ティータイム 殷鑑遠からず 隗より始めよ 奇貨おくべし

天下三分の計(三国志)


<年代>

184年 黄巾の乱起こる
189年 董卓、帝を廃して陳留王(献帝)を擁立する
192年 呂布、董卓を殺す。張魯、漢中に五斗米道の国をたてる
200年 曹操、官渡に袁紹を破る。孫権、兄孫策の後をつぐ
207年 劉備、諸葛亮の草盧を訪れる
208年 赤壁で曹操大敗
216年 曹操、魏王となる
219年 劉備、漢中王となる。関羽死す
220年 曹操死す。曹丕、後をつぎ、献帝を廃し漢滅ぶ
221年 劉備、蜀帝に即位。張飛死す
223年 劉備、白帝城に死す
225年 諸葛亮、南蛮平定
227年 諸葛亮、出師の表を上呈し魏と交戦開始
229年 孫権、帝を称する
234年 諸葛亮、五丈原に陣没
263年 蜀滅亡
265年 司馬炎、魏の元帝を廃する。魏滅ぶ
280年 呉滅亡

漢王朝は7代皇帝、武帝(紀元前156年〜紀元前87年)の時代に最盛期をむかえます。武帝は、対外的には始祖、劉邦以来の宿敵とも言うべき匈奴を屈服させ、国内では儒家の董仲舒の献策で儒教をもって国教とし、思想の統一を図りました。儒教はその方針として、礼や習慣を重視し、覇気、改革を禁じます。

それまでの中国史は、キラ星のように輝かしい人物が続出しましたが、武帝以降は別の国ではないかと思うほど、人物に色彩を失ってきて、歴史そのものが、早い話がつまらなくなってしまいます。
多くの人はそれを「アジア的停滞」と呼びますがアジア的と言っても、日本は別に停滞していませんから、別ですね。

しかし、日本で最も有名な中国史である三国時代における英雄・豪傑の登場は、停滞前の最後の輝きと言えるでしょう。


■ 宦官の横行

漢王朝は、一時皇帝の外戚、王奔(おうもう)に権力を奪われることになります。
しかし西暦23年、王莽は劉秀に倒され、再び劉氏の天下となりました。劉秀はその輝く功績により光武帝と諡(おくりな)されています。歴史上それまでを前漢と言い、光武帝以降の漢を後漢とも言います。

しかし後漢王朝も3代皇帝、章帝あたりから早くも衰退に向かってしまいます。
皇帝は幼帝が続きますが、その場合、皇后、皇太后が摂政となりました。彼女達が頼ったのはやはり実家(外戚)、それでなければ宦官でした。

外戚は皇帝が死ねば一代限りで権力を失いますが、宦官は、皇帝が代わっても権力を失うことはなかったのです。おまけに宦官は性欲がないだけに、物欲は普通の人より激しく、賄賂は横行し政治は腐敗していきました。

中国の歴史を通じて宦官の禍がもっともひどかったのは、後漢、唐、明であると言われています。
ある歴史家は、「唐と明の宦官は、国を害した後に民を害したが、後漢の宦官は、まず民を害した後に国を害した」と言いました。いかに当時の宦官が悪質で、人民をくるしめたことか、想像もつきません。

このように宦官と言うと、陰湿で権力の亡者のような印象を受けますが、例外もいました。紙の発明者として名高い蔡倫(さいりん)はその一人です。

さて、かねてよりこうした宦官に憤慨した一部の士大夫(上流階級で、官僚を多くおくりだせるような階層)は、宦官を一掃する計画を立てますが、事前に発覚し、逆に士大夫達は、殺されたり、追放されたりしました。(党錮の禁)


話は少し戻ります。
後漢の順帝(在位 131〜144年)が皇太子の時、ある若い宦官が皇太子の学友として出仕することになりました。彼の名は曹騰(そうとう)、曹操の祖父にあたります。

あれ? 変だな。だって彼は宦官でしょう? 子供がいたの?

そう、曹騰は後に養子をとったのです。養子になった人は別に宦官ではなく、名は、曹崇(そうすう)と言いました。曹操の父です。曹騰は、漢王朝初期の功臣、曹参(そうしん)の子孫とされていますが、確証はありません。確実なのは、曹騰の父に曹節(そうせつ)と言う人がいたことぐらいです。

曹騰は皇帝からは厚い信頼を受けた有能な家臣でしたが、一方では宦官の暗さもあわせ持っていたようです。

宦官を祖父に持つ曹操は、いわゆる名門の出身ではありませんでした。後年曹操と戦った袁紹(えんしょう)は、戦争の始めに家臣の陳淋(ちんりん)に檄文を書かせ、その中で曹操の出自をののしりました。

曹操の祖父曹騰は極悪非道のしたい放題をして民を苦しめた大悪党だった。父の曹崇は、もともと乞食の分際で、養子に拾われ不浄の金で位を買い、金銀財宝を車に積んで権門に賄賂を贈り、三公の官爵を盗み取り、はては国家を覆した男である。

このように対戦相手の出自を宣伝し、痛い所を突くのは日本でも同じです。
小牧長久手の戦いの時、同じやり方で家康は秀吉の出自を突きました。

■ 民衆の苦しみ

後漢王朝の腐敗と同期するように、天災、疫病が民衆を苦しめます。壊滅的な打撃を受けた農民は、流民となり放浪するより他生きる術はありませんでした。

西暦110年、青州、除州(現在の山東省、江蘇省)の流民は、1万人を超えたと言われます。しかし、朝廷にはもはやそれを解決することはできず、この流民の続発は、漢王朝の根底を揺るがすこととなります。さらに民衆を苦しめたのは、北方匈奴との戦いです。こんな歌があります。

15才で従軍し

80才になってやっと帰れた

帰り道故郷の人と出会った

・・・・・・

粟で飯を炊く

葵をつんで汁を作る

食事は出来たが

いったい誰が食べるのか

外に出て東方をながめれば

涙ははらはら流れ我が衣をぬらす

戦争はさらに農民を苦しめ、流民を増やす悪循環になります。

■ 黄巾の乱

順帝(在位 131〜144年)のころ、張陵(ちょうりょう)と言う人が蜀の地で道教を学び、その教えを布教をするようになりました。入信する者は五斗(約10リットル)の米を納める決まりだったので、五斗米道(ごとべいどう)と呼ばれるようになりました。

