「津久巳様?」
静奈の呼びかけに、我に帰った。
「ん……ああ。何でもないよ」
津久巳は、昨日と同じ様に静奈の朝食を食べていた。
昨晩、寝た時の彼女は、テノだったはずだ。しかし、目覚めた時には、静奈がすでに朝食の用意をしていた。
(テノが彼女なのか? それとも、彼女が……?)
昨日のあの事件から、ずっと考えていた。聞いてしまえば早いのだが、何故かそれをためらっていた。
とにかく、今は気を取り直して、静奈の朝食を食べる事にした。
今日のメニューは卵焼きだ。きちんと巻いて焼いてある。うっすらと付いた焦げ目もきれいだ。そして、味もダシがいい具合に利いていて、やはりうまかった。
(テノが作ったら、スクランブルエッグかな。いや、卵かけ御飯か)
そんな事を無意識に考えていた。
静奈が洗い物を始めて、時間が空いたので、津久巳は新聞を読みはじめた。
貧乏学生の……少なくとも、昨日まではそうだった……津久巳は、新聞の定期購読はしていない。今、目を通しているのは、今朝、コンビニで買ってきたものだ。わざわざ買ってきたのは、昨日の事件のことを確認するためだ。見つけた記事に一通り目を通したが、津久巳、テノ、静奈、いずれのことにもハッキリとは触れていない。それがゴシップ紙であった為か、多少いいかげんに書かれてはいるが、どう見ても3人に合う記述は見受けられなかった。
「ちょっと、お買い物に行ってきます」
いつのまにか洗い物を終えた静奈が、エプロンを外しながら言った。
「買い物って、何を?」
「お昼やお夕飯の材料を……」
「何も、そんなに急がなくても……それに、近所の店を知ってるのかい?」
「昨日の帰りに通りましたから、大丈夫ですわ」
確かに、昨日の帰りは商店街を通り抜けてきた。そこの食堂で、夕飯を済ませたのだから。しかしその時、彼女はテノだった。
「妹でいる間も、私の意識は寝ている訳ではないんですよ」
津久巳の疑問を感じてか、静奈が説明してくれた。
「だから、今も、テノの意識は起きてるんですよ」
「って事は、今の会話もテノは聞いてるって事か」
「はい、そういう事です。それでは、行って参ります」
「あ、ああ」
静奈を送り出して、津久巳は一人になった。
仰向けに寝転がった。
「ん?」
天井に、黒い染みがあった。その染みに二つの白い点が生まれた。じっと見ていると、その点が明滅した。
「うわ!」
ようやくそれが目である事に気が付いた。
「あははっ! 悪い悪い」
言いながら、スルスルとその染みが、天井から抜け出してきた。
「な、何だ、ジューゾ……さんか」
「呼び捨てでいいよ」
天井から降りたジューゾは、開いた窓枠に座った。
「静奈なら、いないよ」
「分ってる。だから出てきたんだ」
「どうして?」
「あんたが疑問を持ってたからさ。ホントはもっと早く話すはずだったんだけど、すっかり忘れててね」
「そっか……なら聞くけど、彼女はテノなのか? それとも、静奈?」
「本体は、テノだよ。シズナは、あのこが生み出した、もう一つの人格さ」
「……二重人格?」
「ま、それが一番わかりやすい言い方かな」
「自分の意志で、入れ替わるのか?」
「いや、表に出てるほうが寝たり、気を失った場合に、入れ替わるのさ」
そういえば、静奈がこの部屋に来た次の日、布団の中にいたのはテノだった。それで津久巳は、テノが静奈をさらったと思い込んだのだ。そして、次の日は静奈になり、あの騒ぎの中、気絶した静奈は目の前でテノに変身した。
「でも、何で……どうして、テノは静奈を?」
「テノは……あのこは、昔から何かを不安がっててさ……」
ジューゾは遠くを見詰めた。
「あのこの親は大悪魔だけど、あのこは落ちこぼれだった。当然、同世代の連中にイジメられたわ。いつも一緒だった私は、あのこの助け役だった。あのこの不安そうな感じが、助けなきゃって気にさせたんだ。そんな感じで、私たちは本当の姉妹より姉妹らしかった。私が姉で、あのこが妹。それでうまく行ってたんだ。でも、私はしばらくの間、修行に出なければならなくなった」
「修行って?」
「悪魔の世界にも試験ってモンがあって、その準備でね。で、帰ってきた私は、真っ先にテノの所に行ったわ。でも、そこで私を迎えたのは見た事のない少女だった。それがシズナよ」
「……君の代わりか」
「それなら、うれしいんだけどね。本当の所は私には解らない。はじめはちょっと、シズナを憎んだけどね」
「静奈を……憎む?」
津久巳の問に、ジューゾはゆっくりとうなずいた。
