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新皇将門


■不動倉を襲う

そのころ常陸国に藤原玄明(ふじわらのはるあき)という男がいました。
公の租税を少しも納めないばかりか、農作物の収穫期には他人の土地の作物を掠奪し、役人が来れば脅かして追い返し、国府の出頭命令は拒否するような、盗賊・ならず者そのもので将門記には民の害毒、かくれなき乱人と書いてあります。

業をにやした常陸介藤原維幾(ふじわらこれちか)が玄明の罪状を並べ、追捕(逮捕)の兵を向けると玄明は妻子を連れて将門のところへ逃げ込み、その途中で常陸の不動倉を襲い、作物を略奪するという暴挙をしでかしました。
不動倉とは農作物を貯蔵する設備で国府の管理下にあります。これは国府(ひいては国家)に対する重大な犯罪でした。

当然国府側は将門に玄明の引渡しを要求します。しかし将門はこれを拒否し、逆に常陸国府を襲ってしまうのです。
1000人の兵を引き連れて常陸の国府に赴いた将門は、玄明の罪を許し常陸国内に住めるよう計らってほしい、と要求しましたがそんなことを国府側が認めるはずもなく、はじめから戦うために出かけたとしか考えられません。

939年11月21日藤原維幾の子、為憲はそのころ常陸国府に身を寄せていた平貞盛と共に3000の兵を持って将門と戦いましたがたちまち敗れ貞盛は逃走、藤原維幾・為憲父子は将門に降伏して国外に追放されてしまいます。ちなみに藤原維幾(ふじわらこれちか)は高望王の娘(貞盛の叔母)を妻にしており、その子為憲は貞盛とも将門とも従兄弟同士になります。

古今東西、占領軍が占領地で行うことは暴行・略奪です。大っぴらに行うか隠れて行うかの違いはありますが、この時代は大っぴらに行う方が一般的(?)であり、またそれが楽しみで参加する兵士も多かったのです。

どこの国でも国府のある町は、現在でいえば県庁所在地ですからその国で一番賑わっています。宝の山に入った将門軍の暴行・略奪のすさまじさについて将門記は次のように伝えます。

 

世間の綾織りの布や薄地の絹は雲のように多くを人民に施し与え、珍しい宝物は算木を散らしたように分配されてしまった。15000もの膨大な絹布はまわりもののごとくばらまかれ、300あまりの民家は滅んで一瞬の煙と化してしまった。

屏風に描かれている西施のような美女は裸にひきむかれ、僧侶や一般庶民はひどい目にあい殺される者も多かった。金銀を彫った鞍、瑠璃をちりばめた箱は幾千、幾万だろうか。家々のわずかの貯え、わずかの財宝は誰が持ち去ったかわからない。僧尼は下級兵士に一時の命乞いをし、わずかに残っていた役人や女たちは酷い辱めを受けた。

哀れなことに介は悲しみの涙を緋色の衣の裾でぬぐい、国衙の役人は両膝を泥の上に屈してひざまずかされた。

まさに今、乱悪の日、太陽が西に傾き、乱れきった翌日の朝、印鎰を奪われた。
こうして介・詔使を追い立て、付き従わせることが終わってしまった。国府に勤める人々は嘆き悲しんで役所の建物に取り残され、従者たちは主人を失って道路のわきでうろうろしている。

 

(注)

15000 実際の数量ではなくて多数の意味
西施 せいし。古代中国の有名な美女。
呉に敗れた越王句践(こうせん)が、呉王夫差(ふさ)を骨抜きにしようとして西施を献上すると、夫差は西施の美貌に溺れ国政を顧みず、呉は衰退したという。史実かどうかは不明。
哀れなことに介 常陸介藤原維幾のこと
印鎰 いんやく。国司が公文書に押す印鑑で、国司の権力の象徴とされた

 

国府との戦い。これは明らかに反逆行為でした。
ここのところがどうもわかりにくいのです。

なぜ将門は突然反逆者になったのか。
そもそもなぜ藤原玄明をかくまったのか。

一番簡単で合理的な考えは、将門は玄明をかくまった時点ですでに反逆を決意していた、ということです。
しかし反逆者になるのを承知で国府を襲撃したとすれば将門は確信犯だったことになりますが、その後の彼の行動には計画性があったとは言い難く、確信犯とも思えないのです。


 

坂東では血で血を洗うといいます。坂東武者にとってはたとえ親子兄弟でも強い敵と戦いこれを倒すことが最大の名誉であり、そこにあるのは力への信仰だけです。

かつてNHKで将門を主人公にした大河ドラマが放映されました。
これは海音寺潮五郎氏の原作ですが、ドラマも原作も物事に悩み、苦しむ人間・将門を描いています。

私はこれを見た作家の今東光氏がある雑誌で、『当時の坂東武者は、気に入らないヤツは平気ですぐ殺してしまうような野郎ばかりだった。ひでえ将門があったもんだ』と批判していたのを覚えています。

私は将門の国府襲撃の理由は今東光氏の批判の中に答えがあるのではないかと思うのです。
当時のほとんどの坂東武者は生まれたままの野生そのものだったといっても差し支えないし、物事(つまり反逆かどうか)を深く考える習慣などなかったのではないか、ということです。それと将門は一介の土豪にすぎないとはいえ、強大な軍事力を持つ任侠。早い話がやくざの大親分的な性格を持っていたようです。