その後三国志の時代になると、張陵の孫の張魯(ちょうろ)が漢中を中心に、布教に勤め、漢中の支配者のようにまりましたが、張魯はやがて曹操に降伏します。

一方、鉅鹿(きょろく・・河北省)に張角(ちょうかく)と言う男がいて、自ら大賢良師と称し太平道と呼ばれる教えを広めました。病人を訪れ、病人が罪過を告白、ざんげすると、聖水と霊府によって病気を治療したと言います。やがて張角は8人の弟子を各地に派遣し、布教に努めた結果、地域はほぼ中国全土、信者は数十万人に達したようです。

張角は信者を36のグループ(方と言いました)に分け、それぞれの方には渠師(きょすい)と言うリーダーを置き、6000から10000人を指揮させました。信者の多くは流民であったと言います。張角は天公将軍、張角の弟の張宝(ちょうほう)と張梁(ちょうりょう)はそれぞれ地公将軍、人公将軍を名乗り、全国各地で暴動を起こしました。

彼等は黄色の頭巾を被っていたため、黄巾賊と呼ばれました。
そのスローガンとなったのは、

蒼天すでに死す

黄天まさに立つべし

歳は甲子にありて

天下大吉

と言う文言です。184年、まさに干支の最初の甲子の年にあたりました。

古代中国では、中国人の世界観を規定する基本的要素として陰の気、陽の気がありました。陰の気とは、静、重、柔、冷、暗であり、陽の気とは動、軽、剛、熱、明です。両者の交合により、万物が生まれ、四季がめぐるとされました。陰陽説と言います。日本にも輸入(?)されて陰陽道(おんみょうどう)と呼ばれました。

一方、木、火、土、金、水の五種類で宇宙から地上までの自然現象と人的現象を説明する思想を五行説と言い、陰陽説とあわせて陰陽五行説と言われます。

その説によれば、歴代各王朝の徳は、5行のいずれかで表わすことができると言います。漢王朝の徳は火徳とされ、色彩は赤とされました。徳は順にめぐり、火徳の赤色の次は土徳で色は黄色とされました。黄色の頭巾をかぶったと言うことは、明かに黄巾賊は漢王朝に取って代わることを表明していたのです。

この乱をキッカケに漢王朝は、ますます衰退していきます。やがて各地でおきた軍閥のうち、曹操がぬきんでて強大な勢力を持つようになりますが、呉の孫権に阻まれます。一方、蜀は劉備が支配するようになり、おなじみの三国志の時代になります。

三国志は実際には、魏、呉、蜀の三国の王すなわち、魏の曹丕、呉の孫権、蜀の劉備がそれぞれ皇帝を称した時から始まり、蜀の滅亡を経て、魏の司馬炎が元帝から帝位を譲られ晋王朝を建てた後、呉を滅ぼすことにより終結します。(280年)


では簡単に、経過を書きましょう。

 

■ 董卓の専横から曹操の台頭

189年4月、霊帝が没して劉辯(りゅうべん)が即位すると、大将軍の何進(かしん)は宦官の一掃を計画し、地方の有力武将に兵を率いて上京するように召集礼状を発しました。しかし、何進の計画は事前にもれて、彼は宮中で惨殺されます。これを知った袁紹(えんしょう)は怒り狂い、自らの手兵を率いて宮中に押し寄せ、2000人の宦官を殺害したと言います。

この形勢を見ていた河東(山西省)の董卓(とうたく)は、大軍を率いて入京し、その軍事力をバックに朝廷を牛耳ることとなります。董卓の圧力で劉辯は、皇帝の地位を追われ、かわって陳留王の劉協(りゅうきょう)が即位します。これが後漢最後の皇帝、献帝(けんてい)です。

192年4月、董卓は長安で部下の王允(おういん)と呂布(りょふ)に殺されます。その後、董卓の部下、李確(りかく)、郭氾(かくはん)は王允を殺し、呂布を破り、長安を支配することになります。
196年、曹操は李確、郭氾を破り、9月、献帝を奉じて許に都を移しました。これ以後、曹操はその地位を確固たるものとして行きます。

■ 官渡の戦い

長い戦乱の中で群雄は各地に群がりましたが、ようやく数人に絞られるようになりました。
200年10月、曹操は北方の冀州、青州、幽州、拜州の四州を領有する袁紹に戦いを挑み、官渡において見事にこれを撃破します。当時、袁紹に寄宿していた劉備は逃げて、荊州の劉表(りゅうひょう)のもとに身を寄せることになります。

官渡では両軍対峙してなかなか雌雄が決せず、両軍の兵士達には疲労の色が濃くなってきました。これを打開したのは袁紹の部下、許攸(きょゆう)が袁紹に恨みをもったため、曹操の陣に投降して来たことによります。

許攸は、袁紹には大規模な食料輸送を行う計画があることを曹操に告げると、曹操は自ら5000の兵を率いて輸送団を奇襲しました。袁紹はその情報をキャッチすると、全軍に出動を命じましたが、総攻撃の前に輸送団壊滅の知らせが入ると、全軍が動揺し、ついには総崩れとなったものです。

曹操は207年ごろになると、それまで残っていた袁紹の残存勢力を一掃し、烏桓族(うがんぞく)をも制圧して、もはや北方に敵はいなくなりました。残る大勢力は、蜀の劉璋(りゅうしょう)、荊州の劉表、呉の孫権くらいになりました。そして荊州(湖南省の南部)にいた劉備には、彼の生涯とその後の中国史を一変させる出来事がおこります。

■ 劉備のこと

劉備は、前漢の景帝の子孫を称しましたが、これはマユツバでしょう。しかし可能性がないとは言えません。何しろ景帝には子供が100人もいたと言いますから。
黄巾の乱の時、関羽、張飛らの豪傑と共に立ち上がり、故郷を後にしてから、一時は除州長官の地位を手に入れたものの、力不足の彼にはその地位を維持することができませんでした。

