隗(かい)よりはじめよ(春秋、戦国時代)
<年代>
紀元前750年頃
〜紀元前221年春秋戦国時代 紀元前679年 斉の恒公、最初の覇者となる 紀元前632年 晋の文公、覇者となる 紀元前606年 楚の荘王、鼎の軽重を問う 紀元前506年 呉の闔虜、楚都を占領する 紀元前284年 楽毅、斉を攻撃する 紀元前221年 秦の始皇帝、中国を統一する
栄枯盛衰は世の常で、さしもの隆盛を誇った周王朝も紀元前800年頃には見る影もなく衰退して行き、時代は春秋戦国時代となります。すでに周王朝は諸国にとって名目上の主君にすぎず、各国は周王朝に代わって中国のリーダー(覇者)となるべく攻防に明け暮れました。その中から春秋五覇と呼ばれる人があらわれました。斉の恒公、宋の襄公、晋の文公、楚の荘王、秦の穆公です。
覇者は他の諸国を召集し会議(会盟と言う)を開催します。その席上で行うことは朝へ忠誠を誓うこと、覇者を頂点とする新秩序の確認、新勢力(領土)の確認等です。
春秋の時代は一応名目上ながら周王朝の権威が認められていた時代ですが、次第にそれは無視され始め、春秋以上の乱世となります。戦国時代です。大小あわせて200もあった国々で小国は大国に、弱国は強国に滅ぼされ、あの広大な中国大陸には七国のみとなりました。それが韓、魏、趙、楚、秦、斉、燕(かん、ぎ、ちょう、そ、しん、せい、えん)です。戦国七雄と言います。
戦国時代の七か国
(春秋時代の晋は韓、魏、趙の三国に分割してしまいました)
● 晋の文公 (しんのぶんこう) (?〜紀元前629年)
春秋、二番目の覇者です。名前は重耳(ちょうじ)。文公とは死後贈られた諡(おくりな)です。彼は晋王の子として生まれましたが、すんなり王となったわけではありません。父の側室驪姫(りき)の讒言で父から暗殺者を送られたため、母親の生まれた狄国(てきこく)の亡命します。
しかし狄国は安住の地ではなく、たびたび来る刺客から逃れるため重耳は下記のように諸国を転々と渡り歩くことになります。
晋→狄→衛→斉→曹→宋→鄭→楚→秦→晋
この間実に19年。再び晋に戻った重耳はすでに62才でした。紀元前636年のことです。
● 伍子胥 (ごししょ) (?〜紀元前485年)
伍子胥は楚の名族の生まれです。時の楚王、平王はあることで伍子胥の父と兄を殺してしまいました。呉(ご。三国志の呉とは違います)に亡命した伍子胥は、父兄を殺された恨みから楚の打倒を誓います。
ことの発端は楚の平王が息子の婚約者の美しさに目がくらみ、奪って自分の妻にしてしまったことに始まります。
重臣だった伍子胥の父、伍奢(ごしゃ)はしばしば平王を諌めましたが、却って平王の怒りを買い息子の伍尚(ごしょう。伍子胥の兄)ともども殺されてしまいました。
呉に亡命した伍子胥は王族の光(こう)と知り合い、その家臣となります。呉にとっても楚は宿敵であったため、伍子胥と闔虜の利害は一致しました。やがて光はクーデターを起こし、呉王の僚(りょう)を殺して自ら呉王となり、闔虜(こうりょ)と名乗ります。さらにもう一人、著名人が闔虜を助けます。孫子こと孫武です。将軍として闔虜に使えた孫武は自ら戦争を指揮し、また過去の戦争を研究分析した結果、孫子と後世呼ばれる13章からなる兵法書を書き表しました。
中国には兵法七書と言って、孫子、呉子、六韜、三略、尉繚子、李衛公問対、司馬法が伝えられていますが、孫子はダントツに優秀で、後の六書は付録のようなものです。
(おことわり)孫びんのびんの字がパソコンにありません (泣)
約150年後の戦国時代、斉の国からもう一人の孫子、孫びんが登場します。司馬遷は孫びんは孫武の子孫であるとしています。
やがて呉軍は楚を破り、楚の都を蹂躙することになります。すでに平王は死んでいましたが、伍子胥は平王の墓をあばき、その死体に鞭を打つこと300回、さんざんに辱めたことです。(紀元前506年)
「死人にムチうつ行為」と言う言葉はこの行為に由来します。その10年後、越(えつ)との戦いに破れて闔虜は敗死しますが、後を継いだ夫差(ふさ)が父の雪辱を果たします。
