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朱子学の背景


ここでは日本ではなく、中国の話になります。

 

●宋の時代

907年、唐が滅亡するとそれからの約50年の間に華北、黄河流域には開封を首都として5つの王朝が交代しました。これを五代十国時代といいます。後梁(こうりょう)、後唐(こうとう)、後晋(こうしん)、後漢(こうかん)、後周(こうしゅう)の5国と、さらにそれ以外の地域に10ほどの独立政権が成立したのです。

新しい時代の担い手は新興地主層で、それまでの貴族階級は没落していきました。日本で貴族がなくなった第二次世界大戦後ですが、中国では10世紀にはすでに貴族が消滅したのです。(だからどうということはないのですが)
その結果かつて人民と皇帝の間にあった貴族はなくなり、新たに官僚というものが生まれます。

五代最後の後周の後、宋が興ります。
960年のことです。
宋の建国者は趙匡胤(ちょうきょういん)(位960〜976)、都は開封です。


宋の政治方針は「文治主義」です。
宋は皇帝直属軍(禁軍といいます)は強化するが、地方豪族の軍隊は解散、若しくはそれに近い状態にして骨抜きにしてしまい、かわりに官僚による行政機構を整備します。

官僚採用試験である科挙(かきょ)が始まったのがこの時代です。
科挙とはいわば国家公務員試験のようなもので、官僚になれば地位と名誉が約束され、一族全員が潤うようになるのです。受験資格は女性以外なら誰でもOKで、年齢、家系、出身地は無関係でした。女性に受験資格がなかったのは男尊女卑を唱える儒教の影響でしょう。

試験は3年に1回で、まず郷試。地方でおこなわれる選抜試験です。合格者は都へ行き、2次試験を受けます。会試といいます。最後の試験は皇帝による面接試験。殿試といいました。

試験の内容は、論文で政策論を書かせる、儒学の経典の理解力をみる、そして詩を書かせます。当然、すべて記述です。
政策論は官僚に必要と思いますが、儒学の理解や詩は官僚としてというよりは、その人の人徳を、詩を書かせるのは文化人としての教養をみるためでした。

つまり科挙の試験というのは官僚として実務能力を問うだけでなく、教養の程度も試験されたということです。
当然ながら、筆記は墨と筆。
答案用紙を墨で汚せば、それだけで不合格でした。

しかも試験は三日間ぶっ通し。試験会場は鶏小屋みたいになっていて、受験生は一人づつ割り当てられた個室で受験します。
鍋釜、食材、寝具も持ち込んで自炊しながら答案を書くのです。なかには、緊張にたえきれずに発狂する受験者もいたようです。

科挙試験は20世紀、1904年まで行われました。
宋の時代には科挙官僚を出した家は「官戸」とよばれ、特権を得ました。徭役を免除など、簡単にいったら免税ですね。

この特権はその家に属するのではなく、合格者本人がいなくなれば、なくなってしまうものです。その意味で家系そのものが高貴とされる貴族とは全然違うものです。

宋はこの科挙に象徴されるように文治主義の政治体制をつくりあげていきました。しかし文治主義の政治は同時に弱体化への道でもあったのです。

 

●遼と西夏

話を唐の時代に戻します。
当時中国東北部にあって半農半牧の生活を送っていた契丹(きったん)という部族がいました。契丹族は唐の支配がゆるむにしたがって自立し、916年、(りょう)という国を建てました。遼は五代十国時代には中国の燕雲十六州(北京周辺)という土地を獲得後、しばしば中国北辺に侵入するようになります。

宋は中国の統一をした後、、燕雲十六州を取り返そうと、しばしは遼軍と対決しますがどうしても勝てず、逆に1004年には宋の都開封近くまで攻め込まれることになります。

宋は敗れ、遼と和平条約を結びました。
この条約で宋は遼に毎年絹20万匹、銀10万両を贈る、宋を兄とし、遼を弟とする。両国国境は現状維持、と決められました。

もうひとつ10世紀末から力を伸ばしてきた民族にタングート族がいます。チベット系の民族で、牧畜農耕中心の生活をしていたのですが、唐末から東西交易路を押さえ、勢力を増大させて、中国から中央アジアに至るルート上に建国します。
これが西夏(せいか)です。建国者は李元昊(りげんこう)。

この人は映画『敦厚』にも出てきました。渡瀬恒彦が演じていました。
そう言えばこの映画の発端は科挙に落ちた主人公(佐藤浩市)が敦煌へ行き、戦いに巻き込まれる話でした。

西夏は宋と長年に渡って戦争を続けますが、最終的には1044年、両国の間に和義が成立しました。
こうして宋は遼にも西夏にも軍事的には勝つことができず、金品を払って平和を維持するという外交政策をとるようになりました。