小説三国志では、劉備はあまりに仁者でありすぎるので、力ずくで他国を征服できず、徳望はあってもはがゆい人間として描かれていますが、これは事実ではありません。実際には、劉備は関羽、張飛らを従えてはいましたが、村のあぶれ者を集めて挙兵した、チンピラの親分のような存在で、小説では張飛の乱暴に心を悩ますことがしばしば書かれていますが、本当は劉備自身が乱暴者だったようです。

さて、曹操に追われて劉表のもとにいた劉備には、「脾肉の嘆」の故事でおなじみのつかの間の小康が訪れました。劉備には、自分に不足しているものが何なのか、よくわかっていたようです。
かれに不足していたもの、それは野戦攻城の将軍ではなく、政治・外交・戦略面で彼の方向性を決定できる「頭脳」だったのです。

関羽、張飛、趙雲は、まさに一騎当千の豪傑ではありました。また戦場における戦闘指揮者としても有能な将軍でした。しかし全体の方針と計画を立案できる戦略家ではなかったのです。ここで「奇貨おくべし」で紹介した劉邦の三傑と言われた、蕭何、韓信、張良を思い出していただきたいと思います。関羽、張飛、趙雲は韓信の代わりにはなったかもしれませんが、蕭何(政治)と張良(戦略)がいなかったのです。

ある日賢人として名高い徐庶(じょしょ)に会った劉備は、徐庶から一人の人物を紹介されました。その人は中国人には珍しく二文字姓の人で、姓を諸葛、名を亮と言いました。
その後徐庶は劉備に臣従しましたが、曹操との戦いで母を捕らえられてしまい、やむなく曹操に仕えることになります。

■ 天下三分の計

諸葛亮は、琅邪(ろうや)の陽都県(ようとけん)の生まれです。父は、泰山郡(たいざんぐん)副知事であった諸葛珪(しょかつけい)、さらに先祖は前漢の司隷校尉(しれいこうい・・・首都警備司令官)、諸葛豊(しょかつほう)であった、と言います。

幼くして両親に死別した諸葛亮は、兄弟とともに叔父の諸葛玄(しょかつげん)に養われましたが、諸葛玄は、曹操と袁紹の争いに巻き込まれて戦死してしまいます。やむなく、諸葛兄弟は比較的平和だった荊州に移ることとなりました。亮、17才の時です。

後に長男の瑾(きん)は呉に、次男の亮と三男の均(きん)は蜀に、そして一族の誕(たん)は魏にと、三兄弟、一族がそれぞれ魏呉蜀に仕えるようになります。

荊州の隆中と言う所にあって、諸葛亮は晴耕雨読の日々を送り、ほう徳公、司馬徽(しばき)、石韜(せきとう)、徐庶、孟建(もうけん)らと親しく交わったようです。後に劉備に仕えて、蜀の劉璋との戦いで戦死したほう統はほう徳公の甥にあたります。

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さて、諸葛亮を知った劉備は、有名な「三顧の礼」で亮を迎え、「天下三分の計」を知らされ、「水魚の交わり」を結ぶことになります。天下三分の計とは、曹操と対抗し漢王朝を再興するには、呉の孫権と同盟し、暗愚な劉璋の治める蜀の国を占領せよ、と言うことでした。劉備は漢王朝の末裔を自称していたため、漢王朝の再興が彼の大儀名分だったのです。

太閤記では竹中半兵衛を家臣にすべく、木下藤吉郎が美濃、菩提山にある半兵衛の家を三度訪れたことになっています。もちろん劉備の故事をヒントに書かれたものです。

■ 赤壁の戦い

呉の孫権は、曹操、劉備に比べて地味な存在です。父、孫堅(そんけん)、兄、孫策(そんさく)の後を継いだ時、孫権はまだ19才でした。
しかし、若い孫権を補佐した重臣達はいずれも政略、軍略に長けた優れた人達で、政治には張昭(ちょうしょう)、軍事には周瑜(しゅうゆ)、魯粛(ろしゅく)、呂蒙(りょもう)らの錚々たるメンバーでした。
ここで呂蒙のエピソードを。

彼は将軍としては優れた資質を持っていましたが、まったくの無学だったので、見かねた孫権は、ある日、もっと学問をするように言います。
しかし呂蒙は多忙を理由に、なんのかんのと言い逃れますが、孫権は、私自身も政務の合間に学問をしている、おまえにもできないはずがない、と言います。それに刺激されて呂蒙は猛勉強を始めたようです。

しばらくして、そんなことは知らない魯粛が呂蒙の家を訪れた時、ふとしたことから話題が学問の話になりました。すると呂蒙は、生き生きとした顔であれこれ意見を述べたと言います。
驚いた魯粛は、呂蒙に言いました。

私は、君は武略だけの人と思っていた。かつての呉の町のチンピラ蒙君ではないね
足下は呉下の阿蒙にあらず

呂蒙は言います。

男たる者、三日会わなければ、目を見開いて良く見たほうがいいよ
士、三日見ざれば、刮目して見よ

後に呂蒙は関羽を破り、死に至らしめます。
それは後日のこと。孫策のあとを継いだ孫権に、空前の危機が訪れます。曹操の南下です。


河北を平定した曹操は、208年丞相に任ぜられ、7月南征軍を発しました。
そのころ荊州では劉表が死に、劉j(りゅうそう)が後を継ぎましたが、曹操の大軍を前に戦わずに降伏してしまいます。そうとも知らなかった劉備は、不意を突かれて一族を引き連れて夏口へ避難しました。長坂で張飛がわずかな兵で曹操の軍をくいとめたり、敵陣に取り残された劉備の妻子を救うため、趙雲が一騎で曹操軍に突撃したのはこの時のことです。

劉備軍を蹴散らした曹操は、孫権に対して最後通牒をたたきつけたため、呉では開戦か降伏かで大騒ぎとなります。夏口へ到着した劉備は、迷っていた孫権を説得するために、諸葛亮を呉へ派遣します。