藤原玄明は自分を頼ってきたのだ。犯罪者とはいえ、ここであっさり国府に引き渡しては男がすたる

これだけが常陸国府襲撃の理由であって、国府側に玄明の罪を許せと言ったのはわざと国府側を怒らせて戦争をはじめるためだったとしか思えないのです。

将門が国府を襲撃したもののそこを占拠せずに石井に帰っているのをみれば、明らかに彼には反逆の意志はなく(現在から見れば滑稽なことですが)、ただ国府側に一泡吹かせるのが目的だったと考えられるのです。

 

この将門の行為を他の坂東武者達はどう思ったか。
坂東、いや日本国中、国司を恨まない民などおそらく一人もいなかったことでしょう。
彼らは心中、拍手喝采したに違いなく、そして将門はどう動くか、じっと見守ったことでしょう。将門は将門で反逆の意志のあるなしにかかわらず、もはや引き返せないところに来てしまったのです。

ここに扇動者がいます。
興世王です。
武蔵武芝の事件後興世王は守の百済貞連との折り合いが悪く、武蔵国にいずらくなっていつのころからか将門の居候になっていたのです。興世王は言います

一国を討つと雖も公の責め軽からじ、同じくは坂東を虜椋し、暫く気色を聞かん

一国を盗むということは大罪である。どうせなら坂東全域を支配しようではないか

 

どんなに高く評価しても興世王は扇動はできても、軍師になれるような男ではありませんでした。この人や藤原玄明といった問題児がそばにいたことは将門にとっては不幸なことだったかも知れません。もっともだから歴史は面白いのですが。


軍を発した将門は12月11日に下野国の国府(栃木県栃木市)を襲い、さらに15日には上野国府(群馬県前橋市)に兵をすすめそれぞれの国司を国外に追放しています。

 

下野国府跡(栃木県栃木市)

上野国府跡(群馬県前橋市

上野国府(想像図)

 

■上野国総社

かつて任地に赴任した国司には、国内の神社を祭る義務が課せられていました。しかし神社は国内の方々にあるのでいちいち歩いて回るのも面倒なことなので各地の神社を統合して一つにまとめた神社が生まれます。それが総社(そうじゃ)です。総社は地名として現在も各地に残っています。

上野国府(群馬県前橋市総社町)を占領し、国司藤原尚範を追放した将門に一大事件が起こります。総社神社の巫女が突然神がかりになり、神の使いとして将門に天皇の位を授けると言い出したのです。

これは実話でしょうか。いや、巫女がそう口走ったのは事実かもしれませんが、いくらなんでも実際に神が巫女を借りて自分の意志を伝えるなんてことはないでしょう。

考えられるケースは二つあります。
一つは本当に巫女が自主的(?)に神がかり状態となって神託を与えた。もう一つは将門側が仕組んだ芝居だったということです。

 

上野国総社神社(群馬県前橋市)

 

芝居だとしたら演出家は興世王で、藤原玄明もからんでいたかもしれません。
しかしこれだけのことを演じるにはどうにも興世王や玄明は役不足のような気がします。なぜならこの後の将門の行動は演出家がいたにしては計画的とはとても思えないからです。

将門記によれば巫女はこう告げたと言われます。

一晶伎ありて、云えらく、八幡大菩薩の使いと口走る。

朕が位を蔭子平将門に授け奉る。
その位記は、左大臣正二位菅原朝臣(あそん)の霊魂表すらく、右八幡大菩薩、八万の軍を起こして、朕が位を授け奉らん。今すべからく三十二相の音楽をもて、はやくこれを迎え奉るべしといえり

 

もう少し分かりやすく書きましょう。

一人の晶伎(かんなぎ・・・巫女のこと)が言った。

自分は八幡大菩薩の使いである

八幡神とは応神天皇(第10代天皇)を指します。伝承によれば応神天皇が誕生したとき、天から八本の幡(はた)が降りてきたとか。今でも八幡宮は全国各地にありますが、どれも応神天皇や母の神功皇后等を祭っています。
後年八幡神は源氏の氏神とされましたがそれは源頼朝が鎌倉の鶴ケ岡に八幡宮を勧進してからのことで、この時代はそんなことはなかったのです。

菩薩は観音菩薩や地蔵菩薩に代表されます。菩薩(ぼさつ)と言うのは仏教で悟りの一歩手前の状態をいいますが、完全に悟った人(如来)と共に信仰の対象になっています。

ここで八幡大菩薩というのは神仏習合の結果と考えられ、それによれば神は仏の弟子とみなされるのです。この場合、八幡神が菩薩であるということです。

 

朕の位を蔭子将門に授ける

当時朝廷における位階が五位以上で親王以下の身分の人の子と、三位以上の人の孫は21歳になると自動的に父・祖父の身分に応じて従五位下から従八位下の位階を授けられました。この位階を蔭位(おんい)といい、蔭位を受ける資格がある人を蔭子(おんし)といいます。

たとえば一位〜五位の身分の人の子には従五位下〜従八位下、同様に一位〜三位の人の孫には正六位上〜正七位上が自動的に与えられました。年齢さえ来れば何もしなくとも蔭位がもらえるということは、上級貴族の家が位階を独占するのに役立つのです。

位階とは早い話が朝廷内の身分等級で、701年に制定された大宝律令では下記の表のようになっています。五位以上を貴族、三位以上を公卿といいます。
当然ながら役職が重くなるほど位も上がって行きますが、国司として任地では威張り放題の守の場合でも、京にあっては最下級の貴族(従五位下)なのです。

正・従一位・・・太政大臣
正・従二位・・・左・右大臣
正三位・・・・・・大納言、大宰帥(大宰府の長官)
正四位上・・・・中務卿(中務省の長官)
正四位下・・・・中務省以外の省の卿、中納言(但し令外官)、神祇伯(神祇官の長官)
従五位下・・・・大国の守

