コンコン
扉をノックする音に、机に向かっていた俺は、後ろを振り向いた。
俺の名前は荻原 十真人。「おぎはら とまと」と読む。高校二年の十七歳。運動神経はそこそこあるが、部活はやってない。成績もそれほど悪くはない。
「開いてるよ」
カチャリ、と扉が開いた。その向こうから現れたのは、俺の姉貴だ。
名前は瀬露理。読み方は「せろり」だ。3年前に両親が他界したときに、入学したての大学を辞めて就職し、俺たちを養ってくれている。
「トマト。ちょっと、いいかしら?」
「何か用?」
何気なく尋ねた俺だが、なんか嫌な予感がする。
「昨日ね、この部屋でこういう物を見つけたんだけど……」
ピラリと一枚の紙を差し出す。
「あ」
それは、すれすれで赤点になった、英語の答案。そういえば、その辺に放り出したままだった。
「あんたは、また、こんな点数取って」
「そんなこと言ったって、俺が英語が苦手なことは、姉貴だって知ってるだろ?」
そうだ。俺がこんな点をとるのは、英語くらいな物だ。他の教科だったら、学年のトップクラスに入れるんだぞ。
「そう言う問題じゃないでしょ? 苦手なら何とかしなさい。だいたいあんたは……」
まずい。姉貴の説教が始まった。こういう時は逃げるに限る。
姉貴にはなぜか、説教するときに後ろを向く癖がある。何度俺が逃げても、その癖を直す気配が無いのは、なぜだろうか。とにかく今も、姉貴はクルリと後ろを向いた。
俺はそっとカーテンレールの上に手を伸ばした。そこには、脱出用の靴がおいてある。その靴を取って、開けっ放しの窓から、瓦屋根に降りた。
「あ、トマト! 待ちなさい!」
さすがに気付いたか。
「じゃな、姉貴」
そう言って俺は、道路へと飛び降りた。
「きゃあ!」
あれ? 俺、どうしたんだ?
世界が真っ暗だ。て、目をつぶってるだけか。
とりあえず、ゆっくりと目をあける。
目の前に、誰かの顔がある。あれ? 誰だっけ……どっかで会ったような気がするんだけど……
「気がついたな?」
「水、くれ」
何だか知らないが、それを言うのがやっとだった。
「え? み、水ね。ちょっと待ってて」
それだけ言うと、そいつはトタトタと走って行った。
あのショートカット……なーんか、よく見るような気がするんだよなぁ。
「おねーさーん。あのバカ、気付きましたよ〜」
んなっ……『あのバカ』!?
頭の中がバッと晴れた。
俺が知っている奴で、こんな口の悪い女は、あいつしかいない。
じゃあ、ここはあいつの家か!?
ガバッと身を起こす。
「いつっ!」
ミゾオチに痛みが走った。
それでも頭を巡らせた。
ここは……俺んちのリビングじゃねぇか!!
……何で、あいつが家にいるんだ?
キッチンがある方を見ると、あいつがコップを持って歩いてきた。
「ほら……」
言うより早く、俺はコップを奪い取った。そして、一気に飲み干す。
「はあ、はあ」
それでやっと、まともに呼吸できるようになった。
「そんなにがっつくなよ。みっともない」
俺の様子を見ていた、あいつが言った。
「んだと! 大体、テメェがなんでここにいるだ、イチゴぉ!」
「うるさいな〜。どうだっていいだろ、そんなこと。それより、水持ってきてやったお礼位、しなさいよ」
「誰がテメェなんかに!」
「照れるなよ」
「この……」
ついに俺はつかみかかった。
ゴン!
突然、後ろから殴られた。
「イテ!」
振り向くと、いつのまにか姉貴が立っていた。
「トマト! お礼はともかく、市子ちゃんに謝りなさい!」
「なんで俺がこんな奴に!」
「あんた、市子ちゃんの上に飛び降りたのよ!」
…………
そう言えばあの時、悲鳴が聞こえたような。こいつでも、あんな女っぽい悲鳴あげるんだな。
「別にいいですよ、お姉さん。こいつとは知らない仲でもないし、それにあたし……」
今さらではあるが、こいつの名前は観基 市子(みもと いちこ)。通称イチゴだ。俺のクラスメートだが、俺はなんとなく、こいつが苦手だ。
それにしても、意味深なセリフだな。
「それに?」
思わず聞き返してしまった。
「あ、いいよいいよ。大した事じゃないから」
おお! こいつが照れてるとこ、初めて見た!
