悲しみの意志は長い間、暗闇にとどまっている
まるで、暗闇に取り込まれたかのように
意志の記憶にいるものは、すべて息絶えたというのに
しかし、意志は未だ、暗闇から去ろうとはしない
それは、悲しみ故に
その強き想い故に
すべての扉は鍵を隠す
次の扉の鍵を隠す
その意志は、最初の鍵
その意志は、最後の扉
悲しみの意志は、長い間、鍵を取る者を待っている
千年もの永き時間の中、意志は意志であり続けた
扉を開く者を待つために……
ファルサ・ルーンには、数々の大陸がある。
このビディスも、そんな大陸の一つである。
古代王国の支配が崩壊してから、約三百年の戦乱の時代と、戦乱終結後の約五百年の計約八百年の時が経った。
戦乱終結時に残った国は、十国のみ。その後の五百年の間に、一国は滅び、新たに五つの国が興った。
ナグスは古くから残っている九国のうちの一つである。その領地の中に戦の女神バリキュアスが住まうと言われるホワイトウィン山地帯が含まれているため、王都クザスにはバリキュアス大神殿が建てられていた。その神殿を統べるのが現在の最高司祭、エイル・クラウドである。
PT503年 6月15日
「まったくもう。どうして、もっと早く教えてくれなかったんですか!!」
バリキュアス大神殿の中に、可愛い怒鳴り声が響き渡る。
ケアネスは、神殿の廊下を歩いていた。背中には、大きな荷物が背負われている。
「まさか、こんなに早く発つとは、思わなくてな」
後ろを歩くエイルが、悪気もないように言った。
「お兄ちゃんのことだから、もっと前から準備してたのよ!」
それは、ケアネスとて同じだった。兄が旅に出たいと言ったときから、いつでも共に発てるよう、準備をしていた。
しかし、兄は何も告げずに旅立った。
それで怒っているのだ。
「それじゃエイル様、行って来ます」
「気を付けてな。手紙のこと、忘れるなよ、ケアネス」
「もう、分かりましたってば」
肩を怒らせながら神殿を出ていくフェティ・エルフの少女を、エイルはいつまでも見送った。
十数分後、ケアネスはある宿へ入っていった。竜の目亭である。
店の者は、テーブルを拭いているエルフのウェイトレス――ミアしか居らず、カウンターの向こうには、誰もいない。
まだ午前中なので、たいして客はない。泊り客が、遅めの朝食を摂っているくらいだ。
「ねえ、ミア」
ケアネスは、店の入り口からミアを呼んだ。
ミアはケアネスに気づき、布巾をテーブルに放り出して、近づいてきた。
「あらぁ、ケアネスが一人で来るなんて、珍しいわねぇ。どうしたのぉ?」
「お兄ちゃん、来なかった?」
「アスリートぉ? さぁ、今日はまだ見てない、けど……どぉしたのぉ、その荷物……」
ミアはケアネスの荷物を見て、目を丸くした。
「あ、その、ちょっと……」
「なぁに、あたしには言えないのぉ?」
「そんなことより、おじさん呼んでよ」
「しょうがないわねぇ。あたしにも、ちゃぁんと教えてよぉ」
そう言うとミアは、店の奥に向かって声を張り上げた。
「マァスター、ケアネスが来たわよぉ!!」
「ちょ……ミア! 何もこんな所から呼ばなくたって……」
ケアネスは人の視線を気にして、丸テーブルに着いていた客の方を見た。案の定、こっちを見ている。
その客と目が合い、ケアネスは柄にもなく、恥ずかしくなった。
「ほらほらぁ、こんな所に突っ立ってないで、奥に来なさいよぉ」
ミアに腕を引かれるままに、ケアネスはカウンターにたどり着いた。
イスに座ると、中から少々太り気味の、中年親父が出てきた。
「おぉケアネス、珍しいな。どうしたんだ?」
「そうそう、アスリートがどうとか言ってたわねぇ」
ミアがケアネスの顔を、横からのぞき込む。
そのミアをジロッと睨んでから、親父を見た。
「お兄ちゃんが旅に出ちゃったの。おじさん、何か聞いてない?」
「ええぇぇぇぇ!!」
叫んだのはミアである。マスターはそのことを聞いても、特に反応を示さない。
「嘘でしょぉ、ねぇ!」
ケアネスの肩をつかみ、カクカクと揺さぶる。
「本当よ」
それに対して、ケアネスは冷たく言い放つ。
