世界史講義録 第40回 南宋・宋代の社会と文化
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南宋
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靖康の変で徽宗、欽宗親子が金軍によって、北方に連れ去られたあと、徽宗の息子の一人高宗が南方に逃れて建国したのが南宋(1127〜1279)です。首都は臨安。今の杭州です。臨安というのは臨時の皇帝の居場所という意味で、いつかは金から中国北部を奪還しようという意図がこめられています。
建国早々の南宋では金に対してどういう政策をとるか、ということが課題になる。
そして和平派と主戦派が対立しました。
和平派の代表政治家が秦檜(しんかい)です。この人は靖康の変の時に、徽宗たちと一緒に捕虜として連行されて、しばらく金国のもとで暮らした経験がある。だから、新興国家金の勢い、質実さ、強さを充分見ているわけです。
その秦檜に言わせれば、金と戦って領土を奪還するなんていうのは、話としては景気がいいけれど全く不可能。そんなことをしては南宋まで滅びることになる。南北で金と南宋は棲み分けをして、友好関係を築くのが現実的な選択、という。
秦檜のいうことは、それなりに説得力はあるのですが、一つ大きな問題があった。それは秦檜自身の問題でした。
金の捕虜になっていた秦檜がなぜ南宋に帰ってくることを許されたのか、という疑惑がもたれていたのです。ようするに秦檜は対南宋和平工作のために金から送り込まれたエージェントではないか、ということです。
さらに、秦檜の和平の主張がいくら理にかなっていても、国の半分を奪った相手と仲良くしようというのは、いかにも弱腰でなさけない。
これに対して、あくまでも戦って領土を奪還しようという主戦派の主張は勇ましいから人気がありました。
この主戦派の代表者が岳飛(がくひ)です。
岳飛はたたき上げの軍人です。まだ三十代の若い将軍で金との国境地帯の防衛に大活躍しました。かれの軍は規律が厳しく守られたことで有名でした。
皇帝高宗はというと秦檜の和平派を採用します。岳飛はあくまでもそれに反対します。人望もあり軍隊を握っている岳飛が反対をとなえ続けることは、高宗・秦檜にとってはじゃまです。そこで秦檜は岳飛を都に呼びだして毒殺してしまった。
これ以後秦檜は権力を握り続けるのですが、殺された岳飛はやがて民族の英雄として祭り上げられるようになりました。
資料集の写真を見てください。杭州に岳飛廟というのがあって、今でも参詣する人が絶えません。で、この岳飛廟の一角に、これ、二人の座像があります。後ろ手に縛られてひざまづかされているのすが、これは秦檜とその妻です。二人の像は頭とか肩がテカテカと黒光りをしているでしょ。岳飛を殺した秦檜は超悪役にされてしまっていて、岳飛廟を訪れた人たちはこの像に唾を吐きかけていくのです。テレビで見たことがあるんですが、大声で秦檜像に向かって怒鳴りつけているのね。それから、ペッ、ペッと唾を吐いていた。すごい剣幕でしたよ。現在の話ですよ。岳飛が殺されてから800年が経っているのにですよ。なんだかびっくりしましたね。
1142年に、南宋は金と盟約を結びます。両国の関係は「金君南宋臣」で、南宋は多額の歳貢を金に送ることになりました。
しかし、華北を金に取られながらも南宋は経済的には繁栄します。金は南宋を滅ぼすことはできなかったし、南宋も華北を奪還することができず、両国は大体淮河(わいが)という河を国境として住み分けることになったのです。
やがて、この両国を滅ぼしてアジアを大統一するのが、モンゴルです。
金は1234年、南宋は1278年、モンゴルによって滅ぼされます。
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宋代の社会と文化
