平将門
天慶3年(940年)2月、下総国石井(いわい・・・現 茨城県岩井市)において、平将門は藤原秀郷・平貞盛・藤原為憲の連合軍との戦いの最中、どこからともなく飛んできた矢にあたりあえなく戦死しました。前年坂東諸国を制圧し、新皇を称した将門の乱はわずか2ヵ月であっけなく幕を閉じたのです。
朝廷に刃向い皇位を僭称する悪人の末路はかくのごとし・・・将門は戦前の歴史観上、日本史上最大の悪人として恰好のサンプルでした。
平将門像(愛媛県歴史博物館) |
■系譜
将門は平氏の祖・平高望の孫にあたります。
桓武天皇の曾孫にあたる高望王が臣籍降下で平の姓を賜り、上総介として赴任したことは ここ にも書きました。平高望は任期をすぎても帰京せず、開拓農場主として上総国に土着し土地の有力者となったのです。
彼の長男国香(くにか)は常陸大掾、鎮守府将軍。二男の良兼は下総介。良持(将門の父)も鎮守府将軍に任命されていました。高望王の子孫は代を重ねるにしたがって上総国から下総国、常陸国に広がり、やがては平清盛はもちろんのこと、後に坂東八平氏と言われるようになる長尾氏、千葉氏、上総氏、秩父氏、三浦氏、梶原氏、土肥氏、大庭氏達を生み出しました。もちろん平安末期源頼朝に協力した北条時政、畠山重忠等も平氏であり、このことは平安中期にこの一族が坂東でいかに繁栄したかを物語るものです。
この時代より約150年後、源頼義は奥州制覇をめざして前九年の役を引き起こしましたが、なぜ奥州なのかといえば坂東はすでに平氏一門等に押さえられていて土地のスペース(?)がほとんどなかったのも一因です。
平国香の長男貞盛が伊勢守に任ぜられて伊勢国に移り住むと、今度は坂東にかわって伊勢が平氏の本拠地となりました。
ご案内のとおり伊勢平氏は清盛が登場し政権を掌握すると同時に貴族化し、全国の武士達にそっぽをむかれてしまいます。坂東の平氏達は平氏の末流とはいえそのころにはもはや平氏一門の待遇は受けなかったため、源頼朝に味方し平氏打倒の兵を挙げることになるのです。
一方初期のころ将門と争うようになる源氏は源頼朝等を出した清和天皇の子孫(清和源氏)ではなく別の系統になります。源氏は清和源氏が有名ですが、皇族の臣籍降下で源氏の姓が与えられたのは豊臣秀吉のころまで行われていたので源氏の流派は実に多かったのです。
平氏は桓武平氏、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏の4流だけですが、源氏は21の流派がありました。嵯峨源氏、仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、陽成源氏、光孝源氏、宇多源氏、醍醐源氏、村上源氏、冷泉源氏、花山源氏、三条源氏、後三条源氏、後白河源氏、順徳源氏、後嵯峨源氏、後深草源氏、亀山源氏、後二条源氏、後醍醐源氏、正親町源氏がそれです。
この中で嵯峨源氏は一文字の名前で知られています。姓も一文字ですから合わせて二文字です。
歌人として高名な源融(みなもとのとおる 812〜895年)や源頼光の四天王として知られる渡辺綱はこの流れです。平将門と深くかかわる源護(みなもとのまもる)は確実なところはわかりませんが、名前が一文字なので嵯峨源氏と推定されています。彼は常陸の大掾(たいじょう)として赴任しました。
源護の長女は平良兼(国香の弟)、次女は平良正(同)、三女は平貞盛(国香の長男。将門の従兄弟)にそれぞれ嫁いでいます。つまり、まことにややこしいことながら源護は平氏と姻戚になることで勢力の拡大を図ったのです。
●コメント
他のところで何回か書いていますが、国司の官位(かんい・・・朝廷内の役職)は数段階に別れていました。
このコンテンツにも守、介、掾という名称があちこちに出てきますので一応参考まで。
等級 官位 読み方 内容 1 守 かみ 今で言う県知事。その国の最高官 2 介 すけ 副県知事。ただし上野、常陸、上総にあっては最高官 3 掾 じょう 副々県知事。国によっては大掾、小掾もあった
