殷鑑遠からず(伝説から神話へ)
<年代>
50万年前頃 北京原人 紀元前2300年頃 竜山文化 紀元前1050年頃 殷王朝の滅亡と周王朝の成立 紀元前750年頃
〜 紀元前221年春秋戦国時代
■ 三皇五帝
中国史上最古の王朝は殷(いん)王朝とされていますがそれに先立って夏(か)王朝が存在し、さらにそれ以前には三皇五帝(さんこうごてい)と呼ばれる8人の帝王がいたとされています。もちろんそれは歴史ではなく伝説、神話の類です。
三皇五帝は戦国時代には天皇、地皇、人皇の三皇説が現れ、漢の時代になると伏義(ふくぎ)、女禍(じょか)、神農(しんのう)を三皇とするようになりました。伏義は蛇身人首、神農は人身、牛首であったと言います。
一方司馬遷は史記の中で、黄帝(こうてい)、せんぎょく、こく、堯(ぎょう)、舜(しゅん)の五人をあげて歴史の始まりとしました。三皇を五帝の前に置くようになったのは三国時代(3世紀)以降のようです。
(おことわり)「せんぎょく」と「こく」の漢字がパソコン上で表示できません。(泣)
堯(ぎょう)の時代、中国全土が洪水に覆われたと言います。このとき鯀(こん)は摂政だった舜(しゅん)から治水を命ぜられましたが失敗し、処刑されてしまいました。次に治水を命ぜられたのは鯀の子、禹(う)です。
禹は全国をくまなく歩き艱難辛苦に耐え、ついに治水事業を完成させ、この功績により彼は堯、舜の死後周囲の人から推されて帝位につくことになります。禹が開拓した地域は「禹域(ういき)」と呼ばれ、中国の別名ともなっています。
禹の国(伝説ですが)を夏(か)と言います。
後年孔子は、「禹は吾(われ)、間然(かんぜん)することなし。」と言いました。間然することなしとは欠点がないことを言います。禹と言う人は、私から見たらまったく非の打ちどころのない素晴らしい人だ。と言う意味です。
これまた後年、秦王、贏政(えいせい。名前です)が中国史上はじめて中国を統一した後、三皇五帝の文字から「皇帝」という言葉を作り、最初の皇帝であることから始皇帝と称しました。秦の始皇帝です。
伝説の帝王、堯
■ 殷王朝の滅亡と周王朝
殷最後の王、紂(ちゅう)と言えば悪王の代名詞のようになっています。
史記によれば紂王は鋭い頭脳、達者な弁舌、猛獣を素手で倒すほどの力を持っていました。彼は妲己(だっき)と言う美女に溺れ、酒池肉林の日々をおくり、人民には重税を課し、反対者には徹底的な弾圧と過酷な刑罰を与えたということです。この話は夏王朝最後の帝、桀王(けつおう)の話に実に良く似ています。重臣の一人、西伯昌(せいはくしょう)は紂王を諌めてこう言いました。殷鑑遠からず夏后の世にあり。(いんかんとおからず かこうのよにあり)
「わが殷が鑑(かがみ)とする手本は、何も遠い過去にあるわけではありません。前の夏王朝の桀王の時代にあるではありませんか。」
西伯昌は桀王の故事を例に取り、主君を諌めたのですが逆に紂王の怒りを買い、追放されてしまいました。この西伯昌が後の周の文王です。
さてこのような圧政に対し反対勢力が出てくるのは当然のことでした。その中心になったのが周の文王です。周は殷の勢力範囲の西方、陝西省(せんせいしょう。)の岐山(きざん)の麓にいた民族です。
文王、名前は発(はつ)と言います。文王とか、後記する武王は死後名づけられた諡(おくりな・・・・たとえば昭和天皇のようなもの)です。文王は父の王季(おうき)を殷に殺されたため、打倒殷を悲願として着々と準備を進めていましたが途中で死去してしまいました。
文王の死後周王となった武王は父の意志を継いで諸侯を糾合し、文王の位牌を掲げ殷を打倒すべく出陣しました。そして牧野(ぼくや。・・・河南省淇県)の合戦で殷を破り、逃げ帰った紂王は宮殿に放火し、玉(ぎょく、宝物のこと。)を身にまとい焼身自殺し、ここに殷は滅びました。その後興った周王朝は紀元前256年、秦に滅ぼされるまで800年もの長い期間存続しました。
殷にしても周にしても中国全土(もちろん現在の地図で言う全土ではありません)を征服統一したわけではなく、諸国連合の旗頭と言った存在でした。
