのが長屋王(天武の孫 684?〜729)です。これに対し藤原不比等の子、武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟は共謀し、無罪の罪で長屋王を陥れ自害に追い込むのです。ところがその後、藤原4兄弟は流行していた天然痘にかかり、4人共相次いで病死してしまうのです。

長屋王の罪状は、こうした場合の多くがそうであるように謀反の罪でした。しかし、それがでっち上げであることは多くの人がわかっていることでした。藤原4兄弟が続けて病死したのはタダの偶然です。しかし当時の人はそうは受け止めません。

長屋王は無実の罪で殺された。しかもその罪をでっち上げた藤原4兄弟は皆死んでしまった。藤原4兄弟の連続した死は偶然ではない。長屋王のタタリが藤原4兄弟を殺したのだ。

一般的には藤原4兄弟の死が、怨霊になった長屋王のタタリであるとは言われていません。長屋王の怨霊に驚き、恐れ、おののいた藤原不比等・光明子親子が、長屋王を鎮魂したという記録もありません。しかし私は、藤原不比等・光明子親子が長屋王の怨霊を恐れた可能性はかなり高いと思うのです。


758年、淳仁天皇は孝謙天皇から譲位され、孝謙天皇は上皇になります。
760年、母親の光明子が死ぬと孝謙は道鏡を重用しはじめます。光明子の生前、彼女のバックアップを得て出世していた太政大臣藤原仲麻呂(恵美押勝)は、反乱を起こすも失敗し討死。淳仁は藤原仲麻呂と関係が深かったため、連座のような形で淡路へ流されてしまうのです。孝謙は再び天皇に即位します。称徳天皇です。

淳仁は翌年10月、逃亡を計って捕えられ、その翌日変死します。33歳。
変死とは言葉のアヤにもなりません。暗殺されたに違いありません。非業の死を遂げた淳仁は、『国土を呪い、旱魃、暴風雨、そして飢饉による多数の餓死者をもたらす』のです(水鏡)。
淳仁は即位していながら称徳の意向によって天皇の一人とはされず、単に廃帝とか淡路廃帝と呼ばれていました。彼が歴代天皇の一人になるのは、1870年に明治政府から淳仁天皇と追号されるまで待たなくてはならないのです。

称徳の後、皇位は光仁、桓武と引き継がれ、ここでようやく早良皇子が登場します。
光仁天皇(709〜781)が即位すると同時に、夫人(ぶにん・・妃の称号の一つ)の井上内親王は皇后に昇格しますが、その2年後の772年、天皇を呪い殺す祈祷をさせたという罪で、息子の他戸皇子と共に大和国に幽閉され、775年に母子共に急死しました。

井上内親王の母は安積王と同じ県犬養広刀自で、藤原系の人ではありません。この事件は、他戸皇子の異母兄の山部皇子(後の桓武天皇)が、藤原良継・百川兄弟と共謀し仕組んだことにほぼ間違いなく、非藤原系の排斥も目的の一つだったでしょう。

その後即位した桓武は、平城京から長岡へ遷都を進めますが785年9月24日、桓武の腹心で遷都プロジェクトのリーダーである藤原種継が何者かに暗殺される事件が起こります。4日後桓武は、犯行は遷都反対派の大伴継人、黒幕は早良皇子(桓武の弟)と断定し、他の関係者と共に直ちに逮捕。乙訓寺に幽閉された早良皇子は無実を訴え、抗議のため絶食し、そのまま憤死してしまいました。前年に死去した歌人としても知られる大伴家持は、この事件のあおりを受けて埋葬も許されませんでした。

私には、この藤原種継暗殺事件は桓武自身が仕組んだように思えてなりません。桓武は父の光仁から皇太子は早良皇子にするよう指示されていましたが、光仁の死後桓武はこれを無視し自分の子、安殿親王(後の平城天皇)を皇太子にすべく、早良に無実の罪を着せて殺したとしか思えないのです。桓武にすれば弟より我が子の方が可愛いいし、同時に遷都反対派も一掃できるし、一石二鳥なのです。

しかしその後、桓武には多くの不幸・不運が襲いかかります。
造成中の長岡京は2度も洪水にみまわれる。諸国では天然痘が流行する。飢饉が起こる、桓武の母親の高野新笠、夫人の藤原旅子、皇后の藤原乙牟漏が相次ぎ亡くなり、皇太子の安殿親王も病気がち。おまけに蝦夷との戦いには大敗する・・・・・。