文治主義の宋としては当然の結果でしたが、軍事的には弱体でも経済的には非常に繁栄していました。だから、平和を金で買う、ということが出来たのです。

 

●靖康の変

しかしその平和も長続きしません。
現在の中国東北地方で新たな民族の活動が活発化します。遼の支配下にある沿海州から中国朝鮮国境あたりにいた女真族は諸部族を統一してという国号で建国します(1115年)。

ちなみに中国最後の清王朝の始祖ヌルハチは女真族出身で、最後の皇帝になったのが映画ラストエンペラーに描かれた溥儀(ふぎ)です。

遼の国の東端でいきなり独立国ができたわけです。
当然遼は軍隊を送って、金を潰しにかかるのですが、金が遼に勝って独立を守ります。どうやら、遼は建国時の勢いをなくして軍隊は弱体化していたようですね。宋から莫大な歳貢を贈られて裕福な生活に慣れて軟弱になっていたのかもしれません。

これを見た宋は、「金と同盟を結んで遼を南北から攻めれば遼を滅ぼすことができる」と考えます。

遼が滅亡したあとは、万里の長城以北は金、長城以南は宋の領土とする、という条件で宋と金の軍事同盟が結ばれます。
宋の思惑どおりにコトは進み、金と宋連合軍の前に遼はあっという間に滅んでしまいました(1125年)。

しかし軍事的に見れば宋軍の弱さは歴然としていました。
金軍は長城以北を制圧しますが、南を分担していた宋軍はからきし弱く、燕雲十六州に攻め込みますが、遼の守る都市をどうしても攻め落とすことができません。金軍に応援を頼み、やっと遼は滅びたのです。

しかしこんな弱い宋でも約束は約束とばかり、長城以南燕雲十六州の領土を要求します。
金にしてみれば汗も流していないのに分け前だけは要求する宋の態度は面白くありませんが、金の王であった阿骨打(あくだ)は、どんな事情があっても約束は約束だ、と南燕雲十六州を宋に渡しました。宋はそれでは申し訳ないと思ったのか、お礼として莫大な金品を金に渡すことを約束します。

しかしトラブルが始まります。

宋はその約束を守らず、金品を払わない。
怒った金が軍隊を出動させると、調子のいいことを言ってその場をごまかしたりして、また約束を反故にする。さらには西夏と組んで金を攻撃しようとしたり、金国内の親宋分子に働きかけて内乱を画策したり・・・。

度重なる宋の違約行為に怒った金は大軍を南下させて首都開封を攻め落とし、皇帝の徽宗(きそう)は息子の欽宗と共に金の捕虜となり、その後ほどなく亡くなります。

これを靖康(せいこう)の変と言います。1127年のことです。
これで宋は滅亡してしまいました。

徽宗皇帝は政治家としては失格でしたが、画家としては大変優れたものを持っていました。左の絵、桃鳩図は徽宗26歳の時の作品です。

皇帝がこのようでしたから、宋の時代は軍事よりも科学技術が発達しました。木版印刷、火薬、羅針盤などです。

 

●南宋

靖康の変で徽宗、欽宗親子が金軍によって、北方に連れ去られたあと、徽宗の息子の一人高宗が南方に逃れて建国したのが南宋(1127〜1279)です。首都は臨安。今の杭州です。南宋に対してそれまでの宋は北宋とも呼ばれます。

建国早々の南宋では金に対してどういう政策をとるか、ということが最大の政治課題となり、和平派と主戦派が対立しました。

和平派の代表政治家が秦檜(しんかい)です。この人は靖康の変の時に、徽宗たちと一緒に捕虜として連行されて、しばらく金国のもとで暮らした経験があり、新興国家としての金の強さを充分承知していました。

秦檜の考えは金と戦って勝つなど、話としては景気がいいができる相談ではない。そんなことをしたら南宋まで滅びることになる。金と南宋は南北に領土を二分して、友好関係を築くべきだと、現実的な考えでした。

これに対して主戦派の代表は、後に中国史上最大の愛国者と言われるようになる岳飛(がくひ)です。
岳飛はたたき上げの将軍で、30代の若さで金との国境地帯の防衛に活躍しました。

高宗皇帝は秦檜の和平説を採用します。当然岳飛はあくまでもそれに反対します。
人望もあり軍隊を握っている岳飛が反対をとなえ続けることを憂いた秦檜は岳飛を無実の罪で捕らえ、最後には殺してしまうのです。

これ以後秦檜は権力を握り続けるのですが、岳飛はやがて民族の英雄として祭り上げられるようになりました。それは現在でも続いています。

 

岳飛を祭る廟(びょう・・・祠・・ほこら)が岳飛廟です。凛々しい名将という感じです。尽忠報国(じんちゅうほうこく)・・・忠義を尽くして国の恩に報いる・・と壁に書かれています。この言葉は岳飛の座右の銘でした。