ですから武蔵守といえば武蔵の国(今の埼玉・東京)の最高官です。これに対して上野、常陸、上総の三国は親王任国といって、守は親王が任命されるのが慣例でした。
親王は当然皇族ですから京都から離れることはできません。このためこれら三国では介が事実上の最高官だったのです。なお任期は5年間で、時には再任されることもあったようです。
■権力争い
平安中期の朝廷で絶対的権力を握ったのは藤原氏ですが藤原氏が危険視し、これを除くことに躍起になった人が少なくとも三人います。一人は菅原道真であり、あとの二人は伴善男(とものよしお)と源高明(みなもとのたかあきら)です。
菅原道真についてはここでは書きませんが、伴善男(809〜868)が失脚したのが応天門の変です。
応天門とは現在でいえば国会議事堂正門のようなもので、866年3月ここから不審火が発生。またたく間に左右の門を含めて全焼した事件です。2ヵ月後、右大臣藤原良相と大納言伴善男はこれを左大臣源信(みなもとのまこと・・・嵯峨源氏)による放火と断定。しかし同年8月、犯人は伴善男父子であるとの密告者が現れ、その結果伴善男をはじめとする5人が連座し流罪となったのです。源信は疑惑は晴れたものの、疑われたショックで家に閉じこもったまま2年後に亡くなります。
この事件の真犯人はいまだに不明です。
これは伴善男がライバル源信を蹴落とそうとした事件とも、あるいは伴善男の失脚をねらった太政大臣藤原良房の陰謀ともいわれています。仮に藤原良房の陰謀でなかったとしても、彼はこの事件を巧みに利用した結果藤原良房の有力な政敵である伴善男と源信がいなくなったのは事実なのです。安和の変は969年、源高明(914〜982)が娘婿である為平親王を擁立して冷泉天皇の皇位を奪おうとした事件です。源高明は醍醐天皇の子で臣籍降下で源の姓を賜り26歳で参議、52歳で右大臣、続いて左大臣にまで昇進しましたがこの事件で失脚。この人も菅原道真同様大宰府に左遷されました。
しかし安和の変は菅原道真のケース同様に藤原氏による陰謀・でっち上げ事件に間違いなく、強力なライバルを蹴落とした藤原氏はその後朝廷内での絶対的権力を掌握することになるのです。
この頃の坂東は『群盗山に満つ』状態で武蔵国、上総国、下総国などは郡ごとに検非違使(警察署のようなもの)を設置しなければならないほど治安が悪化していました。
しかしそんなことはなんのその。当時の朝廷ではこんな事件(権力闘争)が相次いで起きていました。
藤原氏には国政を担当している自覚など一切なく、ひたすら一族の繁栄だけを目的に朝廷を(つまり日本の国政を)牛耳ることになるのです。
■将門記
将門の乱について書かれたものが将門記(しょうもんき)です。
将門の死後四ヵ月ほどで書かれたらしくほとんど同時記録のようなものであり、信頼性は高いとされています。作者は不明ですが下総・常陸国の地理に詳しく、また仏教的な文章が多いため現地付近の僧侶ではないかと言われています。また将門について称賛しているところがある反面、反逆者としても書かれており、作者の立場が将門側なのか朝廷側なのかよくわからいところもあります。
坂東諸国 |
■出生〜青年期
将門の生年はよくわかっていませんが、母は下総の豪族、犬養春枝(いぬかいはるえだ)の娘で、下総国石井(現在の茨城県岩井市)付近で生まれたと言われています。父は良持(良将と書いた記録もあります)。
将門は通称として小次郎を名乗っているところから、二男と推定されています。長男はおそらく早世したのでしょう。将門は少年のころ、一時京に上っていました。目的は何かしらの官位(朝廷内での役職)を得ることです。
この時代の地方武士の中には京の公家の私臣となって雑務をする人が多かったようで、将門もどのようなツテで仕えたのかはわかりませんが右大臣藤原忠平(時平の弟)の家人となっています。ひょっとしたら将門の父良持が開拓した荘園は藤原忠平に寄進されていて、その縁で仕えたのかもしれません。仕事は藤原忠平の家屋敷や京の町の警備などだったでしょう。武士ですから学問はないし、それくらいしかやることがないのです。