不安になった桓武が陰陽師に占わせると、『これらの一連の不幸は、早良皇子のタタリが原因である』と出ました。その後、桓武はまだ未完成だった長岡京を放棄し、宇太村に新京を造ることを決定するのです。これが平安京です。遷都は794年10月22日のことでした。
平安京とは縁起の良い名前でしたが、平安遷都は早良皇子のタタリを恐れたことが理由の全てではないにしろ、相当の部分があったことは間違いないのです。こうした時代の流れの中で、有名な菅原道真と崇徳上皇の事件が起こります。


●菅原道真

901年1月。右大臣菅原道真は、突然醍醐天皇より右大臣を罷免され、太宰府(九州)へ異動する詔を受取りました。理由は道真を重用した宇多上皇の信任を裏切り、醍醐天皇を廃して道真の娘が嫁していた斉世親王(醍醐天皇の弟)を皇位につけようとした、というもので道真自身まったく身に覚えのない冤罪でした。さらに罪は道真のみならず彼の息子達にも及び、菅原高視は土佐、菅原景行は駿河、菅原兼茂は飛騨、菅原淳茂は播磨へそれぞれ流されたのです。

菅原道真(845〜903)は、若くして学才を認められ891年蔵人頭、同年式部少輔・左中弁、893年参議、895年中納言、899年右大臣と、まさに異例の出世街道を邁進してきました。それは彼自身の才能もさることながら、当時朝廷を牛耳っていた藤原氏一族の専制を、なんとか押さえ込もうとした宇多天皇の引き立てがあったればこそのものでした。

宇多は藤原氏の力を弱めるため息子の敦仁親王に譲位し、自らは上皇として院政を実行すべく897年7月敦仁に譲位します。醍醐天皇です。しかし宇多のこの考えは、完全に裏目に出てしまうのです。
宇多は、譲位のような重要なことは当然公卿たちと協議すべきところを道真一人に相談し、さらには公卿たちには醍醐はまだ若いので、政治のことは左大臣藤原時平と道真を通して自分(宇多)に上奏するようにとの指示を出したのです。

これが公卿たちの反感を買い、源光、藤原国経、藤原高藤が1年にわたり公務をボイコットする事態を招いています。もちろん彼等には、さほど身分の高い家柄ではない道真が自分達を飛び越えて右大臣になっていることへの嫉妬心がベースになっているのです。

嫉妬心といえば道真が右大臣になった時、三善清行は道真に手紙を送り、大臣の辞任を勧告しています。三善清行は道真と並んで当代きっての学者でしたがお互い仲は良くなく、この勧告は好意からではなく反感からのものだったでしょう。

醍醐天皇は次第に上皇の信任厚い道真を煙たがり、自分のいうことをよく聞く藤原時平を重用するようになります。これこそ道真のライバルで、自分の権力確立を目論む藤原時平にとって絶好のチャンスでした。時平は、右大臣源光等と組んで言葉巧みに醍醐を丸め込み、ついに道真を失脚させることに成功したのです。

道真左遷の報せに驚いた宇多が宮中に駆けつけると、門前に待機していた蔵人頭・藤原菅根に阻まれて中に入れず、宇多は呆然と門の外に夜まで立ちつくしていたといいます。一方流罪同然に大宰府に移った道真は2年後、失意のうちにその地で生涯を閉じるのです。

それから数年後、京では怪事件が相次ぎます。
908年10月7日、藤原菅根が死亡(42歳)。翌909年4月、左大臣藤原時平が死亡(39歳)。913年3月、右大臣源光が狩猟の途中、底なし沼にはまり水死。なぜか遺体は見つからず。918年、三善清行死去。923年、醍醐の皇太子で藤原時平の娘を母にする保明親王が21歳で死亡。

藤原時平の死に際してこんな話が伝えられました。
天台僧の浄蔵(三善清行の子)が父清行と同席で病平癒の祈祷中、病床の時平の耳から道真の霊が青龍となって現れ、『昔三善清行の忠告を聞かず、官界から身を引かなかったため左遷の憂き目にあった。今、天帝の許可を得、怨敵を懲らしめようとしているが、息子の浄蔵が邪魔をしている。加持を止めさせよ』と言った。恐れた浄蔵は清行と共に部屋を出たら時平は死亡した・・・。

この間、たびたび疫病は流行し、干ばつも起きています。人々はこれらの事件は死んだ人に共通に関わった人・・菅原道真のタタリではないかと噂しはじめるのです。924年、怯えた朝廷は道真の霊を慰めるべく右大臣に復し、正二位を贈位。同時に大宰府左遷の詔書を破棄しました。しかしまだまだ道真の怒りはおさまりません。