呉では、張昭は降伏派、魯粛ら軍人は主戦派でした。魯粛は孫権に言います。

私が曹操に降伏しても、それなりの身分は保証されれるでしょう。しかし太守であるあなたは、降伏しても命を助けられるのが関の山で、落ち着く先はありません。

そこへ劉備の命を受けた諸葛亮が来て、やはり孫権を説得します。孫権はついに決戦を決意し、全軍に総出撃を命じました。
呉一の智将と言われた周瑜が3万の兵を率いて揚子江をさかのぼると、劉備も兵を赤壁に集結させました。

そのころ曹操は水軍を中心に、実に80万(ちょっとオーバーかな)の兵をもって長江を下って呉に迫ってきましたが、そのころから船酔いの病人が続出したと言います。曹操軍は陸軍が主体で、水軍はにわか作りだったようで、水になれない兵士が多かったためです。

曹操は船団を烏林(うりん)に集結させました。ここで曹操は大失敗をします。病人の続出は船が揺れるためと考えた曹操は、船同士を鎖で連結してしまいました。揺れが少なくなって、病人は出なくなりましたが、船は自由に動けなくなってしまいました。

それを知った周瑜は黄蓋(こうがい)将軍の献策で、東南の風が吹く夜、油を注いだ枯れ木、葦の木を満載した小船を使って火攻めを決行し、同時に陸上部隊も陸にいた曹操軍に攻めかかり、一挙にこれを壊滅させることに成功しました。208年10月のことです。

三国志演技では、諸葛亮が不思議な術で東南の風をおこし、それを恐怖した周瑜が諸葛亮を殺そうとした、とあります。また、曹操が逃げる途中、関羽の軍に囲まれた時、拝み倒して危機を脱した話があります。もちろんフィクションです。

赤壁の戦いの結果、曹操は事実上、天下統一をあきらめざるを得ないほどの大打撃を受け、孫権は自らの基盤をかため、また劉備は蜀を治めることとなります。諸葛亮の天下三分の計は着々と進行していきました。

■ 白帝城に死す

蜀に隣接する漢中で五斗米道の張魯の勢力が増大すると、蜀の太守、劉璋(りゅうしょう)は、これを不安に思い、劉備に援助を求めます。援助を快諾した劉備は、大軍を率いて蜀に入りますが劉璋を助けるどころか、逆に攻めて、首都、成都を陥落させました。(214年)
さらに劉備は、219年漢中をも占領し、益州全域を手中に収めます。

この時が劉備の生涯の絶頂期でした。
天下三分の計は、魏を倒し漢王朝を再興する前の準備としての第一段階でした。
しかしその第一段階も終わり、次の計画にとりかかる直前、その計画も思わぬところから齟齬をきたします。関羽の死です。

劉備が蜀に熱中している隙をついて、呉は魏と同盟を結び荊州の樊城(はんじょう)を守っていた関羽を挟み撃ちし、関羽は樊城から麦城へ落ち延びますが、結局は捕らえられ息子の関平とともに斬られました。

怒った劉備は左右の人が諌めたにもかかわらず呉との対戦を決意します。それは、諸葛亮の計画にはないことでした。そこから劉備の運命は暗転します。

次に張飛が死にます。部下に無理な出撃準備を命じて恨まれて殺されたのです。そして、劉備も呉の陸遜(りくそん)将軍に敗れ、逃げ込んだ白帝城で病気となり死の間際、諸葛亮に後事を託し223年4月、63年の生涯を閉じます。

陳寿は蜀書の中で、劉備のことをこう評価しました。

弘毅寛厚、人を知り士を待つも、機略は曹操に及ばず

劉備は情の人、仁者ではありましたが、曹操のように権謀術数にたけた政治家ではなかったのです。武将としても、曹操とは比較にならないことは言うまでもありません。

■ 心を攻める

劉備の後を継いだ劉禅(りゅうぜん)は、史上暗君として有名ですが、唯一の取り柄は劉備の遺言を良く守り、何事にも諸葛亮の指示を仰いだことでしょう。

劉備亡き後、諸葛亮に課せられたテーマは、劉備の意志、つまり魏を倒し、漢王朝再興を達成することでした。
そのためには後顧の憂いを取り除かねばなりません。諸葛亮は223年と224年に、部下のケ芝(とうし)を呉に派遣し、国交を正常化させることに成功します。そして225年、南蛮平定の遠征軍を派遣することになります。

かつて中華思想を持つ中国人は、周辺諸国を東西南北にわけて、それぞれ東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)と蔑称しました。日本のことは後漢書東夷伝にかかれていますね。南蛮とは中国南西部の山岳地帯を指すようです。

劉備の死後、南蛮の孟獲(もうかく)と言う実力者がそむきました。理由は蜀政府の無理な年貢要求だったようです。
諸葛亮は、馬謖(ばしょく)に作戦上の意見を求めます。馬謖が言うには、

南蛮は土地が険阻なことを頼りにして反服常ではない。力ずくで屈服させて今日は従っても、明日にはまたそむくことになります。こんな敵には心を攻めるを上策として、兵と兵と戦わせるは下策となります。

225年5月、南蛮に攻め入った蜀軍は孟獲を捕らえて、再び解き放つこと7回。最後にはさすがの孟獲も心底、蜀にはかなわないと悟り、蜀に服従を誓います。

三国志演技では、原書三国志ではわずか数行の南蛮制圧の文章を飛躍発展させ、壮大な軍記として小説化しました。
また諸葛亮に献策した馬謖は、その才能を諸葛亮に愛されましたが、魏との対戦中、軍令を無視した行動に出て、蜀軍に大損害を与えてしまいます。諸葛亮は「泣いて馬謖を斬る」ことになります。

■ 秋風五丈原

227年、作戦準備を完了した諸葛亮は、ついに魏を討つべく遠征を開始します。この時、蜀帝、劉禅に奉ったのが有名な「出師の表」です。

蜀軍は総力をあげても10万の兵力で、すでに関羽、張飛なく、多くの武将は平凡でした。一方、魏は曹操、曹丕の後を継いだ曹叡(そうえい)のもと100万の兵力。有能な戦術家にもめぐまれていて、その優勢は誰の目にも明らかでした。

