以和為貴
日本人の根底にあるのは『血の論理』であり、これに対して中国やヨーロッパのそれは『力の論理』と考えます。そのことを私は『中世編』で書きました。ここでいう血の論理とは個人と個人、あるいは集団と集団を結びつける基本を血のつながりとか、血縁に求めるという意味です。まあ、最初はそちらを読んでいただくとして、これをもう少し補足したいと思います。
どんな集団でもそれが集団として成立し、機能するには共通の価値観を必要とします。いわゆる『同じ旗の下に集う』というヤツです。その価値観とは、中華思想のように相当明確に意識されているものもあれば、日本人の血の論理のように無意識のうちに行動として表れるようなものもあります。
日本人が、どれほど血の論理を無意識のうちに持っているか。
腹を痛めた子という言葉があります。もちろん自分で生んだ子のことです。子であれば母が出産するというのが日本人には当然のことなのです。もらい子という言葉もあります。養子のことです。
この場合、日本人の感覚でいえば・・というより私の感覚かな?・・養子とは法律上はその人の子供でも、どうしても他人という感覚が拭えません。血の繋がりがないからです。そのため実子同然にかわいがる、という言い訳めいた言葉さえあります。もらい子も、実施同然にかわいがるも、血の論理なしでは生まれない言葉です。ついでに言えば、生みの親より育ての親とか、氏より育ちという言葉は、血の論理を逆説的に表現した言葉です。
実子同然にかわいがるということは、突き詰めていけば養子とは日本人にとって、ある種の暗さを感じさせる言葉なのかもしれません。(暗さとは他に適切な言葉が思いつかないので使いました。差別的な意味からではありません)これに対し外国では、テレビで紹介されたアメリカの家族ですが、実子もちゃんといる上に肌の色の違う子が、何人もその家の養子として育てられているのを見たことがあります。当然その養子達は自分達が養子であることを知っているし、養父母もそのことを世間に隠してはいないのです。
日本では他人同士が集団を作る時には、たとえば反社会的集団であるやくざの上下関係は親分・子分ですし、その集団は○○一家と呼ばれます。また私自身の例でいえば、ずっと以前私の会社の入社式である重役が、会社とは社長を父親とする一家のようなものだとスピーチしたのが妙に印象に残っています。
日本の代表的企業である本田技研では、創業者の本田宗一郎氏は社員から『オヤジ』と呼ばれたようです。つまりやくざの組織も企業も擬似血縁集団なのです。同じ釜の飯を食うという言葉はこの擬似血縁集団の考えから生まれたものです。なぜ日本人はこうまで血縁を重視するのでしょう。もっとも最近では、この血縁重視の濃度は相当薄まっているでしょうけれど。
明治天皇は日露戦争の前夜に、『四方(よも)の海 みな同胞(はらから)と思ふ世に など波風のたちさわぐらむ』という歌を詠まれました。この歌は太平洋戦争開戦前に昭和天皇も引合いに出しています。
『四方の海』とは世界中ということで、世界の人々はみな親子兄弟なのに、なぜ戦争が起きるのかという意味ですが、これこそまさに日本人の血の論理を言い表した考えなのです。
この歌以上に血の論理をストレートに表現したのが故笹川良一で、彼のスローガンはずばり『世界は一家、人類皆兄弟』でした。私が若いころ、このスローガンはある団体のテレビCMとなって毎日流れたものです。明治天皇の歌も、笹川良一のスローガンも、これは我々は家族なんだ。だから仲良くしようじゃないか、という考えです。
こういう考え(思想というべきか)は、おそらく日本人だけのものでしょう。親子兄弟だから仲良くするということは、自分達家族(一族)さえ良ければ他人はどうでもいいという考えにつながります。外国のように、他人が他人のままで時には議論し、時には協調してやっていくという考えは、本来日本人には希薄なのではないでしょうか。外国人なら、オレは君達と兄弟だなんて思っていない。他人だ。他人なら必然的に争うことになるのか、と逆に質問されてしまうかもしれません。もっとも旧約聖書によれば人類の祖先はアダムとイブなので、その意味では『人類皆兄弟』のはずなんですが(笑)
