武家政権の成立
史上最初に政権を掌握した武家は平氏ですが、その政治はそれまでの藤原氏の政治をほとんどそのまま踏襲したにすぎず、わずかな期間で源頼朝を中心とする本格的(?)な武家政治がスタートします。
なぜ平氏は滅びたのか。
それにはなぜ武士が生まれたのか、そこまでさかのぼる必要があります。
■武士の誕生
武士とは軍人ではありません。軍人とは国軍の一員としてあくまで国家(皇帝)に忠誠をつくす、いわば公務員ですが武士は自分の主君に忠誠をつくす、主君側から見れば私兵なのです。
律令制の国家では、人や土地はすべて皇帝(天皇)の所有物になります。そこには国軍はあっても私兵と言うものは存在しません。そして武士とは世界に類を見ない日本独特のものなのです。武士は生まれざるを得ない理由で生まれ、力をつけた彼らは最後には貴族政治を打倒し、自分達の政権(鎌倉幕府)を立てることになります。
なぜ武士は生まれたか。
それには当時の政治環境、政治体制を説明しなくてはなりません。
ここの部分は非常に複雑ですし、平安時代のことはその後の源平や戦国時代と違って本も少ないので一般的に知られているものではありません。
おまけに中学・高校の教科書ではごく簡単に記述されているだけなのでわかりにくい方も多いと思います。ですから話すとやたら長くなりますが、なるべく簡単に書くことにします。で、武士が生まれた理由ですが、まずその責任(?)の一つは桓武天皇にあります。
●常備軍の廃止
桓武天皇はそれまで存在していた軍隊(国軍)を廃止し、解散してしまいました。時期はおそらく東北地方の争乱が終わった後(802年)のことでしょう。
めったにない戦争にそなえて常時軍隊を所有するなど不経済というわけです。
しかし軍事力はある意味では警察力です。ちょっとした犯罪なら当時の警察力(検非違使)でもなんとか解決できますが、大規模な犯罪(盗賊集団など)にはまったく無力でした。京都でもそうでしたから、地方ではなおさらのことです。
当時最大の産業は言うまでもなく農業です。農業に土地はなくてはならないもので、当時の農民の土地への思いは現代人の想像を絶するほどでした。
一所懸命(いっしょうけんめい。一つの土地に命を懸ける)とか、タワケ者(田分者。土地を分ける者は愚か者)と言う言葉はこの時代に生まれたのです。軍隊がなくて警察力が弱体なので農民は大規模な盗賊集団から生命・財産を守るため、あるいは他の土地の人達との争い(水争いとか)にそなえて自ら武装せざるを得ないことになりました。
これが武士のはじまりです。武士とは、もともと武装農民だったのです。
余談ながら映画「七人の侍」である農民が『俺たちは百姓だ。土地は耕せても、戦うことはできない』というシーンがありますが、これは実際にはありえないことです。
平安時代以降戦国時代末期まで、兵士(下級兵士)とは招集された農民だったのです。その農民が武装解除されて、農業に専念するようになったのは豊臣秀吉の刀狩以降です。ドラマや小説に登場する足軽とは、農繁期には農業に専念する農民と考えても差し支えありません。もちろん大将級の指揮官は専業武士です。
閑話休題
そんなわけで武士の発生は全国的にほぼ同時だったのですが、とりわけ武士の本場とされたのは関東(当時は坂東)でした。
当時朝廷の勢力は奥州にまで及んでいましたが、蝦夷と朝廷との間で争乱は大小しばしば起こりました。そんな時朝廷から鎮圧を命ぜられた将軍はなにぶん国軍がないのですから、主に関東で志願兵を募って行ったのです。また関東にあっても土地をめぐる争いや、家督相続をめぐる争いは日常的なものでした。このように戦いの中で自然と関東の人達は戦士として鍛えられて行き、ついには坂東武者1人は上方(関西)武者8人に匹敵する、などと言われるようになったのです。
当時の荒々しい環境の下、坂東武者はたとえ親子兄弟であっても強い敵と戦い、これを倒すことを最高の名誉と考えました。都の貴族から見れば信じがたいような人種で、彼等貴族達が坂東武者を『東夷(あずまえびす)』と恐れ、さげすんだのも無理もないことでした。