親王

一品(いっぽん)から四品(しほん)までの四階級

親王とは親王の宣下(せんげ)があった皇子(天皇の子)を指します。天皇の皇子でも宣下されなければ親王ではありません。

一位から三位までの正従二階級と、四・五位の正従二階級に四位以下にはさらに上下を付けたもの。

正一位、従一位、正四位上、正四位下、正五位上、従五位下など。

王とは親王宣下のない皇子、及び親王から五世以内の皇族男子をいいます。高望王、興世王がそれで、史上有名なのは長屋王でしょう。

臣下 一位から三位までの正従二階級と、四から八位の正従二階級に上下を付けたもの。

五位以上が貴族、三位以上が上級貴族となります。
昇殿を許されるのは五位以上で、三位以上になると俸給その他の面でいろいろな特権が与えられるようになります。

 

さて八幡大菩薩が将門を蔭子としました。なるほど八幡大菩薩は天皇(応神天皇)ですから将門を自分の子とみなせば将門は蔭子となり、蔭位を授かる資格があります。八幡大菩薩は自分自身の位(皇位)を授けるといっています。

でも与えられる蔭位はとりあえずは上記のように制限があっていきなり皇位ということはないと思うのですが、何しろ八幡大菩薩のおぼし召しですからそんなことに拘る必要もないのでしょう(笑)

この神託事件が興世王達の演出でないことはこれから想像できます。
興世王は京都にいたころ、元々家来筋であるはずの藤原氏に任官運動をしてやっと武蔵権守として坂東にやって来た人です。想像の域を出ませんが、その任官運動がどれほど卑屈で不愉快だったか。そしてどれほど朝廷に愛想がつきていたことか。

そんな興世王でも次の人事発令に書くように旧来の慣例から抜け出せず、上総と常陸に守ではなくをおかず介をおいたのです。もしこの巫女の神託が興世王の演出だったら、八幡大菩薩がいきなり皇位を与えるような慣例破りをしたでしょうか?

それと当時の人が神を畏れる感覚は現代人の想像をはるかに越えていることを考えねばなりません。当時の教養階級である貴族達が菅原道真が雷神となって祟ったと信じ、恐れたのはこの神託事件のほんの10年前のことなのです。
芝居だとすればなおさらのこと。神の言葉を人間が勝手に脚本化して、あるいは人間の意志を神の言葉として巫女にいわせるような畏れ多い行為を当時の人間がするとは思えないのです。

 

位記は、左大臣正二位菅原朝臣(あそん)が書き表す

位記(いき)とは朝廷から官位などを与えられる時に書かれる文章です。今回の辞令(?)は菅原朝臣(菅原道真)が書いたことになっています。

 

八幡大菩薩は八万の兵で軍を起せ。朕が位を授ける

このあたりから段々と主語がはっきりしなくなってきます。
それまでは八幡大菩薩と朕とは同じだったと思うのですが、この文からは『八幡大菩薩』と『朕』は同じとは思えないような書き方です。

もっとも巫女は神がかり状態なのですから、深く考えてもしかたがありません。それと八万の兵という意味もわかりません。

 

三十二相の音楽を鳴らし、早くこれを迎えるがよい

三十二相とは仏語で足下平萬、身体淳浄など、仏のみが持つ32の身体的特徴をいいます。
三十二相の音楽とは何なのでしょう? 八幡大菩薩のテーマミュージック(?)なのでしょうか?
これも私にはわからない部分です。

 

どうでもよいことですが、本来の小乗仏教に音楽はありません。音楽は人の心を癒すどころか堕落させるものとして戒律で禁止しています。ですから『ビルマの竪琴』はあくまで日本式仏教の世界なのです。


 

この神託はもちろん神が巫女に乗り移ったからではなく、別の要因で巫女が口走ったことです。当時巫女は『神の花嫁』として処女性を要求されていました。この巫女もおそらく15歳前後の少女だったことでしょう。
ではなぜ巫女は神託をしたのか。いや、なぜこのような『現象』が起きたのか。

平素彼女はこんなことを意識、無意識のうちに思っていたのではないでしょうか。

巫女とはいえ彼女も当時の一庶民であり、国司の横暴を人から聞き、自分の目でも見て憤っていた
だから常に国司を倒したい、あるいは誰かが懲らしめてほしいと思っていた
そこへ将門の軍がやってきた
人の話によれば将門は桓武天皇の流れをくむ男であり、これは上野あたりの片田舎では神にも等しい高貴な血統である
将門は抜群の武勇を持っているらしい
その証拠に普段威張り散らしていた国司はあっという間に追放されてしまった
彼女からみれば将門軍は解放軍であった
彼女の胸のうちに将門への驚異が、そしてこんな人物が自分達の国司になってくれれば・・・、という思いが高まってきた

 

うわさはうわさを呼びますし、現代でも映画やテレビのドラマを見て興奮し、その主人公になったつもりになる人がいます。この巫女はそうしたタイプの人だったのではないでしょうか。いずれにせよこの時代です。人々はこの現象を神託と信じ、恐れ、将門を新皇として敬ったことでしょう。

ところでこの神託ですが、私には菅原道真の登場がかなり唐突に感じられます。八幡大菩薩はまだしも、なぜ菅原道真の名前が出てくるのか。

八幡大菩薩と菅原道真が将門の新皇即位を正当化したのは確かです。
しかし私は菅原道真を引っ張り出したのは将門記の作者の創作ではないかと思うのです。
私は最初はこう考えていました。