日本人の血の論理に対し、ヨーロッパの論理は明らかに力の論理です。中国の場合、さらに中華思想が加わります。
これらの地域でなぜ力の論理が発生したかはっきりした理由はわかりませんが、中国はともかくヨーロッパにおいては、一神教特有の神への従属意識と無関係ではないでしょう。一神教は神の教えを絶対のものと規定し、そこからはみ出す精神は排除すべきものなのです。力の論理は支配の論理と置き換えてもいいかもしれません。それがよくわかるのが古代の奴隷制度です。
古代では異なる集団(異なる民族や、異なる宗教を信じる者)に属する者は人間と見なされず、それは征服の対象となります。
古代の無数の戦争で被征服者の多くは男は殺され、女はなぐさみものとなり、生き残った者は奴隷として使役させられて来ました。奴隷制度は力の論理なしではありえないシステムなのです。それとヨーロッパで奴隷制度が生まれたのは、この地域は全域ではないにしろ、狩猟と牧畜が主であって農業ではなかったことと関係があるのではないでしょうか。狩猟も牧畜も人間による動物支配だからです。
しかし力の論理とはいえ、古代にあっては大集団(いわゆる部族連合)は、より小規模な集団の寄せ集めであり、その小集団は日本・外国を問わず、血縁で結びつく集団だったことは間違いありません。つまりどこの世界でも、大集団を構成する最小単位は血縁集団だったということです。しかし日本においては、本来小規模であるはずの血の論理が国家レベルまで範囲を拡大し、それが今日まで続いているという奇妙な現象が起きているのです。
その昔。
大陸から日本に渡来した『その集団』は、さまざまな経緯を経て奈良盆地に政治と軍事の拠点を置き、近隣諸国を征服して行きました。彼らのリーダーは、後年崇神天皇とか、応神天皇とか呼ばれるようになる人かもしれません。
征服の過程では力の論理が全面的に押し出され、征服地では王は殺され、多くの民衆は征服者の軍隊に編入させられ、あるいは奴隷とされて行ったことでしょう。それを逆説的に神話化したのが、大国主の国譲りの神話であることはいうまでもありません。なぜ血の論理が日本人の基本原理になったのかは、詳しく説明することはできません。
中国のように広大な土地を持たず、狭い地域に北方系、南方系など種々雑多な民族・人種がひしめき合う日本にあっては、統一のために、民族や人種ごとにバラバラだった価値観を越える別の価値観を創造し、広める必要があったと思えるのです。もちろん別の価値観とは血の論理のことです。私はいつのころかはわかりませんが、大和朝廷の征服事業が一段落した時、それまでの力の論理から血の論理への方向転換があったのではないかと漠然と考えています。そしてこの方向転換こそ、怨霊の発生にも大きな影響を与えたのではないかとも思うのです。
それがいつごろなのかは、わかりません。
でもそれがはじめて明文化されたのは、聖徳太子の十七条の憲法だったのではないでしょうか。
■聖徳太子の登場
年 天皇 聖徳太子 主な事件 507 継体
526 磐井の乱 539 欽明
552 仏教伝来 572 敏達
574 誕生 585 用明 587 崇峻
崇仏戦争
物部氏没落
穴穂部皇子殺される592 推古
崇峻天皇暗殺される 593 摂政となる 600 朝鮮出兵を計画 来目皇子死去 602 第2次朝鮮出兵を計画 603 冠位十二階を定める 604 十七条の憲法 622 太子死す 以和為貴 無忤為宗・・・やわらぎをもって とうとしとなし さからうことなきを むねとせよ
有名な聖徳太子の十七条の憲法の第一条です(604年発令)。憲法といっても現代のそれとはだいぶ違っていますし、法律というよりは当時の国家公務員の服務規程のようなものです。法律は第一条が最も重要なものですが、そこに以和為貴と書いた聖徳太子の真意は一体何なのか。
