Index 信長、神への道

日本社会と信長


はじめにお断りしておきます。
本稿の内容は相当のコジツケがあるし、結論の出し方も強引だと思っています。それを承知でお読みください。

1582年6月、信長は本能寺に消えた。
私はその理由をここで、明智光秀は朝廷を守るため信長を殺したと書いたが、この考えは今も基本的には変わっていない。

しかしここでは別の角度から考察してみようと思う。信長殺害の実行犯は明智光秀には違いないが、明智光秀というよりは日本の社会構造が信長を葬ったという内容で書くことにする。しかし、そのためにはかなり遠回りをしなければならない。


■平等社会

私はここで日本人が集団を運営していく上での基本は『血のつながり』である、と書いた。
簡単にいえば、一つの集団は一種の家族であり、その構成員は擬似血縁集団とみなされる。だから仲よくすべきだ、ということである。

こうした日本人が集団を運営していく上でもっとも重視されるモノは何かといえば、それを一言で表す言葉がある。『』である。

わ【和】  おたがいになかよくすること。協力、調和。
争っていた者がなかなおりすること

三省堂 国語辞典より


昨年(2009年)のNHK大河ドラマは直江兼続を主人公にした『天地人』だった。ドラマの内容は別にして、この天地人とは『天の時、地の利、人の和』に由来する。出典は古代中国の思想家、孟子(前372年? 〜前289年)の『天時不如地利 地利不如人和』という言葉である。

原文 読み方 意味
孟子曰

天時不如地利

地利不如人和

孟子曰はく

天の時は地の利に如かず

地の利は人の和に如かず

孟子はいう

天の与える好機は立地条件の有利さには及ばない

しかし立地条件の有利さは人心の一致には及ばない


人心の一致とは、集団構成員の一致団結をいう。
私個人の考えだが、中国人の考える『和』とはそれ以外にはないであろう。なぜならこれから説明する『和』とはあくまで日本人固有のもの、日本式の和であって、中国人にはそのような考えはないと思われるからだ。

では、日本人の考える和とはなんなのか。
それを簡単に説明するため、名奉行大岡越前にご登場願おう。

ある男Aが三両入った財布を拾ったが、中に入っていた書類とハンコから落とし主Bが判明した。ところがAがBに財布を届けたところ、Bは書類とハンコは受け取ったが金はもう自分の金ではないからと受け取らない。

ここで受け取れ、受け取らないの口論がはじまり、二人の大家も仲裁に入ったがラチがあかない。そうこうしているうちに、この騒ぎが大岡越前の耳に入ってしまった。

奉行所に出頭した両人は大岡の前でもやはり、受け取れ・受け取らないと自分の言い分を主張するばかり。すると大岡は二人は正直者であると褒めた後、自分の財布から一両出してAとBに二両づつ与えた。

大岡がいうには、二人は三両手に入るはずが二両になったのだから一両の損。自分(大岡)も一両出したのだから一両の損。つまり三方一両の損であるとして、丸くおさめたという。


大岡越前といえば、現在の東京都知事であり、警視総監であり、最高裁判事だった。奉行所とは都庁といってもいい。そこでこんな民事事件にもならないモメゴトをとりあげるのだから、今でいえば都民相談窓口(?)も兼ねていたのかもしれない(笑)

ソレハサテオキ

読めば読むほど妙な話である。
大岡越前は奉行としてAかBかどちらかの言い分を認め、あるいは折衷案を出し、それを両者に納得させるのが仕事だったはずだ。ところが実際には大岡自身が一両出して四両にして、二両づつ二人に渡している。

なぜ大岡は自分の財布から一両を出したのか。
本来、彼にはそんな義務はないし、また奉行所の規則にそんなことが書いてあるはずがない。

答えはすでに出ている。
丸くおさめるためである。大岡は自分の職務を忠実に遂行するより、自分が損をしても『丸くおさめる』ことを優先させたのだ。

この話は後世の作り話だろう。
でもこれを聞いて違和感をおぼえる日本人は少ないのではないか。それどころか世間が名奉行、と褒めたたえるからこそ、こんな話ができて現在までも知られているのだろう。

仮に当時遺失物関係の法律があって、そこに落とし主と拾い主の双方の義務や権利が明記されていても、それと実際の裁決は別なのだ。そんなとき、大岡が奉行という立場で法を無視し、勝手な裁決をしては別の問題が生じるが、法はあくまでタテマエとして別にしておき、『丸くおさめる』ことを選ぶ方が人々には喜ばれるのではないか。そうすればみんなが納得するし争いが解決するのだから。