前記したように興世王は神託の演出者ではなかったけれど、たまたま起きた神託事件にこれ幸いとばかり乗じ、朝廷に恐怖感をあたえるためこの神託に菅原道真の名前を意識的に追加して宣伝したのではないか。

いうまでもなく菅原道真は左大臣藤原時平の讒言によって大宰府に左遷され903年に没したが、930年6月26日御所の清涼殿に突然落雷があり、藤原時平の片腕で道真の左遷に協力したといわれる藤原菅根、大納言藤原清貫、右兵衛佐美努忠包等が事故死するという事件が起きた。さらに日蝕、地震、干ばつなどの天変地異も起こり、これは菅原道真の祟りではないかと思われるようになった。

時の醍醐天皇はショックで寝込み、寛明親王(朱雀天皇)に譲位し死去。菅原道真の祟りは京都の公家達を恐怖のどん底に叩き落したのだ。

その怨霊譚がこの当時すでに坂東にまで伝わっていたであろうことは容易に想像できるが、それでも上野の田舎娘(神託をした巫女のこと)にとって『左大臣正二位』という知識があっただろうか?菅原朝臣という名前ぐらいは知っていたかもしれないが、左大臣正二位というところまで知っていただろうか?

しかし興世王がこれを知らないはずがない。
朝廷への恫喝の意味もあって『菅原道真』の名前を使ったのであるまいか?

 

これは前記した『神の言葉を人間が勝手に脚本化して巫女にいわせるような畏れ多い行為を当時の人間がするとは思えない』との記述と矛盾します。そうなるとこの神託に菅原道真を持ち込んだ人は、少なくともこの事件とは直接関わりのない第三者ということになります。

で、私は菅原道真の名前を出したのは将門記の作者ではないかと思うのです。
この作者も例外なく当時の国司や朝廷のやることに憤りを感じていたことでしょう。しかしこの僧侶と想像されている作者にとってできることは、このようなかたちで国司・朝廷を批判することだけだったのではないでしょうか?

畏れ多いことだが、勝手に名前を使っても、きっと雷神・菅原朝臣はわかってくれる・・・・・

 

細かいことを書きました。
しかし我々はそんなことを知る必要はないのかもしれません。
巫女の神託で将門が新皇を称するようになったことだけを知ればよいのでしょう。この『神託』を目の当たりに見た興世王と藤原玄明は、貧者が富を得たように喜んだ、という話です。

 

さて新皇になった将門は人事発令(?)を行い、これを発表します。つぎのとおりです。

役職 任命 将門との関係
下野守 平将頼 将門の弟
上野守 多治経明 将門の上将
常陸介 藤原玄茂 将門の上将
上総介 興世王 将門の謀臣
安房守 文屋好立 将門の上将
相模守 平将文 将門の弟
伊豆守 平将武 将門の弟
下総守 平将為 将門の弟
多くの人が指摘していますが、これにはとんでもない錯誤があります。常陸、上総の国司を守ではなく介としたことです。

何回か書いていますが、上野国を含めてこの三国の守は親王が任命されることが慣例になっています。しかし朝廷に対抗して新政権を樹立するならそんな慣例は無視すべきなのです。

この人事は興世王の発案と思いますが、所詮この人はこの程度の男だったのでしょう。このことは将門の左右には有能な謀臣・・・例えば源頼朝の側近で鎌倉政権樹立に多大な貢献をした大江広元のような人材は一人もいなかった証拠なのです。

将門記によれば、将門は発令と同時に『王城は下総国の亭南』に王城の建設を計画したといいます。さらに左右の大臣、納言、参議、文武百官、六弁八史を決め、内印・外印を鋳造する寸法、古字体・正字をも定めたが、暦日博士は決まらなかったとあります。

 


■天壌無窮の神勅

大変なことになりました。
蝦夷のように異民族と考えられていた人たちは別として、いまだかつて同じヤマト民族で、しかも天皇の流れを汲む者が国家に反逆したばかりか帝位を称し、文武百官を定めるなど空前絶後・前代未聞のできごとだったのです。

この時期将門はかつての主君藤原忠平宛に自分の行為を説明する次のような手紙を書いています。意訳文も載せました。あまり良い訳ではありませんが・・・(汗)

