下斉田城
所在地 高崎市下斉田町 築城年 戦国期? 築城者 田口氏
これは城というよりは「館」というべきだろう。
この周辺はいわゆる環濠屋敷群で、堀をめぐらせた屋敷が複数集中して存在、あるいは複数連結していた地区である。この下斉田城もそうした館の一つで、中世以降、現在の高崎市下斉田町から玉村町にかけて勢力を持った土豪、田口氏の屋敷跡である。一説によれば田口氏は、鎌倉幕府の御家人で上州の守護となった安達藤九盛長(1135〜1200)の家臣、斉田氏の子孫だという。現在も田口氏の子孫の方の住居になっているので、堀以外の撮影は遠慮した。
このあたりには田口姓が多く、余談ながら私は新婚早々この館の近所の借家に住んでいたが、大家さんも田口さんだった。
堀(南面) 堀(東面)
いきなり話は飛ぶが、権田村(高崎市倉渕町権田)にいた小栗上野介忠順(1827〜1868)は薩長軍から追討令が発せられたことを知り、養子の忠道を釈明のため高崎に派遣した。しかし忠道は捕らえられて何ら釈明をする機会を与えられないまま処刑され、忠順も2人の家臣とともに権田の川原で処刑されてしまった。ここ下斉田町は、かつて小栗家の旧領だった。
小栗父子の首は総督府が置かれていた館林に送られそこに埋葬されたが、権田の村人が発掘し胴体が埋葬されている同村の東善寺に埋葬したという。このあたり、話がはっきりしない。
箕輪城長野氏のところでも書いたが、江戸時代以前の人の墓所は複数あるのはめずらしくはない。小栗忠順の墓所もまた。
田口家の家伝によれば、胴は当時名主だった田口氏が引き取り田口家の墓地に埋葬したという。
小栗上野介殿父子之墓地入口 その墓。後ろにある塔婆には
小栗上野介顕彰会とある