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和魂洋才の時代



 時折だが、明治維新とは何だったのか、と思うことがある。
単純に考えれば、明治維新とは列強諸国のアジア侵略に恐怖した日本人が幕藩体制の限界を知り、政治や経済の体制を再編成するための行為だったとは思う。

このあたり、私などが歴史上の経緯を書き並べても陳腐な文章になるばかりであろう。
なので以下、歴史上の経緯は書かない代わり、この時代について、思うところを述べてみたい。

■ペリーの来航

 1947年5月。東京裁判の証人として、山形県酒田市の出張法廷に出廷した元陸軍中将石原莞爾(1889〜1949)は、判事から「戦争責任は日清・日露戦争までさかのぼる」といわれ、「それならペリーをあの世から連れてきて、この法廷で裁け。もともと日本は鎖国していて、朝鮮も満州も不要であった。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ」と、持論を披露したといわれる。

石原莞爾

 

 太平洋戦争の遠因をペリーの来航に求めるのは石原莞爾だけではないが、その是非はともかく、それが日本史を転換させるきっかけになったのは間違いない。
幕末には、ペリー以前にもイギリスやロシアによる来航があって、江戸幕府はその都度対応に追われてた。少しづつではあったが、時代の流れは一つの方向に向かっていたのだ。

 それにダメ押しをかけたのがペリー率いる東インド艦隊である。
それによって日本はそれまでの小手先の外交ではなく、根本的に政治体制を変えざるを得ないほどの窮地に立たされることになる。個人でも団体・国家でも、それまでの生き方や、やり方を他者の言動に影響されることなく、自らの意思で方向転換することはきわめてまれだろう。
必ずそこには何か外的な要因や刺激があり、それによってはじめて自主的に、あるいはやむなく動くものだろう。幕末の日本がその後者であったことはいうまでもない。

 圧倒的な軍事力を持つ敵を前にした時、人間のとる行動は、勝敗は別としてとにかく武器をとって戦うか、ひたすら敵に屈従するかの二つが考えられる。国家や民族も同じで、例えば中国、アメリカインディアン、インカ帝国等は前者を選んだ。
中国は古代より東アジアに君臨し、強大な軍事力に支えられた中華思想という「理論」によって周辺民族を東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、北狄(ほくてき)、南蛮(なんばん)と呼んで野蛮視してきた。日本は東夷になり、それを書いた古文書が魏志倭人伝の中の「東夷伝」である。

 19世紀の中国はいうまでもなく清国で、17世紀中期、満州にいた周辺民族の女真族が、漢民族の王朝だった明を攻め滅ぼして建てた征服王朝である。その最盛期は、6代皇帝乾隆帝(けんりゅうてい1711〜1799)の時代で、元の時代を除けば領土は中国史上最大になり、経済は発展し外国との貿易も盛んになる。主な輸出先はイギリスで、商品は茶、絹、陶磁器等だったが、これが後の不幸のはじまりになる。

アヘン戦争やアロー号事件以降、清が列強諸国に連敗し、ついには半植民地化してしまった理由の一つは中華思想に固執し、近代技術の取り入れに不熱心だったことがあげらる。中華思想上、他国の文化・文明を学び取り入れるなど、ありえないことだった。
1844年、アメリカとフランスは清国敗北につけこんで、イギリスと同様の戦勝国としての待遇を清国に強制した(黄埔条約)。中国が、列強諸国の半植民地化していくのは、この時にはじまる。また1842年、南京条約で香港がイギリスの領土となり、1997年に返還されたことは承知のとおりである。 

 一方日本では薩英戦争や下関戦争のように、薩摩藩や長州藩による列強との散発的戦闘はあったものの、その後日本は自国の安全を保つために、最終的には列強諸国に屈し、迎合と屈従を繰り返すことになる。結果として、不平等条約をはじめとする屈辱はあったが、かろうじて植民地化は避けることができた。

 しかし私には、植民地化が避けられてよかったと喜ぶほど単純なことではないように思える。
半植民地化という悲劇にみまわれたものの、清国は「民族の誇り」をかけて戦った。アメリカインディアンやインカ帝国も同じである。しかし日本人は民族の誇りは置きざりにして、列強諸国に迎合することで植民地化の危機を乗り越えた。

 その結果、乗り越えたとはいえ、それは日本人の深層心理に大きな葛藤を生じさせ、大げさかもしれないが、民族の誇り・アイデンティティは崩れる寸前になってしまった。見方によれば幕末から明治にかけての時代とは、その崩れかかった民族の誇り・アイデンティティを立て直すのに躍起になった時代だった、ともいえるのではないか。

