日本三大霊山巡拝
高野山巡拝

 町並み
 高野山は、明治5年までは女人禁制の霊山でした。明治5年に女人禁制が解かれ山上の仏教都市、高野町が出来ました。現在人口は約5,000人。そのうち1,000人がお坊さんです。山上には宿坊が53あります。高野山の土地は金剛峯寺が管理し、ここの住民は皆借地だそうです。(ガイド談)
 昭和52年に出来た道路を通って奥の院に向かいます。
 奥の院、御供所。
 奥の院のすぐそばまで車で来ました。

  
 玉川の清流。
 経木に水をかけて供養します。
 玉川の清流を背にして露坐の地蔵菩薩や不動明王、観音菩薩が安置されている。人々はここで亡き人々の冥福を祈って経木を納め水を手向ける。
(「高野山」 轄v山出版社) 
 老杉の間をぬった参道。
 一般参詣者は駐車場から、一の橋、中の橋を渡り、御廟の橋に向かいます。
 8月13日の高野山万灯供養会(ローソクまつり)は、一の橋から奥の院まで10万本のローソクを燈し追福供養をします。亡き人(死者)も弘法大師をお参りするため迷わないようにローソクを燈します。(ガイド談)
 御廟の橋
 この橋からいよいよ霊域です。無明の橋ともいわれ、板石は三十六枚で橋全体を一尊として金剛界三十七尊を表している。参拝者は、ここで心身を整え、礼拝して御廟に参拝する。(「高野山」 轄v山出版社) 
  お大師様がここまでお迎えに来てくれます。帰りはここまで送ってくれます。
 礼拝して橋を渡ります。帰りは、橋を渡り終わって礼拝します。
(ガイド談)
 ここから先は、撮影禁止です。
 ●奥の院弘法大師御廟
  奥の院最奥にあり、三方を山に囲まれその山すそを玉川が流れる静寂の地にあり、大師信仰の中心聖地であります。入定前に大師自らがこの地を入定留身の地として定められました。
 ●奥の院灯籠堂
 御廟前の拝堂として建立されたものですが、「貧女の一燈、長者の万燈」の伝説があるように、いつの頃からかお大師様を敬慕し、全国の信者から献ぜられる燈籠が万燈籠として輝いています。
(高野山観光協会 パンフレット)
  5万の燈籠が光輝いています。
 総本山金剛峯事務所
 高野山総本山 金剛峯寺に向かう石段。
 
 高野山総本山 金剛峯寺主殿
 現在の建物は文久3年(1893)に再興されたもので、東西約30間、南北約35間の大建築である。柳の間は、豊臣秀次自刃の間として有名。
(「高野山」 轄v山出版社)
 高野山総本山 金剛峯寺主殿
 もと青厳寺といい全国に四千余の末寺をもつ高野山真言宗の総本山である。豊臣秀吉が1593年(文禄ニ年)に亡母追善菩提のため応其上人に命じて建立したもので、本坊は東西約60m(30間)、南北約70m(35間)あり、持仏間、大広間、梅の間、秀次が切腹した柳の間、書院上段の間奥書院、稚児の間、囲櫨裡の間等あり、いづれも狩野元信、探幽、探斉等の襖絵はゆうめいである。
 其の他に別殿、奥殿、新書院、茶室等の建物がある。現在の本坊は1893年(文久三年)に再興したもので文化財建築物である。(本坊内拝券) 
 七斗(98キロ)の釜が×3ケ設置されたかまどで、合計2石(280キロ)の米を一度に炊くことが出来ます。床下に潜りかまどの焚き付けをします。煙を抜く吹き抜けや広い台所に圧倒されてしまいます。
 蟠龍庭(バンリュウテイ)
 この庭園は奥殿を中心に五百余坪に及ぶわが国最大の石庭である
 勅使門より観るに左に雄龍右に雌龍を配して金胎不ニを表す
 全面に京の白川を敷き画れた青海波大雲海となる
 組まれた名石大師練行の聖地四国の霊石である
 (案内板)
 
 真然大徳廟
 真然僧正は讃岐国の佐伯氏に生まれ、弘法大師の甥にあたる。高野山第ニ世として高野山の経営従事すること56年。大師の理想受け継ぎ、伝法会の基をひらき、次の時代大才覚●上人大師の精神を伝えた。昭和63年11月真然大徳の舎利器が出土して、ここ真然廟であることが明らかになった。(案内板)

 人参、大根、さつま芋が供えられています。
 教化研修道場
 弘法大師信仰の教化と研修の中心となるもので、弘法大師御入定千百五十年御遠忌の忌年事業の一大眼目として昭和五十七年に竣工した。

 (「高野山」 轄v山出版社)
 大師教会本部大講堂
 大正十四年(1925)高野山開創千百年記念として建立。本尊は弘法大師。御詠歌や宗教舞踊などの大会や諸行事が開催される。
 (「高野山」 轄v山出版社)

 
 大師教会本部大講堂
 弘法大師一代記の額が掲げられています。
 空海は「いろはにほへと」の、いろは歌を作ったと言われています。

 いろはにほへとちりぬるを (色は匂へど散りぬるを)
 わかよたれそつねならむ  (わが世誰ぞ常ならむ)
 うゐのおくやまけふこえて (有為の奥山今日越えて)
 あさきゆめみしゑひもせす (浅き夢見し酔ひもせず)