「ふむ、確かに旅に出たいとは、聞いていたが……と言うことは、サーレンには勝てたのか?」
その質問に、ケアネスは首を振った。
「えぇぇん、アスリートに逃げられたぁぁ」
隣では、ミアが泣いている。
「昨日の夜だって、負けたの。それなのに、エイル様が許しちゃったの」
「それじゃ、許可が出たのはその後か。せっかちな奴だな」
「うん……」
「それで、追うのか?」
黙って頷いた。
「そうか……ちょっと待ってろ」
マスターは店の奥に入っていき、しばらくしてから戻ってきた。その手には、革の袋が握られている。
その革袋をカウンターの上に置くと、ドジャと言う音がした。
「持って行け。旅費の足しにでもしろ」
「え?」
「五百キャリアくらいは、あるだろう」
「そ、そんなに?」
ケアネスは驚いて、目を大きく見開いた。
キャリアとは、この大陸の通貨単位で、銀貨一枚で一キャリア、金貨一枚で百キャリアにあたる。一般的には、銀貨が多く流通している。
だいたい一度の食事に、最低五キャリアはかかる。つまり、五百キャリアあれば、約一ヶ月の間は何もしないで暮らせるのである。
「何、旅に出れば、いつどこで必要になるか分からん。邪魔にならなければ、あって困るものでもないしな」
「ふぅん、それじゃ、一応もらっておくわ」
中を見ると金貨が四枚、銀貨の上にあった。
荷物の中から別の小さい袋を出し、金貨をその中に入れて別々にしまい込んだ。
「それでさ、おじさん。お兄ちゃん、どっちの方に行ったか、見当つかないかな?」
「んん……? そうさなぁ、たしか、最初は冒険者街道を一周してみたいとか言っていたと思ったが……たぶん、東へ向かったんじゃないか?」
「そっか、ありがと、おじさん」
そう言ってケアネスは立ち上がり、入り口へ向かった。
「気を付けていくんだぞ」
「うん」
ケアネスは、後ろを向いて答えた。
そして、振り返る瞬間、見送るミアの口が小さく丸く開いたのが見えた。
ぼすっ
ケアネスは誰かにぶつかった。
ナグス国土の北部はホワイトウィン山地帯に占められている。
その山地を、ぐるりと囲む街道が『ホワイトウィン街道』、別名『冒険者街道』である。
冒険者街道などと呼ばれる理由は、至って簡単。その街道に、冒険者が他の地域よりも多く存在しているからである。
冒険者たちの目的は、遺跡や迷宮などから、古代の財宝を手に入れたり、人里を襲うモンスターを退治して、報酬を稼ぐことだ。特にホワイトウィン山地帯には、遺跡やら、モンスターやらが多く存在しているのである。ゆえに、その山地帯から程々の距離を保って存在する街道は、冒険者たちにとって、格好の活動拠点となっているのである。
一時間後、ケアネスはホワイトウィン街道を、東に向かって歩いていた。そして、その後ろを少し離れて歩く、五人の人影。
「ケアネスぅ、一緒に行こうぜぇ」
声をかけたのは、デクスナー。そう、その五人とは、デクスナーたちであった。
デクスナーたちは、荷物を背に背負っている以外、街での出で立ちとあまり変わりはなかった。レイルを除いては。レイルはと言うと、全身をマントでスッポリと覆い、フードまでも深々とかぶっている。日に焼けたくない、と言うのが当面の言い訳だ。
ケアネスはと言うと、レイルの呼びかけにも反応を示さず、黙々と歩いていた。
「シカトはねぇだろうがよ……」
ケアネスの反応がないのを見て、デクスナーはぼやいた。
「よっぽど嫌われてんだな、あんた」
「そう言えば、前にも無視されてたよな」
「うるせっ!」
レイルとシャーリィにからかわれて、デクスナーはそっぽを向いてしまった。
「ガキじゃあるまいし、イジケんなよ、ったく。しょーがねぇなぁ」
レイルはツツツーっと、ケアネスの方へ寄って行った。
「なぁ、ケアネス、一緒に行こうぜ。人数いた方が、楽しいしさ」
ケアネスは歩みを弛め、レイルが近づくのを待った。
「しつっこいわねぇ!!」
振り向きざまに、ヒジ打ちを食らわせようとした。しかし、ケアネスのヒジは空を切った。そこにはすでに、レイルの姿はなかった。
「ひゅぅ♪」
背後で口笛の音。レイルはいつの間にか、ケアネスの進行方向に回り込んでいた。