やがて日本人は、積極的に欧米諸国の文物を学ぶだけではなく、富国強兵をスローガンとして列強諸国側に回り、その一員となる道を選んでしまった。
その悲劇は単に自国内だけに留まらず、後にはアジア・太平洋地域までに及び、今日でもなお未解決の問題を数多く生み出している。幕末の迎合と屈辱は日本人にとって心的歪みとして、現在もなおその影響下にあると思われる。

■つっかえ棒

 壁でも塀でも、崩れかかったものを支えるにはつっかえ棒が必要なように、当時崩れつつあった日本人の誇り・アイデンティティを立て直すのには、精神的支柱となる「つっかえ棒」が必要だった。そこで担ぎ出されたのが天皇である。

 列強諸国に対して軍事力という現実の力で対抗できない以上、日本人は日本独自のもの。現実的ではなく精神的なもので対抗する以外方法はなかった。
古代の王の末裔にすぎなかった天皇が、尊皇論として水戸藩などで細々と論議研究されてきたとはいえ、幕末になって突然倒幕派の精神的支柱となった背景はここにある。また極端なことをいえば、昭和初期から敗戦に至るまで軍部、いや、日本全土を覆った現実感覚の欠如、無意味な精神論の芽もここから生れたと考えられる。

 明治政府にとって一旦担ぎ上げた天皇をそのままにすることはできず、憲法で主権として位置づけるだけではなく、「万世一系」とか、「神聖ニシテ侵スヘカラス」のように、その神聖性を作り上げ、強調し、ひたすら絶対化に努めるようになる。

さらに憲法だけではなく、天皇の神聖性を高めるためには、過去の歴史までもがその対象となった。
日本人にとってイザナギ・イザナミによる天地開闢や、天照大御神をはじめとする神話は単なる物語ではなく、現実の歴史でなければならなかった。当然ながら、古代の日本に大きな影響を与えた中国や朝鮮の文化は過小評価されるか、あるいはまったく無視されるようになった。

イザナギ・イザナミの国つくり

絶対視されるべき天皇と日本の歴史は金甌無欠(きんおうむけつ。一切の傷、欠点がないこと。死語だね)でなければならず、皇軍は敗北を知らない無敵の軍隊でなければならなかった。このような中で、今読めば荒唐無稽な作り話にすぎない神功皇后の三韓征伐は大陸侵略を正当化させるための「正史」となり、その反面、唐・新羅の連合軍に大敗した白村江の戦い(663年)は、歴史から抹殺されることになる。戦前の歴史教科書には白村江の戦いは載っていない。

 ついでにいえば、三韓征伐の征伐とは悪者を懲らしめるという意味で、いうまでもなく「上から目線」の言葉である。
それと同じ意味で膺懲(ようちょう)という言葉がある。盧溝橋事件以降、日本陸軍は「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」という言葉を盛んに使った。暴虐な支那(中国)を懲らしめるという意味だが、さて、どちらが暴虐だったのか・・。

■和魂洋才

 私はここで、ムラ社会の和を破る要因の一つに「よそ者」があると書いたが、その面から見れば、長年鎖国によって外部を遮断しムラ社会に生きてきた日本人にとって、ペリーという「よそ者」の来航と、続く開国は耐え難い苦痛だった。

ムラの和を守るため、あくまでよそ者の排除を目指したのが「攘夷派」であり、これに対してよそ者を受け入れ、積極的にその思想・学問を学ぼうとしたのが「開国派」である。攘夷派から見れば開国派は民族の裏切り者だったし、開国派から見れば攘夷派は時勢を知らぬ愚か者だった。

しかし開国派の本心はどうだったろう。
それは明治時代盛んに唱えられた「和魂洋才」という言葉に表れている。

その意味は、伝統的な日本人の魂を持ちつつ、欧米の才覚を身に着けるということだが、心理的な面を考えれば、「日本の魂を持ちつつ」ということは、本心はムラ社会に生きたい(開国したくない)ということであり、「洋才」とは、しかしそれではやって行けないのでやむなく欧米の学術を学ぶ。ということになる。
つまり和魂洋才という言葉の本質は、当時の日本人の、ホンネとタテマエの使い分けなのだ。

繰り返すが、開国とは日本人にとってタテマエであり、屈辱行為だった。ホンネはムラ社会を守ることであり、攘夷こそあるべき姿だった。しかし時代は明治になって今さら攘夷はできず、つのっていく屈辱の憂さ晴らしの対象に選ばれた、不幸な民族が中国人と朝鮮人だった。(日本人は、その「憂さ晴らし」に一種の「後ろめたさ」を感じていた。それは、関東大震災後の朝鮮人虐殺・・・ありもしない朝鮮人の暴動を、ひそかに恐れていたことに現れている。)

ホンネは、時には神風連の乱とか西南戦争として現れたがやがては下火となった。
しかし決して完全に鎮静化したわけではなく、攘夷という火種は欧米への憎悪と化して、日本人自身も気がつかないほどの小ささで日本人の深層心理に残ることになった。その火種は昭和になって様々な要因から急激に巨大化し、1941年12月8日。大爆発を起こす。太平洋戦争とはある意味、昭和の尊皇攘夷なのだ。

■明るい時代?