まじめに勤務して主君に気に入られれて、しかも運がよければなにかしらの官位がもらえたのです。もちろん一種の任官運動ですからクソまじめに勤務するだけではなく、それなりの貢物・・早い話が贈賄活動をしていたことでしょう。将門の家は坂東一の氏族の家ですし、父良持は鎮守府将軍として陸奥に赴任していました。
相当裕福な家だったことでしょうからそれなりの贈賄はしていたことでしょう。
それでも貰える官位は、なにしろ当時は武士などごく低い身分でしたから決して高いものではなかったと思われます。この時代から約150年後、後三年の役を鎮めた源義家(八幡太郎)は当時の武士としては破格の正四位下与えられ、昇殿をもゆるされましたが、これはあくまで例外なのです。
武士にすれば低いとはいえ官位があれば豪族仲間の間でも大きい顔ができますし、仮に国司や豪族間でトラブルが起きた場合、京との公家とつながりがあると何かと有利だったのです。この点政財界とつながりがあるといろいろ有利とされる現代と同じようなものです。社会の構造や人のあさましさは昔も今も変わりません。
将門は武骨な田舎武者にすぎません。
故郷にいれば大勢の郎党や下人にかしずかれていた身です。戦は得意でも貴族の教養など持ちあわせず、宮仕えは戸惑うことばかりだったことでしょう。何年間京都にいたのか。
結局将門はなんの官位ももらえませんでした。官位をもらえなかった恨みから将門は反逆したと主張する人もいるようですが、これは考えすぎというものでしょう。将門は戦のこと以外、特に官位などにはそれほど執着する男ではなかったような気がします。やがて不幸なことに陸奥国に単身赴任していた父が急死し、将門は急遽家を継ぐため京都から戻ることになります。そしてそれは他の平氏一門との戦いのはじまりでもありました。
■同族との争い
将門記は935年2月、常陸国野本付近で将門と源氏の武力衝突があったことを伝えます。
この戦いで将門は源護の長男扶(たすく)、二男隆(たかし)、三男繁(しげる)の三兄弟だけでなく、源氏に加担した伯父・平国香までも討ち取るという戦果をあげました。将門がなぜ源氏と戦うことになったのか原因は不明ですが、普通に考えればこの付近の土地は源護や将門の領地が複雑に入り組んでいたため、それまで小競り合いだったのがこの時は本格的な戦闘に発展したのかもしれません。
将門記には女禍とも書いてあります。
将門の妻は平良兼(将門の叔父)の娘のようですが、将門がこの娘を略奪同然に奪ったので将門は一族から孤立していたという説もあります。平良兼は源護の娘を妻にしていますので彼にとっても源護は親戚にあたるのですが、それならばこの時なぜ平良兼が加担しなかったのかナゾです。また平真樹という人が源護と紛争を起していて、将門は真樹に頼まれてこの紛争を調停しようとしていたとも言われています。将門はけっこう人に頼られる人物でもあったようで、将門の乱は将門のこの侠気に富んだ性格が大きな原因になっているように思えます。
平国香の加担もまた謎です。
この人にとって源護は息子の舅。親戚とはいえ将門は甥ですから将門との縁の方が濃いと思うのですが・・・。ところが前記したように源護の三人の娘は平貞盛・良兼・良正に嫁いだのではなく、国香・良兼・良正の兄弟に嫁いだと書かれた資料もあります。これが真実なら国香の加担は納得できます。いずれにせよ将門と源護の争いは他の平氏一門を巻き込んでの争いに発展して行くのです。
将門は源氏三兄弟の不意打ちをくらったようです。
このため一時は劣勢だった将門ですが次第に体制を立て直し、ついには攻撃に転じ一気に大串にある源氏館に、続いて石田にある平国香の館に攻め込みました。