930年6月、清涼殿に落雷があり、菅原道真が左遷された後、朝廷の命で大宰府に出張し道真の様子を報告した大納言藤原清貫、右兵衛佐美努忠包等の政府高官をはじめ、数人の女官が事故死するという事件が起きました。これが決定打となり、醍醐天皇はショックで寝込み3ヵ月後に死亡。人々は菅原道真の霊が雷神となって内裏に乱入したと噂したのです。

しかし道真の祟りはこれで終わったわけではなく、936年には藤原時平の長男保忠死亡(47歳)、943年には三男敦忠死亡(38歳)・・。このように道真の死の903年から約40年の間に、彼の左遷に関係した人やその親族が次々に亡くなっていったのです。

942年、京都の多治比文子という人が、道真の託宣を受けたと称して自宅のそばに小さな祠を作って道真を祀りました。その5年後、近江の比良宮の禰宜の神良種という人が、やはり託宣を受けたとして多治比文子と北野朝日寺の最珍と共に神社を作ったのです。959年、一条天皇の勅命により道真を祭るお祭が行なわれ、この神社は北野天満宮と呼ばれるようになりました。

菅原道真の怨霊は、八幡大菩薩と共に平将門に新皇の称号を与えています。その様子はここに書きましたが、菅原道真を引っ張り出したのは将門記の作者の創作ではないか、という私の考えは今でも変わっていません。


●大魔王誕生

75代崇徳天皇(1119〜68)といえば、百人一首にも載っている、『瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に あはむとぞ思ふ』の歌でおなじみですが、この人は菅原道真とともに日本史上最大とも言える怨霊だったのです。

1123年、鳥羽天皇は20歳の若さで祖父白河上皇(1034〜1129)の命により退位させられ、代わりにわずか3歳の息子である崇徳天皇(1119〜64)が即位しました。これがその後、朝廷を震え上がらせた崇徳の呪いのキッカケになったのです。

上皇となった鳥羽は崇徳を憎みます。祖父の白河存命のうちは何も言えないし、何もできないから逆恨みです。しかし息子が代わりに天皇になったのだからいいじゃないか、と思ってはいけません。崇徳は鳥羽の息子というのは名目上のことで、実際の父親は曾祖父であるはずの白河なのです。

白河は、あろうことか孫(鳥羽のこと)の妻の待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)と密通し、生まれた子供が崇徳なのです。ですから鳥羽と崇徳は名目上親子ではあっても、実際には鳥羽にとって崇徳は祖父の子(つまり父・堀河の弟)であることから叔父になるのです。このため鳥羽は崇徳を叔父子と呼んでいました。

ちなみに白河は、自分の愛妾を平忠盛を与えています。平家物語によれば、この愛妾と忠盛の間に生まれたのが平清盛で、彼女は白河の子を身ごもったまま忠盛に嫁いだとのことです。

しかしこれは平家物語の作者の創作でしょう。呂不韋(りょふい)の愛妾が、呂不韋の子を身ごもったまま秦の荘襄王のもとに行き、生まれた子が後の秦の始皇帝だという話に良く似ています(奇貨おくべしの故事)。
その後平家は政権を取りましたが、貴族にすれば身分が低かった武士が政権を取るなど当然面白くない。しかし白河のご落胤なら、なんとか我慢できるというワケです。逆に始皇帝の実の父親は商人である呂不韋だったとする説は、秦という国を貶めるための作り話とも考えられます。儒教社会の中国では商人の社会的地位は決して高くなく、つまり秦という国は、商人の子が王になったロクでもない国なんだ、ということです。

商人の社会的地位が高くないのは日本にも伝わって、その結果が江戸時代の士農工商の身分制度になっています。

1141年、白河の死後鳥羽は22歳の崇徳を無理やり退位させ、代わりに第9皇子だった近衛天皇、2歳を即位させます。皇子は他に何人もいるのにこんな幼児を即位させたのは、鳥羽は近衛の母親の美福門院得子を最も愛していたからです。
しかし1155年、近衛が16歳で亡くなると、上皇であった崇徳は自分の子の即位を期待していましたが、『近衛が死んだのは崇徳が呪詛したためだ』という噂がまことしやかに流れ、それを信じた鳥羽は激怒し第4皇子である後白河天皇を即位させ、後白河の子を皇太子とします。後白河の母は崇徳と同じ待賢門院璋子でしたが、鳥羽には他に子はなく、鳥羽にすれば崇徳の子を天皇にするくらいなら後白河の方がまだマシ・・ということでした。