徳川幕府と各諸大名との関係といえばわかりやすいかと思います。
● 岐阜
周は岐山(きざん)の麓にあったと言います。織田信長は、美濃の稲葉山城を攻略しそこを本拠地をした後、稲葉山を岐阜と改名しました。これは岐山の麓で興り、後に天下を治めた周王朝の故事に倣ったものです。岐阜の阜は丘の意味で、岐阜とは岐山と同じ意味になります。
● 伯夷、叔斉
武王が出陣しようとした時、陣前にあってこれを遮る人がでてきました。伯夷、叔斉(はくい、しゅくせい)の兄弟です。兄弟は言います。「父の喪中に出陣するなど親不孝ではないか。また殷は周の主君にあたる。臣(家来。家臣の臣)の身でありながら、主君を討つのは道義に反することだ」と。
武王の側近は怒って兄弟を斬ろうとしますが、重臣の呂尚(りょしょう)が制止しました。
伯夷、叔斉は殷が滅び周が天下をとった後、「周の粟(こめ)は食わぬ」として首陽山(しゅようざん)にこもり、ワラビを食べて暮らしましたがやがて餓死します。司馬遷はこの話を史記列伝の最初に著わしています。
彼は言います。天は善人の味方だと言う。しかし伯夷、叔斉の兄弟はあれほど立派な人だったのになぜ山中で餓死してしまったのか。また孔子の弟子の中で、顔回(がんかい)は飛びぬけて優秀な男だったが、満足に食事もできないほど貧乏なため、早死にしてしまった。これでも天は善人の味方と言えるのか。
反対に盗跖(とうせき。・・・古代中国の盗賊)はあれほど悪事を働いたのに天寿を全うした。いったい盗跖がどんな善行をしたと言うのだ。そう思うと私(司馬遷のこと)は絶望感にさいなまれてしまう。はたして天道とは本当にあるものなのか。
● 天命を革める
伯夷、叔斉は、「殷は周の主君にあたる。臣の身でありながら主君を討つのは道義に反することだ」と言いました。これを放っておいては武王は、不義の人になってしまいます。そこで武王はこれに反論します。
「そもそも帝王とは誰でもなれるものではない。人類の監督者として、天帝の命令(天命)により就任しているのだ。しかし殷の紂王は暴虐で、人心はすでに離れた。今こそ天命を革めなくてはならない。」
革命とは、天命を革める(てんめいをあらためる)ことなのです。
古代中国における最高神は、天に住む天帝とされました。天照大神やゼウスのような人格神ではありません。その概念は、ユダヤ教やキリスト教のヤハウェーにやや近いかもしれません。天に神がいるとは、日本人も多少そう思っているかもしれません。天罰なんて言葉がありますからね。
天帝は人間の中からすぐれた者を我が子とみなし、人類を管理するために地上へ送り込んだ、とされます。天帝が「我が子」とみなすことから、中国の帝王は天子(てんし)とも呼ばれました。
ではすぐれた者とは何が優れているのか。古代中国ではそれは「徳」である、としました。必ずしも武力に勝っている必要はなく、人間としての品性を重視したようです。
徳とは、智、仁、勇の三徳。また仁義礼智信の五常徳、父子の親(しん)、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の五倫を指しました。これは武力による政権交代ではなく、「資格のある者に帝位を譲り渡す」と言うことです。
この方式(?)に従って堯は舜に、舜は禹に帝位を譲ったとされます。これを禅譲(ぜんじょう)と言います。一方、武力でもって帝位を奪い取ることを易姓革命(えきせいかくめい)と言います。易姓とは、現在の帝の姓(苗字)を別の姓(苗字)にかえること(つまり支配者が交代すること)によって、天命を革めることを言います。● 歴史の正当化
周の武王は「悪逆」な、殷を滅ぼして周王朝を樹立しました。それでは殷はどのようにして樹立されたかというと、それ以前にあった「夏王朝」を倒して樹立されたものなのです。
夏王朝の最後の帝、桀王(けつおう)は、紂王同様に悪逆無道な王だったので、商(殷)の湯王(とうおう)によって滅ぼされたと言います。殷王朝と周王朝の樹立時の話は、無道な悪王を倒すと言う点で不思議と似ています。これは歴史の正当化なのではないでしょうか?
