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第一話 少女二人 その3

 ジュワァ……
 津久巳は目玉焼きを焼いていた。
 背後の布団の中では、静奈が寝息を立てている。
「う……ん」
 うめき声に振り返ると、布団の横から足が飛び出している。以外と寝相が悪いらしい。
「んん……」
 両腕が出た。伸びでもしているのだろう。
「あ、ん。もう朝かぁ」
 布団がモソリと起き上がる。ショートカットの髪の毛が、変な方向に飛び出てしまっている。
(あれ?……ショートカットだったっけ?)
 目をこらして、顔をよく見る。
「あ!? お、おまえ!」
 そいつを指差して、叫んだ。
「あっもう。起き抜けにそんな大きい声、出さないでよ」
 その女は眩しそうに、片目だけ薄目を開けた。
「何でおまえが寝てんだ!? テノ!」
 そう。そこにいたのは、一昨日、この部屋に現れた女悪魔、テノだ。
「あ!」
 テノは、津久巳の背後を指差した。振り返ると、煙が黒くなりはじめていた。
「やべ!」
 あわてて火を止める。
「なんだぁ。目玉焼きだけぇ? わびしいなぁ。ベーコンくらい、つけなよ」
 テノはフライパンを覗き込んで、落胆している。
「うるさいな。貧乏なんだからしょうがないだろ……って、そーじゃない!」
「あいっかわらず、うるさいなぁ」
 そう言いながら、まだ熱いはずのフライパンの上から、目玉焼きをつまみ上げる。
「あ、でも、おいしそうじゃん」
「食うな!!」
 言った時にはもう遅く、目玉焼きはテノの口の中へと消えていた。
「いいじゃん、1枚くらい。ほら、もう1枚あるし」
「少なくとも、おまえのために焼いた訳じゃないぞ」
「ふーん? じゃ、誰のために焼いたのさ。この部屋には、あたしとあんたしかいないのに」
 テノは、意地悪そうに目を細めた。本物の悪魔に対して何だが、こういう表情をすると、まさに小悪魔という言葉が当てはまる。
「そうだ。彼女はどこに行った?」
「彼女って誰さ」
「ふざけるな。その布団に寝ていた……」
 津久巳は、テノを振り返った。
「そこに寝てたのはあたしだよ。その証拠にほら、他に、誰もいないだろ?」
「おまえが化けてたのか?」
「あたし、変身って得意じゃないんだよね」
(こいつ、俺をからかってる!)
 津久巳のメガネを覗き込むテノの目は、なんとも楽しそうだ。そして、あからさまに津久巳を見下していた。
(まーだ、わかんないの?)
 まるで、そう言っているようだ。
 と、言う事は……
「……彼女をどこにやった?」
 静奈をさらった、と言う事だ。
 その言葉に、テノは溜め息を一つ。
「なに? あの娘に惚れちゃった訳? 以外とせっそー、ないんだねぇ。フラれてから、まだ1週間経ってないのに」
「黙れ!」
 怒っていた。この数年間、怒ったことがなかった津久巳が、だ。
「おお恐。わかったから、怒んないでよ。そーだなぁ。例の契約書にサインしてくれたら、返してやってもいいよ」
「な……!」
 テノの手には、契約書があった。
「だーいじょうぶだって。サインしたって、お願いしなきゃ魂は取られないんだからさ」
「……よこせ」
「はいはい」
 とうとう、津久巳は契約書にサインし、その横に拇印を押した。
「これでいいんだろ?」
「はい、毎度ありっと。ところで……」
 テノは契約書をくるくると丸め、胸元にしまい込んだ。
「あんた、あたしにこんなにも手を焼かせたからね、罰を与えるよ」
「何だと? 話が違うぞ!」
「悪魔の言葉を信用するなんて、ほーんと、お人好しだね。あたしは、返してやってもいいって言ったけど、絶対に返すなんて言ってないよ。あんた、確認しなかっただろ?」
 津久巳はテノをにらんだ。
「今夜の深夜零時。街の体育館で待ってるよ」
 テノは、一昨日と同じ様に窓から外に出た。
「手段は問わないから、あたしからあの子を取り返してみな」
 それだけ言い残し、飛び去った。
 津久巳は力なく、座り込んだ。
「何なんだよ……一体、何だってんだよ」
 突然現れた、テノという名の非日常。その非日常に巻き込まれた自分。
 ひょっとしたら、悪い夢なんじゃないかと思う。
 が、もう一人、その非日常に巻き込まれた少女を思い出す。少なくとも、その少女には、何の関わりもないはずだ。
(どうせ夢なら、最後まで付き合ってやろうじゃないか)
 津久見の意識が変わり始めた。
(このままじゃ、寝覚めが悪いしな……)