現代でも離婚訴訟がおこれば、調停員は訴訟を取り下げて丸くおさめるようにしているし、優秀な弁護士は裁判に持ち込むよりも示談ですませようとする。いうまでもなく裁判という争いを避けるためである。身近な例でいえば規則、規則の一点張りの人や部署が嫌われるようなものだ。

『丸くおさまっている』状態のことを『和が保たれている』という。
中国人の『和』が一致団結を組織力にすることなら、日本人の考える『和』は、あいまいな状態(日本人特有の)を保つことである。良いとか悪いとかいう問題ではない。それが日本民族の特長の一つなのだ。

第一、和が保たれれば争いごとがなく、誰もが納得し、誰でも平等だ。一人はみんなのために、みんなは一人のために・・・いいことづくめではないか(笑)

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さて上記した中で、『誰でも平等』ということが私の考えの基本的要素になっている。ただしここでいう平等とは広い意味であり、どういうことかは後で書くことにする。

日本は世界でも稀な平等社会だ。
この格差社会のどこが平等なんだ!と怒られそうだが、日本国内の格差は国際的に見ればないに等しい。単純に所得を考えれば、どのような職業であってもそれに携わって地道に働いてさえいれば飢え死にすることはなかろう。

日本一の資産家といっても世界の中では上位100位にも入らない(2008年度アメリカ・フォーブス誌より)。新入社員とトップの所得の差がもっとも少ないのが日本だという。

日本では役員専用の社内レストランを持つ企業がどれほどあるだろうか。
最近の傾向はどうなのか知らないが、昔は高級レストランで昼食をとるより、社員食堂でヒラ社員と一緒にランチを食べる社長の方が人気があったという。社長は自らを平社員の位置に降ろして、少しでも格差を縮めようとしているのだろう。すなわち平等化である。

しかし所得どころか外国ではもっと根本的なところに『階級』という格差がある。
ヨーロッパ、たとえばイギリスは典型的階級社会であり、人々は生まれながらに三つの階級のいずれかに属している。

上流階級(貴族など名家、名門の出身者)

中流階級(実業家、弁護士、医者など高度な専門職に携わる人)

労働者階級(肉体労働者、職人、農夫)


上流階級とは伝統や血統に裏づけられた名家・名門の出身者であって、カネモチを指すわけではない。単に金を持っているだけなら、中流階級になる。

上流階級に属するといってものんびり暮らせるわけではない。
ここがかつて日本にも存在した江戸時代以前の公家・貴族たちと違うところだが、彼等イギリス貴族達は上流階級に相応しい教養や知性を求められる。そして普段は優雅な生活を楽しみながらも、有事の時は率先して兵士の先頭に立ち敵と戦ってきた。彼等には、自分達は国民のお手本にならなければならないという自覚があるからだ。

ヨーロッパ史を専門とする歴史学者の故会田雄次氏(1916〜1997)は戦時中ビルマ戦線でイギリス軍の捕虜になったが、京都帝国大学を出たという彼の話をイギリス軍の士官はどうしても理解できなかったという。

イギリスでは京都帝国大学(現京都大学)のような国立大学は上流階級の子弟が入学する大学であり、軍隊に入ればいきなり士官となる。ところが会田氏は一般兵士(歩兵)だった。

各階級に属する人たちは学校だけではなくスポーツも職種も異なる。
イギリスの有名大学にオックスフォードがあるがここは上流階級の子女が入学する。卒業したら知的労働が彼等を待っている。
ここには『青白きインテリ』という言葉はない。教養にも運動能力にも『トップクラス』が求められるのだ。だからといって上流階級の全員がそうだとは限らないけれど。

スポーツはサッカーが盛んだが、これは労働者階級のスポーツとされている。有名なベッカム選手はもちろん労働者階級の出身である。上流階級の人はサッカーには熱狂しない。熱狂すると他人からその階級と思われるからだ。彼等がするスポーツはゴルフやテニス。あるいはクリケットである。さらにはホテルもレストランや公園すら利用者は階級ごとに区分されている。

ここでは同じ言葉でも発音が異なる。
イギリスの標準英語は中流階級の上層に属する人が使うクイーンズ・イングリッシュに近く、名門大学ではこの言語で教育される。これに対して方言を話す人は、社会的に低い評価が下される。その様子を知りたければ、映画だからかなりの誇張はあるかもしれないがマイ・フェア・レディ(オードリー・ヘップバーン主演)を見ればいい。

これは日本のような所得の格差ではない。人間そのものの格差なのだ。
しかし彼等の賢明さは、たとえ労働者階級でも自分の分(ぶん)を守り、他の領域を侵そうとはしない人が多いことか。要するに日本人のように無用な背伸びはせず節度があるのだろう。

もちろん自分の分を守り他の領域を侵そうとはしないとは、大多数の傾向であってすべてではない。悪くいえばこうした階級の固定した社会は、下位の階級の人にどうしようもない閉塞感を感じさせてしまう。そんな人が上位に上るにはどうしたらいいのか。

それには革命を起こし、自分が上流階級になるしかない。
日本では起こらなかった革命がヨーロッパ各国で起きたのは(それもかなりの回数)、こんなことも原因の一つではないか?