「シズナが現われてから、テノは私をあまり頼らなくなった。精神的に頼る相手が出来たからね。あの頃の私にとって、テノを守る事が存在理由だったんだ。そのテノを取られて悔しくて、シズナを恨んだ……でも、やめた。あのこ、あの調子だろ? 結局、私が面倒見なきゃならないからさ。それに、あれもまたテノの本当の姿でもあるから」
「ちょっと待って! テノの本当の姿って、静奈が?」
「私たちは堕天使よ。つまり、本来は天使だったんだから、天使の姿も持っているわ。そしてシズナは、テノの天使の姿よ」
「それじゃ、静奈が本当の姿……」
「ま、一概にそうとは言えないんだけどね。私たちは比較的、霊的存在に近いから、姿形は割と自由に変えられるんだ。もっとも、自分のイメージ通りに変身するのは難しいけどね。むしろ本当の姿なんて、もっと曖昧な物かもしれないよ。私たち自身、本当の自分の姿なんて分らないんだから」
「テノはいつでも静奈の姿に変身できるのか」
「あのこね、落ちこぼれでしょ? 自力で変身できないの。人格が入れ替わった時には、自動的に変身してしまうみたいだけどね」
「落ちこぼれ……その割には、強盗を簡単に倒したような……」
「あの時、テノは魔力のかけらも使ってないよ」
「ふぅん」
何気なく答えてから、その言葉の意味を考えた。
「……へ!?」
それはつまり、すべての弾を避けた事と、一瞬で4人の男を倒した事が、全てテノの肉体能力によるものだと言うことだ。
「あんなの魔力はいらないよ。まあ、魔力なんか使って攻撃した日にゃ、人間なんてイチコロだからね、そうは使えないけど。それでも、テノに出来る事なんて、魔力の固まりを投げるくらいかな。魔力使った攻撃の基本ね」
「じゃあ、静奈はどうなんだ!? 静奈は、変な壁を出してたぞ!」
「変なって……ま、あんたらの目から見りゃ、確かに変よね。防御壁も、魔力使った防御の基本。結局、テノは攻撃に長けてて、シズナは防御に長けてる……長けてるって割には、基本に毛が生えた程度ってのがちょっと情けないけど、二人の性格を見事に表してるでしょ?」
「……確かに」
津久巳はその逆を想像して、ちょっと吹き出しそうになった。
静奈の性格では、たとえ攻撃の力を持っていたとしても、人を傷付けるような事はやらないだろう。行動派っぽいテノが、守りの力しか持ってなかったとしても、なんとも妙だ。むしろ、そういった性格に合わせて、力が振り分けられたのだろう。
ここに来て、津久巳に一つの疑問が浮かんだ。
「ところでさ、どうして俺にそんな事を……?」
彼女たちにしてみれば、津久巳は契約対象者でしかないはずだ。願いをかなえて、魂をもらって、それで関係はなくなる。その程度ではないのか。
「多分、あんた達の付き合いが長くなるだろうからさ。どうせ長く付き合うんなら、相手の事をよく知っておいた方がいいでしょ?」
「まあ、それはそうかもしれないけど……」
答えたものの、なんとなく釈然としなかった。
カチャ
玄関の扉が開いた。
「ただいま戻りました」
「ああ、おかえり」
津久巳は振り返って、静奈に応えた。
「あら、ジューゾ様、いらしてたんですか」
そう言った静奈の顔は、いつものように柔らかい表情だったが、その声にはどことなく刺があった。
「いらしてたよぉ」
「何か御用で?」
「いやぁね、たいした用じゃないよ。もう済んじゃったし」
「そうですか」
「ねえねえ、私、おなかすいちゃったなぁ」
「それはよかったですね」
これには、津久巳は絶句した。が、当のジューゾは、それほど気にしていないようだ。
「あんたねぇ、私が上司だってこと、憶えてる?」
「私は、あなたが上司とは思っていませんから」
「相変らず、いい性格してるよ、まったく」
そう言えば、ついさっき、ジューゾは静奈を憎んでいたと言った。と言うことは、その逆に静奈がジューゾを嫌っていたとしても、不思議ではない。
プッと、静奈が吹き出し、つられて、ジューゾも笑い出した。
「そうですか? 朝食の分は終わってしまいましたから、お昼まで待っててくだされば、作ってさし上げますわ」
「じゃ、待ってるよ」
津久巳は、静奈の声から刺が無くなっているのに気付いた。今では、まるで友達同士の会話になっている。
「……ライバル……」
津久巳は自分でも気付かないうちに、つぶやいていた。
「え? 何ですか、津久巳様?」
「あ……いや、何でもない……何でもないよ」
そう。二人はライバルなのだ。テノを守るという、同じ目的のライバル。
(なんか、いいな。こういうの)
津久巳は、テノと静奈との生活を受け入れてみようかと思い始めた。そして、それが出来るだけ長続きするよう願った。
第一話 完