「さっすが、バリキュアスの神官だなぁ。良いヒジ打ち出すよ。あんなの食らったら、しばらく動けなそうだわ」
「え……? そんな………」
信じられない、と言った顔をして、ケアネスは振り返る。
そして、レイルはもう一度言った。
「さぁ、一緒に行こうぜ、ケアネス」
その日の夕方、ケアネスたちは街道沿いの、小さな村に着いた。
「さて、今夜はここに泊まるぞ」
デクスナーが、全員に指示を出す。しかし、それに従わないものが約一名。
ケアネスはそのまま、街道を歩いていこうとしていた。
「おい、どこに行く気だ? ケアネス」
デクスナーが呼び止める。
「あたしは早く、お兄ちゃんに追いつきたいの。こんな所で、のんびりしてられないのよ」
ケアネスは振り向きもせず、答えた。
「何を焦ってるんだい?」
フォウがケアネスに声をかける。
「別に、焦ってなんか……」
「君が会いたいと願ってるなら、必ず追いつくよ。それに、人捜しの基本は情報収集。どこかで仕事を請け負って、街道を外れることだって考えられるんだよ。焦って彼を追い越してしまうことだってあり得るんだから」
ケアネスは、蕩々と語りかけてくるフォウを見つめた。
「なに、君が守護すべきものが彼ならば、いずれ追いつく。そうだろ?」
「ふぅん、バリキュアスの教えも知ってるんだ」
バリキュアスは戦の神であると共に、守護の神としても知られている。自分の信念のために、命をかけて戦う者の守護神であると。そのため、バリキュアスの神官たちは、そう言った者を、己の命を賭して守護するという使命を持っている。
「一通りの聖神の教えは、勉強したからね」
フォウはフッと微笑んだ。
「それに、女の子の一人旅は危険だよ。僕たちとしても、アスリートの妹を危険な目に遭わせるわけにも行かないからね。アスリートに会わせる顔がなくなってしまう」
「なぁ、フォウ」
それまで黙っていたシャーリィが、突然フォウに尋ねた。
「何かな?」
「あたしには危険だからとか、そう言うこと言ったことないけど、あたしゃ女扱いされてないのかい?」
「別にそう言う訳じゃないよ。シャーリィがもっとも輝いてるときは、戦ってるときだろう? それとも、そう言う優しい言葉を、語りかけてほしいのかな?」
逆に問い返されて、シャーリィは照れくさそうにボリボリと頭を掻く。
「ん……イヤ、良いよ、もう。不意に気になっただけだから」
「そもそも、シャーリィだったら、どんなにアブねー目にあっても、バカ力で切り抜けちまうしな」
「レイル……愚かな……」
フォウは眉間を抑えて、ぼそりと呟いた。
「……レイル、そこ動くんじゃないよ……」
「げ、やべ。口が滑った」
「ンフフ……」
三人のやり取りを見ていたケアネスは、含み笑いを漏らし、パーティの所へ戻ってきた。
「じゃ、今日はここで休みましょ」
ケアネスは食事が終わると、早々に部屋に切り上げた。シャーリィもまた、それに付き合って部屋に戻っていた。
「なぁ」
ベッドの上に座っていたシャーリィが、寝そべっているケアネスに声をかけた。
「なぁに?」
「あんたさぁ、旅になんか出て、おやぁっとっと、えーと、エイルさんとかは心配しないの?」
シャーリィが言い直したのを聞いて、ケアネスは少し寂しそうな顔になった。ベッドの上で、居住まいを直して、それをごまかす。
「一応、許可は貰ってあるよ。それにほら、エイル様ってアレだから」
「あぁねぇ」
エイルは最高司祭という地位にいるだけあって、人格者として知られている。が、実際のエイルを知る者は共通して、変わった人だと言う感想を持っていた。
「そう言うシャーリィの方は、どうだったの?」
「え? うち? そうだねぇ、うちは大喧嘩だったなぁ」
「ケンカ?」
「んー、その頃からあたし、力あったからね、物凄かったみたいよ」
「そんな、『みたいよ』って、他人事みたいに……」
「いやさ、あたし、キレちゃって、その時のことよく覚えてないんだけどさ、後で聞いた話じゃ、親父、ボコボコになってたらしいんだわ。それ知ったのは、家飛び出した後だったけどね」
「へぇ、そんなことがあったんだぁ」
「みんなも結構、こんならしいよ」
「えぇぇぇ?」