一方日本では学力と家計が許せばだれでも東京大学をはじめとする、一流大学に入学できる。皇族専門の教育機関だった学習院にも入れる。カネさえ払えば帝国ホテルで最上級のサービスを受けることもできる。一流大学を出ても肉体労働者や職人になる人もいる。要するに日本はごちゃまぜ社会なのだ。

総理大臣だからといって、高級官僚だからといって家系も血筋も関係ないし、他人から後ろ指を指されることもない。むしろ貧困家庭の生まれでありながら総理大臣(一流企業の社長でもいい)にまで登りつめれば、国民の賞賛を浴びるのが日本なのだ。

この違いは何なのであろうか。
日本には組織内の序列はあっても、階級はないのだ。


■壁を乗り越える

かつて日本にも階級があった。
よく知られるのは江戸時代の士農工商であり、皇族と公家という階級もあった。戦前の階級といえば皇族と華族、それと一般国民というところか。かろうじて現代でも残っているのは皇族だけで、それ以外の階級は消滅している(本当はあるんだろうけどね)。

しかし実際には士農工商というのは階級というより身分・序列だった。士以外は一般庶民であり、農民が商売をはじめるのも商人が農民になるのも容易なことだった。また下級武士と農民の境界線は実にあいまいだったともいう。

そのいい例が勝海舟だろう。
海舟の祖父の小吉は貧農の生まれだったが、商売でためた金で旗本の地位を買ったのである。つまり大げさにいえば階級の壁を破ったのだ。

これは特殊な例ではない。
商人や農民の出身でも武家に奉公(就職)し、その家で認められればもう武士なのである。
 江戸時代の身分は次のような形で移動したという(Wikipedia より)。

養子縁組・婿入り

御家人株の買得

武家奉公人からの登用

用人としての雇用。渡り用人

帰農

つまり身分間の移動はめずらしいことでもなんでもなかったのだ。
勝海舟の例を紹介したが、幕末のような動乱期では参考にはならないかもしれないので他の例をあげてみる。

五代将軍綱吉の側用人として権勢をふるった柳沢吉保(1658〜1714)は館林藩(群馬県)の小身の藩士の生まれだったが、藩主(当時)徳川綱吉の小姓となったことが出世のキッカケになった。また田沼意次(1719〜1788)は足軽の出身だった。
両者とも主君によって才能を見出され、抜擢されたのだ。

身分の壁を破るとは、日本では決してめずらしくない現象だった。特に戦国時代は下克上という言葉どおり、壁を飛び越える男達が続出した。それは豊臣秀吉に代表されるが、徳川家康も農民+α程度の家の出身だった。

日本史上、最初にこの壁を乗り越えた男はおそらく平清盛だろう。当時、立って歩く犬程度の扱いしか受けなかった武家の出身者が貴族となり、さらには太政大臣にまで登りつめたのだから。

清盛の出世はその後無数に起きた『壁破り』の前例となった。その意味で清盛の功績は相当大きいのではないか。清盛のおかげで自分の能力を信じる誰もが壁を乗り越えることに抵抗を感じなくなったのだから。

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2009年からNHKで『坂の上の雲』を放映している。
明治時代の日本という発展途上国の姿と、近代化に向けて伸び行く若者達の姿を描いている。

明治という時代は『誰でも平等である』精神を発展させ、誰でも能力次第で政治や経済や軍事ばかりではなく、科学や文化の分野においても日本のリーダーになれることを政府が認め、奨励した時代でもあった。

そこで要求されたのは大学卒業という事実に裏づけられた能力であり、それ以外にはない。
誰でも・・貧農の生まれでも学力優秀で篤志家の援助が得られれば・・能力次第で東京大学を頂点とする大学に入学でき、卒業さえすれば『末は博士か大臣か』と、今では死語になった言葉どおりの期待を受けたのである。もっとも卒業者のだれもが博士や大臣になれたわけではないが。

明治時代は、近代化は国家の最優先課題であり、人材に乏しかった日本は国をあげて大学卒業者に期待せざるを得ない状態だった。そして後戻りができず失敗が許されない厳しい時代だったが、若者たちは見事なまでに国家の期待に応えたのである。