 作家の司馬遼太郎氏は、海音寺潮五郎氏との対談で「明治時代は明るい時代」として、こう述べている。

・・・(明治時代が)江戸時代とまるで違うのは風通しのよさです。
個人として一定のコースを踏めば、学士にも博士にも大臣大将にもなれるということが、やはり明治人の心の底をたえずさざ波立たせていたことだろうと思います。世の中の明るさというのは、そういうことが重要条件だと思います。(「日本歴史を点検する」より引用)

一定のコースとは学歴のことと想像できるが、さて明るいとはどういうことなのか。

 近代化は、明治政府にとって最重要課題であり、人材の乏しかった政府は欧米から学者や技術者を招聘する一方、大学や専門学校に各分野における指導者養成の役割を担わせた。
そこで学ぶ学生達はどんな意識で勉学に励んだか。実話かどうかは不明だが、こんな話を聞いたことがある。

どこの国かは忘れたが、ヨーロッパのある国で勉学に励む日本人留学生。昼も夜も勉強に明け暮れていたので下宿のおばさんが心配して、そんなに勉強ばかりしていては体に悪い。たまには外へ遊びに行ってらっしゃい、といった。
するとその留学生は、おばさんの言葉に感謝しつつも、私が一日遊べば日本の近代化が一日遅れるのです、と答えたという。

当時、大学や専門学校で学ぶ学生達は、驚くべき努力を積み重ね、社会(政府?)の期待に応えていった。
例えば、今も琵琶湖から京都へ流れる琵琶湖疏水。総設計と総監督は、工部大学校(東京大学工学部の前身)を卒業したばかりの田辺朔郎(1861〜1944)で、田辺の卒論は「琵琶湖疏水工事編」だった。

琵琶湖疏水

田辺朔郎

この工事にはいくつかの「日本初」がある。

1.インクライン方式(高低差のある運河で船を通行させる方式の一つ)の採用
2.営業用発電所を併行して建設(蹴上発電所)
3.その電力を利用した市電(京都電気鉄道)など。

 田辺は学校を卒業したての弱冠22歳。工事のために集められた人は、技術者とはいえないような職人や普通の作業員ばかり。多くの困難を乗り越えて完成したのは、着工から6年後の1890年だった。
田辺には、こんなエピソードがある。
卒論執筆のために琵琶湖方面へ測量に通っていた田辺は、誤って測量道具を右手に落とし怪我をしてしまった。家が貧しかったため、たいしたことはないと自分にいい聞かせ、痛みをがまんして医者にかからないでいたが、じつは骨折。田辺は右手を吊ったまま、左手で精緻な製図を描き、左手で論文を書き上げたのだ。

 明治時代は、学力優秀なら誰でも家柄・出自は問わず、たとえ貧農の子でも篤志家の援助が得られれば、東京大学を頂点とする大学に入学でき、卒業して資格をとればそれこそ国家のエリートとして「末は博士か大臣か」と、今では死語になったような待遇を得ることも夢ではなかった時代だった。

その意味で、明治時代の日本は発展途上国として上り坂にあり、たしかに「明るい時代」だった。
しかし何事にも表と裏。光と影がある。光は強ければ強いほど影は濃くなる。その影が、例えば足尾鉱毒事件であり、秩父事件である。

 また司馬遼太郎氏は別の著作で「明治時代になって、日本人ははじめて国民になった」とも述べている。
江戸時代以前の日本人には、日本という国の国民という意識は、あるいは薄かったかもしれない。
かつて「お国はどちら?」とか、「国に帰る」という言葉があった。この場合、国とは生れ故郷を指す。

当時の多くの日本人にとって、国とは故郷のことであり、自分が住む町や村。あるいは群馬県でいえば高崎藩とか前橋藩のように、ごく狭い地域のことだった。
国家という意味で、確かに日本人は明治以降はじめて「日本国民」になった。
しかしそれは「日本臣民」としてのはじまりでもあった。その後日本人は、その言葉の意味が持つ重さ、過酷さをいやというほど思い知らされることになる。


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