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北宋、南宋をひっくるめて社会の特徴と文化を見ていきます。
・官僚
宋代は貴族が無くなりますから皇帝の権力を押さえるものがいない。皇帝一人だけが強大な権力を握ります。皇帝のもとで実際に民衆に対して権力を振るうのが官僚です。そういう意味では官僚が支配者といってよい。
官僚は戸籍上は「官戸」とされて税制上の特権を持ちます。そういう意味では特権階層ですが、その特権は「家」に与えられたものではなくて科挙に合格した個人に与えられるものです。ここが、貴族と違うところ。
かれらは科挙に合格しているわけですから、一流の知識人、学者、読書人でもある。学問があるということは、人々から尊敬されます。地域社会のリーダーとして信望を集めるような存在です。そういう意味でかれらは「士大夫(したいふ)」と呼ばれます。
また、学問を修めるためには、家に経済的余裕が無くてはならないわけで、士大夫と呼ばれる人たちはほとんど地主出身です。宋代には地主を形勢戸といいましたね。
宋代の支配社会層は、官僚としては官戸と呼ばれる特権者であり、地域社会では士大夫と呼ばれる知的リーダー、経済的には形勢戸という地主、この三つ面をもった階層として理解します。
これに対して被支配者階層は自作農と「佃戸(でんこ)」と呼ばれる小作人です。
魏晋南北朝から唐までの時代と違うのは、この支配者と被支配者の関係が固定的ではなかったことです。地主であっても何代も官僚を出さなければ没落することはあり得るし、小作農であっても優秀な子供が出て、科挙に受かれば一気に資産家に成り上がることができる。
中国社会は一族のつながりが強いので、一族の中に飛び抜けて頭の良い子がいたら、みんなして勉学資金を出しあって、いい先生のところに就けて科挙を目指させる。だから支配者階層に入る人たちは何十年か経つとかなり入れ替わる。貴族階級として支配者が固定化しないわけです。
・農工業
宋の時代は農業生産量の増大が著しい。特に江南、長江の下流域を中心に開発が進みます。
「江浙(こうせつ)熟すれば天下足る」とは当時の諺です。長江下流地方が豊作ならば、ほかの地方が凶作であろうとも国中が飢えに困ることはない、そういう意味です。天下の台所ということですね。
この時期には占城稲(せんじょうとう)、チャンパ米ともいいますが、これがベトナム方面からもたらされました。この品種は干害に強く中国南部の稲作地帯に急速に広がります。特に成長が早かったので、一年二毛作、二年三毛作なども広まり、食糧の増産が可能になった。
茶の栽培もおこなわれるようになります。飲茶の風習は唐代から広まるのですが、茶はあってもなくてもよい嗜好品ですから、本格的に栽培されるようになったということは、食料生産に余裕が生まれてきたことの結果でもあるわけです。
手工業では陶磁器。青磁、白磁がこの時代の代表的な陶磁器です。資料集の写真を見てください。中国の人たちは磁器のこの透明感が好きなようです。指でピンとはじいてチーンと音が響く感じ、わかりますよね。春秋戦国時代の玉器を磁器で再現したいのではないかという気がします。
日本人は茶道の茶碗のような、いかにも土くれをこねました、という陶器が好きですね。備前焼のように素材の土がそのままのものね。備前焼と180度逆の感性が青磁、白磁と思います。日本人の趣味はきっと中国人には理解しがたい、田舎臭い感じがするのではないかな。
青磁、白磁は西アジアから東アジア全体に輸出されています。
この青磁を朝鮮半島、高麗で再現しようとしたのが高麗青磁です。
・商業
唐代には商業活動に対しては政府の制限がありました。たとえば長安には東西に市がたてられていましたが、それ以外のところで店舗を構えて商売はできなかった。また、営業時間も正午から日没までに制限されていました。
