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木部城


 

所在地 高崎市木部町
築城年
築城者 木部氏

 

 

木部城跡は、山名-倉賀野線と上越新幹線が交差するところの南東500mにある。
ここは農地あるいは住宅地で城跡と思えるようなものは見当たらず、城跡という先入観のせいか、付近を散策するば土塁跡とか堀跡とかと思われるようなもあるが推定の域を出ない。

道端に「堀之内」という標柱がある。堀之内は堀内、堀の内などとも書かれるが中世の豪族の館、あるいは城郭をめぐる堀の文字どおり内側でこの地名のあるところは、かつての館や城跡である。

 

「堀之内」の標柱が木部城内であることを示す

 

縄張図(クリックで拡大)
群馬県古城塁址の研究(山崎一)より


ここから北東300mのところにある心洞寺という禅宗の寺が在地豪族、木部氏の廟所である。
ここは元々は木部氏の館だったところで、木部氏は木部城築城後、そこに移ったらしい。
現在の遺構は、わずかに残る土塁等をのぞき宅地か田畑となり、ほぼ失われている。またここから西2.4kmのところにある山名城も木部氏が領有したらしく、戦時は山名城に篭ったという。山名城は戦国期に改修された跡があるらしいが、木部氏によるものかもしれない。

 

木部館跡(現 心洞寺)

 

土塁(南側)
木部氏の廟

 

説明板(クリックで拡大)


■木部姫伝説

城主木部氏は、一説によれば源頼朝の弟、範頼(1150?〜1193?)の子孫だという。
範頼の子孫の吉見氏の一派が、石見国(島根県西部)の木部荘(島根県鹿足郡木部村、現在の津和野町の一部)に移り、木部姓を称したらしいが真偽はわからない。

永禄年間、城主は木部範虎 (?〜1582)。その妻は箕輪城主長野業政の娘だった。
彼女の実名は伝わっていない。
これは別に不思議なことではなく、戦国以前では女性で実名が知られている人はまずいない。

例えば北条政子の政子は実名ではない。歴史の記録者が、記録する必要上政子としたのだ。
なぜなら彼女は北条時の娘だから。ここでは一応木部姫としておく。

木部姫にはこんな話が伝わっている。
武田信玄によって木部城も山名城も落とされた木部範虎は、一族郎党を引き連れて箕輪城に入り籠城した。

箕輪落城直前、姫は家来や腰元とともに城を脱出。榛名湖畔に身を潜めていたが、やがて聞こえてくるのは箕輪落城と弟の城主業盛をはじめ、味方の戦死の話ばかり。
落胆した姫が湖に入水すると、彼女の体は一頭の龍と化し、湖深く潜っていったという。

それを見た腰元は、あくまで姫様にお仕えする、とやはり入水して蟹になったという。
現在榛名湖の水がきれいなのは、蟹になった腰元が姫のために湖水をきれいにしているからだというし、現在でも高崎市木部町の人は蟹を食べないという・・・・ホントかな?(^_^)
このような落城にまつわる悲話は古今多いが、榛名湖畔にある御沼おかみ神社は木部姫を水神として祀った神社で、姫と腰元の供養塔も境内に存在している。

 

木部姫を祀る御沼おかみ神社 バス停の表示はズバリ「木部神社前」

 

木部姫と腰元の供養塔

 

説明板(クリックで拡大)

もう一つ。

木部姫が入水した数日後、長年寺(高崎市下室田町、長野氏の菩提寺)に美しい女人が訪れ血脈(家系図)を乞うた。しかし住職は障子に映った影から彼女が大蛇であることを知り、願いを断った。すると姫は身の上を明かし、もし願いが聞き入れられるのならば、永久に寺に不自由のないようにしましょう、といった。

なぜ姫が系図をほしがったかといえば、彼女の母が榛名神社へ参拝したとき、龍神と交わり木部姫を産んだというので姫は自分の出生の真相を確かめたくて榛名湖へ向かったし、龍と化した後も菩提寺の長年寺へ行き、系図を確認したかったのだという。

話を聞いた住職が家系図を渡すと、姫は喜んで榛名湖に戻ったという。その後、この寺の井戸が枯れて困っていたとき、井戸に呼びかけると水が湧き出てきた。井戸の底は榛名湖に通じていると今でも信じられているらしいが、どんなものか。

 

長年寺 伝説の井戸

 

木部姫の夫、木部範虎は妻の後は追わず箕輪落城後は武田家に仕え、天目山で武田勝頼に殉じた。
範虎の子、高成(?〜?)は、滝川一益に従って神流川の合戦で北条氏と戦い、戦後は北条氏に仕え、北条氏滅亡後は北条氏直とともに高野山に入ったという。その後木部氏は、高成の弟直高の嫡男直時が徳川秀忠に仕えて幕臣として続いたが直時の曾孫直年の時に何かの罪で改易されたらしい。


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