世界史講義録
  
第39回  王安石の新法・金の建国

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王安石の新法
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 遼、西夏という隣国に対して宋はお金で平和を買うという政策をとるようになりました。

 ただしこれも長く続くと、さすがに経済大国の宋でも苦しくなる。遼と西夏に支払う歳貢が宋政府の財政を圧迫するようになる。政治改革をおこなって財政再建をすることが宋政府の課題となります

 こういう状況で登場したのが王安石。第六代皇帝神宗が抜擢して政治改革をゆだねた大臣でした。

 王安石は親父さんも科挙官僚だったのですが、かれが19歳の時に死んでしまう。王安石は頭が良かったんですね。22歳で科挙に合格する。4番の成績で合格したので中央政界でエリートコース出世街道を驀進することもできたのですが、一家の生活を支えるために実入りの大きい地方官の道を選びます。地方の実状を知る中で、政治の矛盾や不合理について考えるようになる。やがて地方で実績をあげ評判になる。ついには45歳で神宗に抜擢されて宰相になりました。宰相というのは皇帝に全面的に政治を任される、今風にいえば総理大臣です。

 さて、王安石は新法という呼び名で有名になる政策を断行して、財政再建を図ります。

 財政再建のために一番簡単な方法は増税です。しかし、ただ増税するだけでは一時的に財政難をしのげても長い目で見れば人民の生活は疲弊する。王安石は貧しい人々の生活を豊かにすることを考えた。景気がよくなり、貧困層が豊かになれば自然に税収は増える、こういう発想をしたのです。なかなか偉い。

 王安石の新法は大きく分けて六つある。

 青苗法(せいびょうほう)、均輸法(きんゆほう)、市易法(しえきほう)、募役法(ぼえきほう)、保甲法(ほこうほう)、保馬法(ほばほう)です。

 青苗法は政府が農民に低金利で金を貸す法律です。
 大きな土地を持っていない限り自作農はかつかつの生活をしているものが多かった。自分の土地を持っていてもそれだけでは足りないものは地主・形勢戸から農地を借りている場合も多いのです。
 農民というのはサラリーマンと違って、決まった収入が毎月あるわけではない。米を作っているのなら、収穫は秋だけだ。収穫をしたら早速政府に税を納め、土地を借りていたら小作料を地主に支払う。さらに米を売ったお金で必要最小限の生活道具や農具を買わなければならない。そして、最後に残った収穫物を翌年の秋まで食べつなぐ。これが翌年の収穫までもてばいいんですが、そうはいかない場合も多い。不作の年であれば、食料用の米もすぐになくなってしまう。そうなると借金をして生計を立てなければいけない。農民が借金をする先は地主です。
 この地主からの借金の利子が高かった。いちど借金生活にはまってしまうとなかなか抜けられないものです。秋の収穫のあと、税、小作料、それに借金と利子を払うともう自分の取り分がなくなる、また借金する。最後には借金が払えきれなくなって、わずかばかりの土地も売り払って隷農か浮浪者に転落していくことになる。

 こんなふうに自作農が没落すると、政府からすれば課税対象者が減るわけです。自作農を没落させず、ばりばり働いて収穫あげて、しっかり納税してもらわないと困る。

 そこで、自作農救済策として政府が地主よりも低金利で農民に金を貸すことにした。低金利といっても20%から30%の利子だったというから、現在の目で見れば結構高利ですね。それだけ地主の利子が高かったということでしょう。

 青苗法は新法の中でも成果を挙げたものの一つでした。

 均輸法は漢の武帝の時代におこなわれていますが、それと同じと考えて結構です。物価の安定と流通の円滑化のために政府が市場価格の安いときに物資を買い上げ、高い時期や他の地方に転売して、商人の中間利潤をできるだけ押さえようとしたものです。物価が安く安定してくれれば貧しい民衆にはありがたいわけで、生活も楽になりますね。

 市易法は青苗法の都市版と考えたらわかりやすい。
 都市には零細商人が多数います。かれらは豪商たちの買い占めや価格操作のために、圧迫されていた。市易法は政府はそういう中小零細商人に低利で営業資金を貸し出すものです。