「本当だって、信じなよ」
「うん、信じるけどさ。あたし、ほら、普通の家庭って知らないから、なんかよく分からないのよね。血の繋がった家族って、お兄ちゃんだけだし……」
ケアネスはフと、シャーリィが見つめていることに気づいて慌てた。
「でもあのっ、シルディってお姉ちゃん代わりもいるし、シャーリィとかデクスナーとかもいるし、寂しくはないんだけどさっ!」
「ぷっ」
その様子を見て、シャーリィは思わず吹き出した。一通り笑って、ようやく落ち着きを取り戻す。
「ハァァァァ、悪い悪い、笑うつもりはなかったんだけどさ」
「良いよ別に」
シャーリィが笑ってる間、ケアネスは顔を赤くして俯いていた。
「ねぇ、あんたってさ……」
そう言ってケアネスの顔をのぞき込むシャーリィ。
「なに?」
「ブラコンでしょ?」
ケアネスの顔が今まで以上に赤くなる。
「なっ……何でそうなるの!!」
「え、違うの?」
「違うに決まってるでしょ!! 別にお兄ちゃんなんかいなくったって構わないんだから!!」
「……じゃあ、何であいつ追いかけてんのさ?」
「!!」
ケアネスは言葉に詰まった。言い返す言葉が見つからない。
「……だって、たった一人の肉親だもん。冒険者なんかになったら、どこかで死んじゃっても分からないんだよ!? そんなの……そんなのヤダよ………」
「あぁ、わかったわかった、泣くんじゃないよ、こら」
シャーリィはケアネスをそっと抱きしめ、頭を撫でた。妙に愛おしいような、そんな感覚に見舞われてしまった。フと、ケアネスにかつての自分の姿を重ねる。
(あたしも、これくらい可愛げがあればねぇ……)
シャーリィにも兄がいた。だいぶ年の離れた兄だったが、シャーリィは兄になついていた。この娘をブラコンと言うなら、自分もブラコンなんだろう。
ケアネスはというと、シャーリィの腕の中でただただ黙って頷いていた。泣くのをこらえるのに必死だった。
そのまま二人は、眠りに落ちてしまった。
PT503 6月20日
晴れ晴れとした空の下、ホワイトウィン街道を、東へと歩く者がいた。
それは五日前に、クザスから旅立った、アスリート・ケイオッドだった。
一人歩くアスリートの前に、一つの街が見え始めた。クザスの衛星都市『コロニーグ』だ。そろそろお昼時だと言うこともあって、あちこちの煙突から、煙が上っている。
昼食を取るために、街に入って比較的近くにあった宿『秋虫の声亭』に、アスリートは入っていった。秋虫の声亭の食堂は、結構賑わっていた。その客のほとんどが、旅人風の格好をしている。
アスリートがカウンターに座ると、ウェイトレスが注文を取りに来た。
「何にするの?」
「そぉですねぇ、鶏の唐揚げが美味しそうですね。あと、パンとスープで良いかな」
「唐揚げとパンとスープね」
ウェイトレスは厨房に入っていった。注文を復唱するのが聞こえてくる。
しばらくすると、宿の主人らしき男が料理を持ってきた。
「よう、兄ちゃん。一人かい?」
料理を置いた親父が話しかけてきた。
「ええ、そうですが……?」
「そうかぁ、一人かぁ」
親父は、あからさまに残念そうな顔をした。アスリートもまた、怪訝な顔をした。
「いやなに、ちょっと仕事を紹介しようかと思ったんだがなぁ、一人となると、今は良い仕事がないんでなぁ」
「はぁ、そうですか……」
「イヤ、余計なお世話だったな、すまんすまん。気ぃ悪くしないでくれや。ゆっくりしていってくれ」
そうは言われても、何となく落ち着けず、わずかな食休みの後に、アスリートは宿を発った。
街を出て暫くした所で、分かれ道に差し掛かった。
ホワイトウィン街道を進むのであれば、迷わず直進すればいいのだが、アスリートは何となく、その左手にと進む小道が気になった。わずかに朽ちかけた、申し訳程度に立っている案内板には『ジュロウ村』と書かれている。
「?」
フと目をすがめると、木に寄りかかって、何かが居ることに気づいた。
「……まさか、人?」
わずかに用心しながら、それに近づいて行く。
それは間違いなく人だった。気づいたアスリートは慌てて駆け寄る。
「どうかしましたか!?」
