ティータイム 殷鑑遠からず 隗より始めよ 天下三分の計

奇貨おくべし(秦から漢へ)


<年代>

紀元前256年 秦、周を滅ぼす
紀元前221年 秦の始皇帝、中国を統一する
紀元前210年 始皇帝死去
紀元前206年 秦、滅亡する
紀元前201年 劉邦が項羽を倒し漢王朝を興す

 

戦国時代の七か国
(春秋時代の晋は韓、魏、趙の三国に
分割してしまいました)

 

■ 戦国時代

春秋から戦国期にかけて、発達した金属加工技術(主に青銅器)で農耕器具が作られるようになると、農業生産は飛躍的に増大しました。さらに戦国期末期、鉄器が現れるとさらに生産性が高まりました。
農業生産の増大は人口が増えることに結びつき、さらに農業生産の傍ら商品生産も可能となりました。また余剰の食料で多数の兵士を養えることができるようになり、国家も都市国家レベルから広域国家へ変貌していきます。

社会に余裕ができると、「諸子百家」と呼ばれる人達が、地面から涌き出るように出現します。孔子、老子、墨子、荘子、旬子・・・・・・。
また才能(政治、軍事、経済、学問等)のある人は、自分の才能をあたかも商品のように各国に売り込み、自分を高く、正当に評価してくれる主君を求めて国から国へ、適切な表現ではありませんが、渡り歩くようになります。

前回、隗よりはじめよ、で紹介した燕の将軍、楽毅は魏の人ですし、これから紹介する秦の宰相として秦の富国強兵に尽力した衛鞅(えいおう)は、小国、衛の人です。
士は己を知るもののために死す。この言葉はおそらくこの時代に生まれたのでしょう。

中国の面白さは、自分を正当に評価してくれるなら、仕官するのはどこの国でもかまわない、と言う考えがあったことです。韓非子は「王は爵位を、臣は才能を売り物にしている」と言いました。才能は売り物で、高く買う人を求めて、国々を渡り歩く人もいたのでしょう。

日本で言えば戦国時代、越後出身者が甲斐、武田家に仕えて重臣となり、武田家の政治・軍事の決定権を持つようなものです。ちょっと考えられないですね。他国者でも仕官はできたでしょうが、重臣になった人はいたでしょうか。

■ 秦帝国

中原(ちゅうげん)と言う言葉があります。黄河流域のほぼ中間地点で河南省あたりを言い、政権を争う場のことです。戦国時代の日本で言えば京都のようなものです。秦は中原からはるか離れた辺境の地にありました。この国がにわかに強大になったのは時の王、孝公と彼を補佐して政治を担当した衛鞅(えいょうおう)の功績です。

● 商鞅 (?〜紀元前338年)

商鞅は衛(えい。国名です)の出身で法家として魏の恵王に仕えようとしたが果たせず、秦に行き孝公に仕えました。(紀元前361年)

孝公自身、秦の富国強兵を目指していたため商鞅のいわば「政治実験」を強力にバックアップしました。商鞅の政治方針は、簡単に言えば国家を法でもって運営していくことで、王以外はすべて法の下では平等で王族と言えども例外ではありませんでした。

(1) 5戸を社会の最低管理単位として5人組として「伍(ご)」と呼んだ。密告を奨励し、違法者を見てみぬふりをした場合、連座で処刑された。逆に密告者は褒賞を受けた。
(2) 当時の村落は、ほぼ血縁でかたまっており、例えば父の罪は見て見ぬふりをするのが血縁社会の秩序でしたが、商鞅はこれを否定しました。

否定するどころか、家族、親族を解体し、一人一人が秦王に属するようにしたわけです。これは、儒教に対する挑戦とも言えることでした。

(3)

身分の上下を問わず戦場で敵の首級をとれば恩賞を与えるが、例え王族であっても功のない者は王族の身分を剥奪する。

これによって商鞅は多くの王族から憎まれるようになります。

(4) 商業は農業の敵として禁止し、違反する者は奴隷とした。

等々。

商鞅の働きによって秦は、世界最初の法治国家となり、中国大陸最大の強国となりました。しかし彼をバックアップしていた孝公の死後、彼を恨む王族のために謀反の罪を着せられ、捕らえられて惨殺されます。

なお商鞅はもとは衛鞅(えいおう)と言う名前でしたが、商(しょう)の地を孝公からもらったため商鞅と呼ばれるようになりました。

● 蘇秦と張儀の合従連衡(がっしょうれんごう)