和の反対は不和です。
不和とは、仲が悪いこと。つまり、わざわざ以和為貴と書かなければならないほど、聖徳太子の時代は和が無視されていた、乱れていたということです。以和為貴・・・太子は我々はお互い仲良くやるべきだ、仲良くしろ、と言っているのです。『世界は一家 人類皆兄弟』に通ずるものがあります。
これこそ当時の社会情勢を憂えた聖徳太子が、力の論理を捨てて、皇族を含めた諸豪族を一家・一族とみなす血の論理の宣言なのではないでしょうか。天才聖徳太子にしてはじめて発想できる極めてユニークな思想です。血の論理は聖徳太子の宣言によって、公務員だけでなく全国民にかなり普及(?)するようになります。その影響は現代にまで続いています。日本では外国に比して凶悪犯罪が少ないこと、最近では揺らぎつつあるものの日本経済の発展に多大に貢献した日本式経営、身分制度はあっても階級制度がないこと、そのため支配階級と被支配階級の格差が少なく、自らの意志で階級を超えることも可能であること・・。これらは和と血の論理の長所です。
では聖徳太子は、どのような経緯で以和為貴を唱えるようになったのか。その前に次の系図をご覧ください。
聖徳太子の目標は、当時権勢を極めた蘇我氏の力を押さえ、天皇を頂点とする政治システムの構築でした。
この系図のとおり、聖徳太子に関係する天皇で30代敏達天皇以外、蘇我氏につながらない天皇はいないのです。蘇我馬子(?〜626)から見れば欽明天皇とは義理の兄弟、用明・推古天皇とは甥と姪。崇峻天皇は甥であり、同時に娘婿にあたります。
太子自身の両親も共に馬子の甥と姪になりますし、太子の妻の一人は馬子の娘なのです。このことは、当時蘇我氏の権勢が後年の藤原氏ほどではないものの、いかに強大だったかを物語るものです。太子が14歳の時、有名な崇仏論争が起こります。
いうまでもなく、大陸から伝来した新興宗教の仏教の受け入れを巡って、広めようとする蘇我氏とこれに反対する物部氏の争いですが、仏教の件はオマケのようなもので、実際にはこれは用明天皇亡き後の皇位継承に関わる両氏の勢力争いでした。
太子は関係深い蘇我氏と共に物部氏と戦っています。太子が木彫りの四天王を作り、勝利の暁には寺を立てると誓ったのはこの時のことす。(後の四天王寺)
戦いは蘇我側の圧勝で、穴穂部皇子(馬子の甥)と、穴穂部を推した物部守屋は戦死し、泊瀬部皇子(馬子の甥)が即位します。崇峻天皇です。当時の天皇の立場は絶対的独裁君主ではなく、有力諸豪族(蘇我氏、物部氏)による連合政権の盟主と言っても差し支えありません。徳川幕府と諸大名の関係のようなものですが、当時の天皇には逆立ちしても徳川幕府(初期の)ほどの権力は持っていなかったのです。
物部氏の没落は連合政権の崩壊でもありました。物部と蘇我の力のバランスの上に天皇家があったのです。有力家臣団が二つに分かれて戦うような後継者争いは、多くの場合勝ったとしても自分を推す有力家臣に頭が上がらなくなるものです。
崇峻もそうでした。馬子が崇峻を推したのは、自分の権力を高めるためであって忠義心からではありません。当然ながら崇峻は馬子の操り人形で、次第に不満が募ります。592年10月。猪を献上された崇峻は、いつかこの猪のように憎いと奴を斬りたいものだ、と側近にもらしました。それを聞いた馬子は身の危険を感じ、家臣の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて崇峻を暗殺させるのです。
日本書紀では崇峻は東漢直駒に殺され、東漢直駒は馬子に殺されたと書かれていますが、馬子が東漢直駒を殺したのは、崇峻殺しの実行犯だったからとは書かれていません。東漢直駒が馬子の娘で崇峻の妻の河上と密通したため、怒った馬子に殺されたとなっています。そしてこの河上が実際には聖徳太子の妻だったという説もあるのです。上の系図では太子の妻は刀自古となっていますが、この刀自古が河上と同一人物だったというワケです。刀自(とじ)とは主婦・夫人という意味で人名ではありません。刀自古(とじこ)は刀自子であり、奥方様というような意味です。