この戦いで野本から石田にかけて点在する村々(ほとんどが源護や平国香の領地)はすべて焼き払われ、人は男女幼老を問わず殺されたといいます。最初に少なからぬ郎党を失ったため、怒り心頭に達した将門が徹底的に戦ったのでしょう。そうでなければ将門の攻撃の激しさが説明できません。しかしこうした場合の攻撃は激しければ激しいほど、強烈ならば強烈なほどよいのです。そうでなければ弱い主人、頼りにならない主人として郎党から離反されてしまうのです。当時はそういう時代であり、坂東はそういう風土だったのです。
将門記にはこのように記されています。
悲しいことに男女は焼けて薪となり、珍しい財宝は他人に奪われてしまった。三界火宅の財宝は元々五人の持ち主があるというが、持ち主が変わって定まらないとはこういうことを言うのか。
その日の火が燃え上がる音は雷鳴のように響き渡り、その煙の色は雲と争うように空を覆った。山王神社は煙の中で焼け落ち、国府の役人や一般庶民はこれを見て嘆き、遠い者も近い者もこれを聞いて嘆息した。
矢に当って死んだ者は思いもかけず親子の別離となり、盾を捨てて逃げた者は予期せぬ夫婦の生き別れとなった。
*三界火宅・・・苦しみ多いこの世の意味
薪(まき)とは若い人には知らない人がいるかも知れませんが短く切って乾燥させた木で、火をおこすのに使い燃えれば黒焦げの炭や灰になります。
それにしても生々しい表現です。このすさまじいばかりの逆転劇は、将門の軍事力が源護や平国香の想像以上だったことを意味します。戦いは将門の大勝利でしたがこの結果、源氏三兄弟はともかく一門の統領である平国香を討ち取ったことにより、将門は平氏一門から孤立し、一族すべてを敵に回すことになるのです。
前記のとおり将門の叔父平良正もまた源護の娘を妻にしています。良正は源氏の不幸に同情するあまり、車輪のごとく国中を奔走し、味方を募って将門に戦いを挑んできました。
両者は935年10月、常陸の川曲で戦いましたが良正は死者60人、怪我人は数知れずというダメージを受けて敗退。良正は敵の名声を上げ、他国で恥をさらすことになりました。(茶色の文字は将門記の記述)
ここで将門の従兄弟、平貞盛(たいらのさだもり)が登場します。平国香の長男で、平清盛の祖先にあたります。
貞盛はやはり官位目当てに将門とほぼ同時期に京へ行っていましたが、将門よりは宮仕えの才能があったのか、要領がよかったのか。左馬充の官位を貰っていました。左馬充(さまのじょう)とは御所の馬や馬具、諸国の牧場の馬を管理する役職で、卑賤な職ではありましたが何の役職にもつけなかった将門とはかなりの違いがありました。
父の死を知って故郷に帰った貞盛は何を思ったか将門と和解すると言い出したのです。おそらく坂東で戦いに明け暮れれば自分の朝廷内での出世にひびくと思ったのでしょう。しかし何といっても将門は貞盛にとって父の仇。将門は和解するとの貞盛の言葉を信じず、結局貞盛も叔父の平良兼や良正と共に将門と戦うことになるのです。
平国香亡き後平氏の長者となった平良兼はいつまでも事態を捨ててはおけず良正、貞盛と共に翌年6月、将門追討に立ち上がることになります。兵数約1000人。これに対する将門勢はわずかに200人。
将門の兵力は決して少ない数字ではありません。
常に数千、数万の兵が動員されたのはずっと後、戦国時代になったからのこと。当時の豪族の動員兵力は数十からせいぜい数百だったのです。そんな時代に平良兼が1000人もの兵を集められたということは、これはそのまま良兼の実力を意味します。しかし戦いは必ずしも兵力の大小では決まらないものです。
良兼は兵を引き連れて北上し一旦は下野国に入ります。示威運動です。兵数に開きがありすぎて尋常に戦ってはとても勝てないため、良兼軍を待ち伏せした将門は奇襲攻撃で敵の前軍を混乱させ、それに乗じて一気に突撃するとたちまち良兼軍はばらばらとなり、良兼・良正兄弟は近くの豪族の館に逃げ込みます。ところが将門はその館を一旦は包囲しますが、しばらくすると囲みの一部を開けてわざと良兼等を逃がしてやり、その後将門は下野国府に赴いて騒動を起こしたことを侘び、国府の役人に一部始終を報告して帰っています。