その後伍子胥はやはり家臣の讒言を信じた夫差に死を命ぜられることになります。(紀元前485年)紀元前473年、越は呉を滅ぼします。呉越同舟と言う言葉は呉と越の長年の抗争によってうまれたものです。
● 范蠡(はんれい)
太平記によれば、児島高徳と言う人が、倒幕前の不遇だった後醍醐天皇の行在所を訪れ、桜の木を削って次のような一文を書いたと言うことです。
天莫空勾践時非無范蠡
てんこうせんをむなしゅうすることなかれ、ときにはんれい、なきにしもあらず
陛下、越王勾践の故事をお忘れにならないでください。時に、范蠡のような忠臣がきっと現れますぞ・・・・・・・私は范蠡のように陛下をお守り申し上げます。
注)陛下とは後醍醐天皇のことです
越王勾践に仕えた范蠡は、日本では諸葛亮とともに忠臣の代名詞のような存在でした。
呉王闔虜の後を継いで王となった夫差は、一旦は勾践を破ります。会稽山(かいけいざん)に逃げた勾践は重臣の文種(ぶんしゅう)と范蠡に善後策を相談。范蠡の献策で勾践は降伏し、自分を夫差の下僕に勾践の妻を下婢とすることで助命されました。この時勾践の降伏を認めず、あくまで殺すことを主張したのが伍子胥です。しかし夫差はその意見をはねつけて勾践を助命してしまいます。このころの伍子胥は、夫差からは敬遠されていたようです。
その二年後、夫差から許されて越に帰った勾践は、自ら耕し、妻には機を織らせ、庶民と変わらない生活を始めました。有能な家臣にはへりくだって教えを乞い、家臣の暮らしぶりにも心を配り、つねに労苦を共にしたのです。(この間のことは、臥薪嘗胆の故事で有名)。
会稽山で降伏してから21年後、ついに挙兵した勾践は夫差を破り、呉は滅亡します。すでに伍子胥は夫差の命令で死んでいましたが、夫差は死の間際「伍子胥にあわせる顔がない」と嘆いたと言います。
さて、范蠡のことです。
勾践が呉を滅ぼすとまもなく、辞職してしまいます。理由は「勾践は、苦楽を共にすることはできるが、楽しみを分ち合うことのできる人ではない」と言うことでした。
覇業を成し遂げた後、粛清された功臣(功績のあった家臣)は、決してめずらしくありません。漢の韓信とか、源義経とか。功成り名を遂げた後有能であればあるほど、家臣は主君から、警戒される存在なのです。王にとって最大の恐怖は、自分の地位を脅かす者の存在です。
勾践の性格を知りぬいていた范蠡はいち早く辞表を提出し、斉に渡って農業を始めます。そこで百万の富を築いたところ斉の王より宰相就任を求められますが、「栄誉は災いのもと」として陶に移住し、今度は商人となります。それも大成功し大金持ちになったということです。日本では忠臣の代名詞だった范蠡は、本場中国では変身の達人と見られています。
● 隗より始めよ
燕(えん)という国がありました。首都、燕京(えんけい)は、現在の北京です。戦国時代、燕は諸国の中では最も弱小で、さら南の大国、斉との争いに負けて滅亡寸前でした。
その燕に名君が登場します。昭王です。
昭王は即位すると燕を建て直すべく学者の郭隗(かくかい)を自ら尋ねて、方法を質問しました。
郭隗先生は例え話を引き合いにして、こう言いました。
(1) 昔ある国王が、一日に千里を走る馬を求めていたが、何年間も買うことができずにいた。 (2) するとある家臣が、「私が買ってくる」と名乗り出たので、金を渡して買いに行かせた。 (3) その家臣はまもなく馬を見つけた。その馬はすでに死んでいたが、500金の金で買ってきた。 (4) 当然王は、「死んだ馬に金を払う奴がいるか」と怒った。 (5) その家臣は「死んだ馬でさえ、500金もの金を払うのです。これが生きている馬なら、いったいいくら払うのか。世間の人は、きっとそう考え、王が名馬のためなら金に糸目はつけないことを知って、向こうから馬を連れて来るでしょう。」と答えた。 (6) その後、1年もたたないうちに千里を走る名馬が何頭も手に入った。 郭隗先生は続いてこう言いました、
「もし王が本心から有能の士を招きたいなら、最初にこの私を抜擢してください(隗より始めよ)。
