ティータイム 古代編 近世編


中世編

武田信玄


 

■ イントロ

私が「小説ではない日本史」に興味を持ったキッカケは、吉川英治の三国志を読んでからです。その後古代中国史に興味をもち、史記を始めとしいくつかの本を読みました。そこでちょっとしたことに気付きました。

秦、漢、隋、唐と言った古代中国の歴代王朝の創始者は、すべて前時代の王朝を倒し(つまり反乱軍の指導者として革命をおこし)、新しい王朝を築いたのです。中国の最高権力者は言うまでもなく皇帝です。
中国ではある王朝が倒されると、つまり皇帝の一族が滅びた後、反乱軍(革命軍)のリーダーが次の王朝の皇帝となるわけです。

中国の皇帝、日本では天皇でしょう。(皇帝と天皇は厳密に言えば違うものですが。)ところが、いまだかつて日本では天皇がその在位中、反乱軍に殺されたとか、別の政治グループが朝廷を乗っ取り、そのリーダーが天皇を称した (つまり王朝の交替)なんて話しは聞いたことがありません。
崇峻天皇のように暗殺された天皇はいました。また西暦5〜6世紀には王朝の交替があったとする説もあります。(私も同意しています。)しかしタテマエ上はあくまで天皇家は万世一系。古代から現在まで連綿とこの 家系は継続していることになっています。

なぜ日本では、天皇家は滅びずに古代から現在にいたるまで存続してきたのでしょう?
なぜ日本では、フランス革命のような革命がおきなかったのでしょう?
なぜ藤原、平、源、足利、織田、豊臣、徳川と言った時の権力者は、天皇家を滅ぼし自ら皇帝を名乗らなかったのでしょう。
中国でもヨーロッパでも家臣が力を持つと必ず主君と争い、勝った方が次の権力者になります。しかし、日本では・・・・・。
最近これに明確に答えられる学者は、まだいないことを知りました。
天皇家のタブーが、その研究をはばんでいるのでしょうか。


■ 武士の誕生

中世になると世界に類を見ない日本独自の階級が出現します。
武士です。武士は軍人ではありません。軍人とはあくまで国家に忠誠を尽くすいわば公務員ですが、武士は自分の「主君」に忠誠をつくす、言い換えれば主君から見れば私兵なのです。律令制の国家では、人や土地はすべて皇帝(日本では天皇)の所有物になるのでそこには私兵と言うものは存 在しません。

なぜ武士は生まれたか。それには当時の政治環境、政治体制を説明しなくてはなりません。しかしあまりにも長くなりすぎます。
結論から言って、桓武天皇が国軍を廃止したこと、藤原氏の専制によってたとえ天皇の一族でも都での出世が望めず地方に新天地を求めたこと、荘園制度をはじめとする律令体制の矛盾が表面化してきたこと・・・・。まだまだあるでしょうがこれくらいで。

平安中期、武士といっても後世の兵農分離後の武士ではありません。軍事力を持った農民と言った方が正しいでしょう。当時の武士などは武力、経済力はともかく、身分は社会の最下層にちかいもので、都の貴族達からは「立って歩く犬」程度の扱いしか受けていませんでした。

しかし軍事力は言うに及ばず(当時朝廷には軍隊がなかったのです。)、広大な開拓農場主とも言うべき武士は経済力でも朝廷側を圧倒していましたが、みずからの力の大きさを意識してはいませんでした。
さらには人々 の政治意識は、まだまだ未熟な時代でした。
武士の不満はこの律令末期にあっては、土地のこと以外にありません。簡単に言えばこの当時は、自分で開拓した土地が自分のものとはならず、荘園として公家に寄進せざるをえないような状況だったのです。

平安後期。保元の乱以後、武士の政治意識は急速にたかまりました。この乱は皇族、公家が二つに別れ争ったものですが、なにしろ朝廷には軍隊がないため皇族、公家達は有力な武将である源氏、平氏に助力を要請せざるを得ませんでした。その結果、源氏も平氏もみずからの力の大きさに気づいたと言えます。(軍事力があれば朝廷を意のままにコントロールできる) と。

やがて平治の乱。そして武士の不満を解消すべく「武士の、武士による、武士のための政治」をめざした源頼朝の登場と鎌倉幕府の成立。その後江戸時代までの日本は、武士と言う「成り上がり」の下層階級が革命をおこさずに武力で朝廷を脅迫し、政権を掌握した時代でした。征夷大将軍は、皇帝ではありません。 ただの朝臣です。

 

■ 本題

日本社会の根底にあるものは中国やヨーロッパとは少しちがうのはないか、そんなことを最近思っています。
中国の皇帝、日本では天皇でしょう。(皇帝と天皇は厳密に言えば違うものですが。)
これは冒頭に書いた文です。皇帝と天皇に違いは、簡単に言えば皇帝を倒した人が次の皇帝になる、つまり力が皇帝になる資格です。しかし、天皇になれる資格は力ではありません。血筋なのです。言いかえれば天皇家以外の人は絶対に天皇にはなれないのです。