太平記によれば、後醍醐天皇に今後の方策を質問された楠木正成は、坂東武者は勇はあっても智がありません、と答えたとか。
確かにそうかもしれませんね(笑)
●藤原氏の専制
一方9世紀はじめの朝廷では天才政治家藤原良房とその子、基経が登場します。
良房親子は縦横に辣腕をふるい、ついには天皇といえども藤原氏の権力の前には手も足も出ない状況を作り出しました。天皇の子でも、生母が藤原氏以外の出身だった場合悲惨なことになります。経済面はもとより、まともな官職(朝廷における役職。その最高位が関白)も与えられず、天皇の子でも貧しさのあまり遊女に身を落とすものさえいました。
10円玉がありますね。宇治平等院が彫ってあります。平等院は藤原氏の別荘でした。
豪華なものです。
映画羅生門は崩れ落ちた羅生門(朱雀門などと並ぶ都の門の一つ)が舞台になりますが、当時の天皇家は貧窮していてその修復費用もなかったのです。しかし、藤原氏は栄華の絶頂でした。
都にいたのでは出世の見込みがない、と判断した皇族は皇族としての身分を返上し家臣となり、地方に開拓者として新天地を求めるようになりました。
当時の人々は、ある意味では天皇一族(主君)と家臣に二分されます。
皇族の身分を返上し、家臣となることは臣籍降下(しんせきこうか)と呼ばれ、皇族が減るとその分人件費(?)が減るので、臣籍降下はむしろ奨励されていたのです。そうした人の中に桓武天皇のひ孫である高望王(たかもちおう 生没不詳)と言う人がいました。
889年臣籍降下をした彼は「平」の姓を与えられ、上総介(かずさのすけ)に任命されて今の千葉県に赴任しました。平氏の誕生です。上総介に任命されるということは、高望王は政権を握る藤原氏に働きかけて・・・つまり贈物(早い話が賄賂)をはじめとして、あの手この手の卑屈なまでの任官運動をしたことは想像にかたくありません。しかし、モトを正せば藤原氏は高望王にとっては家来筋の家なのです。
赴任した高望王は任期がすぎても京都へは帰らず、上総に住み着き開拓農場主となりました。
やがて彼の子孫は関東一円に広がり、関東ではもっとも繁栄する家系となります。平将門も平清盛も皆、高望王の子孫なのです。
一方平氏と並び称せられる武門といえば源氏ですが、初代源経基(?〜961年)は清和天皇の6代の子孫で六孫王と呼ばれていました。平将門の乱を鎮めた功績で従五位下の位を授かり、その後武蔵守、但馬守を歴任し、鎮守府将軍となっています。日本史上有名な源氏の武将・・・源義家、頼朝、義経、足利尊氏、新田義貞、武田信玄、今川義元・・・・皆、この人の子孫です。
臣籍降下の時、平姓を賜ったのは高望王だけではなく、他にも何人もいます。でも史上最も有名なのは高望王の子孫、桓武平氏です。同様に最も有名な源氏は清和天皇の子孫、清和源氏です。
●おまけ
律令制の当時、地方の役人はすべて京都から派遣されていました。階級は上から、「守(かみ)」、「介(すけ)」、「掾(じょう)」といいます。守は今で言う県知事、介は副県知事、掾は副々県知事と考えて下さい。任期は5年です。
ただし上野国(群馬)、常陸国(茨城)、上総国(千葉)は親王任国といいまして、守には親王が任命されました。親王は皇族ですので現地に赴任することはなく、これらの国では介が最高官でした。律令制度は実質はともかく、名目上は明治時代まで残りました。大岡越前守とか吉良上野介という呼称にあらわれています。
●荘園制度
先に天皇家は貧窮していた、と書きました。なぜか。
荘園制度のためです。
律令制の国家では、人や土地はすべて皇帝の所有物になります。日本の土地はたてまえ上天皇のもので、その土地からの税収入はすべて天皇のものだったのです。しかし現実にはさまざまな抜け道があって、その中の「免税される土地」が荘園なのです。 (免税される土地とは、その土地の収穫物を税として国庫(天皇)に収める必要がない、と言うことです。)
荘園が増えると天皇家の土地は少なくなり、収入(税金)は減ります。しかし荘園の持ち主は逆に収入が増えることになります。