聖徳太子が非常に鋭敏な頭脳の持ち主であったことはいうまでもありませんが、またその反面、彼はそうした人にありがちな繊細で神経質な面も、気弱な面も多分に持ち合わせていたように思えます。当時は蘇我氏をはじめ、多くの豪族たちが勢力争いに明け暮れ互いに争い殺し合い、皇族といえどもいつ巻き込まれて蹴落とされ、殺されるかわからない時代でした。
聖徳太子にとって最大の政敵は蘇我馬子だったでしょう。
前にも書きましたが馬子は、当時の名のある皇族で、馬子と血縁でつながらない人はいないほどの勢力家でした。聖徳太子自身にとっても両親は馬子の甥と姪であり、妻の父親でもありました。そんな太子にとって馬子は頼りになる親戚ではなく、叔父の崇峻を殺し国政を私物化する大悪人だったのです。崇峻が暗殺された後、天皇候補は第一に聖徳太子であり、次は太子の従兄弟で額田部皇女の子の竹田皇子でした。この時太子は19歳。年齢に不足はありません。しかし結局太子は天皇にならず、代わりになったのが叔母の額田部皇女でした。推古天皇です。
なぜ聖徳太子は天皇にならなかったのか。
この時期、彼は一時的ではあっても崇峻天皇暗殺の黒幕ではないかと疑われ、おまけに妻がその犯人と不倫の関係があって家を飛び出してしまう・・・ショックのあまり太子はノイローゼになり有馬温泉で療養する日々を送った・・・・この部分は聖徳太子の悲劇(豊田有恒著)から拝借しています。聖徳太子の妻が東漢直駒と男女の関係にあったことは不確実ですが、太子が何かの病気で温泉療養をしていたのは確かです。有馬温泉で聖徳太子は何を考えたか。
豪族達は争いばかりしている。
元凶は蘇我馬子だ。
いかに崇峻が飾り物の天皇だからといって、主君を殺すなんて八逆の大罪だ。
しかも自分(馬子)の婿じゃないか。自分の婿さえ平気で殺すんだから、姪の婿であるオレ(聖徳太子)を殺すなんて何とも思わないだろう。
だからオレもいつか殺されるかもしれない。そうならないうちに先手を打たなければならない。
しかし兵を挙げて討つには蘇我馬子の勢力はあまりに強大だ。
だから法で規制するしかないだろう。これは私の適当な想像にすぎませんが、太子の不安は太子の子の山背大兄王(? 〜 645)の代に敵中しました。山背は馬子の孫の入鹿に殺されたのです。
いささか強引かもしれませんが、以和為貴(和を以って貴しとなす)は、こうした背景から馬子をはじめとする豪族達の争いを押さえ込むために生まれたのではないでしょうか?
■血の論理と怨霊
怨霊は、力の論理の世界では倒すべきもの、克服すべきものです。これは一神教における怨霊の考えをみれば明らかです。
しかし血の論理の世界では、怨霊は畏れ崇めるものなのです。
それが良いか悪いかは別として、和を乱さなければ誰もが気分がよく、したがって怨霊が発生する余地はないはずなのです。しかし現実に怨霊が発生したのは歴史の事実です。怨霊とは、和を乱し血の論理からはみ出すものとも言えます。
なぜ和を乱し、血の論理からはみ出すのか・・・というより権力者は、彼等にとって邪魔な人間を『和を乱すもの』として排除しているのでしょう。大津皇子が殺されたのは持統天皇が、我が子を即位させたいと願う『持統なりの和』を乱すと考えたからです。早良皇子が殺されたのも桓武天皇が同じことを考えたからです。菅原道真が左遷させられたのは、公家達が自分達の和を乱すと考えたからです。
和を乱す者、排除された者が怨霊になる可能性があるわけですから、そうなると日本人は和を乱さぬよう、和からはみ出ないように・・とそればかり気にするようになります。形式主義、前例主義はお役人(日本人?)の悪しき風習で、出る釘は打たれてしまうのです。朕の新義は未来の前例なりとは、家臣の形式主義・前例主義に怒り狂った後醍醐天皇の有名な言葉ですが、後醍醐は死後怨霊となり、室町幕府に祟ったとされています。もっとも小説(太平記)の中ですが(笑)