これは日本社会の縮図ではないか、そんなことを思う時があります。
日本人社会の原理は、「血のつながり」、「血統」を何よりも重んじるのではないか、と言うことです。逆に言えば日本人は、「血がつながらない他人」との関係を一切認めていないのではないでしょうか。(これに対し中国やヨーロッパの原理はあきらかに「力」でしょう。)

日本史上、この「血の原理」が政治行為として現れたことが、少なくとも2回 あるように思えます。最初は江戸時代の鎖国であり、次は昭和になってからの「大東亜共栄圏」。

この二つの内容は正反対です。鎖国とは、民族の純潔を外国から守るために国の玄関を閉じてしまったことでしょう。もちろん当時の幕府は、そんなことは言っていませんが、心理的にはそのようなことだったと思えます。

一方、大東亜共栄圏。
なぜか当時の日本政府は「血のつながり」を日本国内だけでなく、アジアのレベルで推進しようと考えようです。その精神は、「八紘一宇」(全世界を一つの家とみなす考え)と言う言葉に端的に表されています。しかし、もともと社会の原理を「血のつながり」に求めていない外国にあっては、そのような考えを押し付けられても同意できるはずもなく、このきわめて身勝手な政策は1945年8月15日に空中分解してしまいました。

身近なところで言えば会社です。会社とは社長を父親とする家庭のようなものだ、と言った人がいたようです。
また、社員が会社を辞めて別の会社に就職することは、一種の「裏切り行為」と見なされることがあります。(今ではそんなことはないかもしれません。)
はっきり言いまして会社における雇用関係とは、社員は労働力を提供し、経営者は報酬を与える、ただそれだけのものです。

しかし日本人はそんな「冷たい関係」に耐えられないのです。
普通、社員同士は言うまでもなく「他人」です。外国の事情は知りませんが、日本ではアフターファイブに社員同士で飲み歩く、また社員旅行、忘年会あるいは取引先との接待。日本人は、こんなことをして他人との冷たい関係を少しでも薄めて、他人を身内と思うように努めなければ仕事すら出来ないのではないか、とも思えます。

しかしその方式が、年功序列をはじめとするいわゆる「日本式経営」となって現在の日本経済の繁栄の基礎となったことも事実です。(最近その傾向は薄らいでいるようですが)

かつて「源平藤橘」と言う言葉がありました。ゲンペイトウキツと読みます。
奈良時代以降繁栄した源氏、平氏、藤原氏、橘氏の四つの姓のことです。
かつて日本人は家系図を作る時、武士はもちろん一般庶民においてもこのいずれかの子孫であると称しました。自分の「血筋」をよく見せるため、家系をデッチ上げたのです。江戸時代初期、大名の間で「家系図」を作ることが流行した時、大名の依頼を受けて家系図づくりを商売にする人がいたようです。
名前は忘れてしまいましたが、ある大名が別の大名に「あなたの先祖は誰ですか?(つまり源平藤橘のどれか?と言うこと)」と尋ねたところその質問をされた大名は、「私にはわからない。家系図屋さんに聞いてきます。」 と答えたとのことです。(^。^)

この話の真否はともかく、江戸時代の大名の多くがいかに「成り上がり者」だったかを物語っています。彼らの父祖の多くは戦国時代に武力で大名に なった人が多いのです。
ただし、伊達氏とか、島津氏のように鎌倉以来のスジメ正しき大名ももちろんいました。この手法(?)で例えば浅野家(秀吉の妻、北の政所の実家)では不思議な家系図を作り、いつのまにか「源氏の子孫」を称するようになりました。

徳川家康が新田氏(源氏)の子孫を称したのは、極めて象徴的です。
家康ほどの実力者でも「源氏の子孫」と称さなければ世間を納得させられなかったのです。
この四つの姓の子孫でない者は、「お前はどこの馬の骨だ」と馬鹿にされました。(どこの馬の骨なんて死語でしょうねえ。)
さらに言えば、源氏、平氏、橘氏は「天皇の子孫」なのです。藤原氏は、神話における天児屋根命の子孫と言うことになっていますが。

このことから言いかえれば、日本は天皇を本家とする血族社会なのだ、と昔の人は意識・無意識にかかわらずそう考えていたのではないか。
だから日本人はたとえ権力をにぎっても「本家」は滅ぼさなかったのではないか、だから「革命」はおきなかったのではないか。

極東の孤島で外国の影響をほとんど受けず、長い間自分達だけで生活してきた日本人は自然と社会を構築する原理を、また自分と他人とを結び付ける糸を「血」と考え、そう信じてきたのではないか。

再び書きます。

厳密に言えば日本人は、「血がつながらない他人」との関係を一切認めていないのではないか。「よそ者」という言葉。「外国人」と言う言葉。「他人」と言う言葉。
日本人が「よそ者」に「外国人」に「他人」に冷淡なのはこのためなのではないか。日本人は公共心に乏しいのもこのためなのではないか。
(自分と自分の血縁でないものには無関心)豊臣家がわずか二代で滅びたのは、晩年の秀吉の失政もさることながら、武士の世界では「よそ者」だったからではないか。

ふと、そのように思うことがあります。


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