なぜ将門が良兼・良正を逃がしたのかはわかりません。
彼の甘さかもしれませんし、時折みせる人の良さなのかもしれません。
この年の10月将門は源護に訴えられたため、朝廷に呼び出されて上京しています。しかし結果として将門の罪は軽微であるとされ、かえって将門の武名は都に知れわたることになるのです。翌937年4月朱雀天皇の元服による恩赦があり、罪は不問となり5月には帰郷しています。
帰郷した将門には再び良兼・良正との戦いが待っていました。
この時将門は一時的ながら戦いに敗れています。運悪く将門は脚気を病んでおり、さらには祖父高望王の木像を掲げて突撃してくる良兼・良正にはさすがの将門も弓が弾けず敗退しています。これは相当卑劣な手段でしたが、良兼・良正にとっては普通の手段では将門には勝てないと考えた窮余の策だったのでしょう。
しかしそれでも将門を倒すことはできず、9月になると脚気が治った将門が常陸国真壁郡にある良兼の領地を焼くと良兼は筑波山中に逃げ込んだため引分になっています。将門が帰郷した5月から9月にかけて大小、多くの戦いがありました。
この当時の兵は農民兵。
農民にとっては農繁期の戦いは農作業はできず、戦死者も出るし迷惑この上もなかったことでしょう。
もっともこの状況は織田信長が兵農分離を始め、豊臣秀吉が刀狩をして農民の武装解除を行うまで変わらなかったのです。
将門の下人で丈部子春丸(はせつかべ こはるまる)という男がいました。
丈部という姓は大和民族のそれではありません。越後方面にいた大和朝廷に背く人・・・まつろわぬ人の姓です。
まつろわぬ人で朝廷に降伏し帰順した人は俘囚(ふしゅう)と呼ばれていました。当時の坂東はまだまだ未開の地が多く、開拓のため多くの人手を必要とし、その労働者として坂東や他の地方に送り込まれた俘囚も多いのです。
当然ながら俘囚達は好きこのんで坂東に移住したのではありません。坂東での労働は過酷だったでしょうし、その不満から時には大規模な反乱に発展することもありました。
子春丸が実際に丈部氏の一族なのか、それとも単に名乗っていただけなのか今になってはわかりませんが、少なくとも将門の配下に丈部姓を名乗る人がいたということは、将門の軍には俘囚達がかなりいた証拠と思えます。
さて子春丸はおそらく下人ではなく、郎党に取り立てるとでも言われたのでしょう。良兼の誘いに乗って将門を裏切り、将門の館内の様子や家屋の配置を良兼に教えてしまうのです。ある日の未明、良兼は80人の精兵で将門の館を襲撃しようと進んでいくと、途中でこれを将門の兵に見られてしまいます。その兵の急報で良兼の襲撃を知った将門はわずか10人の兵(その時、彼の館内にはそれしかいなかったのです)を部署し、良兼を待ち受けます。
不意打ちをかけようとした良兼は逆に不意を突かれ、数十人の死傷者を出して逃げ帰ります。またしても将門の勝ちでした。
その後ほどなく良兼は失意のうちに病死し、貞盛は将門の追求を逃れるために翌938年2月、東山道から京都へ向けて出発しました。これを知った将門は百余騎の騎馬兵を率いて追撃。信濃の国分寺で追いつき、千曲川で合戦となりましたが一戦して貞盛は敗れ逃走してしまいます。しかし追撃したもののどうしても貞盛を捕捉することはできず、将門は地団太踏んで悔しがったといいます。
貞盛は取り逃がしたものの数回の合戦に勝利してきた将門は坂東一の武者と称えられるようになり、同族との戦いはこれで一応終わり、以後彼の行動は強力な軍事力をバックに同族との戦いの枠を越えて行くのです。
■武芝騒動
武蔵国(現東京都、埼玉県)安立郡の郡司(ぐんじ)に武蔵武芝(むさしのたけしば)という男がいました。郡司とは、朝廷から派遣された守が県知事のような存在だったのに対して市長のような立場です。