宋代にはいるとこのような制限は無くなります。どこに店を構えてもいいし、営業時間も無制限。地方にも市が立てられるようになって、これが商業都市へと発展してきます。これが草市(そうし)と呼ばれるものです。田舎の市というニュアンスの言葉です。唐末五代の戦乱期に部隊が駐屯した場所にも商業都市が発展してくる。これを鎮(ちん)という。現在の中国の地名で何々市、何々鎮、と呼ばれる所は宋代以降に発展した比較的新しい都市だと思って間違いありません。この草市の市という言葉が日本語に入ってきているのです。
教科書、資料集にも載っていますが「清明上河図」という絵がありますね。宋の都開封の賑わいを描いている。肉屋、酒屋、本屋など商店が並んでいるだけでなく、劇場があったり、講釈師がいたり、らくだをつれた西方からの遠隔商人らしい人がいたりと、なかなか賑わっているでしょ。
同業組合も発達する。「行(こう)」というのが商人の組合、「作(さく)」が手工業者の組合です。行という言葉は日本語では「銀行」という単語に使われています。
商工業の繁栄は当然貨幣経済を進展させました。宋の時代は銅銭が大量に鋳造された。銅銭というのは金貨や銀貨と違って小銭です。銅銭が大量に作られるということは多くの庶民が必要としたということですね。
宋代の銅銭を特に宋銭といいますが、この宋銭はアジア全域から大量に出土します。日本も平安時代のおわりごろ、平清盛が熱心に日宋貿易をしますが、このとき大量に宋銭を輸入しています。
日本では皇朝十二銭という銅銭を発行していたのですが、やがて独自の貨幣発行をやめてしまう。その日本で流通したのが宋銭です。貧しい国で自国の貨幣の信用が無くてドルが幅を利かせているようなものですね。
今でも、地方の旧家の土蔵の中から宋銭がざっくりつまった古い壺が見つかったりする。古銭屋にいっても一番安いんじゃないかな。
まあ、それだけ宋代の経済活動が活発だった証拠です。
小銭が銅銭とすれば、でっかい金額は紙幣ですね。
紙幣が初めて登場するのが宋の時代です。北宋時代の紙幣を「交子」南宋時代は「会子」といいます。これらは民間で使われていた手形が発達してできた物です。
・文化
学問の中心は相変わらず儒学ですが、新しい展開があります。
儒学というのは処世訓の寄せ集め的な面が強いのですが、宋代になって理論が体系化されます。これは仏教に対抗するためでした。仏教のように儒学もそれなりの世界観、宇宙観を持つようになった。これを「宋学」といいます。
宋学を大成したのが朱熹(しゅき)、朱子ともいいます(1130〜1200)。
朱子は宇宙は原理と運動の二つから成り立つと考える。原理のことを「理」、運動のことを「気」といいます。この理論を「理気二元論」という。
さて、人間の本性は、「理」か、はたまた「気」か。朱子は「性即理」、つまり人間の本姓は理だという。「理気二元論」ですから、「気」もあるわけで、本性が「理」なら、「気」は何か。
朱子は心が「気」だという。この心が運動して人間を悪い方向に導く。だから、常に人間は動かない物体を研究して、本性である「理」を確認しなければならない。そのために儒学という学問を学び続けなければならない。物を究めて知識を確実にして修養をつむ、このことを「格物致知(かくぶつちち)」という。
ややこしいですね。とりあえず、「理気二元論」、「性即理」、この二つの単語を朱子と結びつけて暗記すれば受験的には大丈夫でしょう。
朱子にはもう一つ「大義名分論」という議論があります。
朱子は南宋の人ですから、中国の正統政権は金ではなく南宋であると主張したい。客観的に見れば両政権が中国に並立しているのであって、どちらかが正しい間違っている、ということはないのですが、中国にいくつかの王朝が並立した場合は、一つだけ正統政権で、あとは変則的な政権だと考える。これを大義名分論という。
