「ごめんね、ツクミ……」
夕暮れ時の公園。そこに俺達は立っていた。
俺は何もしゃべれず、ただ、彼女を見つめた。
彼女は俺から目をそらし、そして、俺に背中を向けた。その瞬間、何か光るものが彼女の目からこぼれた。
「さよなら……」
走り去る彼女を追うことも、呼び止めることも俺はしなかった。いや、できなかったのかもしれない。
……こうして、俺達の四年にもおよぶ恋は、終わりを告げた。
そこは、六畳一間のボロアパート。狭いが、そのぶん家賃は安い。
その部屋に、彼は仰向けに寝転がっていた。
凪 津久巳(なぎ つくみ)。それが彼の名前だ。
彼女と別れてからの数日間、ただただ、薄汚れた天井を見つめて過ごした。
この四年間、彼女は近くにいた。常に、ではなかったが、望めばたいがい会うことが出来た。しかし、今はどんなに望んでも、会うことはできない。電話なんて、もってのほかだ。
今の津久巳は虚脱感に支配されていた。
(あいつは、どうなのかな。あいつも……俺みたいになってるのか?
いや……そんなことはないか……)
津久巳はフラれたのだ。きまりが悪くて、彼女に近づくのさえためらってしまう。
そんな訳で、津久巳の心にはポッカリと、彼女の形の穴が開いてしまった。
理由は、彼女の心変わり。他に好きな人が出来たらしい。
(あいつが、新しい恋を選んだんだ。だったら、大丈夫だろ)
いつのまにか津久巳は、自分をフッた相手を心配していた。
コンコンコン
ドアがノックされた。
かたわらのメガネに、手を伸ばす。
「はいはい」
立ち上がり、ドアに向かう。
ガチャ
そこに立っていたのは女の子。中学生か、いや、高校生くらいか。髪の毛はショートカット。身に付けている物は、黒いレザーで揃えている。何といっても、その笑顔に愛くるしさを感じた。
「ども、こんばんは」
「こんばんは。えーと、君は?」
その子は、ドアをくぐり、靴を脱ぎ出した。
「お、おい? ちょっと……」
女の子はかまわずに部屋に上がり込み、部屋の奥に立った。そして、振り返らずに口を開いた。
「凪……津久巳さん。でしょ?」
「ああ。そう……だけど……」
津久巳は女の子に近づいた。
「大学二年生で」
「え?」
思わず足が止まる。
「四日前に、四年間付き合った彼女と別れたばっかり」
「な、何でそれを!」
女の子がゆっくり後ろを覗き見る。
「そぉんな、ツイてないあなたに……」
そして、バッと振り向いた。
「ビィィィッグ・チャァァァァンス!!]
叫ぶと共に、津久巳に指を突きつけた。
「い!?」
「なんと! あなたのお願い、なぁぁぁんでもあたしが、かなえちゃいましょぉ!」
「……は?」
突然のことで、津久巳には理解できなかった。思わずメガネがずり落ちる。
「鈍いなぁ、も〜。ほら、何でもいいから言って言って。す〜ぐ、かなえてあげるから!」
津久巳はその場に座り、少し考え込んだ。女の子も座った。しかもミニであぐらをかいているから、その中が見えた。下着もやっぱり、黒のレザーらしい。
ちょっと赤面しながら、津久巳は訊ねた。
「……何でも?」
コクンと女の子が頷く。
「なんでも。あ、そうそう。ただし一つだけね」
「え、何で?」
「そう言う契約なのよ」
「ちょっと待て。何だその『契約』ってのは! 第一、君は何者なんだ!?」
「あ、そっか。まだ契約書、出してないや」
ごそごそと、ジャケットのポケットをまさぐる。
「まったく、これだからいつまで経っても、昇級できないのよねぇ」
「聞けい! 人の話を!」
「はいはい。これから説明するからね。とりあえず、はいこれ」
何やら四つ折りの紙を手渡された。パラリと広げる。
その一行目には、少し崩れた字で「けいやくしょ」と書かれていた。そう、平仮名で。
「なんだこりゃ」
「契約書よ」
「いや、そーでなくて。何で手書きで平仮名?」
その言葉に、女の子は思い切り赤面した。
「手書きなのは、そういう決まりなのよ! それに、日本語なんて知らなかったんだから、しょうがないでしょ!」
「君、外人なのか?」
「ブッブー」
不正解のブザーのつもりらしい。
「残念でした。惜しいけどね。そもそもあたし、人間じゃないから」
「人間じゃ……ない?」
少女は立ち上がり、腰に手を当て、偉ぶるように胸をそり返した。
「悪魔なのよ、悪魔」
「悪魔ぁ? ふざけんなよ」
「あ、やっぱり信じないか」
こんなに軽いやり取りをやった後で、悪魔と言われたところで信じられる訳がない。
「じゃあ、これなら」
そう言って、片足を軸にくるりと回転した。
「え? な……」
女の子の背中には、一対のコウモリのような翼が現れていた。股の下から覗いているのは尻尾だ。
「よく出来たコスプレだな」
「作り物じゃない! 正真正銘、あたしの翼だ!」
言って、翼をバサリと一扇ぎする。それは、作り物に出来る動きではない。
「でも、君が悪魔だとすると、願いをかなえるって……」
「そ。あんたの魂と引き換えにね」
目を見張る津久巳。
「ふ、ふざけるな! 誰が魂なんかやるもんか!」
「ふーん。でもどーせさぁ、さっきみたいに無気力でいるんなら、魂、売っちゃったって同じ事じゃない?」
「うるさい! とにかく、魂は売らないからな。解ったら、帰れ!」
「なーんだ、残念。今のあんただったら、売ってくれると思ったんだけどなぁ」
そう言って、窓をガラリと開けた。
「その契約書、置いてくから、気が変わったらサインしてよ。すぐ飛んでくるから」
「諦めるんじゃないのか?」
女悪魔は、窓から身を乗り出しながら笑った。
「残念でした。あたしは狙いをつけたら、簡単には諦めないよ。またくるから、よく考えといてね」
バサリ
さっきよりも強くはばたき、その勢いで窓から外に出る。
「そうだ」
言って、中空で停止した。
「あたし、まだ名乗ってなかったよね」
津久巳は窓に近づいた。
「別に知りたくない」
「冷たい事、言わないでよ。とりあえず、テノって呼んで。じゃあね」
そう言って、女悪魔テノは、夜空へと消えた。
「本当に、悪魔なのか?」
つぶやいた津久巳の手には、彼女の契約書が残されていた。