秦の勢力が強大になると、他の六国の不安は高まりました。六国がまとまって軍事同盟を組んで、秦に対抗すべきだ、とするのが合従策、六国がそれぞれ秦の配下となるすべきだ、とするのが連衡策です。

このような外交政策を各国に遊説する人が現れ、これを縦横家(じゅうおうか)と言います。六国まとまっての同盟を説くのが、縦家、個別同盟を説くのが横家です。
なぜ縦と言うか。秦は西にあって、他の六国はほぼ南北、縦にならんでいたからです。ではなぜ横と言うかは、もうおわかりですね。

蘇秦(そしん)と言う人がいました。縦横家の元祖です。
彼は、若い時諸国を遊説して歩きましたが、どの国へ行っても相手にされず、落胆して帰国した時には、家族はもちろんのこと、妾にも笑われた、と言います。

揣摩(しま)とは、人を説得するためには相手側の心理を的確に読み取って、こう言えば、相手側はこんな心理になるはず、と言う具合に話をリードする方法です。

揣摩と言う言葉が文献上、最初に現れたのが、史記の蘇秦列伝です。
一念発起した蘇秦は、学問に励み、揣摩の術を考案して、再び遊説に出かけました。そしてついに六国を説得し合従同盟の締結に成功し、なんと六国の宰相を兼任することになりました。

出世して故郷に帰ったとき、家族はだれも蘇秦とまともに話ができませんでした。食事の時蘇秦は給仕をした、兄嫁に尋ねました。

蘇秦 なぜ、顔を伏せているのですか?
兄嫁 あなたが出世なさって、ご身分が高くなったからです
蘇秦 昔も今も、私は私だ。私が出世したのは貧しかったからです。
耕地を充分持っていたなら出世はできなかったでしょう

さて、蘇秦が苦労して成し遂げた合従、六国の同盟も、秦の宰相、張儀の連衡策で分裂してしまいます。蘇秦は、斉の国で刺客に暗殺されてしまいます。(紀元前317年)
死の間際、蘇秦は斉王の宣王に秘計を伝えます。宣王は、信任あつい蘇秦が重傷を負ったので、なんとしても犯人を捕らえたいと思っていたのです。

蘇秦 王よ。私が死にましたなら、蘇秦は敵と内通して斉を滅ぼそうとした重罪人であるとして、町にさらしものにして下さい

はたして、宣王がそのとおりにすると、犯人は褒美がもらえるものと考え、名乗り出てきました。彼が捕らえられ、処刑されたのは言うまでもありません。蘇秦は自分の死後の復讐を、重傷のなかで考えたのです。
ここに、舌一枚で戦国の世を渡り歩いた男のしたたかさを見ます。

一方張儀(ちょうぎ)にも若いころ、屈辱的な経験があります。楚に仕官すべく出向いた時、宴会に出席する機会がありました。
ところが、その席で楚の宰相が璧(へき・・・・中国の宝物)を無くした、と騒ぎ始めました。
嫌疑は張儀にかかり、その宰相の命令で彼は袋叩きにあいました。まもなく疑いは晴れましたが、家に帰ると妻があきれます。
張儀は妻に言いました。

張儀 私の舌をみてごらん。無事だろう
張儀の妻 確かに無事です
張儀 舌さえあれば、また遊説に行けるさ

その後、秦の宰相になった張儀は、自分を袋叩きにした楚の宰相に手紙を出しました。(これはギャグではなく、史実です)

張儀 あなたは璧を盗みもしない私を、袋叩きにしました。しっかり楚の国を守りなさい。私はあなたの国を盗むつもりですよ

 

● 奇貨おくべし

戦国七雄の一つ、韓に呂不韋(りょふい)と言う豪商がいました。かれは趙の首都、邯鄲(かんたん)で秦から人質として趙に来ている子、子楚(しそ)と知り合います。子楚は秦の昭王の皇太子、安国君の子でした。この時、呂不韋はつぶやきました。(紀元前262年)

奇貨(きか)おくべし  (掘り出し物だ。買うべきだ。)

その後秦に行った呂不韋はあらゆる手を打って、子楚を安国君の後継者にすることに成功します。(子楚の兄弟は20数人もいたため、よほどのことがないと後継者にはなれませんでした。)


紀元前251年、昭王の死後安国君(孝文王)が後を継いだがわずか1年で死に、ついに皇太子の子楚が秦王となりました。荘襄王(そうじょうおう)です。荘襄王は即位後3年で死に、子の贏政(えいせい)が即位します。13歳でした。