岳飛の人気が高いと言うことは、逆に秦檜は国民的(?)悪者とされています。岳飛廟内で、妻と共に柵に閉じこめられ、縄で縛られひざまづいた秦檜の像があります。

別に秦檜は夫人と共に捕らえられて獄につながれたわけではありません。この廟を建てた人はこのようにして岳飛の霊魂を慰めているのです。

夫人は岳飛を無実の罪で捕らえることを躊躇する秦檜に、『虎を放つは易しく、捕えるのは難しい』と言ったため秦檜と同罪とされたのです。この廟の参観者は秦檜夫妻を罵り、時には唾を吐きかける人もいます。

 

ちょっと余談になりますが、800年も前のことで秦檜はこんな扱いを受けているのです。このように人の死後にまで罰を与えようとする考えは日本人にはありません。日本人は「死ねば罪は消えてなくなり、皆仏になる」と考えます。
世界的に見れば日本人の考えはむしろ珍しい方で、このことが8月15日になると首相の某神社参拝の問題にもなります。中国や韓国はこのことをとやかく言いますが、良い・悪いという問題ではなく、宗教感、文化の違いにすぎません。

秦檜とはちょっと違いますが、日本の真珠湾攻撃に際して当時、現地の指揮官であったキンメル大将は責任を問われて解任されました。日本軍の攻撃を事前にキャッチしたルーズベルト大統領が、そのことをキンメル大将に連絡したという記録は残っておらず、彼はリメンバー・パール・ハーバーのためのスケープ・ゴウトにされたのです。

1999年5月25日、アメリカ上院で、翌年10月11日下院でもそれぞれ名誉回復決議が採択されてようやく彼の名誉は回復しました。外国では「死ねば罪は消える」と言う考えはないのです。

 

さて、秦檜の考える和平は間違っていたでしょうか?
確かに岳飛を陥れた手段は誉められたものではありませんが、金と南宋の実力を良く知っている秦檜にしてみれば、和平はやむを得ない事だったのではないかと思うのです。

軍人とはとかく勇ましいことを言いがちですし、偏狭な愛国心が (岳飛が偏狭な愛国者だったとは言いませんが) 国を滅ぼしたことを日本人は60年前に経験しています。
岳飛の主張どおり金との全面戦争になれば、南宋の滅亡はもっと早かったことでしょう。もっともその後、金も南宋もやはり異民族であったモンゴル(元)に滅ぼされてしまいますが。


 

●朱子学

ようやく本題です。
今まで長々と書いてきたのは、朱子学が生まれた背景を言いたかったわけです。

当時中国では学問と言えば儒学でした。
儒学というのは処世訓の寄せ集めのようなものですが、宋代になって理論が体系化され、神仏はいませんが一種の宗教のようになります。これは仏教に対抗するためでして、これら体系化された理論・学問を総称して「宋学」といいます。

宋学を大成したのが朱熹(しゅき)で、後に朱子とも言われました(1130〜1200)。
日本では平安末期から鎌倉初期のころの人です。

わずか19歳で科挙に合格した朱熹は泉州同安県の主簿となりますが4年で退官し、生涯を学問に捧げます。李延平に師事し儒学を学び、46歳のとき呂祖謙と共に近思録を著しました。

朱熹の理論では宇宙は原理と運動の二つから成り、原理のことを「理」、運動のことを「気」と言います。ここからこの理論を理気二元論とも言います。

朱子は、総合的に論ずれば万物を統括する実態は一つの太極(すべての根源)である。太極とは理であり、その動静は気である。理は根本であり、その後に気が生ずるのだ と言います。

さて人間の本性は「理」か、それとも「気」なのか。
朱子は「性即理」、つまり人間の本姓は理だと言います。でも理気二元論ですから「気」もあるわけで、本性が「理」なら、「気」は何を指すのか。

朱子学の強みは自然哲学の基礎の上にまったく新しい人間論を打ちたてたことにあったといいます。人間は宇宙万物で一番優秀な存在であるから最も純粋な「理」を持っているともいいます。朱子学ではこれを人間が生まれながらにそなえた「性」、正確には「本然の性」とします。

その一方で人間の形体は「気」であるから感情や欲望から完全に自由になることはできない。この状態の性を「気質の性」と呼びます。

それを朱子は心が「気」だと言います。
この心が運動して人間を悪い方向に導く。だから常に人間は動かない物体を研究して、本性である「理」を確認しなければならない。そのために儒学という学問を学び続けなければならない。物を究めて知識を確実にして修養をつまなくてはならないと言うのです。

・・・・この部分、本を読みながらやっと書いています。理解などしていません(笑)
それにしても書くだけでもややこしくて頭が痛くなります。このあたりで止めましょう。

 

