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総社城


 

所在地 前橋市総社町
築城年 1601年
築城者 秋元長朝

 

総社藩主秋元氏の居城総社城跡は、前橋市立勝山小学校の南である。
秋元長朝(1546〜1628)は、徳川家康から総社の地を与えられた時、一旦は武田信玄に落とされて廃城になっていた蒼海城に入ったが、あまりの広大さと古さから再建を断念し、1601年、この地に新たに総社城を築いたのだ。

現在跡地はすっかり宅地化され遺構を辿るのは困難だが、城跡を示す案内板の東にあるのは堀跡と土塁跡だろう。またその南にある遠見山古墳は物見櫓として使われたという。縄張りは技巧を凝らした部分はなく、かなりシンプルだったらしい。総社藩1万石の財力ではやむを得ないことだったろう。

 

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城跡は大部分が宅地化されている。
公園前の案内板(クリックで拡大)
その公園の東。おそらく堀と土塁跡 物見櫓(遠見山古墳)

 

 

●秋元氏

秋元氏は、藤原北家の流れをくむ宇都宮氏の支族だという。
宇都宮氏は、鎌倉時代から室町時代中期まで下野国(栃木県)で絶大な勢力を持っていたが、特に宇都宮朝綱(1122〜1204)は、源頼朝から坂東一の弓取りと賞賛された武将だった。しかし戦国時代になると家運は衰え、1597年には豊臣秀吉によって改易され、当主国綱は失意のうちに病死する。その子義綱は、後に水戸藩士になったという。

秋元氏は13世紀前半、宇都宮頼綱(1172〜1259)の子泰業が上総国秋元荘を領したのがはじまりだという。
秋元長朝は、当初小田原北条氏に仕えて深谷城(武蔵国 埼玉県)を守備していたが、秀吉の小田原攻めの際、前田利家の猛攻に屈し開城した。その後隠棲していたが、井伊直政の推挙で徳川家康に仕えて総社を与えられ、さらに関が原の合戦で功績があり総社藩主となった。元々総社には藩主として諏訪頼忠がいたが、諏訪頼忠も関が原の戦功で旧領だった諏訪に戻り、入れ替わりに秋元長朝がやって来たのだ。

●力田遺愛

現在も流れる全長約25Kmの天狗岩用水の開墾は、秋元長朝にとって殖産上の一大事業だった。
当時総社は、水利が悪く田畑は荒廃していたため、長朝は利根川から取水する用水路開墾を計画した。しかし総社の地は利根川の水位より高く(現在も10mはある)、上流の白井領に取水口(当時は北群馬郡吉岡町漆原付近)を設けなければならなかった。そのためには白井藩主本多康重の許可を得なければならない。

このことを高崎藩主だった井伊直政(幕末の井伊直弼の先祖)に相談すると、長朝は「雲にはしごをかけるようなものだ」と一笑に付されたという。
しかし長朝の決意は固く、直政を説得し本多康重の許可も得て工事がはじまった。

この工事には、こんな話が伝えられている。
はじめは順調だった工事だが、大小の岩に阻まれて次第に難航するようになり、最後には巨岩のため行き詰ってしまった。するとどこからか天狗が舞い降りてきて、岩をどかしてくれた。天狗岩用水の名前もここからつけられたという。

天狗岩用水は、はかりしれない恩恵を総社に与えた。
従来の田畑だけではなく、新田も開発され作物の収穫を倍増させた。さらには城下町として区画整理が行われ人口も増加したという。

それだけではなく、この工事に続いて当時関東郡代(代官)として天領を治めていた伊奈忠次は、高崎の江原源左衛門等の協力を得て天狗岩用水を延長した用水(代官掘、あるいは滝川用水)を作り、玉村領の新田を開発した。現在玉村町の字名となっている上新田、下新田がそれである。

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玉村町を流れる代官堀(滝川用水)

 

さて、総社城が築城されたのが1601年である。この天狗岩用水の工事は着工後3年かかって1604年に完成したというから、築城後直ちに(あるいは並行して)開始されたにちがいない。それにしても、築城と用水路の開削は3年間の免税(年貢なし)があったとはいえ、領民にとってどれほどの負担になったか想像を絶するのではないか。
しかし領民(農民)の領主への怨嗟の声はなかった。その証拠となるのが「力田遺愛の碑」である。

総社藩は、長朝の死後子の泰朝が跡を継いだが1633年、泰朝は甲斐国谷村藩に加増移封され、総社藩はここに廃藩となった。同時に総社城も廃城となった。
その140年後の1776年。総社の農民は秋元長朝の遺徳を偲び、感謝の碑を建立し秋元家の菩提寺光厳寺に収めた。

それが力田遺愛の碑である。
「力田」とは、田で力を尽くす農民のことであり、遺愛とは「愛しみ(いつくしみ)を遺した」という意味である。

書家沢田東江(1732〜1796)による碑文を意訳するとこういう内容である。

農民に愛しみを遺したことを讃える碑

慶長7年、群馬郡の領主となった秋元長朝公は総社村に築城した。
当時村の田は数千アールしかなく、水の便も悪く皆困っていた(1アール = 100平方メートル。わかりやすくするため、こうしました)。
慶長9年、長朝公は農民とともに用水路を作り、利根川の水を引いた。そのため2万7千石の米がとれるようになった。

今では干ばつの被害もなく、洪水の心配もなくなった。
収穫は安定し村は豊かになった。みな長朝公のおかげである。
この石にその功績を刻み、永遠に感謝を申しあげる。

安永5年11月 百姓達が建てた

被支配者層だった農民が支配者を顕彰するのは、この時代きわめて異例のことだった。これは秋元長朝がいかに農民に慕われ、感謝されていたかを物語るものだろう。

 

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天狗岩用水 架かっている橋はズバリ、あきもとはし 秋元山光厳寺

 

秋元氏の廟所。
右にあるのが力田遺愛の碑
力田遺愛の碑 力田遺愛の碑の拓本

 


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