贏政の母はもともと呂不韋の愛人でしたが、荘襄王に乞われてその夫人となったものです。一説によれば荘襄王のもとへ行ったとき、すでに彼女は呂不韋の子を身ごもっていたと言うことです。
となれば贏政の真の父親は呂不韋であった・・・・・・。

贏政、後の始皇帝です。

 

戦国七雄の中では秦が飛びぬけて強大国となり、贏政(えいせい)が登場すると他の六国を次々に滅ぼし、ついに中国大陸を統一します。前に述べたように贏政は天下を取ると、三皇五帝の徳を持つとして皇帝と言う言葉を作り、はじめての皇帝と言う意味で始皇帝と称しました。また自分自身の呼ぶのに朕(ちん)と言う言葉も作りました。

始皇帝はそれまで存在した国々の「王」と言うものを廃止し、代わりに中央集権と言う、世界中で秦以外の誰も経験したことのないシステムを導入しました。システムの基本となったものは法律です。それまでなんとなく習慣的に暮らしてきた秦以外人々にとって、法律による管理など、まさに驚天動地の出来事でした。

もちろんそれ以前、各国にも法律はありました。しかし秦の法律は日常生活のこと細かいことにまで規制があり、それに反するものは容赦なく処罰されていきました。さらに年貢は三分の二と言う重さで、払えなければ牢獄につながれる、すると人手がなくなるので年貢は払えなくなる、するとさらに罪人が増える、と言った具合でした。

いわば秦の法律は、罪人の製造装置のようなものでした。始皇帝の死後、各地で反乱が起きましたがその理由の一つは、この過酷な法制度にあったことは間違いありません。

始皇帝は異常なほど土木建築を好みました。理由の一つとしては、巨大建造物を作り天下万民の度肝を抜くことにあったように思えます。豊臣秀吉もそうですね。大阪城とか、聚楽第とか。

始皇帝の晩年着工された阿房宮(あぼうきゅう)と言う宮殿は、前殿である一つの建物に一万人もの人を収容できたと言いますし、この宮殿は後に占領軍である項羽に焼かれましたが、鎮火するのに3か月(3日ではない!)かかったと言います。

さらに生前から自分の墓を作らせ、それが20世紀の今日、発掘されることになります。(兵馬甬)
また首都、咸陽の道路にはすべて小石が打ち込まれ、あたかもアスファルト道路のようだったとも言われています。

一方で死を恐れるあまり、方士達に不老不死の霊薬を探すことを命じました。
その方士の一人、除福が日本にやって来たという伝説もあります。
方士とは、方術と言う、当時としては先端科学の体得者です。

始皇帝は、馬車に乗って全国各地をしばしば巡行しました。その途中、張良に襲われたり、項羽や劉邦に有名なセリフを吐かせることになります。
しかし最後の巡行中病気となり、山東半島に近い沙丘というところで息を引き取ります。(紀元前210年)

● 刺客は帰らず(荊軻と高漸離)

紀元前228年、贏政は趙を滅ぼした勢いをもって、燕に攻め込もうとしました。(このころは、まだ始皇帝を名乗ってはいませんでした。)
燕の王子、丹は、かつて趙の国に人質となっていた時、同じく人質だった
政とは幼友達で大変仲が良かったといいます。

丹は昔のよしみで、まさか政が攻めて来ようとは思っても見なかったようですが、全国統一を目指す贏政にしてみれば、何の感傷もなかったでしょう。
燕は小国で、秦の大軍の前には歯向かう術もなく、丹は刺客を送り、
政の殺害を考えます。

丹は、始めに田光(でんこう)と言う人に相談しましたが、やんわりと断られてしまいます。しかし田光はすぐに友人の荊軻(けいか)を訪れて、丹に会うように頼みました。
荊軻が承知すると、田光は「丹太子は私に、これは秘事であるから口外するなと言われた。これは私を疑っている証拠だ。私が口外しないことを証明するには、死ぬ以外に方法はない」と言って自害してしまいました。

荊軻は衛(えい)の生まれで、いわゆる剣客で、諸国を放浪し仕官先を捜す浪人と言えばわかりやすいでしょう。
丹に刺客となることを承知した荊軻は、秦から亡命して来ている秦の将軍、樊於期(はんおき)に会いました。樊於期は
政に罪を着せられて、一族を殺されていました。さらに黄金千金と一万戸の封地が懸けられていて、政をうらむこと甚だしいものがありました。