魏との対戦を無謀と非難することは簡単ですし、確かにこの戦いは勝利する可能性の極めて低いものでした。しかし、それでも諸葛亮の判断(魏との交戦)は正しかったと思います。何もせずにこのまま推移すれば、蜀はやがて自然に滅亡してしまったでしょう。
魏の総司令官は司馬懿(しばい)、のちに晋の国を興す司馬炎の祖父にあたります。

蜀軍の泣き所は何と言っても伸びきった兵站線でした。敵中深く侵攻することは、どんな作戦でも忌むべきものなのです。ナポレオンもヒトラーもそれでロシアに敗北しました。兵数の少ない蜀から見れば、敵の隙を突いて総攻撃することが唯一の勝利への道でしたし、魏にしてみれば、蜀の挑発に乗らず、かたく陣を守って戦わないことが、勝利する方法でした。

4回目の遠征の時、五丈原(ごじょうげん)に陣どった諸葛亮は、なかなか出撃しないで陣中にこもっている司馬懿に業を煮やし、巾幗(きんかく・・・婦人が使うベール)を司馬懿に届けます。

これは挑発で、女のように陣にこもってばかりいないで、外に出て決戦しようと言う意味です。司馬懿は激怒しますが、それでも乗ってきません。彼には蜀軍の弱点、補給が続かず、待っていれば自然と撤退することが良く分かっていたのです。

その時、司馬懿は蜀の使者に諸葛亮の日常を尋ねました。使者が言うには、丞相(諸葛亮)は、朝早起きして、夜は遅い。鞭20以上の罪は自分で決裁し、食事も少ない、と答えました。
それを聞いた司馬懿は、あいつも長くないな、とつぶやいたと言います。

はたして、諸葛亮は過労で倒れ、死期をさとった彼は、後事を蒋えん(しょうえん)、費緯(ひい)に託し、死去してしまいます。ときに234年、54才でした。

蜀軍の異変は直ちに魏軍の知るところとなり、司馬懿は蜀軍を追撃しますが、揚儀の策で反撃され、あわてて引き返すことになります。
人々は「死せる諸葛、生ける司馬懿を走らす」と噂したことです。

諸葛亮にとって魏への遠征は4回におよびましたが、結局大勢を覆すことはできず、いたずらに国力を消耗するだけに終わってしまいました。しかし繰り返しますが、それでも諸葛亮の戦略は正しかったと思うのです。

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■ 三国、その後

諸葛亮の死後、蜀では蒋えん、費緯らが蜀帝劉禅を守り立てますが、長い戦争による疲弊を回復することはできず、守勢にまわらざるを得ませんでした。
そして、この二人が相次いで死去するにおよんで、ついに滅亡の時が来ます。263年、魏のケ艾(とうがい)将軍の攻撃をうけた蜀軍はもろくも敗れ去り、劉禅は降伏します。

魏では、司馬懿は遼東の公孫淵(こうそんえん)を討ち、その勢力は朝鮮半島にまで拡張することになります。曹叡(明帝)の死後、一時実権を握った曹爽(そうそう)一派を倒し、さらに権勢は強大になりました。司馬懿の死後、職務はそのまま息子の司馬師(しばし)が継ぎ、さらに司馬師が急死すると、弟の司馬昭(しばしょう)が後を継ぎます。

司馬昭の子、司馬炎(しばえん)は、魏帝に禅譲(殷鑑遠からずをご覧下さい)を迫り、ついに自ら皇帝を称し、国名を晋とします。(269年)

さて、呉では孫権の死後(252年)、後を継いだ孫亮(そんりょう)、孫休(そんきゅう)と凡庸な人が続き、その次の孫晧(そんこう)の悪政で各地で暴動が起き、人心は離反していきました。そして280年、晋の猛攻に耐えられずついに滅亡しました。


次に簡単に三国の紹介を。

■ 魏

魏志によれば、239年、邪馬台国の女王、卑弥呼は使者に貢物をもたせて魏に送り、魏の明帝は返礼として親魏倭王の称号と金印、当時は貴重だった鏡や錦織などを卑弥呼に贈ったと言います。魏の明帝、名は曹叡(そうえい)、文帝曹丕(そうひ)の子、曹操には孫にあたります。

蜀の攻撃を退けた後、魏では司馬氏が権力を握るようになり、司馬懿(しばい)の孫、司馬炎(しばえん)が帝位につき、国名を晋(しん)としました。
魏にしても晋にしても、また呉にしても春秋・戦国時代に同名の国があって、大変まぎらわしいです。

■ 呉

ある意味では、記録にはありませんが呉は三国の中では、日本とのつながりが一番強いでしょう。その一つ、呉の発音が日本に伝わり、呉音と呼ばれるようになりました。行動や行為のように「行」を「こう」と読むのに対して、諸行無常のように「ぎょう」と読むのは呉音です。同様に「経文」の経をきょうと読むのも呉音です。また、呉の布の編み方が日本にも伝わり、その布で作った服を呉服と呼ぶようになりました。

どうやら、呉の人の中で日本に渡ってきた人達がいたようです。
魏志倭人伝の中の、邪馬台国の風俗の紹介で「人みな鯨身、水に潜って魚をとる」の一節がありますが、この風習は呉のそれとそっくりです。これに対して魏の大半を占める中原地域の人には、このような習慣はありません。

三国志の時代、戦乱や凶作・飢饉のため人口が激減したと言います。
後漢末期の中国の人口は4700万人と推定されていますが、三国志末期には800万人まで減少したと言われます。このため「人狩」が行われました。

どうやら海を渡り、日本にも来たようです。
230年、孫権の命を受けた衛温(えいおん)将軍は、1万人の兵を率いて沖縄あたりまで来たようですが、8000人の将兵を失い、人狩で3000人を得ただけで、帰国後罪を問われ処刑されました。呉は、春秋のころの楚、呉、越です。その呉は越に滅ぼされ、越は楚に滅ぼされました。