 
 六時の鐘
 元和四年(1618)、2月6日福島正則侯が亡母の菩提のために建立したこの鐘は時刻を告げるためのものです。(案内板)

 朝6時から夜10時まで、2時間ごとに時刻を知らせています。
 金堂に向かう石段。
 大伽藍 金堂
 大伽藍 金堂
 金堂は一宗の総本堂であって、弘法大師が弘仁10年にお建てになったもので初め講堂といっていたが後に御願堂と改められ、更に寛永の類焼にかかったとき、二層の銅瓦葺に再建されたので金堂の名を得たのである。
 その後にもしばしば火災にかかり、現在の建物は、去る昭和7年9月に再建されたもので、桁行約33m、梁行25m余、棟の高さ約23mという高層建築である。
 御本尊は薬師如来で高村光雲氏作、又壁画は木村武山氏筆による。
 (案内パンフレット) 
 根本大塔
 弘法大師が高野山を開創され、一番最初に着手されたのが、この根本大塔である。高さ約48.5mの現在の大塔は、昭和12年(1937)に完成したもので、高野山の、いや真言密教のシンボルである。

  (「高野山」 轄v山出版社)
 根本大塔内部
 本尊の胎蔵大日如来と金剛界の四仏で金胎不ニを表している。
 十六本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩が画かれており、四隅には密教を伝えた八祖像が掲げられている。
 (「高野山」 轄v山出版社)

 五体の菩薩像と柱に菩薩が画かれています。
 御影堂
 弘法大師御在住中は僧房であったと伝えられる建造物である。
 現在の建物は弘化4年(1847)に再建されたもので、真如親王の御筆による大師御影を奉安している。宝形造りのゆるやかな桧皮葺の屋根は大師の御住房に相応しい落ち着きを見せている。
 御影堂の前には、大師が中国から投げた三鈷が引っ掛っていたと伝わる伝説の「三鈷の松」が植えられている。
 (「高野山」 轄v山出版社)
 三鈷(サンコ)の松
 弘仁7年(816)空海は、山岳修行中の大和国(奈良県)で、一人の猟者に出会った。霊所を求めていた空海の問いに、その猟者は、「それは南山(高野山)の犬飼」と答え、連れていった犬をとき放った。
 その後、高野山に入った空海は、丹生都比売神社(ニウツヒメ)で一泊し、比売神から高野の地を譲られる約束が得られた。いつぞやの猟者は、この比売神の明神であった。そして、犬が現れて空海を案内し、山上の平原に導いていった。
 またこの年、嵯峨天皇への上奏文で高野に寺を建立することを許された空海は、その作業中、松の梢から三鈷(密教の法具)を得た。この三鈷は、唐から帰朝するとき、明州の浜辺で、「わが伝うるところの秘密の法門、流布相応の地あらば、この三鈷、先に至りてこれを伝ずべし」と念じ、日本へ向けて投げたものであった。(「高野山縁起」) 三鈷の松葉を見つけます。
 三鈷の松葉
 ガイドさんに見つけていただきました。
 大塔の鐘
 弘法大師発願により真然大徳が完成させた。
 火災により三度改鋳(カイチュウ)されているが、現在の銅鐘は天保16年(1547)に鋳造。鐘楼は昭和34年(1959)に竣工。「高野四郎」と呼ばれ毎日5回、山内に時を知らせる。
 (「高野山」 轄v山出版社)

 除夜の鐘です。(ガイド談)
 国宝 不動堂
 言い伝えによれば●久八年(1197)鳥羽天皇の皇女院の御廟により行勝上人がこの堂を建てたということである。鎌倉時代の和様建築であって、それ以前の住宅建築の様式を仏堂建築に応用したものである。正確な建築年代は不明であるが、仏壇の勾●や羽目板の格狭間の形などから、鎌倉時代後期と考えられる。
 内陣の後に仏壇があり、来迎柱の間に板壁をつける。屋根の勾配のゆるい桧皮葺で、平安時代の寝殿造の面影をのこす。(案内板)
 東塔

 壇上伽藍
 高野山開創の折にまず諸堂が建立された場所である。現在は、根本大塔、金堂、西塔、東塔、御社、山王院、御影堂、准胝堂、孔雀堂、愛染堂、三昧堂、大塔の鐘、大会堂、不動堂、六角経蔵堂などが建立されており、奥の院とともに高野山の二大聖地である。
 (「高野山」 轄v山出版社)
 大会堂
  
 三昧堂
 御社
 
 御社と山王院
 壇上の西端にあり、三社が並列する。右から丹生明神、高野明神、十ニ王子百二十伴神をまつる。弘法大師は高野山開創にあたり、仏教の諸尊と日本在来の神祇との融和に意を用いられ、高野山の地主神として丹生明神と高野明神(狩場明神)を勧請された。その本社は、山麓天野にある。大師以後今日に至るまで山内の住侶はこの両明神を厚く尊崇してきた。文禄三年(1594)再建。御社の前の拝殿を山王院という。ここで毎年決まった日に●精や月並問講などの儀式を行う。山内住侶の重要な宗教的行事である。
(案内板)
 御社
  
 西塔
 高野山專修学院
 一年間の厳しい修行が行われています。(ガイド談)
 大門から高野山駅に向かう。
 まさに別世界です。 

 
 おつかれさまでした。
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