 ギイィィィィィ……
 甲高い音をあげて、扉が開いた。体育館の床に月明りと、その中の人影が伸びる。
「どこだ、テノ!」
 叫んだ人影は、もちろん津久巳だ。
 バタン!
 津久巳の体がビクッと震えた。背後で扉が閉まったのだ。
 しかし、振り向きはしなかった。
「脅してるつもりか? 古典的な手だな」
「ふーん。がんばるねー、やせ我慢」
 声は、すぐ真後ろから聞こえた。
 振り返ったが、そこには誰もいない。
 フゥ
 息をつき、また振り返る。
「ばあ」
「うわ!」
 向き直った津久巳の眼前に、テノの顔があった。
「あははは。やっと驚いた」
 無邪気に笑っているテノを見て、津久巳は、なんだか拍子抜けしてしまった。
「やる気があるのか?」
「そっちこそ、そんなバット一本で真っ正面から乗り込んできて、やる気あるの?」
 津久巳は、自分の手にあるバットを見下ろした。そして、構えた。
「やる気がなけりゃ、こんなところに来ないさ」
「マジ?」
「大マジだよ! 彼女はどこだ!?]
 津久巳の問いに、クイッと親指で横を指した。
 見るとバスケのゴールリングに、静奈がぶら下っていた。が、気絶しているらしい。
「なら、行くぞ!」
 静奈を確認した津久巳は、いきなり撲りかかった。
「きゃ、いきなり卑怯だって!」
「手段は問わないって言っただろ!」
「うわった! そりゃ、言ったけど……! あぶっ!」
 なんだかんだと言いながらも、テノは振るわれるバットを、ことごとく避けていた。
「はあ、はあ……」
 ほんのしばらくで、津久巳の息は上がってしまった。
「ほーら、言わんこっちゃない。そんなもんであたしを撲ろうなんて、無理なの。解った?」
「……なら、次の手段だ」
 津久巳は、バットから手を放した。
 ゴンォンォン……
 体育館中に、音が響いた。
「まだ、なんかあるの?」
「もう、最後の手段だけどな」
「へえ」
 津久巳は不敵に笑った。
「彼女を解放してくれ」
 テノはしばらくの間、目が点になった。
「……あのね、んなこと出来る訳ないでしょ」
 テノは、本気であきれた。
「いや、出来るはずだろ? 俺は、『お願い』してるんだから」
「あ?」
「俺の魂をあげるよ。だから、彼女を解放してくれ」
「あ、あんた、本気なの? 赤の他人のために、命かけようなんて……」
「赤の他人だから、俺のせいで危険な目に会わせたくないんだ」
 テノは呆然としていた。が、しばらくして、しだいに肩が震えだした。
「……プッ。く、く、くくく。あは、あはははは! いやー、久しぶりに面白いギャグ、聞いたわぁ。ま、いっか。合格に、ギャン!」
 突然、テノは悲鳴を上げて倒れた。津久巳の手には、スタンガンが握られていた。
「作戦勝ち、かな?」
 とは言っても、作戦などと呼べる代物ではないが。
 本当は、バットで撲ったところで、スタンガンを使うはずだったのだが、肝心のバットが当たらないので諦めていたのだ。ところが、最後の手段で意外にもテノが油断を見せたので、すかさずスタンガンを使った、と言う訳だ。
 静奈のもとへ行こうとした津久巳の足を、テノがつかんだ。
「さすが悪魔。まだ、意識があるんだ」
「ひ、ひきょーものぉ……」
「手段は問わないんだろ?」
「あう」
 ついに、テノは力尽きた。
「ふう」
 額の汗をぬぐう。
 ぱちぱちぱち
 拍手の音に、津久巳は振り返った。
 静奈が立っていた。もう、バスケットリングから、ぶら下ってはいない。
「お見事」
 その言葉は、静奈から発せられた。しかし、津久巳の知る声ではなかった。確かに女性の声なのだが、静奈の声よりはるかに低い、ハスキーボイスというやつだ。
「人の身でありながらテノを倒すとはね」
「静奈ちゃんじゃないな!?」
「おっと、これは失礼」
 そう言うと、静奈の姿をしたそいつは、闇の中へと溶け込んだ。
 再び闇の中から現れたのは、テノをもっとワイルドにした感じの、大人びた美女だ。テノを小猫に例えるならば、彼女は山猫といったところだろう。
「おまえも悪魔か!?」
 津久巳は身構えた。
「そうよ。まあ、テノの幼なじみで、今は上司なんだけど」
「そんなことは、どうでもいい。静奈ちゃんは、どこだ!?」
「……あっきれた。私が最初から化けていた可能性は、考えてない訳?」
 そう言えば、今朝はテノが化けていたんじゃないかと疑ったが、それが間違いらしかったので、そんな考えは頭から消してしまっていた。
「……それじゃあ……」
「いや。違うんだけどさ」
「おちょくってんのか、おまえら!」
「あっははははは。あ、悪い悪い。なるほどねー、確かにおもろいわ、あんた」
「ふざけるな!!」
「だから、謝ってんじゃない。そうそう、そいつさぁ」
 その女は、倒れているテノを指差した。
「あんたんとこで、預かってくんない?」
「な、何で!?]
「契約、結んだんだろ? だったら、一緒にいた方が、こっちはやりやすいんでね」
「んな……!」
「それとも、あたしともケンカする?」
 無茶な事を言う。おそらくテノよりも高位の悪魔を相手に挑むのは、愚の骨頂と言うものだろう。
「……わかったよ。それで、静奈ちゃんは?」
「あの娘なら大丈夫だよ。明日の朝には、あんたの部屋にいるはずだから」
「え?」
「それじゃ、あたしの仕事は終わったから。じゃね」
 それだけ言って、女は闇の中へ消え始めた。
「あ、おい! ちょっと……!」
 時すでに遅く、彼女は完全に消えていた。
「……仕方ないか」
 津久巳は、足元に横たわったテノを担ぎ上げた。
(今日も布団の上じゃ、眠れないな)
 そんな事を思いながら、体育館を後にした。

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