■ 蜀

蜀は、その人口にくらべて異様に官吏、つまり国家公務員が多かったと言われています。
呉は、人口は蜀の2.5倍あったにもかかわらず、官吏は2万人。しかし蜀では4万人の官吏がいました。
蜀は僻地でもあり、産業もたいしてなかったので、産業を興すため官吏を増やしたようです。産業はもちろん国営で、戦費にあてるためです。
蜀は主要産業として「蜀錦(しょくきん)」と呼ばれた絹を生産し、魏や呉に輸出し、戦費となりました。その行政指導したのは諸葛亮だったに違いありません。


それでは人物評ですが、これについてはすでに多くの書物があり、またホームページでもいろいろ紹介されていますので、私は多くを書きません。ただ、この時代の立役者とも言うべき、曹操と諸葛亮について多少述べたいと思います。

■ 曹操

この時代、真の名将と言えば曹操をおいて他にありません。しかし多くの小説の中で、曹操は普通、悪玉であり、劉備は善玉として描かれていますが、それにはワケがあります。

歴史上三国志と呼ばれるものは、晋の史官、陳寿(233〜297)が著した魏志、呉志、蜀志を言います。この中で陳寿は、その実力と実績を重視し、魏を漢のあとをつぐ正統王朝である、としました。
また、時代が後になりますが、宋の司馬光もその著、資治通鑑(しじつがん)の中で陳寿と同様の見解をとっています。

しかし司馬光と同じ宋の朱熹(しゅき)は、著書、資治通鑑網目の中でこれに反対し、蜀こそが正統王朝としました。朱熹は朱子学の開祖です。

さらに明の時代に小説家の羅貫中は、三国志を基本として大衆小説、三国志演義を書きました。彼は朱子学の影響を受け、曹操は臣下でありながら漢を簒奪した悪玉、劉備は漢王室の遠縁で正統な後継者、諸葛亮は劉備を補佐して縦横に智謀をふるう名軍師として描いています。

これが後に中国でも日本でも大変な影響を人々に、一般大衆はもとより知識人にまで与えたのです。多くの人が、小説と史実を混同するようになりました。

作家の魯迅は1927年、広州で「魏、晋の気風」という題で講演した時、曹操が中国文学史上果たした役割の大きさを強調し、また郭沫若は1957年、「曹操のための名誉回復」と言う論文を発表しています。

●朱子学の影響

では、曹操を悪玉としたモトとなった朱子学とはどんな思想だったのか。

宋の時代は、それまでいわゆる中華思想で常に周辺諸国を野蛮人扱いしてきた中国にとって屈辱の時代でした。

中華思想を簡単に言えば、中国こそは世界の中心であり、周辺の野蛮国は中国の臣下であるべきである、と言った考えです。
宋の時代、それが崩れました。原因は北方民族の遼(りょう)、金(きん)が相次いで宋を破り、そのため宋は金と対等の条約を結ばざるを得なくなりました。当時の中国人がいかに悩んだか。なにしろ「野蛮人」と「対等」に条約を締結するのですから。

ちなみにこの時の宋の皇帝は、文化人としても有名な徽宗(きそう)皇帝でした。後に徽宗は金によって皇帝から庶民に落とされます。
(1126年靖康の変)

この時代は、中国史上空前の国難の時代、と言っても良いでしょう。その中から朱子学は芽生えました。現実を直視せず、理念が先行してしまいました。

「野蛮人はあくまで野蛮人であり、討伐されるべきもの」である、と。
これを尊皇攘夷と言います。
また、三国志演義に影響を与えたのは「この大陸(つまり中国)の正しい支配者は誰か」と言うことです。事細かに机上の空論をもてあそぶのは朱子学の特徴で、朱熹は蜀こそ漢の後継であり、正統王朝である、としたのです。
朱子学では、最高権力者を「王者」と「覇者」に分類しました。

王者とは「徳」によって天下を治める者、覇者とは徳によらず力まかせで天下を治める者を言います。
「天下は王者によって治められるべきである。中国こそ王者であり、遼や金などは覇者にすぎない。」
それが朱子学の「正義」であり「理論」でした。

結局のところ、朱子学は落日の宋にあって生まれた、理念先行の「負け犬の遠吠え」のようなものでした。
しかしこの考えは日本では、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒の原理として、また江戸時代の幕末の志士によって、大いに使われました。
水戸藩は朱子学のメッカとも言うべき藩でした。

● ついでに

史実と混同された小説は三国志だけではありません。
蜂須賀小六が矢作橋の上で日吉丸(秀吉)と出会った話は、江戸時代に小瀬甫菴(おせほあん)が書いた小説、太閤記にあります。
これによれば、蜂須賀小六は夜盗、野武士のたぐいですが、この小説があまりにも有名になって、一番迷惑したのは蜂須賀家でした。

明治時代、蜂須賀家の当主蜂須賀茂韶(はちすかしげあき)が、明治天皇と話をしていた時、何かの用で天皇はしばらく中座しました。その間に蜂須賀茂韶はテーブルの上にあった珍しいタバコを何本か頂戴し懐に入れたのです。やがて帰ってきた明治天皇はタバコが数本なくなっていることに気がついて、笑いながら「先祖が先祖だからなあ」と言いました。

これを恥じた蜂須賀家では、歴史学者の渡辺世佑博士に依頼して、蜂須賀小六は夜盗ではなかったことを立証したと言います。

 

● 詩人、曹操

曹操は、第一級の政治家、武将でありながら、また卓越した詩人でもありました。
戦場にあって、また日常のなかで作詩する武将は決してめずらしくありません。項羽も劉邦も作りましたし、日本にあっては伊達政宗が有名です。上杉謙信、武田信玄もそうでした。近世ですが、乃木希典も203高地を占領した後、「爾霊山」(にれいさん、203高地の名前からとっている)と言う詩を作っています。