多くの貴族が荘園を持ちましたが、最大の持ち主が藤原氏だったのです。藤原氏は政治上の最高責任者としての自覚はまったくなく、私腹を肥やす以外何もしませんでした。日本史上最大の悪徳政治家とは藤原氏のことでしょう。
地方の荘園は持ち主である貴族が直接管理するわけではなく、その土地の有力な武士に管理を委任しました。武士といっても、再度言いますが農民です。
彼等武士たちは開拓した土地を天皇ではなく、有力貴族に荘園として寄付します。当時は土地の私有は認められていなかったからです。
本来でしたら(武士にとってはバカバカしいことですが)、寄付する相手は貴族ではなく、天皇にするべきなのです。しかし武士たちは結果としてその相手を有力貴族としました。
なぜか
寄付する相手が誰であれ、開拓武士は土地の収穫の中から使用料を払わねばなりません。
使用料とは寄付の相手が貴族の場合ですね。天皇家の場合には使用料ではなくて税金とでも言いましょうか。言い方は違っても、どちらも収穫の中から払うものです。そして使用料は税金よりずっと安かったようなのです。
簡単にいえば、当時は汗水たらして苦労して開拓した土地が開拓者(くどいですが農民です)のものにならず、国に寄付しなくてははならない。しかし使用料のほうが安いので、有力貴族に寄付をする。その土地を実際に使用するのは開拓者自身なので使用料を持ち主(貴族)に支払う。ということです。
なぜ自分が苦労して切り開いた土地が自分のものにならないのか
これが武士の最大の不満となり、その不満のエネルギーがやがて平安時代の貴族政治体制を崩すことになります。
ようするに桓武天皇の軍隊廃止、藤原氏の専横、荘園の増大などが複雑に絡み合って武士を誕生させ、貴族政治を崩壊させたのです。平氏なら我々の不満を取り除いてくれるのではないか・・・・
そう考えた全国の武士は一斉に平氏を応援しました。保元・平治の乱です。
ところがあろうことか平氏は貴族化してしまい、政治体制は従来と少しも変わらなかったため武士達の期待を見事に裏切ってしまいました。おまけに軍事力が強大なだけに藤原氏より始末が悪かったのです。
そして武士の不満を熟知した源頼朝の登場。
ここについに鎌倉幕府は成立したのです。
●労働組合
幕府というのは例えて言うなら会社内に生まれた、会社の管理の及ばない労働組合のようなものです。
古代日本という会社(つまり朝廷のこと)は、社内管理体制として中国の真似をして律令制を採用していました。しかしこの管理体制は本社にいる経営者達(天皇と貴族、平氏を含む)はともかく、一般社員(武士)には極めて評判の悪いものでした。
社員がいくら汗水たらして仕事をしても(土地を開拓しても)少しも評価されず、ピンハネだけはやたらとされたのです。こうした不平分子の信望を集めた源頼朝は全国の社員(武士たち)をまとめあげ、会社の承諾なしで幕府と言う労働組合を作ってしまったのです。もちろん事後承諾です。
頼朝は会社側(朝廷)に、私は組合を作ってしまいました。承認してください、と詰め寄ったのですが、会社側は認めざるを得ませんでした。頼朝には強大な軍事力があったからです。詰め寄ったと言うよりは、脅迫のようなものですな。
余談になりますが、源頼朝は自分の配下が朝廷から官位(朝廷における役職)を貰うことを病的なほど嫌いました。
例えば弟の源義経です。頼朝にすれば無理もないことで、一旦組合を作って会社の管理外となった以上、会社側から給与、役職を貰うわけにはいかないのです。逆を言えば、この組合を切り崩すには義経のような考えの甘い組合員に、この役職をやるからこちらに戻って来い、と言うの一番の方法だったのです。
日本史の不可解なところは、この実権をなくした会社側と労働組合が並立してその後700年近く存続し、組合は会社を管理しながらも (会社が組合を管理した、ではありません) 組合の総責任者(征夷大将軍)は常に会社から任命されていたということでしょう。
700年の間、なぜか組合長は自ら決して社長になろうとはしませんでした。幕末に来日した外国人は日本の代表者は社長(天皇)なのか、組合長なのか、戸惑うことになります。