(注) どんな罪なのかわかりません

荊軻 将軍はご両親をはじめ一族をみな殺しにされました。
これからどうなさるおつもりですか?
樊於期 それを思うと無念で夜もねられません。
しかしこれと言った良い策も見つからず・・・・・。
荊軻 一つだけ策があります。燕の禍根を取り除き、しかも将軍の仇もうてる策が
樊於期 その策とは
荊軻 将軍の首を頂戴して秦王に献ずるのです。
そうすれば秦王(
政のこと)は、喜んで私に会うでしょう。その機に私は秦王を刺し殺すことができます

樊於期はすぐに納得して(すぐに、ですよ)、その場で自分の首をはねてしまいました。
やがて荊軻は、旅立ちます。丹太子を始め、事情を知る何人かの人が見送りに来ました。荊軻の親友、高漸離(こうぜんり)は筑(ちく・・当時の楽器)を演奏し、歌いました。

この時荊軻は、有名な歌を歌います。

風蕭蕭兮易水寒  かぜしょうしょうとしてえきすいさむし
壮士一去兮不復還 そうしひとさびさってふたたびかえらず
(注) 易水とは燕を流れる川

荊軻はもちろん、生きて帰えれるとは思っていなかったのです。
秦に着いた荊軻は、蒙嘉(もうか・・・
政の側近)のとりなしで、政に会うことができました。樊於期の首を見せ、さらに手みやげとして持ってきた燕の地図を献上するために、荊軻は政の目の前まで近づきます。すると、荊軻が取り出したのは、地図の中に隠した短刀でした。

荊軻は政に斬りつけます。しかし一瞬早く政は、身を引いて立ち上がり、刀を抜こうとしますが、あわてていて抜けません。ただ荊軻に追われて逃げるばかりです。
秦の法律では、家臣は刀を持って殿上にのぼれないため、誰も
政を助けられません。やむなく素手で荊軻に立ち向かいますが、蹴散らされてしまいます。

その時、侍医の夏無且(かむしょ)が薬箱を荊軻に投げつけました。
荊軻がひるんだすきに、
政は刀を抜き、荊軻の左足を斬りました。荊軻は立てなくなり、その場で殺されてしまいます。
ほどなく
政は燕を滅ぼし、丹太子は殺されてしまいます。

荊軻の友人に高漸離(こうぜんり)と言う男がいました。荊軻を見送った一人です。筑の名人でした。燕滅亡の時、宋子と言う田舎に隠れて難を逃れ、日雇仕事をしながら荊軻の仇を打つべく機会をうかがっていました。
「宋子に筑の名人がいる」との噂を聞いた
政は、高漸離を宮殿に招き、筑を演奏させ、その素晴らしさに魅了されました。

ところが、政の臣下に高漸離の顔を知っている者がいて、政にそのことを告げます。
政は、高漸離の目をつぶすせば危険はない、と考えて、その後もそばにおいて筑を演奏させていました。

「目が見えずさぞ不自由でしょう」と知人に言われた高漸離は、「いや、かえってモノがよく見えるようになりましたよ」と答えたことです。
ある日、
政のために筑を演奏していた高漸離は、不意に立ち上がり、筑を政に投げつけました。筑にはあらかじめ、鉛がしこまれていてかなりの重量でした。
しかし、盲目の悲しさ。筑はわずかにはずれて、失敗に終わります。
政はやむなく、高漸離を殺しました。

● 趙高(?〜紀元前207年)

始皇帝の死後、政治の実権を握ったのは宦官の趙高(ちょうこう)です。
始皇帝は遺言で長男の扶蘇(ふそ)を後継者として指名していましたが、始皇帝の臨終に唯一人立ち会った趙高は、遺言を書き換えて始皇帝の命令ということで扶蘇に死を命じます。

さらに始皇帝の末子、胡亥(こがい)を抱き込み、これを二世皇帝(初代に対する二代目)にすることに成功します。趙高は胡亥の家庭教師でもありました。

胡亥は趙高の言いなりで、趙高を丞相(宰相)に任命してしまいます。それから趙高が行ったことは宮廷から自分の反対勢力を徹底的に排除することでした。皇族はもちろん、何千人もの人が罪をでっち上げられて処刑されたことです。

● 季斯(?〜紀元前208年)

李斯(りし)は「性悪説」をとなえた旬子の弟子で、政のもとで丞相となると、彼の献策にしたがって政は、次々に他の六国を滅ぼし、中国を統一することに成功しました。いわば始皇帝最大の功臣とも言うべき人物でした。

しかし始皇帝の死後、李斯の歯車は狂います。
趙高から始皇帝の死を告げられた李斯は、趙高の脅しに屈して扶蘇を死なせ、胡亥を二世皇帝にすることに協力します。史記はその時の李斯と趙高の会話をこのように伝えます。