曹操だけでなく、子の曹丕(そうひ)と曹植(そうしょく)も優れた詩人で、中国文学(建安文学)史に多大な貢献をしました。

対酒当歌  さけにむかえばまさにうたうべし
人生幾何  じんせいいくばくぞ
譬如朝露  たとえばあさつゆのごとし
去日苦多  さりしひはくるしみおおし

慨当以慷  がいしてはまさにもってこうすべし
憂思難忘  ゆうしわすれがたし
何以解憂  なにをもってうれいをとかん
惟有杜康  たださけあるのみ

青青子衿  きみのあおきえりを (青き衿とは有能な書生)
悠悠我心  はるばるとしたいてやまず
但為君故  ただきみあればこそ
沈吟至今  おもいにしずみいまとなる

??鹿鳴  ゆうゆうとしかはなき
食野之苹  ののくさをしょくす
我有嘉賓  われにひんきゃくきたれば
鼓瑟吹笙  ことをひきふえをふいてもてなさん

明明如月  あかあかとあかるくかがやくひとを
何時可啜  いずれのときにかひろうべきか
優従中来  うれいはむねのなか
不可断絶  たつべきもない

越陌度阡  たのこみちをわたりゆき
枉用相存  ただひたすらたずねもとめん
契闊談讌  ひさびさにむかしのともにあえば
心念旧恩  ふるきよしみをあたためん

月明星稀  つきはあかるくほしはまれなり
烏鵲南飛  うじゃくはみなみにとぶ
繞樹三匝  きをめぐりてみたびめぐるも
何枝可依  いずれのえだにかよるべき

山不厭高  やまはたかきをいとわず
海不厭高  うみはふかきをいとわず
周公吐哺  しゅうこうはほをはきて
天下帰心  てんかはこころをきしたり
  

曹操が作った有名な詩です。曹操の人生は、戦いに明け暮れた毎日でした。死と隣り合わせの日々は苦労が多いが、酒を飲み、歌(詩のこと)をうたうことでむなしさ、はかなさを癒します。

また、青青子衿(有能な人材)を求め、もし得たなら厚遇しようと考えます。その間に旧知の人と会うこともあるだろう。仮に自分を裏切った人でも、有能なら前歴を問わず召抱えよう。

最後に周公のように有能な人を求めれば、天下の人心を集めることができるだろうと言います。

周公とは周の武王の弟で、武王の死後周の国を治めた政治家。有能な人材をもとめるあまり、食事中来客者があってら、食べかけのものを吐き出して、また洗髪中なら洗いかけの髪の毛を握って水を切り、来客者と面会したと言います。古代中国では理想的な政治家と考えられていました。
(吐哺握髪の故事があります)

おことわり)
・漢詩ですから本来縦書きすべきなのですが、横着して横書きしています。
・?は口へんに幼という字です。・・・・CPUで表示できません(泣)

曹操が赤壁で呉の孫権に大敗すると、彼と入れ替わるように蜀の諸葛亮がクローズアップされてきます。


■ 諸葛亮

劉備が、いわゆる三顧の礼で諸葛亮を迎えた時、諸葛亮は27才の青年でした。劉備に軍師として任命された諸葛亮は、呉の孫権を説得し、曹操の大軍を赤壁に破ります。劉備が蜀の皇帝になると、丞相(じょうしょう、日本で言う関白。総理大臣に近い)となりました。

● 字(あざな)のこと

諸葛亮は普通、諸葛孔明とよばれています。姓は諸葛、名は亮、孔明と言うのは字(あざな)です。では、字とは何でしょうか。
いきなり話題を日本にします。歴史ドラマでこんなシーンがあったとします。

秀吉 : 「信長様」

信長 : 「何か用か」

こんなシーンは、小説やドラマはともかく、実際にはありえませんでした。少なくとも江戸時代以前、人の名前を呼ぶ時、名前そのものをズバリと言うことは、なかったのです。ここで言う名前とは姓ではなく、信長とか、秀吉と言う名前のことです。

特に古代にあっては、名前は単に人間を区別するための記号ではなく、その人の全人格を意味したようです。万葉集の昔、男が女に名前を尋ねることはプロポーズであり、女にとって男に自分の名前を教えることは、プロポーズを承諾することでした。
人の名前は、軽々しく呼べなかったのです。

フレーザーの金枝篇によれば、王の名前を言うと死刑になった国さえありました。
名前を呼ぶことは、タブーだったのです。
しかし名前が呼べないのでは不便です。では具体的にどのように呼ぶのか。
そのために作られたのが、次に述べる「通称」なのです。

例えば源義経なら、「九郎」あるいは「判官」であり、信長なら、家臣は「御館様」。信長より上位の人(たとえば将軍)なら、「上総介」と呼びました。
ここで言う「判官」とか「上総介」とは、朝廷の役職(官職と言う)です。

遠山の金さんの本名は、遠山金四郎景元(とおやまきんしろうかげもと)と言います。テレビドラマでは、最後に金さんがお白州に登場する時、「遠山左衛門尉(とうやまさえもんのじょう)様、ご出挫〜」と係の者が呼びますね。

左衛門尉もまた、大岡越前、吉良上野介と同様に官職です。
ここで、金四郎のことを
通称と言い、景元のことを諱(いみな)と言います。源義経も九郎が通称、義経は諱です。金さんは他の人からは、「遠山」あるいは「金四郎」、または「左衛門尉」と呼ばれたはずです。(苗字、あるいはもちろん官職はタブーではありません)

諱は、呼ぶことを忌むものだったのでしょう(だからいみなと言う)。その人の生存中、その人は諱で呼ばれることは、まずなかったのです。その人の死後、はじめて他の人は諱を呼べるようになるのです。
(明治時代になって、名前は通称も諱も一つに統一されるようになりました。)

事情は中国でも同じです。この通称のことを、中国では字(あざな)と言います。諸葛亮の字は孔明で、彼の生存中は諸葛孔明と呼ばれました。曹操の字は孟徳、孫権は仲謀、関羽は雲長、張飛は翼徳と言いました。

● 諸葛亮の政治

諸葛亮の本領、本質は政治手腕にありました。彼は徹底した法家主義者として知られています。ではどのような方針で政治を行ったのか。
蜀を占領して間もなくのこと、諸葛亮は「蜀科」と言う新しい法律を施行しました。それが大変厳しい内容だったので、重臣の法正(ほうせい)が心配して尋ねました。

昔漢の高祖(始祖)、劉邦は秦を滅ぼした後、秦の法律を撤廃してわずか三章だけの簡単な法律を施行しました。それによって秦の民を信服させたのです。しかしあなたは蜀の民には何の恩恵を施しているわけではありません。もっと簡単な法律にして人民をのんびりさせたらどうでしょうか?