近づくとそれはセタットの男だった。年の頃は二十ほどだろうか? 顔色があまり良くない。服の所々が破れてはいるが、大きな外傷はないように見える。とは言え、病気や毒に冒されていると言うこともあり得る。
アスリートが肩を揺らすと、その男はうっすらと目を開けた。
「ぅ……あぁ……コ…ロニ…グ…秋虫の声亭……連れて………くれ……」
やっとのことでそれだけしか言えない男を、アスリートは見捨てることが出来なかった。男を担ぎ、来た道を戻る。幸い、まだ街からはさほど離れては居ない。
「あら? どうしたの?」
先ほど発ったはずの男が戻ってきたのを見て、秋虫の声亭のウェイトレスが声をかけた。
「この人がここに連れてきてくれと言うので、連れてきたんですよ」
「まぁ!」
ウェイトレスは担がれた男を見ると、近くのテーブルを示した。
「とにかくここに座らせて、すぐにお水を持ってくるわ」
言うとすぐに、厨房へと走っていった。
アスリートは言われたとおり、男を椅子におろし、上体をテーブルに任せさせた。
終わると、自分も椅子に腰掛け、一息つく。
程なく、ウェイトレスがコップを二つ持って、戻ってきた。
「あなたもどうぞ」
そう言って、アスリートの前にもコップを置いた。
「ちょっと、大丈夫? お水、飲める?」
ウェイトレスが男をのぞき込みながら、目の前にコップを差し出すと、突然、奪い取るようにコップをつかみ、一気に飲み干した。そして、アスリートの前にあった水も飲み干してしまった。
「あらあら……」
「ぷはっ……はぁ、はぁ。あぁ……生き返る……」
「大丈夫?」
「何とか……」
「なんだ、元気そうじゃないか」
3人が一斉に、声の方を向いた。この店の親父が、桶を持ってこちらに向かってくるところだった。
「マスター」
声をかけるウェイトレスに、親父は桶を手渡した。どうやら水と手ぬぐいが入っているらしい。
「うん? さっきの兄ちゃんじゃないか」
アスリートに気づいた親父に、軽く会釈して返す。
「で? どうしたって?」
「俺……」
尋ねる親父に、男がしゃべり始めた。
「ジュロウ村から来たんだ。村の近くにゴブリンが住み着いて……その退治を依頼するために」
「ジュロウか……壁の近くだからなぁ」
親父が言う『壁』というのは、ホワイトウィン山地帯の東部を取り囲む、切り立った崖のことだ。
「それで、村を発って一晩あかしたときに、ゴブリンに襲われて……命からがら逃げてきたんだが、その時に食料を……」
親父の眉がぴくんと動いた。
「村長の手紙とか、あるかい?」
言われて男は、ごそごそと懐を探す。
「これを……手紙と紹介料だそうで」
渡された手紙を読み、親父は頷いた。
「よし、正式な依頼として、うちで紹介させてもらおう」
男は言われて、心底安堵した様子だ。
「さて……」
すると親父は、今度はことの成り行きを見守っていたアスリートの方を向いた。
「こいつは急を要しそうだ。どうだい、一口乗る気はないかい?」
「僕に退治しろと?」
「イヤ、そうじゃない。相手がゴブリンとは言え、一人でなんて無謀も良いところだ。ただな、こいつの話じゃ、だいぶ村の近くまで現れ始めているのも事実だ。だから、ちゃんとしたパーティを雇うまで、村で用心棒してくれりゃいい。倒せないまでも、追い払っていてくれりゃあな。報酬はさほど期待は出来んがね」
どうだ?と、親父が顔をのぞき込む。
「まぁ、乗りかかった船ですしねぇ」
「そうかそうか!」
親父が豪快に笑う。
「ま、報酬の方は依頼を受けたパーティと一緒に退治しに行っても良いしな。その辺でうまく稼いでくれや」
「それじゃ、俺が村まで……」
立ち上がりかけた男を、親父が押さえ込んだ。
「あんたはだめだ」
「え?」
「飲まず食わずでここまで来たんでしょう? 無理はだめよ」
そう言うとウェイトレスは、いつの間に持ってきたのか、パンとスープを男の前に差し出した。
「そう言うこった。部屋を一つ用意してやるから、一晩休んで行け」
「しかし……」
「大丈夫よ、悪いようにはしないから。こう見えても、うちのマスター、情に厚いんだから」
「こら、そりゃどういう意味だ?」