この役職には朝廷から派遣された役人ではなく、習慣的に現地の有力な豪族が任命されていました。武蔵武芝は極めて優秀な郡司として国司側からも民衆からも信任が厚かったようです。また彼は武蔵という姓があらわすように武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の子孫と考えられています。
938年2月、騒動は武蔵国権守として興世王(おきよおう)、介として源経基(みなもとのつねもと)が赴任して来た時起こりました。
守は百済貞連(くだらさだつら)でしたが着任が遅れていて、この時はまだ到着していなかったのです。*権守(ごんのかみ)・・・守の代理。介の上位役職
余談ながら武蔵国は朝鮮からの帰化人が開拓した国です。
かつて大和朝廷と親密な関係があった百済国・高句麗国が滅びると多くの人が日本に帰化しました。彼等は大陸の最新の文化・文明を日本にもたらし、ある者は大和朝廷内の要人となり、またある人は開拓のために地方へ移住したのです。『続日本紀』元正天皇霊亀2年(716)には、『駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野7国の高麗人1799人をもって武蔵の国に移し、はじめて高麗郡を置く』とあります。
高麗神社(こまじんじゃ・・埼玉県日高市) 現在でも埼玉県南部には高麗川という川がありますし、飯能市(はんのうし)という市もあります。飯能とは韓(ハン)の地(ナラ)という意味のようです。
『こま』という地名は古代朝鮮と関係があるようで、東京の駒込(こまごめ)や狛江(こまえ)も朝鮮からの帰化人が残した地名です。この神社は、唐・新羅連合軍に敗れ滅亡した高句麗国の王族若光(じゃっこう)を祀る神社です。若光は、高麗郡の郡司に任命され、武蔵野の開発につくし、再び故国の土を踏むことなくこの地で没したのです。
ついでに言うと地名ではなく姓名になりますが、『こぐれ』という姓は高句麗(こうくり)から、羽田、秦、湊のように『はた』という姓名は始皇帝を出した秦(しん)の住民が日本に移住して国名を名乗ったともいわれています。秦は『はた』とも読むのです。
●国司と郡司の利害関係
当時善政を布くために赴任した国司は皆無と言ってよいでしょう。
下級貴族達は国司になりたいのです。そのためにはいろんな手づる・賄賂をはじめ、あらゆる手段を用いて藤原氏の機嫌をとってやっと国司に任命されるのです。臣籍降下して平氏や源氏となった皇族、たとえば高望王も同じです。臣籍降下したとはいえ、モトをただせば高望王達は藤原氏の主筋。
なぜ卑屈なまでに運動をして国司になりたいか。当時の京都では藤原氏一族(もちろん本家の藤原氏)が権力を握っていて、藤原氏一族でなければ絶対といっていいほど出世の見込みはなかったのです。もちろん皇族であっても母親が藤原氏以外の家の出身であっては同じことでした。
彼らはたとえ天皇の血筋であっても京都にいてはうだつが上がらず、下級貴族として一生を終えるしかないのです。ところが国司に任命されて現地に赴任すれば、一定の税を徴収しそれを朝廷に送ることが仕事になります。
国司の仕事とは簡単に言えばそれだけで、それさえきちんとやっていればあとは農民を徴収して私用に使おうと、地元の有力者達から饗応を受けるのも、賄賂を受けるのもやり放題なのです。
賄賂は、例えば訴訟の時や年貢取り立てに手心を加えてもらうようなことであり、私用に使うとは、主な用事は未開拓地の開墾です。そして任期がすぎれば京都には帰らずそこに住み着く。その新しく開拓した土地を荘園として名目上は都の有力貴族(藤原氏など)に寄進しますが、事実上は自分の土地になるのです。
ここに当時の律令政治の矛盾が表れています。
国内の土地は三種類に分かれます。国有地と荘園と未開拓地で、国司にとって税を徴収する土地は国有地だけで、荘園は都の貴族の持ちもので税徴収の対象外、非課税領域なのです。新任の国司にとって国有地が多いほど税徴収の成績は上がります。しかし彼等にとっては未開拓地が多いほど嬉しいのです。なぜならその未開拓地を開拓して荘園とすれば任期終了後は自分が支配することができるからです。