それに対して諸葛亮は毅然として、こう答えました。

君の意見は一を知って二を知らぬものだ。
秦は無道、苛烈な政治を行って民の恨みを買っていた。だから高祖は、三章の法律で民心をつかみ、成功したのだ。

しかし、蜀の旧主、劉璋はもっぱら臣下を優遇したが、引き締めることをしなかった。これでは臣下は甘さかされるだけで、優遇されても名誉とも何とも思わなくなってしまい、結局国を滅ぼすことになってしまった。
信賞必罰が厳密に行われれば、名誉も再認識され、名誉に伴う富のありがたさも分かると言うものだ。

諸葛亮は、寝食を忘れ政務にうち込みました。小国、蜀の宰相として短期間の内に魏を打倒しなくてはならない責任からでしたが、見かねた部下がこう言って忠告したと言います。

昔、丞相の丙吉(へいきつ)は、道に横たわる死人には目もくれず、坂を登る牛のあえぎを心配したと言います。また陳平は皇帝から国庫の収支を質問された時、そんなことは知らない、担当者に任せています。と答えたと言います。ところが、あなたは細かい帳簿にまでいちいち目を通しています。お疲れにはなりませんか。

言うまでもなく丞相たるもの、もっと高いところから見ていれば良いではありませんか、と言うことです。しかし、おそらく諸葛亮の性格なのか、凡庸な皇帝を持つ家臣としての責任なのか、諸葛亮には陳平のように悠長に構えることはできませんでした。

蜀の国で位人臣を極めた諸葛亮でしたが、その生活ぶりはいたって質素なものでした。彼は、皇帝劉禅に次のように話したと言います。

私は成都に桑800株、薄田15頃を持っています。これだけあれば子弟の衣食には事欠きませんし、この他に財産をたくわえて陛下の負託にそむくようなことはありません。

諸葛亮の死後、遺族が遺産を調べたら、その言葉どおり、他には財産らしきものはなかった、と言います。諸葛亮は、誠実で清冽な政治家でありました。

三国志の著者、陳寿はそんな諸葛亮をこのように評価しています。

国家のために働いた者は、例え仇であっても必ず恩賞を与えた。法を犯す者は、例え身内でも必ず罰した。罪に服して反省する者は重罪でも釈放したが言い逃れようとする者は微罪でも処罰した。

善行はどんなに小さくとも必ず賞したし、悪はどんなに小さくとも必ず罰した。かくして国民は、皆彼を敬愛した。

厳しい刑罰にもかかわらず、誰も彼を恨まなかったのは公平無私だったからだ。(みな畏れてこれを愛する・・・原文)まことに政治の何たるかを知っていた大政治家であり、管仲(かんちゅう)、蕭何に匹敵する。

陳寿は三国志の中で、政治家としての諸葛亮を「管仲(かんちゅう)、蕭何(しょうか)に匹敵する」と賛辞しています。管仲は春秋の時代、斉の恒公(かんこう)をして最初の覇者たらしめた名宰相ですし、蕭何については、前に述べました。

● 戦場の諸葛亮

三国志演技によれば、諸葛亮は四輪車に乗り、甲冑も着けず道服を着て綸巾をかぶり、白羽扇を手に戦闘を指揮したと言います。まさにダンディーなスタイルでありました。さらには政治家として戦略家、戦術家として、神か?と思うほどの知恵者ぶりが描かれています。事実、「三人寄れば文殊の智恵」のことわざは、中国では「三個臭皮匠頂諸葛亮」(平凡な靴屋でも三人よれば諸葛亮のような智恵が出せる)と言います。

さてどんなものでしょうか?本当に諸葛亮は神にも等しい知恵者だったのでしょうか。

陳寿の三国志には、戦闘指揮する諸葛亮の姿は一切書かれていません。政治家としては管仲、蕭何に匹敵すると称賛した陳寿は、「応変の将略、その長ずるところにあらざるか」(臨機応変の戦術は不得意だったのではないか)と戦術家としての諸葛亮に疑問を投げかけます。そしてこの一文が、諸葛亮ファンを口惜しがらせてきたのです。

私は思います。

天下三分の計を立案したと言うことは、彼はすぐれた戦略家であったことは確かですし、もちろん相当の知恵者であったことは間違いないだろう、しかし、彼はまた、三国志演技が曹操への対抗上作り上げた偶像なのだ、と。

三国志演義は、意識的に曹操を悪玉にしています。悪玉とは言え、どんなに悪く書いても曹操は、知恵者なのです。そしてこの時代最大ともいえる名将、曹操を苦しめるためには、諸葛亮は、曹操以上の知恵者として描かざるを得なかったのです。

最後に諸葛亮を偲んで歌った杜甫の詩を

丞相祠堂何処尋 じょうしょうのしどういずこにかたずねん
錦官城外柏森森 きんかんじょうがいはくしんしんたり
階映碧草自春色 かいにえいずるへきそうおのずとしゅんしょく
葉隔黄■空好音 はをへだてるこうりむなしくこういん
三顧頻繁天下計 さんこひんぱんたりてんかのけい
両朝開済老臣心 りょうちょうかいさいすろうしんのこころ
出師未捷身先死 すいしいまだかたざるにみはさきにしす
長使英雄涙襟満 とこしえにえいゆうをしてなみだえりをみたしむ


黄■(こうり)とはウグイスの別称です。
■は麗+鳥ですがCPUで表示されません(泣)


ティータイム 殷鑑遠からず 隗より始めよ 奇貨おくべし