これに対してあらゆることに前例を無視し続けた織田信長が怨霊になったという話は聞いたことがありません。天下統一の直前で殺されたのですから無念さは日本史上トップクラスのはずです。
ただでさえ戦国時代ですから、無念の死を遂げた人は無数にいるはずなのですが、この時代に怨霊が現れたという話はちょっと聞いたことがありません。それというのも、この時代は日本では珍しく力の論理が優先した時代だったからでしょう。形式主義、前例主義とは澱んだ水のようなものです。澱んだ水を嫌い、新鮮な水にあこがれた宇多天皇と菅原道真がどれほど失意の日々をおくったことか。これは和と血の論理の欠点ですし、その欠点は我々は仲間なんだからまあいいじゃないか、という日本人特有のあいまいさや、甘えにつながるのです。
菅原道真の怨霊に恐れおののいた朝廷は、彼に生前以上の官位を贈り、さらに北野天満に祀りました。道真に限らず、怨霊の多くは神社に神として祀られていますが、これは、『我々(怨霊を恐れる朝廷側)は、これほどまでにあなた(怨霊となった人達)を祀っているのだから、もう祟るのは止めてください』と言っているのです。自分達が彼らを陥れたにもかかわらず、です。
これが甘え以外の何でしょう?
また怨霊達の立場から見れば、彼らが祟るのは、もう一度和の中に入れてくれ、とダダをこねている、とも言えるでしょう。当然これも甘えなのです。
十七条の憲法で明文化され、聖徳太子が推進した血の論理は、古事記や日本書紀が書かれたころにはほぼ定着したと思われます。記紀に描かれた日本の神々と、日本独自の王権の根拠がそれを表していると思えるからです。
ここで統治方式について日本と中国を比べてみることにします。■王権の根拠
古代中国には、帝王というものは誰でもなれるものではなく、天帝が人類の中からその資格を有する者を我が子とみなし、人類の監督者として委任している、という考えがあります。つまらん例ですが、会社の社長が株主から経営を任せられているようなものです。天帝とは古代中国における最高神ですが、日本の天照大神のような姿かたちが見えるような人格神ではありません。
帝王の資格のことを古代中国人は『徳』といいました。徳とは智仁勇の三徳。また仁義礼智信の五常徳、父子の親(しん)、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の五倫を指しました。必ずしも武力に優れている必要はなく、人間としての品性を重視したようで、例えば小説三国志演技の劉備玄徳はそのような有徳の人として描かれています。しかし現実の中国史で有徳の帝王などいたためしはなく、この考えは古代中国人の理想をあらわしたものなのです。
では帝王の資格が疑問視されたらどうすればいいのかというと簡単なことで、帝王を取りかえてその資格(徳)を有する人を新しい帝王にすればいいのです。
帝王がその資格を失う要因はそれほど多くはありません。
たとえば天変地異・疫病などの自然現象とか、重税・過酷な役務などで人民を苦しめるなどがそれです。
飢饉、旱魃、洪水などはただの自然現象ですが、中国伝来の天人相関説によれば天変地異、疫病、戦乱などは王の不徳のいたすところで、これらが多いということは天子の資格がないとすら考えられていたのです。
天人相関説とは前漢の董仲舒(前176〜前104)が春秋繁露で唱えたもので、人体の各部分と字宙を構成する各部のそれぞれには一定の関係があるとする説でした。
時代が下ると天人相関説は陰陽五行説と結びつき、天変地異、異常気象等自然界の異変と、帝王の徳とが関連するものと考えられるようになり、もし帝王に悪政があれば、天は警告として異変を起こすというのです。簡単に言えば、こんなに天変地異が起きるのは、戦乱が絶えないのは、王がだらしないからだ、と現在では笑い話にもならないようなことが、古代では本気で信じられていたのです。しかしそれを笑ってはいけません。当時はそれが常識だったのですから。