こんなわけで国司になるということは賄賂は入るし、未開拓地が多ければ将来大農場主になれる可能性を秘めているし、喉から手が出るほどなりたいのも無理のないことでした。
地元民からみれば国司は朝廷の威をかさにきて威張りちらすだけではなく、税を搾り取るわ、私用に使われるわ、賄賂を要求するわでハラワタの煮え繰り返るような存在で、当然ながら国司と地元民とはイザコザが絶えなかったのです。
武蔵国に到着するなり興世王と源経基は、武蔵武芝に対して領内を検分すると通知しました。
検分とは聞こえが良いですが、早い話が検分する土地の有力者から受け取る莫大な貢物が目当てであり、守の百済貞連がいては自分の取り分が少なくなるため、百済貞連の到着を待たずに行おうとしたのです。あさましいものですが、それくらいのことをしなければ赴任した意味がないと考えたのでしょう。武蔵武芝は二人の要求を、守の到着前の領内検分は慣例に反する、として拒絶しました。すると怒った興世王と源経基は兵を引き連れて武芝の領内を荒らしまわり、略奪をほしいままにしてしまいます。
暴悪で非があるとはいえ、興世王と源経基に逆らうことは朝廷に逆らうことになります。衝突を恐れた武芝は一族を引き連れて付近の山に避難してしまいます。これを知った興世王と源経基は狭服山という山に陣取り、武芝と対峙するようになります。
狭服山の所在地は不明です。埼玉県狭山市ともいわれていますが、その後興世王はここを下山して武蔵の国府に出向いていますから国府(東京都府中市)からはそれほど離れてはいないとも思います。狭山市と府中市は直線距離にして約40Km。ちょっと離れすぎているように思えます。その興世王と源経基は自分達に対する非難の声が高まるにつれてコトの重大さに不安を感ずるようになり、さりとて武芝に詫びを入れるのはメンツにかかわるし、どうにも動きがとれなくなって来ていました。
ここで将門が両者の間に調停に入るのです。
すでに坂東一の武者と言われるようになった将門のとりなしは興世王と源経基にとっては渡りに船でしたし、武芝には天の助けだったことでしょう。なぜ将門が自分の領地を離れて他国の紛争解決に乗り出したのかわかりませんが、武勇だけでなく、こんなことすれば男が上がるとでも思ったのかもしれません。
大国魂神社(東京都府中市宮町)です。武蔵野国の国府はこの近くにあったようです。
国府政庁で関係者が集まりました。和解です。
しかし源経基は和解が信じられず、のこのこ国府に出向いては殺されるのではないかと不安がって依然として狭服山から下山しなかったのです。
国府では思わぬハプニングが起こります。
和解も済み、興世王と武蔵武芝は将門と共に酒宴を開いていましたが、源経基は自分を酒宴に迎えにきた武芝の兵を自分を攻撃にきたと思い込み、一目散に逃げ出してしまったのです。(一説では武芝の兵が実際に源経基を攻撃したともいいます)京都に着いた源経基は朝廷に将門は謀反をたくらんでいると報告しましたが、朝廷もそれをそのまま鵜呑みにするほどいい加減ではありません。源経基は事実関係を調べた朝廷からかえって叱責をうけるというありさまでした。
しかし人間、何が幸いするかわからないものです。その後将門が常陸、下野、上野の国府を襲い、新皇を称するようになると、源経基は先見の明があるとして今度は朝廷から誉められてしまうのです。ま、結局朝廷はええ加減なんですがね。
将門が北関東の国府を襲ったとき・・・それはこの翌年のことですが、武蔵武芝の動きについては何の記録もありません。ほどなく亡くなったのか、それとも将門には助けてもらった義理はあっても国家に反逆することはできなかったのかわかりません。武蔵武芝はこの騒動以降永久に歴史に埋もれてしまうのです。
《おことわり》
同族との戦い以降将門は朝廷に訴えられたり、逆に将門が朝廷から貞盛を追捕せよとの命令を受けたり、この間の朝廷の態度は朝令暮改。猫の目のようにコロコロ変わっていますがいちいち書くのも面倒なので割愛してあります。