原文
意訳
将門謹み言す。
貴誨を蒙らずして星霜多く改まる、渇望の至り、造次に何でか言さん。伏して高察を賜はらば恩幸なり。
将門、謹んで申し上げます。
閣下の教えを受けぬまま多くの月日が流れました。拝謁を望んでおりますが、このあわただしい折、何を申し上げられましょうか。伏して高察を賜るならばありがたい幸せであります。
然れば先年源護等の愁状に依りて将門を召さる。官符をかしこみ祗候するの間、仰せ奉りて云はく、将門之事、既に恩沢に霑ひぬ。よつて早く返し遣る者なりとなれば旧堵に帰着し、兵事を忘却し、弓弦を綬くして安居しぬ。 さて先年、源護らの訴状によって将門を召されました。官符は恐れ多いため、急ぎ上京し、つつしんところ、仰せを承りまして、『将門はすでに恩赦にあずかった。だから早く返してやろう』ということでしたので、本拠地に帰り着くことができました。その後、戦のことは忘れて弓の弦をゆるめて安らかに暮らしておりました。
然る間に前下総国介平良兼数千の兵を起し、将門を襲ひ攻む。将門背走相防ぐに能はざるの間、良兼の為に人物を殺損奪掠せらるるの由はつぶさに下総国の解文に注し、官に言上しぬ。 ところが前(さき)の下総国介・平良兼が数千の兵で私を攻めて来ました。逃げることもできずに防戦しているうちに、良兼のために人や物が殺されたり壊されたりしましたが、この経緯については、詳しく下総国府の記録に書いて公に報告しました。
ここに朝家諸国に勢を合して良兼等を追捕す可きの官符を下され了んぬ。しかるに更に将門等を召すの使を給はる、然るに心安からざるに依りて遂に道に上らず、官使英保純行に付いて、由を具して言上し了んぬ。 ここに朝廷は『諸国が力を合わせて良兼らを追捕せよ』と命じました。それなのに、さらに私を召喚するという使いが送られてきたのです。心中不安でならないので、結局上京することなく、官使の英保純行に書状を託して詳細を申し上げました。
未だ報裁を蒙らず欝包の際今年の夏、同じく平貞盛、将門を召すの官符を奉じて常陸国に到りぬ。よつて国内頻りに将門に牒述す。くだんの貞盛は、追捕を免れて跼蹐として道に上れる者也。 それに対する裁決が下らないので鬱々と憂えていましたところ、今年の夏、同じく平貞盛が私を召喚するという官符を持って常陸国にやってきました。そして、国司はしきりに書状を私に送ってきました。この貞盛とは追捕を逃れて、ひそかに上京した者です。
公家はすべからく捕へて其の由を糺さるべきに、而もかへつて理を得るの官符を給はるとは、是尤も矯飾せらるる也。 公家はこの者を捕らえて事情をただすべきであります。それなのに逆に貞盛の言い分を採り上げて官符を賜ったというのは、うわべを取り繕っているからではないでしょうか。
又右少弁源相職朝臣仰せの旨を引いて書状を送れり、詞に云はく武蔵介経基の告状により、定めて将門を推問すべきの後符あり了んぬと。 また、右少弁・源相職朝臣が閣下の仰せを受けて書状を送ってきましたが、その文中に『武蔵介経基の訴えにより、将門を調べるという、次の官符を下すことがすでに決まっている』とのことでした。
詔使到来を待つのころほひ、常陸介藤原維幾朝臣の息男為憲、偏に公威を仮りて、ただ寃枉を好む。ここに将門の従兵藤原玄明の愁訴により、将門其事を聞かんが為に彼国に発向せり。 詔使の到着を待っていると、常陸介藤原維幾の息子為憲が公の威厳をかさにきて、冤罪ばかり好んたので私の従兵である藤原玄明の愁訴により、私はその事情を聞くために常陸に出向いたのです。
而るに為憲と貞盛等と心を同じうし三千余の精兵を率いて、ほしいままに兵庫の器仗戎具、並びに楯等を出して戦を挑む。ここに於て将門士卒を励まし意気を起し、為憲の軍兵を討伏せ了んぬ。時に州を領するの間滅亡する者其数幾許なるを知らず、いはんや存命の黎庶はことごとく将門の為に虜獲せらるる也。 ところが為憲と貞盛らは一緒になって3000人の精兵を率い、思いのままに兵器庫から武器を持ち出して戦いを挑んできました。ですから私は士卒を励まし、意気を高め、為憲の軍兵を打ち破りました。この間に滅亡した者は数をも知れず、生き残った民衆はことごとく捕らえました。
介の維幾、息男為憲を教へずして、兵乱に及ばしめしの由は、伏して過状を弁じ了んぬ。将門本意にあらずと雖も、一国を討滅しぬれば、罪科軽からず、百県に及ぶべし。之によりて朝議を候うの間、しばらく坂東の諸国を虜掠し了んぬ。 介の維幾は息子の為憲に諭すべきところ、こんな戦に及んでしまった罪を自ら認める詫び状を出してきました。私は不本意ではありましが、一国を討ち滅ぼしてしまったのです。その罪は軽くなく、百県を領するのも同罪です。このため朝廷の判断をあおぐ間、坂東の諸国を制圧していったのです。
伏して昭穆を案ずるに将門は已に栢原帝王五代之孫なり、たとひ永く半国を領するとも、豈非運と謂はんや。 伏して祖先のことを顧みますと私はまさに桓武天皇の五代の子孫です。たとえ長く日本の半分を領有したとしても、これは天命というものでしょう。
昔兵威を振ひて天下を取る者は皆史書に見るところ也。
将門天の与ふるところ既に武芸に在り、等輩を思惟するに誰か将門に比ばんや。而るに公家褒賞の由无く、しばしば屡譴責の符を下さるるは、身を省みるに恥多し面目何ぞ施さん。推して之を察したまはば、甚だ以て幸(さいはひ)なり。
昔は武力で兵力をふるって天下を取った者が多く史書に載っています。私の武力は天授であります。天下のだれが私に並ぶでしょうか。それなのに公家からは褒賞はなく、逆に何度も譴責の官符を下されています。身を省みると恥ばかり。面目をどうやって施しましょうか。これを推察していただけますなら、たいへん幸いであります。
そもそも将門少年の日、名簿を太政大殿に奉じ、数十年にして今に至りぬ。相国摂政の世に意はざりき此事を挙げんとは。歎念の至り、言ふに勝ゆ可からず。将門傾国の謀を萌すと雖、何ぞ旧主を忘れんや。貴閣且つ之を察するを賜はらば甚だ幸なり。一を以て万を貫(つらぬ)く。将門謹言。 そもそも私は少年のころ名簿を太政大殿に奉り、それから数十年、今日に至ります。閣下が摂政となられた今、思いもかけずこのような事件となってしまいました。歎くばかりで、言うべき言葉もありません。私は国を傾ける謀を持っているとはいえ、どうして旧主を忘れましょうか。ここを察していただけますなら、大変幸いであります。一文、万感を込めています。