この天人相関説は、帝王にとって両刃の刃ともいえる非常に危険な考えでした。なにしろ自然界に異変が続けば、不徳の帝王にされてしまうのです。しかし逆に豊作などの瑞祥、吉事が続けば、これも帝王の徳として賞賛されるようになるのです。
この天人相関説は日本にももたらされましたが、中国も日本も権力者は天文の観測や、暦を制定を独占することで瑞祥を自らの功績にすることを図りました。ちなみに日本における天文の観測や、暦を制定する部門が陰陽寮であり、それに携わる人が陰陽師です。さて天帝が我が子とみなすことから、中国の帝王は天子(てんし)とも呼ばれました。天子という呼称は日本にも伝わり、天皇がそう呼ばれていたこともあります。また帝王を取りかえて新しい人を帝王にすることは、天命(天帝の命令)を革める(あらためる)ということから革命と呼ばれています。革命も日本語になっています。また新しい帝王は、それまでの帝王とは別の氏族になりますから、当然姓が変わります。このため革命は易姓革命とも言われます。
一方日本の統治方式はどうでしょうか。
天照大神は、大国主命が統治していた豊葦原中津国(トヨアシハラノナカツクニ)に将軍を派遣しこれを平定した後、孫の邇邇芸命(ニニギノミコト)に与えるため、ニニギに中津国に行くよう命じました。これが天孫降臨です。初代神武天皇以下現在に至るまで、天皇は天照大神の子孫とされました。さらに天皇家に仕える氏族・・・物部氏、蘇我氏、藤原氏など古代の大族は天照大神、あるいは天照大神の側近の神々の子孫とされているのです。
物部氏: 先祖は饒速日尊(ニギハヤイノミコト)。
アメノオシホミミの子で、ニニギの兄であるアメノホアカリと同一の神であるとしているが、高天原の神々の一人で、皇統ではないとしている。葛城氏:
平群氏:
巨勢氏:
蘇我氏:
紀氏:先祖は神功皇后に仕えた武内宿禰(たけのうちのすくね)。武内宿禰は孝元天皇の曾孫(古事記では孫)とされている。 葛城、平群、巨勢氏は武内宿禰と共に伝説上の氏族で、実在したかどうかは不明。ただ、大和朝廷が朝鮮半島に派遣した軍の中に葛城襲津彦(カツラギソツヒコ)という将軍がいた。蘇我氏は大化の改新で蝦夷・入鹿父子が死ぬと勢力を弱め、やがて歴史に埋もれてしまう。紀貫之はこの紀氏の子孫を称している
藤原氏: 先祖は天児屋命(アメノコヤネノミコト)
天照大神の岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに鏡を差し出した。天孫降臨の際ニニギに随伴した。
こうした日本の統治方式を書けば次のようになりましょうか。
中国式統治方式において支配者(帝王)はあくまで人間で、天帝から統治を委任されているということは、神(天帝)と人間(支配者と被支配者)の境界は明確に分離されているということです。 これに対し日本では、支配者(天皇)は神(天照大神)の子孫であり、被支配者もまた天照大神を初めとする日本神話に登場する神々の子孫なのです。上記の表に書いた各氏はもとより、後年日本の政治を担うことになる平氏や源氏はもちろん天照大神、つまり天皇の子孫です。
それだけではなく、驚くべきことに天照大神に敗れた大国主すらも、神々の系図を見れば天照大神とつながりがある、いわば分家筋なのです。これはどういうことでしょう。滅ぼした敵ですら、一族なのです。
日本神話によれば、日本は国作りの初めから天照大神と彼女の子孫。つまり天皇家を頂点とする一つの血族集団とみなされていたのです。日本神話は神話であると同時に、日本は血族集団であることの宣言文とも言えます。私はここに見事なまでの日本式血族信仰、血の論理を見るのです。
ここが中国と日本の統治方式の最大の違いでしょう。
私の最も興味ある歴史上のテーマは『なぜ日本には易姓革命が起こらなかったか』ということですが、その理由の一つは、支配者が神の子孫とされていたからでしょう。これに対し被支配者は神ではなくなった人間なので、人間の身で神を討つことはできない、というわけです。一方中国では支配者も被支配者と同じ人間ですから、人民(被支配者)が帝王(支配者)を討つことにためらいはないのです。