こんな話がある

ヨーロッパのある国・・イギリスでもドイツでも国などどこでもいいが、そこに留学した日本人学生は毎日毎日勉強に明け暮れていた。下宿のおばさんが心配して、勉強ばかりしていては体に悪い。たまには外で遊びなさい、といったら、彼はその言葉に感謝しつつも、

私が一日遊べば日本の近代化が一日遅れるのです

と答えたという。

私はこれをもって現代の大学は・・などと講釈をいうつもりはない。自分の過去を振り返れば、とてもそんなことはいえない(笑)
明治という時代の大学が持つ社会的役割とは国のリーダーの養成であり、そこに学ぶ若者達は驚くべき努力を積み重ねて日本のあらゆる分野の近代化を進めて行ったということと、誰もが・・たとえ貧農の生まれであっても・・その分野のリーダーになれる可能性を持っていたということを理解していただけたらそれでいい。

誰もが・・ということはその人の家柄、血筋、属する階級は関係ないということである。そもそも明治政府の要人たちは薩摩や長州の下級武士出身者で占められているのだから。

前に書いた『日本は平等社会』というのは、『誰にでも上昇のチャンスがある』という意味で書いた。だから日本では鎌倉以降、現代に至るまで誰もがミニ清盛であり、ミニ秀吉なのである。これは和から生まれた平等社会の最大の長所ではないかと思う。

弊害もあった。
しかるべき大学を出ていなければ、どんなに優れた業績をあげても日本国内では認められないという弊害が。
その代表は野口英世だろう。そのため野口は研究の場を外国に求めざるを得なかった。彼は『栄光なき天才』だった。

明治時代に新平民と呼ばれた階層のことはここでは書かないが、被差別部落出身者の野中広務氏は自民党幹事長や立命館大学客員教授になったが、明治時代はこういうことはあり得たのであろうか。


■和を乱す

和の精神は、ある一つの集団という特定の範囲内において発揮される。
その精神が及ぶ範囲を『ムラ』という。村ではない。
しかし、かつてムラと村は同義であり、その中に住む人たちは運命共同体であった。

2009年10月、私は岐阜県の白川郷に旅行した。
非常に失礼ながら合掌造りという世界遺産がなければ、この村は周囲を山に囲まれた僻村・寒村にすぎない。

そこでは昔長男が家を継ぎ、二男以下は狭い土地だから分家もできず他家に養子に行かなくてはならなかった。養子に行けない弟達は飼い殺しのようなカタチで長男一家と同じ家に住んだという。

昔、人の往来が少ない(交通に不便な)僻村、山村は閉鎖性という意味で全国どこも同じようなものだったろう。自然、村人達は濃い薄いの違いはあってもどこかで血のつながりがあり、大げさにいえば村全体が一つの家族だったといってもさしつかえなかった。このムラを大規模にしたのがかつての日本だった。

ムラは和で運営されるが、そこでもっとも嫌われるのは『和を乱す』ことである。
家族(ムラの人たち)は仲よくし、決して争ってはならない。

ではどのような時、和は乱されるのか。

私は先ほど、・・・二男以下は土地が狭いから分家もできず・・・と書いたが、現代なら土地に余裕がある町をさがして引越しすればいい。しかし昔は、そんなことはとてもできることではなかった。なぜなら他のムラに行けば『よそ者』になってしまうからだ。

よそ者は何を考えているかわからない、得体がしれない、不気味だ・・・。ムラに住む人は運命共同体であり、同じムラの住人だからこそ和が保てるのである。

これを書きながらふと思ったことがある。
かつて一族同士の争いはタブーだった。いうまでもなく勢力の弱体化につながるからだが、時には争わなければならい時がある。

そんな時、外部の者に援助を頼んではならない。争いに勝っても、いわゆる『ひさしを貸して母屋を取られる』になる可能性があるからだ。

具体的にいえば、私はここでモメゴトを治めるため朝廷に綸旨を要請するのは幕府の権威を失墜させるだけ、と書いた。この場合外部の者とは朝廷を指す。

 

村の出入口や辻に作られた道祖神

村の境や三叉路にあって外部から侵入する災いから村を守るために作られた

 