「それじゃ、僕は急ぐとしましょうか」
「よろしく頼む」
声をかける男に、アスリートは笑顔で手を挙げて返した。
ケアネス一行がその街に着いたのは、日が暮れてすぐの頃だった。一行は、秋虫の声亭に入っていった。
中には仕事を終えて、一杯飲もうという連中が、そろそろ集まり始めていた。
ケアネスたちはその中で、空いているテーブルに着いた。
「あ〜、おなかすいたぁ」
ケアネスの席に着いてからの、最初の一言である。
「さっさと飯、頼もぉぜ」
「いらっしゃぁい」
デクスナーが言うと、見計らっていたかのように、ウェイトレスがやってきた。
「よぉ、マイラ。おひさ〜」
「相変わらずね、レイル。しばらく見なかったけど、他の宿でも使ってたの?」
「ちゃうちゃう、こっちに来る用がなかっただけだよ」
レイルは手をひらひらと振った。
「レイルが他の宿を使うわけねぇさ。愛しのマイラに会えなくなっちまうもんな」
「ば、ばか、なに言ってんだよ!」
デクスナーの入れた茶々に、レイルはあからさまに慌てた。
「今更慌てんなよ、おまえらしくもない」
シャーリィも、ニヤニヤしながらからかう。
「こらデクスナー。早くごーはーんー!」
あまりの空腹にたまりかねて、ケアネスが文句を言い始めた。
「あ、わりぃわりぃ」
「あら、こちら、新顔さんね?」
「ちょっとな。ま、話は後だ。とりあえず、いつもの6人前と、大部屋と二人部屋一つずつ頼む」
「はいはい、分かったわ」
注文票に適当にメモを取り、奥に入っていった。
しばらくすると、マイラが料理を持って戻ってきた。
「あぁ、そうそう。ねぇ、ちょっと仕事引き受ける気、無いかしら?」
マイラは、後ろからレイルに抱きつきながら尋ねた。
「え? あ、あの、えぇっと……」
硬直したレイルを見て、そこにいた一同はドッと笑った。
「まったく、そのくらいで緊張するなんて、情けないな。マイラもあまり、いじめないでやってよ」
フォウが横から、助け船を出してくれた。さすがは親友である。
「だって、面白いんだもの」
でも、離れない。
「仕事か。悪いんだけど、こっちも用があってな」
「そっかぁ、残念。みんなだったら、安心して任せられるんだけどなぁ」
「急ぎなのかい?」
シャーリィが酒を飲み干してから、尋ねた。
「うん、ちょっとねぇ。ゴブリン退治なんだけど、どうも人里近くまで出向いてきてるらしくて。マスターが急いだ方がいいって判断して、とりあえず一人、そこに行ってもらったんだけど」
「へぇ……」
「で、そちらどなたなの?」
「あぁ、彼女はケアネス。旅に出たお兄さんを追いかけてるんだ。アスリートって名前なんだけど、ここに寄らなかったかな?」
「?……なんか聞いたような気が……あ、あぁぁぁ!」
唐突にマイラが叫んだ。
「どうした?」
「その人よ、その人! さっきのゴブリン退治頼んだ人!!」
「なにぃ!?」
デクスナーもまた叫ぶ。
「こんな目してた!?」
そう言うと、ケアネスは自分の目を横ににょんと引っ張った。
「ぷっ、くくく、そっくり、きゃはははは!」
シャーリィが爆笑し始めた。よほどツボにはまったらしい。
「間違いないわ。でも、そんな間抜けな目じゃなくて、もっと格好良かった気もするけど」
「そ、そう?(格好良い? あれが?)」
そんなことを思いながらも、兄と同じ道を歩んでいることを確認できたのが、ケアネスには嬉しかった。
「……マイラ、さっきの話な」
なにやら思いあぐねていたデクスナーが口を開いた。
「え?」
「ゴブリン退治、あれ、引き受けるわ」
「ホントに!?」
「事のついでってのもあるしなぁ」
「分かったわ。じゃあ、マスターに伝えて置くから、後で詳しい話聞いてね」
「おぅ。そうそう、レイル」
「な、なんだよっ」
突然話を振られたレイルは、動揺しながら返事をした。
「今夜、マイラとデートしても良いけどな、明日は早めにここを出るから、寝坊すんなよ」
「あ、あのなぁ! 俺だって、時と場合くらいわきまえるぞ!」
「それを自分で言ったらダメだろ、レイル」
フォウが鋭く突っ込む。
ケアネスは、兄のことも忘れて吹き出した。それにつられ、他の者も笑い声を上げ始めた。