 募役法。これはややこしい。税の納め方なんですが、今だったらサラリーマンなら給料を受け取るときに自動的に税金は引かれている。自分から払いにいく必要はありません。自営業の人だったら確定申告とか自分で税務署へいって手続きをしなければなりませんが、税務署に一日出かけていくくらいで、そんなに手間がかかるものではないです。

 これが、農業社会ではどうか。中国のように広大な国ではどうなるか。
 一軒の農家に村全体の税を徴収して、しかもそれを県の役場まで運ぶ仕事が割り当てられる。これを職役といって、大変な仕事だった。職役が当たったら家がつぶれる、といわれていた。何が大変といって、とにかく金がかかる。租税を役場に運ぶといっても、田舎だったら役場まで何日もかかる場合もずいぶんある。しかも米、小麦やその他の現物を村の分全部まとめて輸送するのですから、量は莫大。この輸送費用を職役に当たった農家が自己負担で運ばなければならない。おまけに輸送途中にいたんだり目減りした分も、輸送担当の農民の負担です。
 職役が当たったために、自分の土地を売って費用を捻出する、ということもしばしばあった。自作農が没落してしまうんですね。

 政府は決められた税額が納入されればそれでよい、そのために農民が没落してもそれは政府のあずかり知らぬこと、というのが基本的な態度でした。
 ただし、官戸、官僚をだした家ですね、これには職役が当たらない特権がありました。

 王安石はこの職役の重さを解消するために、農家全体から免役銭を徴収して、その金で職役を担当する者を雇わせた。毎年、一軒の農家に重い負担をさせるのではなくて、広く薄く負担させたわけだ。これが募役法。

 保甲法と保馬法は、上の四つとは違って直接農民や商人を救済する政策ではありません。軍事に関するものです。
 保甲法は農家を組織して自警団を作らせたもの。遼や西夏と接する地方では軍事訓練もおこなって軍事費の削減をめざしました。保馬法はこういう農家に軍馬を飼育させたものです。

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党争の激化
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 王安石は宰相として新法をおこなっていくのですが、反対派の官僚も多くいました。もともと中国では王朝の創始者の定めた政治体制を改革することを良しとしない、という伝統的な考え方がある。大胆な改革は内容に関係なく嫌われるのです。

 王安石の新法に反対する官僚たちは旧法党と呼ばれます。旧法党の中心人物は司馬光(しばこう)という人です。王安石は新法を実施するときに司馬光にも協力を要請したのですが、断られてしまった。その後、司馬光は最後まで新法に反対しつづけました。

 新法を支持するグループを新法党という。やがて、王安石の後ろ盾だった神宗が死ぬと、宋の政界は新法党と旧法党の争いに明け暮れるようになります。
 王安石の新法が継続して実施されつづけたら大きな成果を挙げたかもしれないのですが、王安石が宰相を退いたあとは旧法党と新法党が交互に政権を担当するようになり、そのたびに報復人事が繰り返される。よかれと思って始めた新法が、政策の動揺と国家体制の弱体化を招くことになってしまったのです。

 旧法党はなぜ、王安石の新法に反対したのでしょうか。先ほど述べた、改革を伝統的に嫌うという理由以外に大きな原因がありました。

 新法の政策を考えてみると、高利貸しでもうけている地主や、大商人の利益を押さえて、自作農や中小商人を保護するというところが要点ですね。これは、地主や大商人にはありがたくない政策です。
 つまり、旧法党の人々は大地主、大商人の利益を守る立場に立っていたということなのです。まあ、だいたい科挙に合格するような人たちは、家が大地主だったり、縁者が大きな商売をしていたりするものでしょう。自分たちの不利益になるような政策に賛成するわけがない。

 こう考えてくると、王安石は個人的な利害よりも国家の利益を優先させて考えることができた政治家だったのですね。

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金の建国と靖康の変
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 宋が新法党、旧法党の争いで混乱しているちょうどそのとき、現在の中国東北地方で新たな民族の活動が活発化します。遼の支配下にある沿海州から中国朝鮮国境あたりにかけて女真族という民族がいました。半猟半農生活の人たちです。毛皮や砂金を遼に納めていたのですが、やがて完顏阿骨打(わんやんあくだ)が諸部族を統一して金という国号で建国します(1115)。完顏は氏族名、阿骨打がファーストネームです。

