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寺尾中城


 

所在地 高崎市寺尾町
築城年 応永年間
築城者 世良田政義?

 

 

寺尾中城は観音山ファミリーパークの中から簡単に訪れることができる。ここにはいくつかの散歩コースがあり、中央コースの先が城跡である。本廓から五郭まで遊歩道になっていて、アップダウンもきつくなく歩きやすいが。この遊歩道に沿って城跡があるが、この道が築城当時のものとは思えない。

 

中央コースにある案内

 

案内(クリックで拡大) 縄張り(クリックで拡大)
群馬県古城塁址の研究(山崎一)より
案内板のすぐ先に本廓への登り口がある

 

南コースに行くと、すぐ本廓西の堀切りがある 本廓
本廓

 

二の廓 三の廓
三の廓の東にある土橋(左右は大堀切り) 四の廓 五の廓

 


ここは高崎市寺尾町という。
中世の寺尾を語るには、まず新田氏の祖、新田義重(1114〜1202)について述べなければならない。

新田義重は八幡太郎義家の二男、義国(1091〜1155)の長男として生まれた。二男は義康(1127〜1157)という。
二男ながら義康は父の跡を継ぎ、足利にあって足利氏の祖となった。一方、義重はなぜか父には疎まれ家は継げず、上州新田を領して新田氏を称するようになった。

当時は長男が家を継ぐのは必ずしも一般的ではなかったが、義重にすれば相当の不満があったに違いない。
その不満が、後に寺尾における挙兵の理由の一つになったのだろう。

治承4年(1180年)9月、平家追討の兵を挙げた源頼朝は、各地の源氏をはじめとする豪族に使者を送り参軍を促したが義重はこれに応ぜず、寺尾城に兵を集結させた。
このことが吾妻鑑にはこう書かれている。

 

9月30日 己卯

新田大炊の助源義重入道(法名上西)、東国未だ一揆せざるの時に臨み、故陸奥の守が嫡孫を以て、自立の志を挟むの間、武衛御書を遣わすと雖も、
返報に能わず。上野の国寺尾城に引き籠もり軍兵を聚む。また足利の太郎俊綱平家の方人として、同国府中の民居を焼き払う。
これ源家に属く輩居住せしむが故なり。

 

義重は陸奥守(源義家)の嫡孫(直系の孫)であることを誇り、頼朝とは別に挙兵し平家を倒そうと考えたらしい。もっとも義重の父義国は源義家の嫡子(長男)ではなく二男なので、吾妻鑑の記述は間違っているが。

挙兵はしたものの運は義重に味方しなかった。
頼朝の勢力が次第に強大になっていくのに反して義重には兵が集まらず、やむなく義重は鎌倉に赴き疑い深い頼朝に陳謝してようやく許された。
しかし足利氏と異なり、鎌倉幕府内では重用されることはなかった。

さて吾妻鑑に書かれた寺尾だが、その所在地をめぐって古来二つの説が論じられてきた。
一つは新田氏の本拠地(太田市)であり、もう一つが高崎市寺尾町である。

詳細は省くが、高崎市史には、吾妻鑑に足利俊綱(源氏ではなく藤原系)が源氏の勢力を減衰させるため下野の国府を焼き払ったとあるように、俊綱の圧力下で新田に兵を集めることはできないので、寺尾とは高崎市の寺尾と考えるのが妥当と書かれている。

山崎一氏も新田義重の寺尾城は高崎と考えておられるが、ここで紹介している寺尾城の遺構は義重の時代(平安時代末期)の構造ではなく室町時代初期のものなので、これは世良田政義が尹良親王を奉じた城であるとしている。

ならば新田義重が兵を集結させた寺尾城はどこなのか。
ここで紹介する寺尾城は、義重がこもった寺尾城が室町時代になって改修されたとは考えすぎだろうか。


●尹良親王

応永年間(1394〜1427年)、世良田政義(?〜?)は、後醍醐天皇の皇子宗良親王(1311〜1385)の子、尹良親王(?〜応永31年?)を寺尾城に奉じて北朝方と対抗した。世良田政義の娘との間には良王という子が生まれた。東京農業大学第二高等学校の北に「館」というところがあるが、その由来は尹良親王の館があったためといわれている。

応永19年(1412年)、平井城(藤岡市)の上杉憲定の攻撃で寺尾城は落城し、尹良親王は城を脱出し信濃から三河へ行く途中、浪合(長野県浪合村)で土寇の襲撃に合い自刃したと伝えられる。浪合村は2006年、阿智村に編入されたため現在は存在しない。

辞世の句   思いきや 幾多の淵を逃れ来て この波合(浪合)に 沈むべしとは  

 


さて、世良田政義と尹良親王 (ゆきよし、これよし、ただなが・・・読み方にはいくつか説がある) のことである。
世良田氏は新田氏の一族で、新田義重の四男義季(よしすえ ?〜?)が世良田 (太田市世良田) を領したことからはじまる。また同時に得川(太田市徳川)において得川氏(徳川氏)を称したのもこの人である。

世良田政義や尹良親王が登場する文献は「浪合記」といい、これは江戸時代に尹良親王の子、良王の従者の子孫と称する尾張藩士の天野信景(1663〜1733)という人が書いた軍記もので、史料としての信頼性は低いとされている。

しかし政義は一種ナゾの人物で、尊卑分脈 (南北朝時代に書かれた日本中の氏族を調査し網羅した人名録) にも載っていない。また、尹良親王もその実在を疑問視されている人なのだが、浪合(長野県阿智村)にはその遺跡や伝承が残されているという。

伝承は浪合だけではなく、浪合から35km南にある愛知県豊根村にもあり、ここには御所跡と尹良親王の像が建てられている。

阿智村浪合ホームページ https://www.ja-mis.iijan.or.jp/gotominami/hometown/2017/04/post_145.php

豊根村ホームページ http://www.vill.toyone.aichi.jp/cms/?p=1301

 

浪合神社(長野県阿智村)
主祭神は尹良親王
境内にある墓所

尹良親王像
(豊根村ホームページより)

 

さらに不思議なのは浪合では親王とは別の宮様が戦死したとか、戦死したのは宮様ではなく足利直義の子、之義(ゆきよし)だという伝承もあるらしいが、高崎の寺尾には世良田政義と尹良親王の伝承は全然残っていないのである。

これはどういうことなのか。

世良田政義と尹良親王は実在していて、実際に寺尾にいたのだろうか。
仮に浪合記がただの小説で世良田政義と尹良親王が架空の人であっても、寺尾城の遺構は厳然として寺尾町に存在するのだ。その数百mに及ぶ全長。一端(観音山ファミリーパークにちかいところ)を本廓とし、尾根に沿って二の郭、三の郭が続く。三の郭の東には見事な堀切がある。

これは謎の城郭なのだろうか。


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