ジュワァ……
津久巳は目玉焼きを焼いていた。
背後の布団の中では、静奈が寝息を立てている。
「う……ん」
うめき声に振り返ると、布団の横から足が飛び出している。以外と寝相が悪いらしい。
「んん……」
両腕が出た。伸びでもしているのだろう。
「あ、ん。もう朝かぁ」
布団がモソリと起き上がる。ショートカットの髪の毛が、変な方向に飛び出てしまっている。
(あれ?……ショートカットだったっけ?)
目をこらして、顔をよく見る。
「あ!? お、おまえ!」
そいつを指差して、叫んだ。
「あっもう。起き抜けにそんな大きい声、出さないでよ」
その女は眩しそうに、片目だけ薄目を開けた。
「何でおまえが寝てんだ!? テノ!」
そう。そこにいたのは、一昨日、この部屋に現れた女悪魔、テノだ。
「あ!」
テノは、津久巳の背後を指差した。振り返ると、煙が黒くなりはじめていた。
「やべ!」
あわてて火を止める。
「なんだぁ。目玉焼きだけぇ? わびしいなぁ。ベーコンくらい、つけなよ」
テノはフライパンを覗き込んで、落胆している。
「うるさいな。貧乏なんだからしょうがないだろ……って、そーじゃない!」
「あいっかわらず、うるさいなぁ」
そう言いながら、まだ熱いはずのフライパンの上から、目玉焼きをつまみ上げる。
「あ、でも、おいしそうじゃん」
「食うな!!」
言った時にはもう遅く、目玉焼きはテノの口の中へと消えていた。
「いいじゃん、1枚くらい。ほら、もう1枚あるし」
「少なくとも、おまえのために焼いた訳じゃないぞ」
「ふーん? じゃ、誰のために焼いたのさ。この部屋には、あたしとあんたしかいないのに」
テノは、意地悪そうに目を細めた。本物の悪魔に対して何だが、こういう表情をすると、まさに小悪魔という言葉が当てはまる。
「そうだ。彼女はどこに行った?」
「彼女って誰さ」
「ふざけるな。その布団に寝ていた……」
津久巳は、テノを振り返った。
「そこに寝てたのはあたしだよ。その証拠にほら、他に、誰もいないだろ?」
「おまえが化けてたのか?」
「あたし、変身って得意じゃないんだよね」
(こいつ、俺をからかってる!)
津久巳のメガネを覗き込むテノの目は、なんとも楽しそうだ。そして、あからさまに津久巳を見下していた。
(まーだ、わかんないの?)
まるで、そう言っているようだ。
と、言う事は……
「……彼女をどこにやった?」
静奈をさらった、と言う事だ。
その言葉に、テノは溜め息を一つ。
「なに? あの娘に惚れちゃった訳? 以外とせっそー、ないんだねぇ。フラれてから、まだ1週間経ってないのに」
「黙れ!」
怒っていた。この数年間、怒ったことがなかった津久巳が、だ。
「おお恐。わかったから、怒んないでよ。そーだなぁ。例の契約書にサインしてくれたら、返してやってもいいよ」
「な……!」
テノの手には、契約書があった。
「だーいじょうぶだって。サインしたって、お願いしなきゃ魂は取られないんだからさ」
「……よこせ」
「はいはい」
とうとう、津久巳は契約書にサインし、その横に拇印を押した。
「これでいいんだろ?」
「はい、毎度ありっと。ところで……」
テノは契約書をくるくると丸め、胸元にしまい込んだ。
「あんた、あたしにこんなにも手を焼かせたからね、罰を与えるよ」
「何だと? 話が違うぞ!」
「悪魔の言葉を信用するなんて、ほーんと、お人好しだね。あたしは、返してやってもいいって言ったけど、絶対に返すなんて言ってないよ。あんた、確認しなかっただろ?」
津久巳はテノをにらんだ。
「今夜の深夜零時。街の体育館で待ってるよ」
テノは、一昨日と同じ様に窓から外に出た。
「手段は問わないから、あたしからあの子を取り返してみな」
それだけ言い残し、飛び去った。
津久巳は力なく、座り込んだ。
「何なんだよ……一体、何だってんだよ」
突然現れた、テノという名の非日常。その非日常に巻き込まれた自分。
ひょっとしたら、悪い夢なんじゃないかと思う。
が、もう一人、その非日常に巻き込まれた少女を思い出す。少なくとも、その少女には、何の関わりもないはずだ。
(どうせ夢なら、最後まで付き合ってやろうじゃないか)
津久見の意識が変わり始めた。
(このままじゃ、寝覚めが悪いしな……)
ギイィィィィィ……
甲高い音をあげて、扉が開いた。体育館の床に月明りと、その中の人影が伸びる。
「どこだ、テノ!」
叫んだ人影は、もちろん津久巳だ。
バタン!
津久巳の体がビクッと震えた。背後で扉が閉まったのだ。
しかし、振り向きはしなかった。
「脅してるつもりか? 古典的な手だな」
「ふーん。がんばるねー、やせ我慢」
声は、すぐ真後ろから聞こえた。
振り返ったが、そこには誰もいない。
フゥ
息をつき、また振り返る。
「ばあ」
「うわ!」
向き直った津久巳の眼前に、テノの顔があった。
「あははは。やっと驚いた」
無邪気に笑っているテノを見て、津久巳は、なんだか拍子抜けしてしまった。
「やる気があるのか?」
「そっちこそ、そんなバット一本で真っ正面から乗り込んできて、やる気あるの?」
津久巳は、自分の手にあるバットを見下ろした。そして、構えた。
「やる気がなけりゃ、こんなところに来ないさ」
「マジ?」
「大マジだよ! 彼女はどこだ!?]