この朱熹の理論に反対の立場をとったのが陸九淵(1139〜1192)です。号は象山で、陸象山(りくしょうざん)と通称されます。
陸はもっぱら、人の心中に万物の理が含まれるとする「心即理」を主張したとされます。

朱子が人間の「理」を曇らせると考えた心こそが「理」だと考えたのです。
陸の思想は明の時代の学者、王陽明に引き継がれました。幕末の吉田松陰もこの学派(陽明学)です。

1175年、この二人は鵝湖寺(がこでら・・・江西省)で会い、3日3晩激しい論争を繰り広げましたがついに決着はつかなかったと言われます。これは鵝湖の会と言われ、中国思想史上有名な出来事のようです。

 

朱子にはもう一つ「大義名分論」というモノがあります。
宋の司馬光の著した資治通鑑(しじつがん)という書物への反論として書いたもので、資治通鑑網目という本の中にあります。

朱子は南宋の人ですから、中国の正統政権は金ではなく南宋であると主張したいのです。
金は宋を攻めて杭州に追いやったもののトドメを指すだけの力はなく、両政権が中国大陸に並立していていました。やむなく北宋も南宋も自国保全のため遼、西夏、金と講和し和平を選びました。

これが当時の中国人にとってどれほど屈辱的なことだったか・・・。

なにしろ彼等中国人は自らを世界の中心の華とし、その周辺諸国(もちろん日本も含めて)を野蛮国扱いしてきたのです。このことは他のコンテンツに何回か書きました。

野蛮国と「対等」に条約を結ばなくてはならないとは・・・・・

このような時代背景からナショナリズムを芽生えさせ、民族意識を高揚させる必要性がありました。カンフル剤のようなものですな。

朱子学では国の支配者を『王者』と『覇者』に分けます。
王者とは王者の理論に則っる国の正当な支配者であり、覇者とは武力をもって支配する不当な支配者なのです。

『王者の理論』とは、中国では『徳のある者が国を支配する』という考えが伝統的にあります。伝説的な三皇五帝がそうだったと言われています。

しかし現実の中国史でそのような『有徳の支配者』などいたためしはなく、一種の物語的理想・空想であり、小説・三国志演義の劉備玄徳はそのように描かれてはいます。
しかしこの場合、物語的理想・空想が重要になったのです。

今、金が大きい顔をしているが所詮野蛮人ではないか。この国(中国)の正当な支配者は我々「純粋な中国人」なのだ

これは追い詰められた中国人の、自分達の実力を考えない、現実を直視しない、理念先行の考えでした。負け犬の遠吠えと書いた本を読んだこともあります。

この国の正当な支配者は我々である、と言う理念はこのように発展していきます。

正当なる支配者は常に絶対の正義である

反抗するものは常に絶対の悪である

従って悪は滅ぼさなくてはならない

当然ながら正義である支配者に忠誠を尽くすのは絶対の善になる

 

朱子学が日本に伝えられたのはいつの頃なのか。
鎌倉時代末期、宋との交易のなかで関係書物が伝わって来たことでしょう。

先ほどの、支配者は常に絶対の・・・以下の項目は後醍醐天皇の行動をイメージでして私が書いたものです。
後醍醐天皇においては朱子学、特に大義名分論こそ生涯の行動原理でした。

江戸時代には朱子学が儒学の正統とされます。
これに基づき武士の行動規範を表したものが「武家諸法度」であり、武士が自らまとめた武士道として知られるのが「葉隠」です。

水戸藩二代目藩主徳川光圀が朱子学の大義名分論の立場で「大日本史」という歴史書の編纂をめいじます。ところが大義名分論で日本史を書いていくと、どうも天皇が正統政権で徳川氏は政権の簒奪者になってしまいます。
御三家という立場でこの歴史観を主張することは問題が大きすぎてその後水戸藩は大混乱します。

 

●参考文献
人物中国の歴史(小学館)


最近(2007年6月)、偶然ですがこのコンテンツのかなりの部分を盗用しているサイトを発見しました。その後6月25日、7月1日と、2回警告メールを送信しましたが、ナシのツブテです。
望むところではありませんが、そのサイトをここに発表します。

↓このサイトは、私のコンテンツの盗用です!

http://www.geocities.jp/timeway/kougi-40.html
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-39.html
 (「金の建国と靖康の変」の部分)

比べればすぐわかりますが、盗用された部分を赤い文字にしました。

http:// www9.w ind.ne .jp/fu jin/pa kuri/k in.htm
http:// www9.w ind.ne .jp/fu jin/pa kuri/s husi.h tm

管理人氏は高校の歴史教師のようですが、そのような立場の人が他人(私のこと)の文章を盗用するとは何事でしょう!


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