もう一つ和を乱す要因をあげておく。
誰でも知っていることわざだ。

出る杭(釘)は打たれる


和の精神にはいいことばかりではなく弊害も多い。

責任の所在があいまい

正論で反論すると協調性がないといわれる

何かおかしい、ヘンだと思っても大多数の意見に流される

妥協と協調の区分があいまい

議論をしないで陰口を叩く人が多い

こんな経験をしたことがある人はかなりいるのではないだろうか。

よそ者も、出る杭も、和を乱すものだ。
よそ者は排除しなくてはならない。自然、ムラの人は排他的になる。

出る杭は打たなくてはならない。だからムラの人は保守的になる。
古い因習・風習を改めようとしても、なかなかできることではない。
そして、ムラの住人でありながら和を乱す者には『村八分』という制裁が与えられた。

村八分になる理由は法律や道義上の問題ではない。
2002年、北海道にあった食品加工会社で牛肉ミンチの品質表示偽装が発覚したが、コトの発端は工場長による告発だった。その後この工場長はどうなったか。

会社は自己破産して事実上の倒産。
100人の
従業員は職を失なった。
この会社は地元では大きな会社だったので地元経済にとっても打撃だった。

元工場長はこれによって家族ぐるみで町全体から叩かれることになる。夫人とは離婚し、娘さんも、未だにそのことで苦しんでいるらしい。そして彼自身、睡眠導入剤や精神安定剤を飲まなければならなくなってしまった。

元工場長の勇気ある行為の代償がこれだった。
また新潟県のある村で、お盆の行事参加を拒否した村人が『村八分にされた』として訴訟を起したのはつい数年前のことである。

お断わりしておくが私は、だから和を乱すようなことはするな、という意味でこれを書いているのではない。極端に和を守りすぎると、こんなバカなことが起きてしまうのだ。こんな日本人の特質など消え去った方がいいにきまっている。

和の中で暮らす日本人は基本的に争いを好まない。
争いとは武力によるものもあれば、論争もある。

たとえ争ったとしても、『なあなあ』で終わらせることも多く、徹底的に敵を叩いたり残虐な行為をすることはない。あくまで勝敗や白黒をはっきりさせるのが外国人で、灰色でも『納得』するのが日本人だろう。

日本人は争いを好まないというのなら、なぜ戦国時代はあれほど激しい戦いがあったのか。明治以降の侵略戦争や戦地での残虐行為は何なのだ?という疑問がわくと思うが、答えは簡単である。

戦国時代は、その武将の支配領域が一つのムラで、敵は当然ながら別のムラの住人だった。別のムラの住人には和の精神を発揮させる必要がないのである。明治以降のことは日本全体を一つのムラと考えれば、答えは自ずと明らかであろう。

ついでにいうなら、日本の植民地政策はほとんどの地域で失敗した。
朝鮮における皇民化政策・・国家神道、日本語、創氏改名などの強要をみればいい。日本人は占領地を日本国内と同様のムラにしようとしたが、外国人にムラや和の精神が理解できるはずがなかったのである。つまり欧米諸国は植民地の人を人間扱いしなかったが、日本人は同じ人間として扱い日本人に同化させようとしたのが間違いだったのだ。


余談ながら、世の中には『抗菌仕様』という商品がある。
人の手が触れるようなモノを対象に、細菌の繁殖を抑えるような処理を施した商品だが、これがやたらと多い。

食器やまな板など、常に清潔を保っていなければならないような物は別にしても、抗菌仕様の電卓とか、文具とか、自動車のハンドルとか、あきれるほど多岐に渡っている。外国のことは知らないが、こんな商品が売れるのはよそ者を排除したがる日本人の国民性によるものなのではないか?


長い前置きはこれで終わりにする。
私は信長の死は、これらのことから説明できるのではないかと考えた。


■押し込められる

戦国時代といっても応仁の乱から江戸幕府の成立まで130年以上の年月があるが、この間、微禄の身で一国の大名に成り上がった代表は北条早雲(1432〜1519)だろうか。早雲は元々は室町幕府の執事という立場で決して一庶民ではなかったが、妹が今川家に嫁いだ縁で駿河へ行き、今川氏のバックアップを得て伊豆を根拠地として勢力を伸ばし、ついには相模国(神奈川県)を支配するようになった。

もう一人。庶民から戦国大名になった例をあげれば斉藤道三か。
元はといえば一介の油商人だった。
しかし北条早雲は民には慕われ後継者にも恵まれたが、斉藤道三は我が子の反乱で殺されている。

この両者は何が違うのか。

詳細は省くしコジツケかもしれないが、早雲は関東にあって自力でムラを再編成した。
早雲は中央権力である足利幕府の支配から脱し、独立国家のように独自に各地域の国人(独立している豪族)による家臣団を組織するというそれまでにない支配方式を考え、それを自分の領内で実施することに成功した。このやり方は次第に他国にも広がり、結果としてそのような大名はそれまでの守護大名ではなく戦国大名と呼ばれるようになる。早雲はその第一号だった。