「そうに言われたら、余計、気になるだろうが」
「いや、あの……落ちてきたあんたに驚いて、思わずミゾオチにカウンターで入れちゃったから」
照れて言うことか、それが。それにしても、落ちてくる人間のミゾオチに、ここまで正確に入れるとは……末恐ろしい奴。
「ま、市子ちゃんがいいって言うなら、いいけどね。トマト、もうあんなとこから飛び降りるのはやめなさい」
「へーい」
そうは言っても、いざとなったら、あそこから逃げるしかないけどな。
「市子ちゃん。今日はうちで夕飯、食べていきなさいよ」
マジかよ、姉貴。
「でも、悪いですから」
「そうだよな」
「黙ってなさい、トマト」
こりゃ駄目だ。こうなったら、姉貴には逆らえない。後はイチゴが断るのを期待して……
「それじゃ、ごちそうになります」
……はあ。
「何、溜め息ついてんのよ」
イチゴが俺の顔を覗き込む。
「うるせぇ」
「さーてそれじゃ、準備準備」
姉貴は小躍りしながら、リビングを出ていった……小躍り?
「ここ、座っていい?」
イチゴは、俺が座っている斜め横にあるソファを指差した。
「好きにしろよ」
「トマト〜」
姉貴が呼んでいる。玄関の方だ。
行ってみると、姉貴が靴を履いて立っていた。
「なんだよ」
「トマト。あたし、買い物行ってくるから、留守番頼むわね」
「は? 買い物って今頃?」
「二人っきりだからって、市子ちゃんにいたずらしちゃ駄目よ」
「あ、アホか!」
何てこと考えんだ、このバカ姉貴は。あいつ相手にそんなこと、する気にもなんねぇっての!
「今日は奮発するから、大人しくしてるのよ」
「わーったから、早く行け!」
なんであんなにうわついてんだ、姉貴の奴。いつもの姉貴らしくないよな。
とりあえず、俺はリビングに戻った。
「お姉さん、どうしたの?」
「買い物、行ってくるってよ」
「え、わざわざ!?」
「なんか知んねーけど、妙に気合入ってんだよなぁ、今日の姉貴」
「あたし、歓迎されてるのかな?」
こ、こいつは……もーいい、疲れた。
「そーなんじゃねーの?」
「たっだいまー」
玄関から声が聞こえる。
「あれ、お姉さん?」
「んな訳ねーだろ。今、出てったばっかだよ。妹だよ」
「へぇ、お姉さんの妹なら、かわいいんだろうなぁ」
「俺の妹でもあるんだけど?」
「ただいま、トマ兄、あ」
リビングに来た妹の動きが、イチゴを見て止まった。
こいつの名前は芭世璃。中学二年生だ。
「いらっしゃいませ」
イチゴに向かって頭を下げた。
「……プッ。と、とまにい?」
「余計なこと言うな、パセリ!」
「いいじゃない、別に」
意地悪そうな目をしながら、イチゴが俺を見る。だから、いやだったんだ。
「そうですよね、えーと」
「あたし、観基市子。こいつらはイチゴって呼ぶけど」
「パセリって言います。はじめまして」
そう言って、ペコリと頭を下げた。そして、一気に頭を上げ、イチゴに詰め寄った。
「あの、イチゴさんて……」
「は、はい?」
さすがのイチゴも、ちょっとビビった様だ。
「トマ兄のカレシ?」
…………
俺とイチゴの時間がとまった。しばらく後。
「あたし、男の子に見えるのかな? それとも、あんたって、そういう趣味なの?」
「いや、どっちかってーと、おまえが男に見えたんだろ」
「何だとぉ!」
イチゴが俺の襟首をつかんだ。
「ごめんなさい、『彼女』の間違いでした!」
「パセリ。おまえなぁ、こんな姉ちゃんが欲しいのか?」
「こんなって、どういう意味だよ」
「深くは考えるな」
「何だとぉ?」
「それで、どうなんですか?」
何やら心妙な顔で、パセリが再びたずねた。
「別に彼女とかじゃないよ。今日ここにいるのも、事故みたいなもんだもん。な?」
「本当?」
パセリとイチゴが俺の方を向いた。俺の言葉を待っている。
「ああ」
何だ? 胸が苦しい?
なんでだよ、おい。なんでこんな……
「なんだぁ」
パセリが残念そうな声を上げた。
「何を期待してたんだ、おまえは」
「え、だって、イチゴさん美人だから……」
目、腐ったか? パセリよ……
「えぇ? やだなぁ。美人なんてガラじゃないよ、あたしは」
「そうそう」
思わず、正直にうなずいてしまった。
「思い切り納得したろ、おまえ」
「自分で言ったんだから、いいじゃねぇか」
「駄目だよ、トマ兄。たとえ自分が美人じゃないって言っても、女の人には、美人だって言ってやんなきゃ」
「あのな、なんで俺がこいつに、んなこと言わなきゃならねぇんだよ」
「え? お兄ちゃん、イチゴさんのこと好きじゃないの?」
あ、姉貴といい、パセリといい、俺がイチゴのことを好きだと思ってんのか? 冗談じゃねぇぞ、おい。