趙高 陛下(始皇帝)の崩御はまだ誰も知りません。あなたと私のやり方次第で、次の皇帝が決まります
李斯 君は間違っている。臣下として口に出すべき言葉ではない
趙高 あなたはご自分をどのように評価していますか? 
蒙恬(もうてん)は軍人、あなたは文人です。しかしそれは置かれた立場によるもの。 蒙恬が丞相になっても、あなた位の仕事はできるでしょう。しかしあなたが将軍となって敵を破るなど、まず考えられません。

能力はどちらが上でしょうか? 天下人民の信望はどちらが勝っているでしょうか? 未来を見とおす目はどちららが優れているでしょうか? さらに扶蘇様にとってどちらが縁が濃いでしょうか?

李斯 ・・・すべて蒙恬のほうが優れている・・・・・・・・・・・・・

このようにあの手この手で脅された李斯は、ついに趙高に同意してしまいます。

(注)蒙恬は、秦屈指の名将で、扶蘇と親しかった。


李斯は、どちらかと言えば青白き秀才タイプの人で、行動力のある政治家と言うより、企画立案家と言うべき人でした。趙高にすれば、李斯を味方に引き入れることによって自分の立案を丞相が認めた形にしたかったのでしょう。
海千山千の趙高にとって、ひ弱なインテリにすぎない李斯や世間知らずの胡亥を丸め込むなどワケのないことでした。

胡亥が二世皇帝になると、李斯はすっかり日影者となって実権は趙高に移ってしまいます。趙高にすれば、陰謀を知っている李斯は、もはや邪魔な存在でした。
そして李斯は謀反の罪(もちろん讒言)で投獄され、一族そろって死刑となります。


始皇帝の死後、各地で秦への反乱が起こります。しかし将軍らしい将軍は全て趙高に排斥されていたため、反乱を鎮圧出来るような人は、宮廷には一人もいませんでした。章邯(しょうかん)を除いては・・・・・・。

章邯は財務を担当する役人でしたが、反乱軍鎮圧の方策を胡亥に進言したため将軍に任ぜられたものです。
章邯率いる秦軍は連戦連勝。次々に反乱軍を破ります。

● 馬鹿の話

今や宦官でありながら、秦の宰相となった趙高にとって心配なのは、宮廷の群臣がどの程度自分に服従するか、でした。宦官の自分(趙高)を尊敬して心服などするはずがない、それでもかまわない。面従さえしていれば・・・・。趙高はこう考えてテストを行いました。

彼は胡亥の前に一匹の鹿をひきだして「これは馬でございます。」と言いました。胡亥は当然、「何を言う。これは鹿ではないか。」と言いますが、趙高は「いいえ。これは馬でございます。なんならあの者どもにお聞きください。」と言って群臣のほうを振り向きました。

「皇帝陛下、これは馬でございます。」ほとんどの群臣はそう答えました。
「鹿ではないか」そうつぶやいた何人かの群臣は、その後罪をきせられて殺されてしまいました。


章邯がこの話しを聞いたとき、彼は項羽の軍と交戦中でした。戦況は不利で、ややもすると押され気味でした。なにもこの話しだけではなく、彼の耳に入る宮廷の話ののすべてが秦の末期を意味していました。秦の前途に見切りをつけた章邯は、ついに項羽に降伏します。

■ 秦帝国の最後

項羽と共に秦の打倒を目指した劉邦は、項羽とは別行動で秦の首都、咸陽(かんよう)をいち早く占領しました。趙高は胡亥を殺害しますが、扶蘇の子、子嬰(しえい)に殺され、ここに秦帝国は滅亡しました。その後、天下の覇権は項羽と劉邦とで争われることになります。

● 劉邦(紀元前256年ころ〜紀元前195年)

この人はどのように書いたら良いのでしょうか?
かつて漢帝国初代丞相となった蕭何は、劉邦のことを「高祖(劉邦のこと)は、もとより大言を吐く。事なすこと少なし。」と言いました。

早い話が、「大法螺は吹くが、たいしたことはできないよ」と言う意味でしょう。事実この人は戦争技術に長けていた訳ではなく、政治ができたわけでもありません。

それどころか劉邦は、ただの農民の生まれで、しかも故郷では鼻つまみ者のゴロツキでした。

しかし劉邦には不思議な人徳があり、他の人に「劉邦を助けよう」と言う気持ちを自然におこさせるような雰囲気があったようです。

それらの人々の多くは、劉邦が漢帝国を興すと宰相や将軍として立身しました。彼の旗揚げ以来、彼を補佐した蕭何(しょうか)、曹参(そうしん)、周勃(しゅうぼつ)、夏侯嬰(かこうえい)。さらに後年幕下に加わった、張良、韓信、陳平。いずれも中国史上、それぞれの分野で屈指の人達です。