将門謹言

天慶二年十二月十五
謹々上 太政大殿少将閣賀恩下
天慶2年12月15日
謹々上、太政大殿の少将(師氏)閣賀 恩下

 


 

不思議な文章です。

不本意ではありますが一国を討ち滅ぼしてしまったのです。その罪は軽くなく、百県を領するのも同罪です。
このため朝廷の判断をあおぐ間、坂東の諸国を制圧していったのです

これはほとんど開き直り。理由にもならない理由です。
ところが、将門は『オレのような強い者が天下の半分を支配するのは当然だ』といっておきながら、その後で『思いもかけず、このような事態になってしまった』と詫びているようでもあります。

さらに別の疑問も生じます。

なぜ将門記の作者は将門が藤原忠平宛に手紙を書いたことを知っていたのでしょう?
そればかりか、どういう手段でその内容を知ったのでしょう?

もしこの手紙がこの作者の創作でなく事実だとしたら、将門記の作者は藤原忠平の近くに仕える誰かだったのではないでしょうか?
将門記の前半は下総・常陸方面の地理・地名が詳しく書かれていますが、後半はそうでもありません。
あるいは前半と後半で作者が違うのかもしれません。

この手紙は将門のような無学な田舎武者が直接自分で書いたとも思えず、別の学識のある人(例えば興世王)が将門の話すことを書状にしたのかもしれません。その人が誰かに他の人に話したとすればつじつまは合います。

とこかく将門はこう書いています。

私はまさに桓武天皇の五代の子孫です。たとえ長く日本の半分を領有したとしても、これは天命というものでしょう。
昔は武力で兵力をふるって天下を取った者が多く史書に載っています。私の武勇は天授であります。天下のだれが私に並ぶでしょうか。

 

将門は力のあるものが天下を取るのだ、といっています。彼は新皇を称しましたから藤原氏の横暴に憤慨し、天皇に取って代わることを宣言したのです。この点、後世の源頼朝、足利尊氏のように征夷大将軍の称号で満足し、国政を天皇から委任されることを目的に行動した武将とは明らかに違います。

将門は天皇になろうとしたのではなく、皇帝になろうとしたのでしょう。
詳細は書きませんが天皇とは皇帝は違うものなのです。

天皇になれる者は天皇家の血筋の者に限られるのですが、将門は天皇の血統といっても祖父の高望が臣籍降下で家臣となっているため、もはや皇族の扱いは受けません。

天皇になれる者は天皇家の血筋の者に限られます。その根拠となったのは日本書記・古事記の一節です。
皇祖神、天照大神が孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を豊葦原瑞穂国(トヨアシハラノミズホノクニ)へ降臨させた時、次のように言ったとされています。

 

葦原千五百秋之瑞穂国、是吾子孫可王之地也、宜爾皇孫就而治焉行矣、宝祚之隆当与天壌無窮者矣

豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宜しく爾皇孫就きて治せ。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮まり無かりけむ

豊葦原の稔り多き瑞穂の国は、私(天照大神)の子孫が王となって治めるべき国です。
我が孫・瓊瓊杵尊よ、その国をよろしく治めなさい。天皇の御世の繁栄は天と地のように無窮のものなのです

*無窮とは永久、永遠という意味

 

この背後(天照大神がなぜ孫の瓊瓊杵尊に指示したのか)の事情を考えるのも興味深いのですが、これは別の機会に。
ともかく天地が永久に栄えるということからこの文は『天壌無窮の神勅(てんじょうむきゅうのしんちょく)』といわれ、天皇の子孫が皇位に就くことの正当性がここで謳われたのです。
不思議なことに日本史上の権力者(将門の時代なら藤原氏)はこの文章を無視せず、素直に従って(?)皇位を狙おうとは思いませんでした。

天皇家の論理は天皇の血統がその地位に就任する。いわば『血の論理』です。これに対して皇帝とは『力で取って代われる』ものなのです。その良い例が中国皇帝でしょう。漢の劉邦や明の朱元章などの歴代の中国初代皇帝は前時代の政府を武力で倒し帝位に就いたのです。


 

将門の新皇宣言はまさに空前絶後・驚天動地の出来事で、不安になって将門の行為を諌める者もいました。弟の将平と、将門の側近の伊和員経(いわのかずつね)です。

将門記によれば、将平は将門にこのように説きます。

帝王の地位は智をもって競うべきものでも、力をもって争うものでもありません。昔から今に至るまで天下を治める君主も、王位を受け継ぐ王も、すべて天の与えるものなのです。兄上のなさったことは後世からそしられることになります。

将門はこう反論します。

将門は今や坂東一の武者としてその名は天下にとどろいている。昔のことは知らないが、今の世は、武勇のある者を君主とする。たとえ我が国に前例がないとしても、すでに他国には例がある。
大契丹王は渤海国を討ち、国名を東丹とし領有した。力をもって征服したのだ。

 

伊和員経はこのように説きました

諌臣がいれば君主は不義を行わないものです。そうでなければ国に危機が訪れるでしょう。『天に逆らえばわざわいがあり、王に背けば罰をこうむる』といいます。願わくば耆婆(古代インドの名医。王を諌めた)のことを思い浮かべ、よくよくお考えください。