つまり夏にしろ、殷にしろ前時代の王朝は悪の権化のようなものだった、だからやむをえず立ち上がってこれを倒したのだ、と言うことです。
自分の正当性を主張するには、相手側の不当性を宣伝するのが一番手っ取り早い方法です。しかし日本にあっては天皇家は万世一系と言うことになっています。このため仮に前の天皇が悪逆無道であっても、身内なのであまり前時代の悪口は記録に残せないのです。この点、中国では「易姓革命」なのですから(要するに王朝が異なれば他人同士)前時代の悪口は言い放題なのです。夏王朝は殷王朝によって、殷王朝は周王朝によって悪にされた可能性は大いにあります。
帝王に必要な資格は徳であると書きました。また革命と言う言葉は「天命を革める」と言う意味だ、と書きました。
と言うことは、「天」つまり「天帝」の位置を、帝王の上に置いている、と言うことです。
徳を失った帝王を倒し新たに徳ある(有徳)者を帝王にすることは、天の意志である。これは古代中国における革命の原理でした。天帝を神と置きかえれば、ヨーロッパでも同じです。しかし日本にはその原理があったでしょうか?
日本における「神」とは、他ならぬ天皇家の先祖なのです。(日本の最高神、天照大神のこと)「神の子孫」である天皇家を討つことは、さすがの権力者達(平家、源氏他)も、はばかったたに違いありません。
私は、「中世編」において次のように書きました。
日本は天皇を本家とする血族社会なのだ、と昔の人は意識・無意識にかかわらずそう考えていたのではないか。 だから日本人はたとえ権力をにぎっても「本家」は滅ぼさなかったのではな いか、だから「革命」はおきなかったのではないか。
これはこれで、別に訂正するつもりはありませんが、日本で革命が起こらなかった理由は、他にもまだまだありそうです。少なくとも、日本においては「革命の原理」と言うものは存在しなかったと思います。● 呂尚
文王、武王の二代に仕えて軍事に政治に大活躍した人が呂尚です。彼が文王に仕えた時、こんなエピソードがあります。
文王はかねてから呂尚の才能を高く評価していてなんとか家臣にしたいと考えて何度も呂尚に家来になってくれと頼みましたが、呂尚はなかなか承知しませんでした。
呂尚は大変魚釣りの好きな人で、その日も川辺で釣りをしていました。それを見た文王は、釣りの邪魔をしないように少し離れた場所で終日無言で立っていました。その姿に感動した呂尚はついに文王の家臣となったと言います。
文王の喜びは大変なもので、「私(文王)の父もあなたのような賢人を求めていたが果たせなかった。わたしの代になってようやく念願が叶った。」と言いました。
父親のことを太公と言います。文王の父親(太公)が待ち望んでいたと言う意味で、呂尚はそれから太公望と呼ばれました。前に書いたとおり呂尚は大変釣りの好きな人で、釣りをする人のことを太公望と言うのはこれによります。呂尚はその功績により斉(せい)の国に封ぜられました。
(文王が呂尚と出会ったエピソードはこれ以外にもあります。)
正直言いまして殷、周の時代の人間には、生き生きとしたイメージがどうもわきません。あまりにも古すぎて司馬遷も困ったのでしょう。
しかし春秋以降は、記録も多くなるせいか人物像はかなり明確になってきます。