この中で蕭何、韓信、張良は劉邦の三傑と呼ばれ、項羽に比べ戦争でははるかに弱かった劉邦を最終的な勝利者にしました。

劉邦は後に、「私は、政治は蕭何(しょうか)、戦争は韓信(かんしん)、戦略は張良(ちょうりょう)に任せていた。しかし項羽は范増(はんぞう)と言う優れた軍師がいながら、これを使いこなすことが出来なかった。これが項羽が私に負けた理由だ。」と言いました。

劉邦と言う人はこの言葉にもあるように、自分が出来ないこと、苦手なことはその方面の達人を見つけて、全てまかせる、と言う人でした。
その「まかせる」ことに徹することができた劉邦は、やはり偉大なるゴロツキでした。

韓信は劉邦にこう言いました。

陛下不能将兵(陛下・・劉邦のこと・・は兵の将ではありません)
而善将将(将に将たるお人です)

兵の将とは、戦闘で兵を指揮する将軍のことで、将の将とは、その将軍達の上に君臨すると言う意味です。英訳すれば、King of Kings と言うことでしょう。 

● 蕭何(?〜193年)

蕭何は劉邦と同じ沛(はい)の人です。若い時は役所に勤める役人でしたが、劉邦が旗上げをすると、これに参加し、もっぱら、民政、食料・兵士の補給をおこないました。

劉邦が項羽に先だって秦の首都、咸陽(かんよう)に入り、皇帝の宮殿を占領すると、金銀財宝には目もくれず、秦の法令や公文書を入手しました。このおかげで、劉邦は天下の要害、人口の多寡、各国の戦力を把握することができたのです。
更に項羽のもとを逃げてきた、韓信を全軍の総司令官にするよう、劉邦に進言したのも蕭何です。

劉邦は項羽を倒し、天下を統一すると、蕭何の功績を第一のものとしました。
当然他の将軍達は不満です。蕭何は政治や補給はしたが、敵と命をかけて戦ったのは自分達ではないか・・・・・・。
そこで劉邦は、この将軍達に言います。

劉邦 おまえたちは狩猟をしっているだろう
将軍 もちろん存じております
劉邦 では、猟犬も知っているな?
将軍 はい
劉邦 狩猟をする時、獲物をしとめるのは猟犬だ。しかし猟犬に指図するのは人間だ。おまえたちは獲物をしとめただけ。つまりおまえたちの手柄は犬の手柄だ。おまえたちに指図したのは、蕭何だ。つまり蕭何の手柄は人間の手柄だ

将軍達は黙ってしまいました。しかし犬の手柄と言われたこの将軍達こそ、良い面の皮だったでしょう。
蕭何こそは、並ぶものなき功臣であった。司馬遷の記述です。

● 韓信(?〜紀元前196年)

韓信は、背水の陣で有名です。趙の大軍と戦った時、彼は兵を二手に分けて、一方は敵の背後に回り込み、他方は川を背にして布陣しました。背水とは従来の兵法とは逆の発想で、これを見た相手の趙軍は、あきれて誰もが「韓信は、兵法を知らない」と嘲りました。

しかしいざ合戦となると、川を背にした韓信の兵は、逃げようにも背後は川なので皆必死になって戦い、やがて敵の背後に来た味方の兵と趙軍を挟み撃ちにして、圧倒的勝利を収めたとのことです。

これは一例にすぎませんが、韓信はまさに天才将軍でした。
劉邦が項羽との交戦中、彼の周囲の人は、たびたび劉邦から独立して、第三勢力になることを勧めますが、韓信は劉邦を裏切りませんでした。しかし、劉邦が天下を治めるようになってから、やっと反乱を決意しますが、事前に発覚し捕えられて処刑されてしまいます。

韓信は戦争技術では天才だったかもしれませんが、それが逆に劉邦に警戒され、反乱を起こさざるを得ないような状況に負いこまれたのではないか、なんとなくそんな気がします。

韓信は最後に自嘲気味に言います。

狡兎死良狗烹
こうとししてりょうくにらる・・狩場のうさぎをとり尽した後は猟犬は不要になるものだ

● 張良(?〜紀元前168年)