将門

能力や才能は人によっては不幸となるが、別の人にとっては喜びとなる。一度口に出した言葉は四頭だての馬車でも追いつけない。それをくつがえそうとするのは、汝らの考えが足りないからだ

 

将門の反論に員経は説得を諦めたとのことですが、これらの問答はおそらく将門記作者の創作でしょう。
大契丹王とは耶律阿保機(やりつ あぼき、872〜926)のことで、中国北方民族の遼国(契丹国)の建国者(在位916〜926)で、中国文化の摂取につとめるつつ、契丹文字を作ったことでも知られます。

この中国大陸の動きを一介の坂東武者にすぎない将門が知っているとは思えませんし、伊和員経の諫言の内容も当時の武士のそれとは考えられないのです。


 

■将門の最期

将門の常陸、下野、上野の国府襲撃は京を震撼させました。朝廷は大慌てで940年2月8日、藤原忠文を征討将軍に任命します。忠文は当時の貴族としてはめずらしく謹厳な人で、任命されるや帰宅せずにただちに坂東に向かったと言われます。

それが可能だったのは当時は国軍がなかったため、藤原忠文に限らず任命された将軍は身軽だったためです。外国でしたら皇帝の命令で国軍が編成され(兵が徴集され)た後、将軍に率いられて出発するのです。

身軽な反面、将軍達は行く先々で兵を徴集しなければなりませんでした。身軽と言えば身軽。テキトーといえばテキトーでした。
しかし藤原忠文が坂東に到着する前に将門は藤原秀郷、平貞盛、藤原為憲の連合軍の前に敗死したのです。

 

前年からの長期間にわたる軍事行動で疲れた兵を帰郷させていたため、将門の手元にはわずかの兵しかいませんでした。
これを知った平貞盛と藤原為憲は藤原秀郷と手を組み挙兵します。

藤原秀郷は当時下野国の指折りの豪族であり、押領司(おうりょうし・・・警察署長のような役)に任ぜられていました。なぜ彼が将門と戦うつもりになったのかはわかりません。負け犬(平貞盛と藤原為憲)の説得に応じるほど甘い男ではないと思いますが、坂東における自分の立場を強固なものにするため立ちあがったのでしょう。

将門を討って坂東一の武者となり、朝廷から官位を得たい。
それには今が千載一遇のチャンスだ。征討将軍と一緒に戦っては、勝ったとしても朝廷内での自分の印象が薄くなる・・

こんな風に考えたのではないでしょうか。

2月1日、秀郷等の挙兵を知った将門は直ちに下野に向かいますが、ここで将門の先発隊の藤原玄茂、多治経明、坂上遂高等が現在の栃木県下都賀郡岩舟町付近で秀郷の軍と戦い敗北を喫してしまいます。秀郷軍はそのまま下総国川口(現在の茨城県結城郡八千代町付近)に進出して将門軍をここでも破ります。

2度の敗戦で兵数が少なくなった将門は辛嶋の広江に潜伏。
広江とはその名のとおり葦が茂る広大な湿地帯だったのでしょう。藤原秀郷は将門をおびき出すため、将門勢力下の民家を焼き払います。秀郷はあくまで将門を倒すつもりでした。征討将軍が到着すれば、へたをすれば恩賞を持って行かれてしまうし、旧暦2月は現在の3月。もたついていると農作業が忙しくなり、兵を集めることができなくなるのです。

一方将門はこのまま広江に潜伏していては自滅を待つばかりと判断し、残った400人の兵を率いて辛嶋の北山に陣取ったといわれます。この辛嶋の北山とはどのあたりなのか。将門記の後半の地名の記述はあいまいですが、現在の茨城県岩井市と推定されています。

2月14日、ついに最後の合戦がはじまりました。
順風(追い風)を得て将門軍の射る矢が次々に秀郷軍の前軍の兵を倒すとたちまち秀郷軍は混乱して4000人いた兵は逃げ散ってしまい、秀郷の周囲にはわずか300人の兵しか残らなかったようです。

ところがこの機を逃さず将門が一気に勝敗を決しようと秀郷めがけて突撃すると、ここで風向きが急変しました。この風は早春によくある春一番のようなものだったでしょう。風向きは短時間でめまぐるしく変わります。

強い向い風の中、将門の馬は棒立ちとなり、彼自身目もよく開けていられない状態でした。
この時将門は、どこからともなく飛んできた矢に射られたのです。
後年書かれた扶桑略記によれば、将門は貞盛の矢にあたって落馬したところ、秀郷が駆け寄り将門を討ち取ったと書かれていますが、これは作り話でしょう。

将門が戦死すると彼の兵は四散し、主だった者もその後の落武者狩りで討ち取られ、将門の乱は終わりました。
将門記の作者は将門の死を天罰としつつも、その一方でこう書いています。

天下にいまだ将軍が自ら戦い、戦死した例はない。誰がこのようなことを予測しただろう

そもそも新皇が名声を失い、身を滅ぼしたのは興世王等のはかりごとによるのだ。なんと悲しいことか

 


 

■将門を討った人達

●藤原秀郷(生没年不詳)

藤原秀郷は別名田原藤太(たわらのとうた)とも言われ、北家藤原房前の子で左大臣の魚名の子孫と伝えられています。
田原(俵)姓は子供のころ住んだ京都郊外の田原郷とも、後に領した下野国田原郷からとったとも、例のムカデ退治のお礼に米俵を貰ったからとも言われます。

