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蒼海城(おうみじょう)


 

所在地 前橋市元総社町
築城年 永享年間(1429〜1440)?
築城者 長尾 景行?

 

 

総社長尾氏の居城蒼海城は、前橋市の上野国総社神社の北西700mにある宮鍋神社付近を本丸とする広大な城郭だったという。ここは平安時代における上野国の国府跡であり、北西1.5kmには国分寺跡がある。ただし現在は宅地化が進み、城の遺構はほとんど消滅している。

総社神社の境内には城の見取り図(とても縄張図とはいえない)が掲げられているが、それにしてもわかりにくい図である。おまけに説明文がないので、普通の参拝者は「蒼海城って何?」と思うだろう。

 

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総社神社 境内にある蒼海城の案内板(クリックで拡大)

 

前述のように、蒼海城は上野国国府跡に築かれた。
というよりは、ここにはすでに在地豪族の館跡があって、それらを連携させて一つの城として機能させたものらしい。

城の郭は本丸(一の郭)、二の丸(二の郭)、三の丸(三の郭)という呼び方が普通だが、この城に関しては上の案内板を拡大すればわかるように、○○屋敷という名前になっているのがその理由である。

その○○屋敷とは蒼海築城以前から存在した館跡と考えられ、それが漢字の田の字のように本丸の周囲に並んで全体で一つの城郭を構成しているのだ。このような城郭構造は列郭式といい、高崎の大類城もこの方式である。

すでに存在する複数の館をまとめて城として使う方法は、費用もそれほどはかからず工事も短期で済むが、各廓間の連絡・連携が難しく、攻守ともに困難になるという欠点をもつ。戦国時代には山城は別として、平地に築かれる城郭はほとんどが二の丸、三の丸等の郭を本丸を中心に同心円状に配置するのが普通であり、蒼海城のような列郭構造は築城時期の古さを物語る。

●総社

平安時代、各国の国司(その国の長官。現在でいえば県知事か)は朝廷で選ばれて赴任したが、着任後は国内すべての神社の参拝が義務づけられていた。
こうした国司の負担を軽減するための制度が「総社」である。

総社とは国内の総て(すべて)の社(やしろ)の意味で、ここを参拝することで他の神社への参拝を略することができた。このため総社は全国にあるが、国府の近くに建てられるのが普通だった。「国府」という地名も各地にあるが、かつての国府の所在地であることが多い。

平安時代における国内の有名神社リストともいうべき「延喜式神名帳」には上野国内の12社が載っているが、総社神社はその12社から上野国内549柱の神を本体とし(神様の数の単位は柱という)、一の宮から九の宮を合わせて祀っていた。

上野国国府を巻き込んだ事件で最も有名なのは、平将門の乱だろう。
天慶2年(939年)12月。上野国に攻め込んだ平将門は、国司の藤原尚範(ふじわらひさのり)から国司の印璽を奪い、総社神社の巫女の神託により新皇を称したのだ。

 

宮鍋神社。本丸と推定される

 

案内板(クリックで拡大)
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上野国政庁の想像図(クリックで拡大) 境内にある上野国総社跡の石碑

 

●長尾氏

桓武天皇の第三子、葛原親王(かずはらしんのう 786〜853)の子高見王(たかみおう ?〜?)は臣籍降下し平姓を与えられ、平高見となった。その子高望(たかもち ?〜?)は上総介として坂東に下向し、任期が過ぎても帰京せずに土着して坂東平氏の祖となった。

平高望の子の中で、五男良文(886?〜?)は相模国村岡(現 藤沢市村岡)にあって村岡五郎と呼ばれていた。
この人の記録は多くはないが、その子孫は関東で大いに繁栄し、後に坂東八平氏(千葉、上総、三浦、土肥、秩父、大庭、梶原、長尾の各氏)と呼ばれる氏族を排出するようになる。各氏族にはさらに細分されたが、高崎市周辺にあっては秩父氏の流れをくむ倉賀野氏、大類氏、高山氏、和田氏、白倉氏等がいた。