張良は韓の貴族の出身です。韓が秦に滅ぼされた時、張良はまだ少年でした。少年ながら秦を恨むこと激しく、やがて豪力の男を雇い、始皇帝の巡行先の博浪沙(はくろうさ)で待ち伏せました。

男は重さ120斤(27kg)の鉄槌を放って、始皇帝の乗る車の投げつけました。鉄槌は見事に車に命中しましたが、車輪を砕いただけでした。

・・・・・博浪沙中にあって盗の驚かすところとなる。

と史記に記載されています。この盗と言うのが張良達のことです。

その後張良はお尋ね者となり、潜伏中の町で不思議な老人に会い兵法書を授けられたと言われています。

その後劉邦のもとで張良は軍師に任ぜられ、戦の弱い劉邦をなんとか最後の勝利者とすることに成功します。まさに戦略の勝利、張良の功績でした。

劉邦が天下を取ると、張良は大きな功績がありながら、わずかな土地しか受け取らず、さらに「俗世間を捨てて、仙界で遊びたい」として、やっと生きられる程度の食物しか食べずに導印という法(仙人になるための修行)を始めました。
張良は、その無欲さから誰からも敬愛されましたが、劉邦の死の8年後に死去しました。

● 陳平(?〜紀元前178年)

陳平は一時項羽に仕えましたが、うだつがあがらないので嫌気がさし、劉邦に仕えるようになりました。その智恵で、六度劉邦の危機を救ったと言われます。

劉邦が榮陽城(けいようじょう)で項羽の大軍に囲まれた時、陳平の謀略で危機を脱します。その経緯は次のとおりです。

(1) 陳平は、スパイを項羽軍に忍ばせ、項羽の重臣である范増(はんぞう)、竜且(りゅうしょ)、鐘離昧(しょうりまい)が、劉邦へ寝返ろうとしている、という噂を流した。項羽に臣下への猜疑心をおこさせるためである。
(2) やがて榮陽城の様子を探るため、項羽の使者が来た。
(3) 劉邦は、その使者を大歓迎した。見たこともないような豪華な料理でもてなした。
(4) 宴会半ばで使者が項羽の口上を述べはじめると、劉邦はわざと顔色を変えて「なんだ! 君は項羽の使いか。范増の使いだと思った。」と怒鳴った。
(5) 別室に案内された使者には、うってかわって粗末な料理が出された。
(6) その使者の報告を聞いた項羽は、噂を信じてしまった。

その後、項羽の指揮系統の乱れを突いて、劉邦は城を脱出することに成功しました。
一方范増は、このこと(項羽に不信をもたれたこと)がもとで、項羽の下を去ります。別れを告げる范増の声は、怒りで震えたと言います。

劉邦の死の間際、妻の呂后が尋ねました。

呂后 陛下にもしものことがあり、丞相の蕭何が死んだら、だれを丞相にしたら良いでしょう
劉邦 王陵(おうりょう)が良いが、あいつはあまり利口ではない。陳平に補佐させれば良い。陳平は利口すぎて危険だ。全てまかせてはならない

劉邦も陳平の才能には、恐れを感じていたようです。
劉邦の死後、漢帝国は呂后一族の牛耳るところとなります。その時、陳平は右丞相でしたが、呂氏一族の専横にじっと耐え、呂后の死後、にわかに立ち上がり左丞相の周勃とともに呂氏一族を滅ぼし、再び劉氏の天下にしました。

ある会議の席上、陳平は皇帝(劉邦ではなく、二世皇帝)から国家の総予算を、また一年間で犯罪がどれほど発生するかを尋ねられました。ところが、陳平は、そんなことは知らない、担当の者に聞きましょう、と答えました。

皇帝は、ならば丞相よ、君の職務はなんなのだ、と尋ねます。
陳平は、私は各担当者の仕事を管理、コントロールするのが仕事であって、細かいことをいちいち憶えるのが仕事ではありません、と答えたと言います。

これを聞いた左丞相の周勃は、とても陳平にはかなわない、と辞職してしまいます。当時、丞相は左右二人いました。左大臣、右大臣のようなもので、左の方が正、右は副です。左丞相がいなくなったため、陳平は右丞相のまま、位人臣を極めたわけです。
こうして陳平は、賢宰相の名をほしいままにしました。

● 項羽 (紀元前232年〜紀元前202年)

項羽は楚の人です。秦に滅ぼされた楚の最後の王、懐王(かいおう)に仕えた名将、項燕(こうえん)将軍の孫、と言われています。
長身で力も強く、覇気に満ちた男でありました。
ある時、始皇帝の巡行を見た項羽は、

彼可取而代也 (あいつに取って代わってくれる!)

