山名城
所在地 高崎市山名町 築城年 不明(戦国期に改修?) 築城者 ?
山名城に行くには、高崎市南の遊歩道の坂を登って山の上古墳を左に見ながら横の道を行けばすぐ辿りつける。道の脇には下中央の案内板があるが、そこに書かれた「至山ノ上碑」の指示するところは間違っている。至山ノ上碑は、正確には下左の縄張図のとおりである。
案内板のあるところから遊歩道を右に行けば、本丸西の堀があり、階段を登れば本丸である。
それにしても整備状況はあまり良くない。ここに着くまでは行くのが不安になるような道で、本丸の石碑は立派だが、周囲も薮と雑木で見晴らしも悪い。本丸以外の郭には行く気も起こらない。せっかくの遺跡なのだから何とかならないものか。
現地の案内板では山名義範の城と説明されているが、実際には別の場所だったのかも知れず、詳細は不明である。
しかし新田義範がこの山名町で山名氏を称したことは間違いない。ほぼ確実にわかっているのは、山名城は当初南北朝時代の遺跡である寺尾城と同時期に築かれ、戦国期になって相当の部分が改修されたらしいということ。また付近の豪族だった木部氏にも使われたということだけである。
■山名氏新田義重(1114?〜1202)の三男、三郎義範(?〜?)は、父から上野国山名郷(現 高崎市山名町)を与えられ山名氏を称した。
南北朝時代、山名氏は新田一族とはいえ当主山名時氏(1303〜1371)は母が上杉氏の娘で足利氏の縁につながる関係だったため、北朝側に属していた。このため南北朝終焉後も足利幕府からは重んぜられ、時氏の子の山名師義(1328〜1376)の時には全国66カ国中、11カ国の守護となり「六分一殿」と呼ばれるようになる。山名時氏の孫が持豊(1404〜1473)。山名宗全と称し、応仁の乱における西軍の総大将である。山名持豊の死後山名氏は急速に衰え、安土桃山時代になるとある者は毛利家に、またある者は豊臣家に仕えるようになった。関が原で徳川方に味方した子孫は家の存続を許され、明治になって男爵に列せられた。