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平井城


 

所在地 藤岡市西平井
築城年 永享10年(1438年)
築城者 上杉憲実(長尾忠房)

 

 

平井は室町中期は上州の、いわば県庁所在地だった。
ここには守護大名上杉氏の居城・平井城があり、その賑わいは鎌倉をもしのぐとさえいわれたが、今では閑静な農村地帯である。城跡は県道173号線に分断され、見学ができるのは本丸を中心とする城址公園だが、それほど整備されているわけでもない。

 

県道沿いにある三の丸の標柱。
古びているし、おまけに傾いている
本丸入口

 

本丸の土塁

何となくテキトーに土を盛ったという感じ。
それにこのノボリ旗は無意味としか思えない

本丸。左側は鮎川に向かう急峻な崖 本丸 上杉一族の碑
ここが一番城跡らしい?
平井城の外郭  庚申堀(荒神堀ともいう) これも庚申堀 上杉顕定の菩提寺 常光寺

 

永享10年(1438年)、関東管領上杉憲実(1410〜1466)と鎌倉公方足利持氏(1398〜1439)に確執が生じると、憲実は総社城主長尾忠房に命じて平井城を築かせ、鎌倉から下った。これを怒った足利持氏は兵を率いて平井に向かったが、一戦して敗れた持氏は剃髪して永安寺に幽閉された、翌年自害に追い込まれている(永享の乱)。

築城当時の平井城の規模はどれほどのものかは不明だが、上杉憲実と足利持氏が対立してから(あるいはそれを察知してから)の築城だとすれば、かなり短期間の工事だったろう。とすれば、当初はさほどの規模ではなく、せいぜい後に本丸となる郭の周辺に堀を巡らした程度だったのではないか。もちろんその後順次拡張されていったろうけれど。現在確認できえる遺構は相当広範囲だが、これは応仁元年(1467年)関東管領として城主となった上杉顕定(1454〜1510)によって大幅に改修された結果だという。

わずか13歳で関東管領となった顕定だが、当時の関東は享徳の乱(1455〜14836)、長尾景春の乱(1476〜1480)など戦乱が頻発し、すでに戦国時代の様相を呈していた。
このような状況下、永正6年(1509年)、顕定の兄で越後守護職の上杉房能が守護代長尾為景(上杉謙信の父)と戦い敗死すると、顕定は子の憲房(1467〜1525)と共に越後へ出陣。一旦は為景を敗走させたが、翌年反撃にあって敗死し憲房は平井に戻った。その後憲房は、同じく顕定の養子だった顕実(古河公方足利利成の子)と争って勝利し、関東管領と平井を継ぐ。永正12年(1515年)このとである。

室町中期以降、管領上杉家は泥沼化した内部抗争や各地の戦乱で急速に衰え、離反する家臣が増えていく。
それに拍車をかけたのが上杉憲政(1523〜1579)であった。

憲房は、死の時点で養子憲寛(古河公方足利高基の子)と実子憲政がいたが、憲政は3歳の幼児だったため憲寛が家督を継ぐ。しかし6年後上杉家で内訌があり、その結果憲寛は追放され、憲政が家を継ぐことになった。

よく知られるように憲政の代になると上杉家はますます弱体化し、河越(武蔵国)では北条氏康に、小田井原(信濃国)では武田信玄に大敗。北条氏の攻勢に耐えかねた憲政は、天文21年( 1552年)平井を捨て越後の長尾景虎を頼ることになった。翌年、憲政の要請を受けた景虎は部将を派遣し平井を回復したが、関東経営の拠点に厩橋城(前橋市)を選び、ここに平井は廃城となった。

室町中期の関東はまさに内乱・反乱が同時多発的に起き、上杉氏の名前も同じような名前でわかりにくく複雑なので、相当簡略化して書きました。
下の表は平井城の歴代城主です。

 

初代 上杉憲実 応永26年(1419年)〜永享11年(1439年)
2代 憲忠(のりただ)  
3代 房顕(ふああき) 享徳3年(1454年)〜文正元年(1466年年)
4代 顕定(あきさだ) 文正元年(1466年)〜永正7年(1510年)
5代 顕実(あきざね) 永正7年(1510年)〜永正12年(1515年)
6代 憲房(のりふさ) 永正12年(1515年)〜大永5年(1525年)
7代 憲寛(のりひろ) 大永5年(1525年)〜享禄3年(1530年)
8代 憲政(のりまさ) 享禄4年(1531年)〜天文20年(1551年)
廃城 謙信  

 

 


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