世間の有能の士は、あの郭隗程度の者でさえあれほどの抜擢を受けるのだ。自分が行けばさらに優遇されるはずだ。そう考えて、天下の士が千里の道も遠し、とせずに集まるでしょう。」昭王がそのとおりにすると、うわさを聞いた有能の士が働き場所を求めて続々とやって来ました。その中に魏の人、楽毅がいました。
● 楽毅と田単(がくきとでんたん)
楽毅は魏の生まれでしたが昭王が人材を求めていると聴きその家臣となりました。職は将軍です。
紀元前284年、昭王は楽毅を総司令官として斉の攻撃を命じました。
楽毅はその後5年間で斉の70城を占領し、燕の領土としました。残るは二つの城だけになりました。その一つが田単が指揮する即墨城(そくぼくじょう)です。やがて楽毅率いる圧倒的優勢な燕軍は即墨城を包囲します。即墨城の落城はもはや時間の問題と見られました。
ところが、その後田単は史上有名な「反間の計」で逆転勝利します。その見事さは、まるで魔法としか言いようがありません。反間の計とは兵法書、孫子にもありますが、敵の間者(スパイ)にわざとウソの情報を流し、敵を混乱させる手法です。田単は次のような順序でニセ情報を流し、燕軍を撹乱していきます。
(1) 田単は、「楽毅がなかなか即墨を総攻撃しないのは、攻撃の手をゆるめて斉の人心をつかもうとしているからだ。なぜなら楽毅は斉の王になろうとしているのだ。」と側近に言った。 これを聴いた燕の恵王(昭王はすでに死去)は楽毅を解任してしまいました。楽毅を慕う燕軍の将兵は一度にやる気をなくしてしった。
(もちろん、即墨城に忍び込んでいる燕のスパイがこれを聞き、報告したのです。)(2) 田単は城内に鳥のエサを大量にまいて、多くの鳥が城内に舞い降りるようにした。 城外で眺めていた燕軍の兵士は何事かと不思議がった。
田単は城内の人を集めて「近日中に神が天から降りてきて私の軍師となるだろう」と話した。するとある兵士が冗談で「私がその軍師だ」と言った。田単はその男が冗談で言ったの知っていたが、そのまま軍師ということにして、命令を出すたびに「これは天の軍師様の命令である」と言った。
これによって即墨の人々は自分達には神の加護がある、と信じるようになった。
これは紀元前の話です。人々は単純・純粋に神を信じていました。(3) 田単は「自分が一番おそれるのは、燕軍が捕虜となった我が斉の兵士を最前線に引き出して即墨を攻めることである」と言うニセ情報を流した。 燕軍がそのとおり斉の捕虜を先頭にして攻撃してくると、即墨の人達は捕虜になっては大変とばかり必死に戦った。
(4) 田単は「自分が一番おそれるのは、燕軍が城外にある先祖の墓をあばき、先祖を辱めることである」とこれもニセ情報を流した。 燕軍がそのとおりにすると即墨の人々は切歯扼腕、涙を流して怒った。
その)結果、即墨の士気は高揚した。(5) 突然田単は降伏した。もちろん燕軍を油断させるためである。 (6) 田単は城内の牛を1000頭集め、角には短刀を縛り付け、尻尾には油をたっぷり含ませた葦の束をくくりつけておいた。そして四方の城壁に穴をあけて牛を配置しておいた。この穴はもちろん、突撃用の穴で、燕軍に気づかれないよう貫通させてはいない。 (7) 深夜、城壁の穴を貫通させた後、牛の尻尾の葦に火をつけて一斉に穴から城外へ追い出した。寝ている燕軍が、牛の足音に飛び起きた時には、角には白刃、炎を背負った牛が襲いかかってきた。 (8) 逃げ惑う燕軍の兵士達はある者は白刃で切られ、ある者は牛の蹄に踏みにじられ、かろうじて逃げた者も、牛の後から城外へ打って出た即墨の兵士によって、壊滅状態となった。 (9) 田単は即墨はもちろん、斉の国内から燕軍を一掃すると、国外に逃げていた斉王を都に迎えた。 司馬遷は見事な田単の戦術を、「始めは処女の如し、後は脱兎の如し」と賞賛しました。この「火牛の計」は、明かに日本では平家物語における木曾義仲の倶梨伽羅峠の合戦のモデルに使われています。
私は田単の見事な戦術を見るとつい、太平洋戦争における特攻と比べてしまいます。特攻が世界戦史史上最も愚劣な戦術であったことは言うまでもないことです。それにひきかえ、田単の見事さはどうでしょう。