 

 

長尾氏は鎌倉氏の支族である。
平良文のひ孫の忠通( ただみち ?〜?)は、相模国鎌倉郡にあって鎌倉氏を称した。長尾氏は、忠通の子景村の孫景弘(かげひろ)が相模国鎌倉郡長尾荘で長尾氏を称したのがはじまりである。代々景の字を継承した。(景弘の父景明は忠通の孫ではなく、子という説もある)

長尾氏は源頼朝の挙兵時は平氏側についたが、平氏滅亡後は同族の三浦氏の配下となった。
三浦氏は文字どおり三浦半島の王ともいうべき大族で、保身のためその庇護を受けるためだったのかもしれない。

長尾氏の転機となったのは宝治合戦(1247年)である。
その経緯は略すが、この合戦は北条氏とその政治体制に不満を募らせた三浦氏との戦いで、結果として三浦氏は大敗し長尾氏も殆どが戦死し、あるいは没落していった。

しかしわずかに残った子孫は、室町時代初期に関東に入った上杉氏の配下となり、さらには筆頭の家臣として上野国や越後国で栄えることになる。
その祖となったのは長尾景忠(?〜?)である。

このあたり。景忠とか、忠景とか景の字がつく名前ばかりだし、資料によって記述がまちまちで実にわかりにくく書きづらいです。がまんして読んでください。
越後長尾氏は、景忠の一族で養子となった景恒を祖とする。その子孫はさらに上田長尾、古志長尾、三条長尾の三家に分かれ、各地で指折りの豪族となった。とりわけ三条長尾家は代々越後守護代を世襲した。戦国時代、この家から長尾景虎という武将が出て、北陸から関東にかけて強大な戦国大名となる。後の上杉謙信である。

白井長尾氏は、景忠の孫清景を祖とする。代々白井(現 渋川市白井)を本拠地とした。白井城を築いたのは、中興の祖ともいうべき長尾景仲(かげなか 1388〜1463)である。景仲とその子景信の代では上野国と武蔵国の守護代、上杉家家宰(執事)として確固たる地位を築いたもののその後の幾多の戦乱で勢力は衰え、戦国時代には上杉謙信に仕えるようになった。

謙信の死後は他の上野国の豪族同様に武田氏、小田原北条氏に属したが北条氏滅亡後は上杉景勝に仕え、米沢へ移ったという。
渋川市の雙林寺は景仲の開基によるもので、景仲の木造もある。

 

雙林寺
長尾景仲像 白井城

総社長尾氏は、長尾景忠の孫清景を祖とする。
上杉氏の家宰(執事)職は代々白井長尾家が継いだが、その勢力の増大を警戒した関東管領上杉顕定(1454〜1510)は白井長尾家当主景信の死後、子の景春(1443〜1514)を登用せず、総社長尾家の長尾忠景(?〜1501)を任命した。

これを不満として景春が反乱を起こすと忠景は鎮圧のため上杉顕定とともに武蔵国出陣したが、逆に破れ上野国に逃げ帰る一幕もあった(五十子の戦い。1477年)。この戦いは関東一円に波及した享徳の乱の最終段階で、乱は最終的には扇谷上杉氏の家宰大田道灌によって鎮圧された。

さて、総社長尾家には目立った武将は出ていないため、家運も順調だったとはいい難い。
忠景の孫・顕方の代には家宰職を足利長尾氏に奪われ、さらには1524年には家を支流の高津長尾家の長尾顕景に乗っ取られてしまう。顕景は上杉氏とは断絶し、小田原北条氏の配下となったが、箕輪城の長野業政に攻められて降伏した。その後武田信玄が上野国に侵攻すると越後の上杉謙信を頼って越後へ移ったが、数代の後、断絶したという。


宮鍋神社の西250mにある御霊神社には、子孫の方によるものと思われる総社長尾氏の由来記が掲示されている。

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御霊神社 案内板(クリックで拡大)

境内にある蒼海城の土塁跡(推定)


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