 遼の国の東端でいきなり独立国ができたわけです。当然遼は軍隊を送って、金を潰しにかかるのですが、金の女真族が遼軍に勝って独立を確保する。どうやら、遼は建国時の勢いをなくして軍隊は弱体化していたようですね。宋から莫大な歳貢を贈られて軟弱になっていたんだろう。

 宋は北方で金という新興国が遼と戦っているのを知って考えた。「金と同盟を結んで遼を南北から攻めて滅ぼすことができないか」。というわけで早速宋と金の軍事同盟が結ばれた。遼が滅亡したあとは、万里の長城以北は金、以南は宋の領土とする、という条件です。成功すれば、ようやく燕雲十六州が取り戻せるわけですね。

 金と宋による作戦が始まると遼はあっという間に滅んでしまった(1125)。

 ただ、このときに金軍は瞬く間に長城以北を制圧するんですが、南を分担していた宋軍はからきし弱かったのです。燕雲十六州に攻め込むんですが、遼の守る都市を攻め落とすことができない。長城以北はすっかり制圧されているのに唯一燕雲十六州の遼軍だけが抵抗を続ける状態になる。
 金軍は長城までやってきて、様子を見守っている。長城以南は宋軍の担当ですから。「宋よ、とっとと遼軍をやっつけよ」、てな感じです。しかし、ダメ。とうとうたまりかねた金軍が燕雲十六州に進軍し遼の残存勢力を撃破して遼は滅んだのです。

 このときに遼の王族の一人耶律大石(やりつたいせき)が西方に逃れて、中央アジアで西遼(せいりょう、「カラ=キタイ」ともいう)という国を建国しています。契丹族の勢力が中央アジアまで及んでいたことがわかります。

 さて、遼が滅んだあとなんですが、金と宋の共同作戦と言いながら、実際には宋は何もできなかったね。ところが事前の約束通りに長城以南燕雲十六州の領土を要求する。金にしてみれば汗流してもいないのに分け前だけは要求する宋の態度は許せない。
 ここから、金と宋のトラブルが始まります。宋は多額の金品と引き替えに北京方面の領有を金に認めさせるのですが、その約束を守らず、金品を払わない。怒った金が軍隊を出動させると、調子のいいことを言ってその場をごまかすのですが、また約束を反故にする。

 度重なる宋の同盟違反に対して、ついに金は大軍を南下させ、あっと言う間に都開封を攻め落とし、皇帝徽宗と息子の欽宗を捕虜にして長城の北に連れ去ってしまった。徽宗は金軍が攻めてくると責任逃れのためにあわてて息子に位を譲るので、正確にはこのときの皇帝は欽宗です。念のため。

 この事件のことを「靖康(せいこう)の変」という。1127年のことです。
 これで宋は滅亡してしまった。


 ただ、金は中国の南部まで支配下におさめるだけの力はなかった。華北を支配するだけで精一杯だったようです。女真族自体はそれほど人口も多いとは思われませんから、ここまでの急成長でずいぶんと背伸びをしていたに違いありません。

 中国南部には、宋の皇族の一人が南宋を建国します。これに対して、靖康の変で滅んだ宋を北宋ということがありますので、これも覚えておいてください。

 金は遼につづく征服王朝です。中国統治についても遼の二重統治体制を引き継ぐ。
 遊牧民に対しては猛安・謀克(もうあん・ぼうこく)制を適用する。各300戸で1謀克、10謀克で1猛安という軍事編成の組織をそのまま行政組織に利用したものです。猛安、謀克というのは女真語に漢字をあてたものですからそのまま覚えてください。

 これに対して、漢民族など農耕民社会には州県制、科挙などを実施して遊牧民に対する統治とは分けていきます。

 基本的に女真族は独自の民族文化の維持を心がけていて、女真文字を制定しています。また、女真族の男たちは前髪をそり落として後頭部の髪を伸ばして編むのですが、このヘアースタイルを金朝支配下の漢民族にも強制しています。中国最後の王朝清朝も実はこの女真族が建てた国で、同じヘアースタイルを中国人に強制しました。弁髪という。キン肉マンにでてくるラーメンマンの髪型です。


 

第39回 王安石の新法・金の建国 おわり

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