津久巳の問いに、クイッと親指で横を指した。
見るとバスケのゴールリングに、静奈がぶら下っていた。が、気絶しているらしい。
「なら、行くぞ!」
静奈を確認した津久巳は、いきなり撲りかかった。
「きゃ、いきなり卑怯だって!」
「手段は問わないって言っただろ!」
「うわった! そりゃ、言ったけど……! あぶっ!」
なんだかんだと言いながらも、テノは振るわれるバットを、ことごとく避けていた。
「はあ、はあ……」
ほんのしばらくで、津久巳の息は上がってしまった。
「ほーら、言わんこっちゃない。そんなもんであたしを撲ろうなんて、無理なの。解った?」
「……なら、次の手段だ」
津久巳は、バットから手を放した。
ゴンォンォン……
体育館中に、音が響いた。
「まだ、なんかあるの?」
「もう、最後の手段だけどな」
「へえ」
津久巳は不敵に笑った。
「彼女を解放してくれ」
テノはしばらくの間、目が点になった。
「……あのね、んなこと出来る訳ないでしょ」
テノは、本気であきれた。
「いや、出来るはずだろ? 俺は、『お願い』してるんだから」
「あ?」
「俺の魂をあげるよ。だから、彼女を解放してくれ」
「あ、あんた、本気なの? 赤の他人のために、命かけようなんて……」
「赤の他人だから、俺のせいで危険な目に会わせたくないんだ」
テノは呆然としていた。が、しばらくして、しだいに肩が震えだした。
「……プッ。く、く、くくく。あは、あはははは! いやー、久しぶりに面白いギャグ、聞いたわぁ。ま、いっか。合格に、ギャン!」
突然、テノは悲鳴を上げて倒れた。津久巳の手には、スタンガンが握られていた。
「作戦勝ち、かな?」
とは言っても、作戦などと呼べる代物ではないが。
本当は、バットで撲ったところで、スタンガンを使うはずだったのだが、肝心のバットが当たらないので諦めていたのだ。ところが、最後の手段で意外にもテノが油断を見せたので、すかさずスタンガンを使った、と言う訳だ。
静奈のもとへ行こうとした津久巳の足を、テノがつかんだ。
「さすが悪魔。まだ、意識があるんだ」
「ひ、ひきょーものぉ……」
「手段は問わないんだろ?」
「あう」
ついに、テノは力尽きた。
「ふう」
額の汗をぬぐう。
ぱちぱちぱち
拍手の音に、津久巳は振り返った。
静奈が立っていた。もう、バスケットリングから、ぶら下ってはいない。
「お見事」
その言葉は、静奈から発せられた。しかし、津久巳の知る声ではなかった。確かに女性の声なのだが、静奈の声よりはるかに低い、ハスキーボイスというやつだ。
「人の身でありながらテノを倒すとはね」
「静奈ちゃんじゃないな!?」
「おっと、これは失礼」
そう言うと、静奈の姿をしたそいつは、闇の中へと溶け込んだ。
再び闇の中から現れたのは、テノをもっとワイルドにした感じの、大人びた美女だ。テノを小猫に例えるならば、彼女は山猫といったところだろう。
「おまえも悪魔か!?」
津久巳は身構えた。
「そうよ。まあ、テノの幼なじみで、今は上司なんだけど」
「そんなことは、どうでもいい。静奈ちゃんは、どこだ!?」
「……あっきれた。私が最初から化けていた可能性は、考えてない訳?」
そう言えば、今朝はテノが化けていたんじゃないかと疑ったが、それが間違いらしかったので、そんな考えは頭から消してしまっていた。
「……それじゃあ……」
「いや。違うんだけどさ」
「おちょくってんのか、おまえら!」
「あっははははは。あ、悪い悪い。なるほどねー、確かにおもろいわ、あんた」
「ふざけるな!!」
「だから、謝ってんじゃない。そうそう、そいつさぁ」
その女は、倒れているテノを指差した。
「あんたんとこで、預かってくんない?」
「な、何で!?]
「契約、結んだんだろ? だったら、一緒にいた方が、こっちはやりやすいんでね」
「んな……!」
「それとも、あたしともケンカする?」
無茶な事を言う。おそらくテノよりも高位の悪魔を相手に挑むのは、愚の骨頂と言うものだろう。
「……わかったよ。それで、静奈ちゃんは?」
「あの娘なら大丈夫だよ。明日の朝には、あんたの部屋にいるはずだから」
「え?」
「それじゃ、あたしの仕事は終わったから。じゃね」
それだけ言って、女は闇の中へ消え始めた。
「あ、おい! ちょっと……!」
時すでに遅く、彼女は完全に消えていた。
「……仕方ないか」
津久巳は、足元に横たわったテノを担ぎ上げた。
(今日も布団の上じゃ、眠れないな)
そんな事を思いながら、体育館を後にした。