早雲の死後北条氏は氏綱、氏康と名将が続き、関東のほぼ全域を支配するようになる。祖父から孫へ三代かかったといってもこの成長率はたいしたものである。

これに対し道三は、すでに美濃に存在していた旧領主のムラを奪い取って、そこへ入り込んでムラの人たちを力で支配しようとした。村長を殺してその後釜に座ったようなものだった。その手段の悪辣さは今日にも伝わっている。
そのため道三は他の人たちの反発を買ったのではないか。

悪辣さを自覚しているだけにいつ反乱が起こるか、寝首をかかれるか道三は不安だった。信長公記に書かれた彼の施政の残虐さは、その不安から生じているのではないか。

最近、斉藤道三は彼一代で美濃国の支配者になったのではなく、父親がすでに美濃でかなりの成功をおさめていて、その事業を受け継いだ。つまり父子二代で美濃を乗っ取ったという説が出ている。

その真偽を検証するのはこのコラムの目的ではないので省略するが、徒手空拳の身で一国(相模とか美濃のように、現在でいう県の単位)の主になるというのは当時でもめずらしいことだったし、北条氏のように一国だけではなく、数か国を支配するようになるにはやはり何代もかかるのだ。

では一国ではなくて、範囲を狭めて大名家という家の内部ならどうなのか。大名家の内部なら『よそ者』がどれほど『出世』できるのか。

この時代は身分を問わず、だれでも能力次第でいくらでも出世できたというイメージがあるが、実際には違う。そんなイメージができたのは豊臣秀吉の異常な出世物語に惑わされてしまっているからだと思う。

たしかにある程度の出世はできる。戦国時代だから、能力のあるものは身分が低くても主君に引き立てられ重用されることが多かった。例をあげれば、信州の小豪族だった真田幸隆(幸村の祖父)は武田信玄に重用されたし、武田四名臣の一人高坂昌信は農民の出だった。

しかし戦国大名家という『ムラ社会』では『よそ者』はある程度は出世できても、それ以上にはなれないのである。前述の武田家を例にとれば、武田家の上層部は武田勝頼や穴山梅雪をはじめとする武田一族とか、山県昌景、馬場信春といった先祖代々の(いわゆる)普代の家臣でがっちり固められていて、よそ者である真田氏はそれ以上入り込むことができない『壁』が存在しているのだ。

現代の企業でいえば、社長以下の取締役は社長一族で占められているようなものだ。社長一族以外の社員は昇進しても部長までで、取締役(つまり経営者)になることはできない。こういう企業は今でも実に多い。なぜ『よそ者』はそれ以上優遇しないのか、経営陣に参画させないのかといわれれば、乗っ取りを防止するためだろう。

# & ♭

話は変わる。

手元に一冊の本がある。
『主君、押し込めの構造(笠谷和比古)』という。

内容を簡単に書けば、江戸時代の藩主(殿様)は決して独裁者・専制君主ではなく、家臣の意に反した場合しばしば座敷牢に押し込められ、子とか兄弟とか代わりの人が藩主になったという。

同書によれば

家老層の勢力が安定的に存在する一般的状況の下では主君はその権威と権力をもってしても容易には専制的権力行使がなしえない。

(中略)

幕府の立場もまた、主君「専制」を暴政とみなして容認しなかった。

という。

家臣の身で主君を座敷牢に入れるなど反逆行為のようなものだが、世間も幕府もこれを容認したらしい。笠谷氏は蜂須賀家、伊達家、松平家などを例に出して押し込めに至った状況を説明している。

しかしこうしたことは何も江戸時代だけではなく、歴史をさかのぼれば源頼家は母の実家である北条家によって伊豆に幽閉され、後に殺されているし室町時代5代将軍足利義教は家臣の屋敷で暗殺された。笠谷氏はこれも押し込めであるという。

同書にはないが、江戸時代八代将軍吉宗の倹約令を無視して逆の自由経済政策を実施した名古屋藩主徳川宗春(1696〜1764)は、幕府の意向に反する政策に不安を感じた家臣等によって無理矢理隠居に追い込まれている。

ということは鎌倉の昔から、武家にあっては家臣の意に反する主君は彼等によって隠居あるいは幽閉されることがあったことになる。つまり家中の和を乱せば、主君といえども押し込められてしまうのである。(残念ながら笠谷氏は、押し込めを容認した日本人の特質については言及していない)