さて、天照大神の子孫が日本を治めるという日本式統治方式がはじめて明文化されたのは、日本書紀における天照大神が孫のニニギを降臨させる時の話です。天照大神はニニギにこういいました。
葦原千五百秋之瑞穂国、是吾子孫可王之地也、宜爾皇孫就而治焉行矣、宝祚之隆当与天壌無窮者矣
(読み方)
豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宜しく爾皇孫就きて治せ。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮まり無かりけむ(意味)
豊葦原の稔り多き瑞穂の国は、私(天照大神)の子孫が王となって治めるべき国です。
我が孫・ニニギノミコトよ、その国をよろしく治めなさい。天皇の世の繁栄は天と地のように無窮のものなのです*無窮とは永久、永遠という意味
天地が永久に栄えるということから、この文は『天壌無窮の神勅(てんじょうむきゅうのしんちょく)』といわれ、天皇の子孫が日本を治めることの正当性を表すものとされました。つまり天皇家は万世一系であることがここに謳われたのです。
しかしながら、実際には古代において王朝の交代があった言われます。
崇神王朝 4世紀の初めごろ 10代〜14代天皇 応神王朝 5世紀の初めごろ 15代〜25代天皇 継体王朝 507年即位 26代〜現在まで
歴史学者の水野祐氏は、古代では2回王朝交代があったとしています。王朝交代とはすなわち易姓革命であり、易姓革命である以上、中国の王朝交代(たとえば殷から周、秦から漢など)のような激しい戦いがあったと想像されます。そして前時代の王、あるいは直系の子孫は、豊臣家がそうであったようにことごとく滅ぼされたのかもしれません。これが力の論理というものです。
話は変わりますが、天皇家には姓がありません。民衆に姓がないというのは江戸時代以前の農民のように、決して珍しいことではありませんが、天皇という最上位の階級の人に姓がないというのは世界的に見ても非常に珍しいのです。
私は、古代のある時期に天皇が自ら姓を捨てたのではないか、と考えます。
なぜなら王朝交代とは易姓革命であり、姓があれば王朝が変わったことが一目瞭然だからです。万世一系のタテマエを貫くには姓を捨てなければならず、当然ながら古事記にも日本書紀にも天皇家の姓についての記述は一切ありません。私は、少なくとも古事記や日本書紀が編纂される以前に天皇は姓を捨て、同時に姓が記されたあらゆる資料・書類を廃棄処分したと想像します。さて、現代まで続く天皇家の祖先である26代継体天皇は、記紀によれば応神天皇5世の孫であり、先代の武烈天皇に後嗣がなかったため越前から迎えられたといいます。これをひねくれて解釈すれば(笑)、応神天皇5世の孫ということは、継体天皇はあくまで天皇家の一族で、万世一系は変わらないことを強調するためのものであり、武烈天皇に後嗣がなかったというのは、武烈天皇家を滅ぼしたのをこういう風に表現したのでしょう。そして継体は即位してから実際に政務をみるまで20年かかりました。これは前王朝を滅ぼすのに20年かかったということです。
つまり継体は武烈への反逆者なのです。しかし記録に反逆者と書くことはできません。何しろ、かつては天皇への反逆は日本人にとって最大の犯罪とされたからです。それと天皇家は万世一系なのですから。さらに5世の子孫というのはキリが良すぎると思うのですが、どうでしょう?
継体天皇は6世紀初めの人です。日本書紀が完成したのは、つまり血の論理の宣言文が作られたのは、200年後の8世紀の初めです。私はこの間(6世紀から8世紀にかけて)に、『力の論理』から『血の論理』への切り替えがあったと想像します。この切り替えは一朝一夕にできるものではありません。当然ながら強力な推進者がいると思うのです。その(初代)推進者こそ聖徳太子だったのではないでしょうか?