彼自身藤太と名乗ったことはおそらくないでしょう。藤太と言う名前は『藤原氏一族の長男・・・・藤原太郎』という意味で、これは他の人が秀郷を呼ぶとき使う名称なのです。

若いころは乱暴者として知られ、事実国府の役人を殴り殺し一時は伊豆に流されたこともありました。しかし赦されて帰郷した後はまじめ(?)になったようで927年下野国押領使に任ぜられ、将門の乱の後は功績によって下野守、武蔵守を兼任します。

こんな話があります。

将門が新皇を称しその勢いが絶頂だったころ、藤原秀郷は将門に臣従すべく石井にある将門の館を訪問した。
挨拶が済み、一緒に食事をしていたときのこと。
将門は食べるのが恐ろしく早い。しかもポロポロと飯を床に落としているし、その飯を箸でつまんで食べている。
それを見た秀郷は、こんな飯の食い方をするヤツに坂東を治めることなどできるはずがない・・・・・そう考えて臣従するのを思いとどまった。

あるいは秀郷が将門の館を訪れたとき、将門は喜びのあまり結いかけていた髪を途中で止めて、バラバラの髪で秀郷に会った。それを見た秀郷は『大将たる重みがない』と判断し、臣従するのを思いとどまった。

 

ま、実話ではないでしょうが、一時は将門の勢いが大きくなり秀郷も臣従すべきかどうか迷ったことは事実でしょう。

 

唐沢山城跡(栃木県安蘇郡田沼町栃本)

藤原秀郷の築城といわれています。
秀郷より6代目の成行は下野国足利荘に移って足利氏を称しました。
しかし清和源氏の足利氏(足利尊氏の足利氏)の勃興とともに勢力は衰え、9代目の俊綱の弟成俊は1180年、佐野氏を称して廃城となっていた唐沢山城を再築しなおしたのです。

1613年、大名としての佐野家は江戸幕府の政策により断絶、城主佐野信吉は信州松本城にお預けとなりましたが、23年後、三代将軍家光から赦され、信吉の二人の子は旗本として佐野家を再興し、明治に至っています。

また北面の武士でありながら出家して西行と名のった佐藤義清、奥州藤原氏の祖となった藤原清衡、共に藤原秀郷の子孫と言われています。

 

●平貞盛(生没年不詳)

桓武平氏は平貞盛の代において中央との関係を持ったことが彼の子孫達・・・忠盛や清盛が大栄達するきっかけとなりました。
将門の乱を平定した功により従五位上となり、丹波守や陸奥守、鎮守府将軍などの職務を歴任します。面白いことに彼は自分の子供達のみならず、甥や甥の子どもまでも自分の養子としたことで、これも一族繁栄の方法だったのでしょうか。

たとえば貞盛の弟の繁盛(しげもり)の孫である維茂を自分の十五男として養子にし、自分の威光でこれを鎮守府将軍にしています。
維茂は十五男・・・十にって男・・・ということで余五(よご)将軍とも呼ばれました。後年源平の争乱期、木曽義仲に敗れた城助職はこの平維茂の子孫です。

貞盛は後に伊勢守に任ぜられて伊勢国に移り住み、貞盛、維衡(ただひら)、正度(まさのり)と伊勢に定着すると伊勢平氏と呼ばれるようになり、ここが平氏の本拠地となりました。正度の後は、正衡(まさひら)、忠盛(ただもり)、清盛と続くのです。

 

高望王−平国香−貞盛−維衡−正度−正衡−正盛−忠盛−清盛−重盛−維盛

 

清盛以前で特筆すべきは平忠盛でしょう。
忠盛は伯耆、越前、備前、美作、尾張、播磨等の国守を歴任。検非違使左衛門尉、内蔵頭・刑部卿、正四位上を与えられ昇殿を許されたのです。

これは武士にとっては源義家以来のことでした。
武士のくせに生意気なと、それを快く思わない貴族達は忠盛を怒らせて宮中で刀を抜かせて罪に陥れようと策略を練ったり、ある酒宴の席で伊勢の平氏はすがめなりと歌ってあざ笑ったのです。

注1) 宮中で刀を抜かせて罪に陥れようと・・・・これは貴族達のたくらみを事前に知った忠盛の機転で事なきを得ました
注2) 伊勢の平氏はすがめなり・・・平氏を瓶子(へいし・・・酒の徳利)、すがめを素瓶(素焼きのカメ)に引っかけている。事実忠盛りはすがめ(片目)だったらしい

 

しかし忠盛はそんなことはなんのその。
強大な武力・財力だけでなく、歌人として宮廷の教養まで身につけて平氏の地位向上に努めたのです。

 

●藤原為憲(生没年不詳)

この人のその後はよくわかりません。
ただいつのころか、木工頭や遠江権守に任ぜられたようです。
木工頭(もくのかみ)とは職人を束ねる管理職ですが、木工の藤原ということで『工藤』という姓を名乗ったかもしれません。

 

●源経基(?〜961)

源経基は清和天皇の六男貞純親王の子で、六男にできた孫と言う意味で六孫王とも言われました。後に日本史上有名な源氏の武将・・・・源義家、頼朝、義経、足利尊氏、新田義貞、武田信玄・・・・の先祖にあたります。もっとも彼の子孫達は武将として有名になりますが、初代である源経基は昨日まで京都にあって公家暮らしをしていた身。武将としての心得など何一つ持たない柔弱な人だったようです。

源経基館跡(埼玉県鴻巣市)
はっきりしたことは不明ですが、源経基の館跡と伝えられています。広さは東西90m、南北80mの方形の城郭で、西斜面側を除く3方に空堀・土塁があります。

 


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