武家というムラ社会では、主君といえども周囲の意に反すれば排除されるのだ。
繰り返すがムラの中では誰でもなかよくしなければならないから。

こうした『押し込められた』主君の反対に位置するのが独裁者である。
歴史上日本では、中国やヨーロッパの皇帝のように強烈な独裁者が現れたことがない。現れないような構造になっているとしかいいようがない。ただし例外が少なくとも一人いる。

■信長の死

信長が武家というムラ社会の掟破りだったことはいうまでもない。
彼は生まれながらに『よそ者』だった。それは若いころの『和』を無視した奇矯な行動に現れている。

やがて信長は木下藤吉郎や滝川一益、明智光秀といった胡散臭い男達を拾い上げたばかりか、柴田勝家や丹羽長秀といった宿老達と肩を並べるほど抜擢した。

本能寺で信長が倒れたと聞いた人たちは何を思ったか。

よそ者(光秀のこと)をあんなに重用するからこんなことになったのだ。

ということではなかったか。

他家の例をみればいい。
よそ者は決して普代の家臣と同じレベルまで出世することはない。

ところが信長は、その家来の血筋がいいとか、先祖が抜群の功績をあげたとか、そんなことには何の価値も認めなかった。どんな能力があるのか、何がどれほどできるのか・・・人事部長としての信長の判断基準はそれしかなかった。

だからこそ秀吉のような最下層出身の男でも能力を磨かれ抜擢に継ぐ抜擢を受け、最後には中国地方を担当する方面軍総司令官になるまでに昇進した。逆に無能とみなされれば佐久間盛信のような代々の宿老でも失脚することもあった。

人材登用ばかりではない。
信長は天下を統一した後、諸大名や家臣達をどのように支配しようとしたのか。

私は土地のことをいっている。
武士とは古くは武装農民であり、一所懸命という言葉のとおり自分の土地は命がけで守るべきものだった。
土地面積(領地)の広さは農産物の生産量の大きさであり、それはそのまま自らの経済力・武力の象徴でもあった。

領地を拡大するには所有者のいない未開拓の土地を開墾するか、戦争で功績をあげて主君から拝領するしかない。その功績の判定に公正さを欠くということで、鎌倉幕府は武士たちの信頼を失ったのだ。

武士にとって、土地は何よりも大切にしなければならないものだった。
土地を与えられた者は与えた者に『奉公』をして『恩』を返す。そこに主従の関係が生まれる。封建制である。
封建制とは『古い時代』という単純なイメージがあるが、実際には土地を中心とした主従関係をいう。

封建制の反対にあるのが中央集権だ。
史上、これを最初に実施したのが有名な泰の始皇帝(前259〜前210)である。

信長は、京都を中心に大飛躍するある時期までは彼の領内では中央集権であった。領地が増えるにつれて、信長は秀吉や光秀に土地を与え大名にしたが、その一方で中央集権も考えていたのではないか。

証拠を一つあげる。
下の地図は安土城の古地図である。
ここに『伝前田利家邸跡』、『伝羽柴秀吉邸跡』というのが書かれている。つまり安土城を築いた信長は城下に家臣たちの家屋敷もつくり、ここに住まわせたのだ。



 

江戸時代における大名家の江戸屋敷は、いわばその大名の江戸における大使館であり留守役は外交官のようなものだったが、この安土城下の邸宅は完全にその家臣の本宅だった。

これは何を意味するのか。
信長は家臣達を土地から切り離し城下に住まわせ、自分の官僚にしようとしていたのではないか。

信長が専制君主とし全国規模で中央集権体制を実施すれば天下の土地はすべて信長のものになるし、人民はすべて信長の直接支配下に置かれるようになる。

同時にそれは、全国各地に数多くいる大名制度の廃止を意味する。
大名は領地があるからこそ経営が成り立つし、軍隊も組織できるのだ。

土地という自分の経済基盤を失った大名は、織田家の家臣にならざるを得ない。それがだめなら浪人である。
国軍が組織され、かなりの数の家臣達(元大名)はそこに編入されるだろう。

また家臣自身の土地といえば、自分の家屋敷を建てる程度の面積しかない。領地がないから年貢米は入らない。収入は織田家から支給される給料になる。

そして織田家の家臣団の中から信長が選んだ者が、政府(つまり織田家)の代官として全国各地(越後とか、駿河とか)に赴任し、その土地を管理するようになるだろう。もちろんその土地を私物化するなどできず、年貢米などはすべて信長のもとに送らなくてはならない。

かつて奈良時代から平安時代にかけて、日本も一応中央集権体制だった。
その体制の矛盾から歪が生じ、その歪が爆発した結果生まれたのが鎌倉幕府だったが、もし中央集権になったとしても古い時代のやり方を踏襲するような信長ではないだろう。しかしどのようなスタイルになるのかは想像もつかない。