日本では江戸時代に朱子学が儒学の正統とされます。水戸藩二代目藩主、かの有名な水戸黄門さんですが、このひとが朱子学の大義名分論の立場で「大日本史」という歴史書を編纂させる。ところが、大義名分論で日本史を書いていくと、どうも天皇が正統政権で徳川氏は政権の簒奪者になってしまう。
変だなと思いながらも水戸藩は天皇が権力を持つべきだという歴史観を持ち続けます。御三家という立場とこの歴史観は、相当矛盾しますよね。だから幕末の水戸藩は党派闘争が激しくなって大混乱します。
ちょっと話がそれましたね。
宋学の学者でもう一人覚えておくのが陸九淵(りくきゅうえん、1139〜92)。
この人は朱子の「性即理」に対して、「心即理」をとなえた。朱子が人間の「理」を曇らせると考えた心こそが「理」だと考えたのです。
たぶん、現代風にいえば、「心即理」は人間の主体性を重視する考えだと思います。
陸九淵の思想は、明の時代の大学者王陽明に引き継がれていきます。さらには日本の吉田松陰に。この考えの学者はみな行動的です。
歴史学では北宋の司馬光が重要。旧法党のリーダーで王安石のライバルだった男です。この人は『資治通鑑(しちつがん)』という歴史書を書きます。編年体という書法で書かれていることが特徴。
司馬遷の『史記』以来、中国の歴史書は紀伝体で書かれていましたね。紀伝体は基本的には人物中心なので、時間の経過に沿ってどんな事件が起きていたのかがわかりにくい。『資治通鑑』の編年体は時間系列で事件を順番に記述した。事件の流れがわかりやすくなったのです。しかも、ただの年表ではなくて、読んで面白いように叙述に工夫がこらされている。これ以後、編年体は紀伝体とならぶ歴史書の形式になりました。
『資治通鑑』は戦国時代から五代十国時代までを描いた大著です。
散文学では「唐宋八大家」の欧陽脩(おうようしゅう)、蘇軾(そしょく)、蘇轍(そてつ)、王安石くらいを覚える。
それにしても王安石は一流の文章家でもあったわけで、司馬光といい、王安石といい、大政治家は同時に大文化人なのですね。
韻文では「詞」が大流行する。唐代の韻文は「詩」でした。「唐詩」という。宋では「宋詞」といいます。詞と詩の違い、わかりますか。
現代日本でもこの二つの言葉は使い分けていますよね。みなさんも自然に使い分けているよ。どう違うんですか。国語の教科書に載るのは詩、音楽の教科書に載るのは詞。
メロディが付いて歌われるのが詞、メロディがつかないのが詩です。
唄をうたうのはいつの時代でも庶民の楽しみの一つです。宋の詞というのは、庶民が歌った流行歌と考えたらわかりやすいと思います。唐詩は貴族の社交道具です。
宋代は都市の賑わいといい、詞の流行といい、庶民が経済や文化の担い手として登場してくる時代なのです。
絵画
北宋末期の皇帝徽宗は政治家としてはダメですが、芸術の才能は抜群で、宮殿内に画院という工房を作って絵を作らせます。この流派を「院体画」もしくは「北画」といいます。
資料集には徽宗自身が描いた「桃鳩図」が載っているね。緻密で、あでやかな画風です。徽宗は皇帝に生まれなくても芸術家とし名を残したかもしれませんね。
院体画とは別に「文人画」もしくは「南画」と呼ばれる絵画もあります。画家では米フツ(フツは「くさかんむり」に市)、牧谿(もっけい)らが有名。しぶい墨絵ですね。禅僧の描く絵がたいていこの派です。
最後に宋代の三代発明といわれる物を紹介して終わりにしましょう。
木版印刷、火薬、羅針盤、この三つ。
すべてが宋の時代に発明されたかどうかは、はっきりしないのですが宋の時代には実用化されていた。
やがて、これらはヨーロッパに伝わる。火薬はヨーロッパで鉄砲になり、羅針盤はコロンブスたちの大航海時代に大きな力をあたえることになります。羅針盤を頼りにアジアやアメリカ大陸にやってきたヨーロッパ人は鉄砲を使って征服をしはじめる。本家の中国人がそんなことをしなかったことを考えると、文化の違いというものを考えてしまいますね。
第40回 南宋・宋代の社会と文化 おわり