鳥羽の考えは、崇徳の息子なんか絶対天皇にしてやるか!、いうことに尽きます。崇徳は近衛や後白河にとって、名目上ですが兄になります。父親なら、現天皇の父として治天の君と呼ばれ、絶対権力をふるえるのですが、兄ではただの前天皇にすぎないのです。このように鳥羽は徹底的に崇徳を嫌いましたが、不義の子とはいえ崇徳には何の罪も責任もありません。人間の感情には理性で押さえられない部分が相当あるとしか言いようがないですね。
ところで後白河天皇は権謀術数に長け、後に木曽義仲や源義経を手玉にとって源頼朝から日本一の大天狗、と罵られるようになるあの後白河法皇です。

さて望みが断たれた崇徳は翌1156年7月、鳥羽上皇の死をきっかけにこれまでの不満を爆発させ、後白河天皇から皇位を奪うべく挙兵。藤原摂関家や源氏、平氏が父子・兄弟、天皇側・上皇側の二手に分かれ、都を舞台に戦いました。これが保元の乱です。 

激戦だったような感じがしますが鳥羽上皇は生前、自分の死後必ず戦乱が起こると予想し、周到に準備していたのです。あっけなく後白河側が勝利し、崇徳側の藤原頼長は戦死、源為義、平忠正は死罪。そして主謀者の崇徳は、髪を下ろしましたが赦されず、讃岐(香川県)配流されました。それまでの慣例で皇族は乱を起こしても、出家すれば罪に問われなかったのですからこれは異例の措置でした。この厳しすぎる罰に、崇徳がどれほど憤激したことか。

しかし問題はこれからです。

祟徳は、讃岐での軟禁生活の中で次第に仏教に傾倒し、極楽往生を願うようになっていきました。その結果、保元の乱の戦死者の供養と自分の反省の証しとして、3年をかけて五部大乗経の写本を作り、京の寺に収めてほしいと朝廷に提出したのです。五部大乗経とは法華経、華厳経、涅槃経、大集経、大品般若経を指し、その写経は大変功徳があるものとされていました。この時の祟徳には何の邪心もなかったでしょう。

しかし後白河は、この写本には呪詛が込められているのではないか、と祟徳の真意を疑い、近臣の藤原信西(しんぜい)に受け取りを拒否させ、写本を崇徳に送り返したのです。激怒した崇徳は自分の舌を噛み切り、流れる血で送り返された写本に呪いの文言を書きつけ瀬戸の海に沈めました。

我、日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん・・・この経を魔道に回向(えこう)す・・・
(回向とは捧げるという意味)

祟徳はそれ以来、髪も爪も切 らず伸ばし放題にし、凄まじい形相になっていくのです・・・。
その後何も起こらなければ良かったのですが、そうはいきません。

その後の平治の乱で、武家の平氏が政治の実権を握る。五部大乗経の受取を拒否した藤原信西、後白河側についた源義朝が殺される。1165年、祟徳の死の翌年。二条天皇が23歳で病死、次を継いだ六条天皇もわずか12歳で死亡。京では火災が相次ぎ、1178年の大火事では、大極殿を含む京の三分の一が灰塵に帰しました。

さらには1221年、承久の変で破れた後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島、土御門上皇は土佐へ幕府によってそれぞれ配流され、仲恭天皇は廃されたのです。崇徳の呪いの言葉・・・・皇を取って民とし民を皇となさん・・・この意味は、皇を民の地位に落し、民を皇の地位まで引き上げるということです。

身分が低かったはずの民(つまり平氏や源氏)が天下を取り、それから65年後には皇(後鳥羽)が民によって流罪となったのです。これは皇と民の地位が逆転したことを意味します。人々は崇徳のタタリが実現した・・・崇徳は怨霊となって呪いを実現させた・・・と震え上がりました。江戸時代になっても、歴代の高松藩主は崇徳陵を手厚く祀っています。

1868年、幕末の慶応4年。
孝明天皇の皇子、睦仁親王(後の明治天皇)は、勅使を讃岐に送り崇徳の霊を慰めています。
自分(明治天皇)は幕府を討つけれど、あなた(崇徳)にとって天皇家は天敵ですが、どうか幕府方に味方しないようお願いします・・。天皇家にとって、崇徳の恐怖は幕末まで続いたのです。


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