と有名な叫び声を上げました。
ちなみに、同じく始皇帝の巡行を見た劉邦は、

大丈夫当如此也 (男はこうでなくては)

と言って単純にうらやましがっただけです。

項羽は、まさに当代一の豪傑でした。しかし、武勇に優れた項羽は性格の甘さから、劉邦を取り逃がすことがしばしばありました。その代表例が鴻門の会(こうもんのかい)です。

秦の首都、咸陽を真っ先に占領した劉邦は、わずかな手違いで咸陽への入口とも言える函谷関(かんこくかん)を閉鎖し、項羽軍の進行を妨げてしまいました。激怒した項羽は、劉邦軍への総攻撃を命じます。

項伯(こうはく)と言う項羽の叔父がいました。その昔、劉邦の軍師、張良に恩を受けたので、なんとかして張良を助けようとして、夜中馬を飛ばして張良の陣に駆けつけ、逃げるように忠告しました。しかし、張良は逃げるつもりはなく、逆に劉邦に知らせて、二人で項伯に頼み込み、打開策を練ることになりました。
その結果劉邦は、翌日直接項羽に会い、謝罪することになります。

会見の場所は鴻門でした。
劉邦は、項羽の顔を見るなり、土下座して謝罪します。項羽は、一気に劉邦を斬るつもりでしたが、機先を制せされてしまいました。彼は、一途にすがりつく人には弱かったようです。

その後、酒宴になりました。
項羽と項伯は東、項羽の軍師、范増は南、劉邦は北、張良は西側に着席しました。
項羽の陣営で、劉邦に危機感を抱いていたのは、軍師の范増一人だけだったでしょう。
酒宴の途中、范増は項羽に目配せをして、劉邦を斬るように合図しましたが、項羽は無視してしまいます。

やむなく范増は、項荘(項羽の一族)を呼んで、剣舞を舞いながら劉邦に近づき、斬るように命じます。項荘は宴席に入って、劉邦に一礼し、一献ささげると、余興に剣舞を舞うと言って、舞い始めました。

すると、今度は項伯が立ち上がり、「我も舞わん」と剣舞を始めました。項伯は、項荘が劉邦に近づくと、劉邦との間に入って来てしまい、どうしても項荘は劉邦を斬ることができません。
項伯は張良の陣で劉邦を助けると約束した以上、自分の一命とひきかえに劉邦を項荘から守るべく立ち上がったのです。

結局、項羽はこの絶好のチャンスに劉邦を斬らず、反対に酒宴でもてなしてしまいます。
劉邦が帰った後、范増はうめくように言いました。

豎子不足与謀 (じゅし・・・小僧、ともにはかるにたらず)

後年、項羽は劉邦と和議を結び、両軍とも帰国の途につくことになりました。項羽は、まっすぐ故郷を目指しましたが、劉邦は約定を無視して項羽の背後から襲い掛かります。その献策は張良によるものでした。鴻門で劉邦を見逃した項羽の甘さとは、大変な違いです。

一時は優勢だった項羽ですが、垓下(がいか)の古城にこもった時、城外から聞こえる歌が、自分の故国、楚の歌であることに気づき、こんな大勢の楚人が自分を見捨てて劉邦に味方するのか、と愕然とします。(四面楚歌)

数騎の兵を連れて脱出した項羽は、烏江(うこう・・・南京の上流)のほとりまでたどり着くとそこの船の渡し場には、一人の老人が船を用意して待っていました。老人が船に乗るように勧めると、項羽は笑って

川を渡っても、もはやどうなるものではない。江東の地(広い意味での江南。江とは揚子江のこと)は、自分が8000人の健児を率いて旗揚げした所だ。それが今では生きて帰る者は一人もいないありさまだ。今更どの面さげて、彼等の父兄に会えるだろう

と答えました。
やがて項羽は追いついた劉邦の兵と戦い、力尽きて自害することになります。項羽の首には、莫大な恩賞がついていました。項羽の遺体に群がった兵士達は、悲惨なことに項羽の体をバラバラにしてしまいます。手足を手に入れた5人には、五分の一づつの恩賞が与えられたことでした。
時に紀元前202年。項羽は31才でした。

項羽と劉邦の話は、司馬遷の史記に詳しく書かれています。ぞくぞくするほど面白いですよ。


ティータイム 殷鑑遠からず 隗より始めよ 天下三分の計