中央集権は各地にあるムラの解体だった。
各地のムラは日本式の和の基本単位だが、信長はこれを否定しようとしたのではないか。

身分を問わない人事もそうだが、中央集権は当時の武士にとって、これは武家そのものの存在を否定することになる。
元大名の一部は軍事官僚となり、残りは兵士になるのだから武家というものは不要になる。

武士にとってこれほどの掟破りが他にあるだろうか。
光秀は信長の近くにいただけに、いち早く信長の真意を見抜くことができたが、光秀でなくても、いつか誰かがやったに違いない。

信長は『日本の和』に反したがために、家臣によって闇の世界に押し込められたのだ。

■秀吉

ここまで書いたついでに秀吉のことにもふれておく。
前記したようにムラ社会では、ある程度の出世は認められる。
しかし飛びぬけた出世は反発を買う。なぜならムラでは『みんな平等』なのだから。

飛びぬけた出世をしたければ、ムラの外でしなくてはならない。
ムラの外で成功した人が帰郷することを

故郷に錦を飾る

という。むろん自分の成功を自慢したいためである。

しかしムラ社会では敵は常に内部、ムラの内側にいる。
そこで渦巻くのは嫉妬、足の引っ張り合い、権力争いである。タテマエ上、ムラの内部では争いはタブーだから、こうしたことは陰湿にならざるをえない。

現在ではこんなことはないだろうが、あるムラで事業で成功した男が5階建てのビルを作った。しかし同じムラ出身の別の男が違う事業で成功し7階建てのビルを建てた。

最初の男(5階建て)にとってこれが生涯の痛恨事になった。
7階建ての男が別のムラの人だったら何とも思わない。同じムラの出身者だから悔しいのだ・・・・という話。

しかし似たような話を我々は知っている。
たとえば同期に入社した者が自分より上位の役職になることに耐えられない人がいる。そんな人にとって、出身校の同級生が別の会社で昇進するのは一向にかまわないのである。別の会社とは別のムラなのだから。

ある人が同期に入社した仲間より上位の役職になったとき、他の同期の人との争い(嫉妬、足の引っ張り合いなど)を避けるにはどうしたいいのか。繰り返すがムラの中では争いはタブーである。なぜなら争いは『和を乱す』ものだから。

そんな時は、上位役職になれなかった人のために新しいムラをつくればいい。
日本国政府は、内部(各省庁)でそんなことが起きそうになった時は、彼らのためにわざわざ別のムラをつくってくれるのだ。
恐るべき親切心といわねばならない。

そんな別のムラに送り込まれる人や、その行為を『天下り』という。
政府公認の弊害、天下りの根はここにある。

和の精神は教育の場にも発揮される。
バカバカしい話だが、運動会の競争で順位付けをしないことがあるらしい。順位から差別、不平等が発生するからだという。順位があるから健全な競争が生まれるし、それを否定するのは切磋琢磨して上を目指そうという人間本来の性質に反する行為といわねばならない。

世界中の国が、民族が、すべて同時にそうなるのなら問題はないだろうけれど、そんなことはありえない。そんなバカなことをするのは日本人だけではないか?
そんなことをしていたら、将来日本は国際社会での競争力がなくなってしまい、結果として世界のお荷物になってしまうだろう。

このような動きとは正反対に位置するのが秀吉だった。
この異常なまでの向上心の持ち主が天才だったことはもちろんだが、織田信長という就職先のトップの方針が見事なまでに彼の才能を掘り起こした。

しかし日本社会の特質を考えるなら、秀吉はあそこまで出世すべきではなかった。
彼が一大名で止まっていたなら、つまり他の戦国大名と同じ程度の大名だったら羽柴家(一大名では豊臣とは名乗らなかったろう)は安泰だったかもしれない。豊臣家は、秀吉が出世しすぎたがゆえにムラ社会の嫉妬によって早々に滅びた、といえるのではないか。

信長と秀吉の死後、家康がつくった江戸幕府は長期安定政権になったが、それは家康が3人の中ではもっともムラ社会を理解していたからだろう。江戸幕府は織田信長の弊害を改め、豊臣秀吉のような異常すぎる出世を抑制するため新たなムラ社会を築くことにした。身分制度や普代・親藩・外様 という大名の区分けはムラ社会の再構築でなくて何であろうか。

【参考資料】

アーロン収容所・日本人の意識構造(会田雄次)、和をもって日本となす(R.ホワイティング)、主君押し込めの構造(笠谷和比古)


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